横濱怪獣哀歌




開ケ、地獄ノ釜



 翌朝。客間を訪れ、寝起きの愛歌に狭間は事の次第を話した。
 昨夜の宴会で飲んだ酒が抜けきっていない上に長旅の疲れが出たせいで、愛歌は半分寝ている状態で狭間の話 を聞き流していたが、ムラクモが人を殺すつもりでいると聞くと顔付きが一変した。寝乱れた浴衣を整えた愛歌は、 枕元に用意されていた水を呷って喉を潤してから、狭間に詰め寄る。

「殺すって、誰を?」

「それが解れば苦労はしませんけど」

「狭間君、心当たりとかないの? その幼馴染の子がケガした時に、一緒にいたんでしょ?」

「いましたよ。でも、そんなことは今の今まで知らなかったんですよ。十五年も前のことですし」

「頼りになりそうでならないわね、相変わらず」

「そりゃどうも。愛歌さんこそ、怪獣Gメンの権限で緊急避難命令を出せないんですか? ムラクモが復讐を 遂げたら、その影響で船島集落ごと消えてなくなっちゃいかねないんですから」

「そういう時のためにいるのが、ツブラちゃんでしょ?」

「念には念を入れておくべきです。ムラクモは全長一〇〇〇メートル近い怪獣ですから、出現するであろう光の巨人 もムラクモの体格に見合った大きさか数だと思うんですよ。俺が知る限り、巨大化したツブラの触手の射程範囲は せいぜい五〇〇メートルぐらいですから、ムラクモの頭と尻尾の両端に光の巨人が出現したら、終わりです」

「あら、そうなの。でも、よくもそんな数字を割り出せたものね」

「割り出したわけじゃないです。巨大化したツブラの全長は五〇メートル前後だったんで、最大限に伸ばした触手の 長さと目測で比べてみただけですから。でも、その程度だと解っていてほしいんです。俺がツブラに与えられる体力 にも限りがあるし、ツブラだって巨大化出来るのは一週間に一度で、巨大化した状態を保てるのは一時間にも満たない んですから、あんまり当てにしない方がいいですよ」

 狭間が胡坐を掻くと、まだ眠たそうなツブラは足の間に入り込み、丸くなった。

「ニュー……」

「となると、ムラクモが殺そうとしている相手を船島集落から追い出すのが一番手っ取り早いし、確実ってことになる けど、問題はその人が誰なのかが解らないこと。いかに私が辣腕で有能な捜査官であっても、十五年前の出来事の 背景をたった一日で洗い出せた上に被疑者を特定するだなんてこと、まず不可能だわね。情報を集めようにも、時間が 足りなさすぎるわ。聞き込みをするだけで一日が終わっちゃうわ」

「情報を提供してくれそうな相手は、何も人間だけじゃありませんよ」

「なるほど」

 愛歌はにやりとすると、それじゃ支度するから、と狭間とツブラを客間から追い出した。狭間はツブラを自室まで 連れ戻して水を飲ませてやり、ついでに体力を少し喰わせてやってから、台所に向かった。温泉旅館で早番の仲居 をしている母親は早々に出勤していたが、人数分の朝食は出来上がっていたので、狭間は食器を用意して味噌汁を 温め直していると私服に着替えて髪も顔も整えた愛歌がやってきた。
 ユウガオの味噌汁に白飯、ナマスウリの甘酢和え、ナスと豚肉の味噌炒め、車麩の卵とじ、キュウリのぬか漬け、 といった品々を食卓に並べた。愛歌はどれもこれもおいしいと言って食べてくれるので、狭間は母親の料理の腕前 を褒められて嬉しくなったが、二階に残してきたツブラが気掛かりで何度となく天井を見上げた。
 朝食を終えたら、飴湯でも作って飲ませてやろう。




 愛歌とツブラを伴い、狭間は山間の森へと向かった。
 船島集落を取り囲んでいる山は広く、森も深いが、地形はほとんど変わっていなかった。農道が増えたり、農耕 器具を収める作業場が出来ていたり、温泉宿が運営している湯治場が作られていたが、森に至るまでの道はあの頃 と同じだった。愛歌のシビックに乗り、曲がりくねっていて舗装もされていない砂利道を昇っていったが、途中で 行き止まりになったので車を降りた。鬱蒼と生い茂る草むらには、獣道すらない。

「ここ、怪獣なんているの?」

 森に踏み入っていった狭間に続いた愛歌は、訝しげに辺りを見回す。

「いるんですよ」

 ツブラを肩車している狭間は、軍手を填めた手で大人の背丈程もある雑草を掻き分けながら進んだ。狭間の記憶 が正しければ、あの時の出来事を思い違いしていなければ、千代が左目を失った場所は、ムラクモの支流である 小川から少し離れたところだ。ムラクモの巨木のような体と隣り合って流れている小川に行き着いてから、狭間 は振り返り、十五年前と現在の景色を重ね合わせた。千代の悲鳴が聞こえてきたのは右斜め前からで、幼い狭間は 草を掻き分けて太い根を何本も飛び越えていき、根で岩を抱えている杉の傍らで千代は倒れていた。
 岩を孕んだ杉の前で立ち止まり、狭間は辺りを見回す。木々が日差しを遮っているので、昼間なのに夕暮れ時の ように薄暗い。小川のせせらぎと絶え間ないセミの声、時折響く鳥の鳴き声に入り混じって、怪獣達のざわめきが 頭に染み入ってくる。愛歌も狭間の隣に立ち、狭間の視線を追った。

「ヤエヒメ、いるんだろ」

 ツブラを頭上から降ろしてから、狭間はその怪獣の名を呼んだ。直後、みしり、と杉の枝が軋む。

〈わらわを呼び付けるとは、そなたは随分と偉くなったのう。人の子〉

 軋んだ枝の上には、人間の女性に似た上半身と巨大なクモの下半身を備えた異形の怪獣が乗っていた。愛歌は 悲鳴を上げかけたが、口を塞いだ。そして、声を潜めて狭間に問い掛けてきた。

「あれ、怪獣って言えるの? 怪獣っていうより妖怪じゃない」

「怪獣ですよ。だって、俺と話が通じるんですから」

 外見が少しばかり人間に似ていても、中身は怪獣だ。ムラクモは温厚な性格だが、ヤエヒメはそうではない。人間 に対してやたらと攻撃的で、狭間でさえも何度か襲われかけたほどだ。話し相手になってやるから襲わないでくれ、 と襲われた回数だけ懇願して、やっとのことで話が出来るようになったが、それさえもヤエヒメの機嫌次第で齟齬に されてしまう。そんな厄介な相手と出来れば関わりたくはないのだが、森の中で子供が迷子になったり、落とし物を した時にはヤエヒメ以上に頼りになる怪獣はいないので、こうして頼ってしまう。

〈その娘、天の子かえ? ほほほほほほ、禍々しゅうて愛おしいのう。その女……何かえ?〉

 クモの尻から出した糸を用いて、するすると樹上から降りてきたヤエヒメは、八つある赤い目を見開いて狭間ら を舐め回すように観察した。口は耳まで裂けていて牙が生えていて、上半身に羽織っている振袖の着物は擦り切れて いる。口を閉じて全ての目を閉ざして下半身を隠してしまえば、怖気立つほどの美貌が現れることを狭間は十五年前 に知った。ツブラを丹念に眺め、愛歌にずいっと顔を寄せたが、八本足を杉の幹に噛ませて身を引いた。

〈今はこれには触れぬことにしておこうぞ。わらわの領分ではない〉

「なんか、私、嫌われた?」

 愛歌が不愉快そうにむくれたが、狭間はそれに構わずにヤエヒメに尋ねた。

「率直に聞く。十五年前、千代は誰かに襲われたのか?」

〈そのようなこと、昨日のことのように覚えておるぞえ〉

 ヤエヒメは身を反転させて上下逆さまになり、長い黒髪を扇状に広げる。

〈人の子や。そなたは覚えておらぬどうかは解らぬが、十五年前、妙な男が船島集落をうろついておったじゃろ?〉

「えーと……」

 言われてみれば、そんなことがあったような。だが、指摘されるまで思い出しもしなかった。狭間はしばらく悩み、 やっと思い出した。船島集落の一角にある浄法寺で、傷痍軍人が奉公していた。といっても、戦後からかなり時間 が経っていたので、狭間は傷痍軍人と言われてもぴんと来なかったが、左目が潰れていて左足を引き摺っている 爺さんだと認識していた。以前は傷痍軍人療養所として使われていた湯治場によく行っていて、そのために農家や 温泉旅館のトラックの荷台に乗せてもらっている姿を何度も見かけた。浄法寺は実家からは離れていたし、寺崎と その弟分である暴走族が浄法寺の近くで溜まっていることが多かったので、狭間も千代も法事がなければまず行く ことはなかった。だから、その傷痍軍人の男と接したのも数えるほどで、挨拶を交わしたぐらいだ。

〈その男が、あの娘に目を付けておったのぞえ〉

 ヤエヒメは上下逆さまのまま、首を真横に捻った。

〈そなたの与り知らぬところで、あの娘は何度となくあの男に襲われかけておったのじゃ。その都度、ムラクモや わらわが阻んでおったのじゃが、あの日に限ってムラクモは静まっておった。地脈が乱れたせいで、ムラクモの体温 が上がり切らなかったからぞ。だから、あの娘にあの男が喰らい付こうとした時、ムラクモの反応が遅れてしもうた のぞえ。結果としてあの娘の目が潰れてしもうたが、操は守れた。それで良かろうとわらわは申したのじゃが、あの 旧き龍は己を責め続けた。あの娘は人の子のほどではないが、それなりに勘が良い。じゃから、ムラクモから情念を 注がれておることに気付いてしもうたのじゃろう。人は人、怪獣は怪獣で在るべきだというに〉

「ミドラーシュは人と怪獣が通じたところを何度も見たって言っていたが?」

〈ほう、そなたはアレとも通じたか。じゃが、アレの言うことはあまり当てにするべきではない。ミドラーシュ が人の子に語って聞かせたのは神話時代のこと、現在の文明時代の話ではない。神話時代は人と怪獣の境界が曖昧 であると共に、生と死の境界も曖昧であった。故に、人とそうでないものが契りを交わすことで冥府と現世の扉を 開くことも出来たのじゃ。じゃが、それは何万年も前の話よ。アトランティス、ムー、レムリア、パシフィス、 メガラニカといった古代大陸怪獣が海に没する前のことよ。今と昔では、理も異なるのじゃ。じゃから、ムラクモ が滅ぼすのはあの娘の目が潰れる要因を作った男であり、己自身でもある。神話時代であれば巫女として迎える ことも出来たのじゃろうが、今はそうもいかぬからのう〉

「それじゃ、船島集落とそこにいる人達はムラクモの自殺のとばっちりを食うってことか?」

〈要するにそうじゃのう。怪獣は大地そのものであり、星の子よ。人間とは違い、大地に根付いて生きている。 その命を絶つには地脈を断ち切り、山を崩し、川を砕かねばならぬ。それは、わらわとて例外ではない〉

「ろくでもない水神様だ」

 狭間は腹立ち紛れに毒吐いてから、愛歌にヤエヒメとの会話の内容を説明すると、愛歌は驚いた後、青ざめる。 通訳されるまでもなく内容を理解しているツブラは今にも泣きそうで、小さく震えている。

「とにかく、なんとかしないと」

 愛歌はツブラを抱き締めてやり、ムラクモが宿る山を仰ぎ見る。

「まずは、ムラクモが殺そうとしている人を逃がすべきね」

 それが誰なのかを調べることが先決だが。狭間はヤエヒメに礼を述べてから、森を後にした。千代を狙っている 男の居場所を突き止めなければならないので、手始めに浄法寺へ向かった。その間にも、ムラクモは憎しみに巨体 を震わせている。時折流れてくる呻きには並々ならぬ殺意が込められいて、狭間は吐き気すら覚えた。猛烈に黒く、 重く、苦い、負の感情の固まりが狭間の神経と血管に押し寄せてくる。それを感じているだけで、狭間も千代を 傷付けた男に対して殺意を抱きそうになる。引き摺られそうになったが、意地で押さえ込んだ。
 ムラクモを、この感情のままに荒れ狂わせてはいけない。





 


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