横濱怪獣哀歌




開ケ、地獄ノ釜



 狭間の荒っぽい運転で、シビックは浄法寺に到着した。
 すると、思いがけない人物が出迎えてくれた。余所行きの洒落たワンピース姿の千代だった。シビックから降りた 狭間は呆気に取られながらも、千代と向き合った。左目を覆う眼帯もいつもの地味なものではなく、花柄の布地に レースで縁取ったものだった。八雲荘で仲居として働く姿を見慣れているせいで、なんだか妙な気がした。千代は 懐かしげに狭間に駆け寄ってこようとしたが、後部座席から降りてきた愛歌とツブラを見て立ち止まる。

「あの、まーくん。もしかして、そちらが駆け落ちのお相手とその娘さん?」

 声を潜めて問うてきた千代に、狭間は噂の出所が思い当たった。

「あかね先輩だな、その話をしたのって」

「八雲荘の皆もそうだけど、集落中、まーくんとそのお嫁さんの話で持ち切りだよ。で、どうなの?」

「どうって何が」

「だから、ほら、新婚さんなんでしょ?」

 わくわくしながら身を乗り出してくる千代を、狭間は押し返した。人の気も知らないで。

「俺と愛歌さんはそういう関係じゃないし、ツブラも俺と愛歌さんの子供でもなんでもない」

「えぇ、でも、そうとしか見えないんだけど」

「そう見ようとするから、そう見えるだけだ。心配して来てやったってのに、お前って奴はどうしてこう」

「そっかあ、まーくんのお嫁さんってアイカさんって言うんだ。ハイカラな御名前だね。せっかくだから、ちょっとお話し したいな。いいよね、ね、まーくん?」

「あ、おい」

 狭間が引き止める前に、千代はシビックに向かっていった。愛歌の手を引いて後部座席に押し込み、自分も後部 座席に入ってドアを閉めてしまった。人数が増えたので、ツブラは自力で助手席に移動したが、突然の闖入者を 嫌がっている。つくづくどうしようもないな、と狭間は内心でぼやきながらシビックの運転席に戻ると、千代はドアの 鍵を閉めた。狭間は文句を言おうとすると、千代は懇願してきた。

「お願い、すぐに車を出して! でないと、また連れ戻されちゃう!」

 千代は運転席に身を乗り出し、泣きそうになりながら捲し立てた。

「まーくんは覚えていないかもしれないけど、浄法寺で奉公している人がいたでしょ? そ、その人、私が子供の頃 からずっと私に付きまとっていて、でも、どうしても集落を出られなくて、そしたらその人、うちの親に物凄い大金 を持ってきて、結納金だって言って、この服もあの人が送り付けてきたもので、でも、私、あんな人と結婚なんかしたく ない、ここにもいたくないの、でも逃げられないの、逃げたいの!」

 余程追い詰められていたのか、千代の声色は震えている。愛歌は千代を宥めてやってから、車を出すようにと狭間 に指示した。無論、その通りにした。ヤエヒメの言っていたことは本当だったのだと否応なしに実感しながら、狭間は 曲がりくねった山道を抜けていった。その間、千代は十五年に渡る苦しみを吐き出し続けた。
 物心付いた頃から、千代はその男の視線を感じていた。奉公人の傷痍軍人の名は丹波元といい、物静かで働き者と いうことで周囲の評判は悪くなかったが、千代はどうしても好きになれなかった。自宅の縁側や庭先で遊んでいると、 千代をじっと見つめてくるからだ。気味が悪かったが、見ているだけなら害はなかった。狭間と一緒に遊ぶように なると視界の隅からいなくなったので、なるべく狭間と一緒に遊ぶようにしたのだが、少しでも離れるとどこからか 現れては千代を見つめてきた。怖くなって母親に相談したが、嫌がるなと逆に叩かれた。
 左目が潰れた時も、そうだった。その日も狭間と一緒に遊び、丹波から遠ざかるために森に分け入った。ムラクモ の傍にいれば落ち着くし、丹波の姿も離れるから、ムラクモに近付いていった。だが、狭間の姿を見失ってしまい、 きょろきょろしていると背後から口を塞がれた。その時の生臭い匂いとがさついた皮膚が頬と唇に擦れる感触は、 未だに忘れられない。尻に押し付けられた異物の熱さと耳元に聞こえる荒い呼吸に、千代は心底怯え、体が竦んで しまった。叫ぼうにも声が出ないし、逃げようにも手足が動かない。俯せに押し倒されると、枯れ葉の間から出て いた細い木の枝が迫り、瞼をめくり上げて眼球を貫いた。恐怖と激痛で絶叫すると、丹波は離れていった。
 それから、千代は狭間の両親に付き添われて病院に行き、治療してもらったが、千代の両親は身の回りの世話は しても千代を心配してはくれなかった。それどころか、丹波のものになっていればよかったんだ、という始末で、 千代は幼いながらも両親に見切りをつけた。しかし、子供の身の上では両親の庇護下からは離れられないので、 精一杯勉強した。賢くなれば、都会の学校に進学出来るからだ。入学試験に合格した千代は、奨学金制度にも 受かり、特待生として他県の全寮制高校に進学出来るはずだったのが、そこへ両親が割り込んできた。左目の ことを引き合いに出して推薦状を取り消させてしまったのだ。千代が抱いていた希望は粉々に打ち砕かれて しまい、それ以来、両親に逆らう気力をなくし、高校卒業後は言われるがままに八雲荘に就職した。仲居の 仕事は嫌いではなかったし、遣り甲斐はあったが、遠くへ行きたいという願望は燻ったままだった。

「だから、私、ムラクモ様に何度もお願いしたの。遠くに行けますようにって。そしたら、まーくんが駆け落ちみたいな ことをしたから、私も出来るんじゃないかって思ったの。だけど、出来なかった。休みを取ったら両親が迎えに来て 実家に閉じ込めてしまうし、バスに乗っても集落の誰かの目があるし、一ヶ谷駅で切符を買っても誰かに知られたら そこで終わりだから。他の皆も、私の両親が色々と言い含めているせいで、私が外に出ないようにしているみたい だし……。嫌で嫌でどうしようもなくて、でも、結婚しろって言われて、だけど、そんなの本当に嫌で。だから、 せめて心だけは自由でいようって思って、ムラクモ様を……」

 泣きじゃくる千代に、愛歌は優しく声を掛けた。

「大丈夫よ。なんとかなるわ」

「にしても、なんで千代の親御さんは丹波って人にそこまで肩入れするんだ? ただの傷痍軍人なんだろ?」

 狭間が訝ると、千代は愛歌が差し出してくれたハンカチで涙を拭い、肩を縮める。

「あ……あの人、怪獣使いの関係者だって言ったの。マガタマもあるって見せてきたんだけど、あれ、ただのメノウ だよ。それぐらい解るよ、マガタマなんかじゃない。でも、お父さんもお母さんも他の親戚の人も信じちゃうし、私が どれだけ変だって言っても聞き入れてもらえないし、怪獣使いの関係者がこんなところに来るはずないもの!」

「ええ、そうね。万が一本当に怪獣使いと関わりがあるとしても、マガタマを持ち出せるわけがないもの。マガタマは 怪獣使いが体の中に取り込んで使うものだから、外に出せるものでもないし、仮に体内に入れる前の段階だとしても、 見せびらかすようなものじゃないわ。ただのチンケな詐欺師よ、そいつ」

 愛歌が強く言い切ると、千代は顔を上げる。恐怖に揺れていた目が定まり、ハンカチを握る手に力が籠る。

「そうですよね、そうなんですよね?」

「そうよ。だから、胸を張って逃げていいのよ、千代さん」

 愛歌に励まされ、千代はしっかりと頷いた。

「はい」

「話がまとまったんなら、愛歌さんと千代は先に行っていて下さい。なんだったら、横浜まで行ってもいいですから。 事が終わったら、俺は鉄道なり何なりで横浜まで戻るんで」

 狭間は路肩にシビックを止めると、シートベルトを外した。

「それじゃ、狭間君、後はよろしく。私も出来るだけのことはするわ」

 そう言って、愛歌は運転席に移るために後部座席から降り、ツブラも助手席から外に出た。千代は自分の身に 起きた災難から逃れられるという安堵と、生まれ育った土地を離れる寂しさが混じったため息を零し、ぎこちなく 手を挙げた。直後、オレンジ色のシビックが突如浮き上がった。――否。
 巨大な龍型怪獣が地中から頭を出し、千代の入った車を銜えていた。間欠泉の如き勢いで噴き上げる地下水が、 満遍なく降り注ぐ。その地下水の中から突き出した頭部は小さな車を銜え、噛んだ。フロントガラスが砕ける音と 外装が破られる音に混じり、千代の悲鳴が聞こえたが、長くは続かなかった。頭を大きく逸らした龍型怪獣の喉を、 悲鳴が滑り落ちていったからだ。

「ムラクモ……!?」

 狭間がよろめくと、龍型怪獣は泥水が目尻に溜まった赤い瞳を細め、狭間を見据える。

〈いかにも、我である〉

「な……んで千代を、ムラクモは千代を守ろうとしていたんじゃなかったのか!?」

 温厚で静かな老翁とでもいうべき性格のムラクモの凶行が信じられない。狭間は動揺と混乱で頭がぐちゃぐちゃに 掻き乱されていたが、知るべきことを聞き出すために叫んだ。

〈我はあの娘を守る。守らねばならぬ。しかし、人の世界には狂気と危険が充ち満ちておる。あの男を屠った程度で は、あの娘を守り切れぬ。お前とて例外ではないぞ、人の子よ。お前も男であるからには、あの娘を傷付けるやも しれぬ。故に、我は悟った。我と共に在り、我と共に果てるのがあの娘の幸福であると〉

「お前、それ、本気で言ってんのか?」

 真面目な性分のムラクモが悪い冗談だと言ってくれるわけもないのに、ありもしない可能性に期待してしまうほど、 狭間は混乱していた。ムラクモは銜えていたシビックを無造作に吐き出した後、口を開ける。ずらりと連なる太い牙 の一つには、千切れた布が絡み付いた赤黒い肉塊が引っ掛かっていた。体格と服装からして千代ではなさそうだ。 となれば、この男は千代に長年付きまとっていた丹波元なのだろう。

〈今、この時より、我は荒神となる。和魂を捨て去り、荒魂とならねば、我の願いは果たされぬが故〉

 つまり、千代が好きでどうしようもないが、千代と連れ添うことは出来ないから、心中しようと言いたいのだ。

「次から次へと無茶苦茶言いやがって、そんなことで千代が喜ぶわけがないだろ!」

 たまりかねた狭間が激昂すると、ムラクモは赤い瞳を見開き、口角から硫黄の匂いが混じる水を垂らす。

〈そうとも。全ては我の独善、愚行、暴挙! だが、それこそ我が本懐!〉

 めきめきめき、ばきばきばき、とムラクモはアスファルトを難なく剥がしながら巨体を露わにしていく。愛歌に 腕を引っ張られて後退しなければ、ムラクモと共に現れた岩で潰されていたところだった。地下水と温泉水と、丹波 元の血が混じっている水溜りに座り込み、狭間は悟った。

「そうか……昨日の夜に俺に話しかけてきたのって、止めてほしかったからじゃ、ないんだ」

「決意表明だったってことね」

 狭間の震える肩を支えながら、愛歌は苦々しげに吐き捨てる。

「なのに、俺、そんなの、全然」

 昨日のうちにムラクモの真意が解っていたら、もっと早く千代を外に連れ出せていたのに。いや、子供の頃に千代 を取り巻く環境の劣悪さに気付いていたら。いや、怪獣だけでなく千代の話を聞いてやれていたら、こんなことには ならなかったかもしれない。千代の断末魔の悲鳴が、耳に、頭に、体にこびりついている。怪獣の声はおろか、愛歌 の声も聞こえづらいほどだ。込み上がってくる嗚咽を堪え切れず、狭間はうずくまる。

「しっかりしなさいよ!」

 胸倉を掴まれたかと思うと、頬に拳がめり込んだ。脳を揺さぶられた衝撃で、いくらか正気に戻った狭間が目を 上げると、愛歌が息を荒げていた。怪獣Gメンだけあって荒事には慣れているのか、手首を痛めた様子はない。

「ムラクモが二人も人間を殺したとなると、次に現れるのは光の巨人だって解っているでしょ! 避難命令を出そう にも私の権限だけじゃ出せなかったから、船島集落にはまだ大勢の人がいる! ムラクモが暴れ出したせいでこの道路 はダメになっちゃったし、他の道路だって似たようなものだから、車も通れない! 走って逃げようにも、光の巨人から 徒歩で逃げられるわけがない! だから、光の巨人を倒さなきゃならないのよ! 何が何でも!」

「あいかさん、おれ」

「辛いのは解る、怖いのも解る、逃げ出したいのも解る。だけどね」

 狭間の胸倉を掴んでいる愛歌の手も、震えていた。その肩越しに、唇を結んでいるツブラが見えた。

「ここで逃げたら、男が廃りますよね」

 愛歌の手を取り、狭間は精一杯の意地を張ったが、泣きそうな声しか出なかった。

「ええ、そうよ。だから、私も逃げないの。そのために、この仕事を選んだんだから」

 狭間の手を今一度強く握ってから、愛歌は廃車同然のシビックを一瞥した。

「マヒト」

 変装を解いて赤い触手を解放したツブラは、狭間を見上げてきた。

「ツブラ。頑張れるな」

 狭間はツブラを抱き上げて目を合わせると、ツブラは小さな唇をぎゅっと噛み締めて頷いた。狭間は頷き返すと、 ツブラを下ろした。狭間の手も冷え切っていて、ツブラの手も強張っていたが、立ち向かうべきは恐怖ではない。 これから訪れる、容赦のない破壊だ。その兆しは既に現れていて、空の一角が異様に明るくなっていた。愛歌は 避難誘導してくると言って、元来た道に駆けていった。その背を見送ってから、狭間はツブラに顔を寄せた。
 唇を重ねると、自分自身の血の味がした。





 


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