行方不明者数、五六七。死亡確認者数、二二一。 一ヶ谷市役所のロビーに、行方不明者の名簿が貼り出されていた。その数字の一つ一つが、昨日までは真っ当な 人生を送っていた人間だ。山奥の温泉旅館でお盆休みをのんびりと過ごすために訪れていた旅行者と、仕事を 全うしていた従業員と、大衆浴場で夏の疲れを癒しに来た地元民だった。それが今や重大災害の被災者となり、 光の巨人の光に消し去られて遺体すら見つからない。旅立つために家を出る際、業務を始めた時、生活の一部 ですらある大衆浴場に赴いた瞬間、誰もそんな終わりを迎えるとは想像もしていなかっただろう。狭間もその 一人であり、きっと両親もそうだった。鬼塚も、あかねも、千代も、船島集落に住まう全員が穏やかな一日を 過ごせるのだと信じていた。けれど、光の巨人は現れた。 あちこちからすすり泣きが聞こえ、家族の名を見つけて崩れ落ちる人の姿も珍しくなかった。窓口で対応している 役場の職員は感情を押さえていたが、時折苦しげに声を詰まらせた。狭間は名簿のハ行を見、どうか見つからない でくれ、と祈りながら目を動かしていくが、あった。両親の名前が。 ハザマ マサル ハザマ タエコ 光の巨人に消された温泉旅館や店舗の従業員名簿と宿泊台帳に載っているが、安否確認が出来なかった人間の名 が書き出されているのだから、疑いようがない。胸の奥が絞られ、目の奥が痛み、喉が詰まる。声も出せずに 項垂れていると、小中学校時代の同級生の親が狭間を見つけ、慰めてきた。せっかく帰ってきたのにこんなことに なって辛いなぁ、何かあったら力になるから気をしっかり持てよ、と背中を強く叩いてくれた。喉が引きつったせい で返事が出来ず、狭間は頷くだけで精一杯だった。 それからしばらくして、一ヶ谷市内に住む叔父がやってきた。父親の兄である叔父は狭間を労わってくれ、背中を さすってくれた。真琴は大丈夫だったか、と聞かれたので無事だと答えた。弁護士に相談して両親の資産は息子達 にだけ行き渡るようにしてやる、葬儀の段取りは任せておけ、横浜で働いているんなら四十九日の法要までここに いることはない、こっちで上手くやる、と言ってくれた。だが、何もかもを任せるわけにはいかないので、出来る ことは全部やらせてくれと申し出た。そうしなければ、後悔するからだ。 知り合いに話しかけられた叔父が離れていったので、狭間は遠巻きに行方不明者名簿を眺め、ふなしま食堂に 勤めている人々の名がずらりと連なっていることにようやく気付いた。というより、見ないようにしていたという 方が正しい。だが、見なければならない。知らなければ、向き合わなければ。 死亡届を出すのに必要なものを取りに行くために、一度家に帰ろうと狭間は市役所を後にした。父親が農作業 に使っていた軽トラックに乗ると、助手席で丸まっていたジャンパーが蠢き、ツブラが顔を出した。狭間は手を 伸ばし、ツブラを撫でてやると、ツブラは狭間の手に頬を摺り寄せてきた。 「マヒト、ドウダッタ?」 「ダメだった」 なるべく声を落ち着かせようとしたが、情けなく上擦った。狭間はハンドルに突っ伏し、嘆く。 「畜生……ちくしょおおおっ……」 「ゴメンナサイ」 「ツブラが謝ることじゃねぇ、俺が、俺がもっと、上手くやれていたら」 肩を震わせながら、狭間は顔を覆う。千代がムラクモに飲み込まれた瞬間が、ムラクモの牙に引っ掛かっていた 肉塊が、ツブラが光の巨人に触手を断ち切られる様が、光の巨人が生まれ育った土地を、親しい人々を、家族を、 過去を、歴史を、何もかも消し去っていく光景が蘇ってくる。吐き気すら覚え、背を丸める。 「マヒト、ダイジョウブ?」 「大丈夫なもんか」 ひとまず、自宅に帰らなければ。狭間は一度深呼吸して気を落ち着け、吐き気が収まるのを待ってから、改めて ハンドルを握った。イグニッションキーを回し、サイドブレーキを上げ、ギアを変えてから、ハンドルを持った両手を 見下ろした。助手席で小さくなっているツブラを窺うと、子供の頃の光景が過ぎった。父さんから見ると俺はこういう 感じに見えていたのか、と気付いた途端、どうしようもなく切なくなった。 「オウチ、カエッタラ、マヒト、イッショ、ネル」 「二階の俺の部屋で一人で寝てろ。俺はやることが山ほどあるんだ」 「デモ、マヒト、ヨル、ネテナイ」 「寝てはいるんだ。すぐに目が覚めちまうだけだ」 「ソレ、ネテナイ、ッテコト」 「だからどうした」 ツブラに苛立つな。誰よりも頑張ったのはツブラだ。触手を何本も失い、肩を牙で裂かれかけても戦い抜き、狭間の 指示が遅れたせいで傷が増えたのに、狭間を案じている。最も責めるべき相手を責めず、いつものツブラであろうと している。だが、ツブラの真っ直ぐな優しさを受け止められるほど、狭間に余裕はなかった。 「少し、黙っていてくれ」 口を閉じていれば、暴言を吐かずに済む。狭間はタバコを銜えて火を灯し、狭い車中に煙を充満させた。ハンドルを 回して窓を開けると、蒸し暑い外気が入り込んでくる。ゴールデンバットを一本消費すると心中は少しばかり穏やかに なったので、狭間は引き出し式の灰皿を出して揉み消そうとしたが、そこには小銭が入っていた。 そういえば、父親はタバコを吸わない人間だった。若い頃は吸っていたそうだが、いつの頃からか止めてしまい、 灰皿も普段は戸棚の奥にしまい込まれていた。狭間がタバコの味を覚えたのは高校時代で、タバコの匂いですぐに バレてしまったが、父親は怒りはせずにこう言っただけだった。気持ちは解る、だが程々にしておけよ、と。 二本目を吸おうとしたが、止めた。 斜面が大きく抉られた八重山は、入道雲を背負っていた。 遠からず、夕立が降るだろう。実家に戻った狭間は軽トラックをガレージに入れると、まず最初にツブラを二階の 自室に運び入れた。続いて、帰りの道中で買ってきた夕食と明日の朝食の材料を台所に持っていき、冷蔵庫に入れて いった。母親が作り置きしていた料理がまだ残っていたので、傷む前に食べ切ってしまおう。そして、その味を覚えて おかなければ。二度と食べられないし、作り方を教えてもらおうにも教えてもらえないからだ。 薄暗くなった居間で、弟が座り込んでいた。弟が向かい合っているテーブルには、退去命令書が置かれていた。 光の巨人とムラクモの戦闘による被害が甚大で、道路もいくつも寸断されているため、地域住民の安全を確保する ための措置だった。だが、それは横暴だと思う人間も少なくない。真琴もその一人なのだろう。 「三日後だったな、それ」 狭間は居間に入り、吊り下げ式の蛍光灯を点けてから、テーブルの傍で胡坐を掻いた。 「ろくに転居先も用意されていないのに、どこに行けっていうんだよ。被害が大きいのは温泉街だけで、こっちは なんともないじゃないか。土砂崩れもないし、電気もガスも水道も止まっていないし、何も問題はないのに」 疲れ切った様子の真琴は、文句にも覇気がなかった。 「問題ならある。愛歌さんから聞いただろ、怪獣がいなくなった後の土地がどうなるか」 「土地が枯れるって話? だけど、横浜の発電怪獣が消された時はなんともなかったんだろ?」 「イナヅマは横浜に元から根づいていた怪獣じゃないんだ。だから、光の巨人に消されても、電源がなくなっただけ で済んだんだ。造船所の被害はまた別物だけどな。怪獣は土地そのものだ、特に水脈怪獣ともなれば尚更なんだ。 ムラクモは温泉の源泉でもある川の源流と一体化していたし、地下水脈にも沿っていた。だから、ムラクモが外に 出て大暴れしたから、源泉も川も地下水脈もボロボロなんだ。いつ、どこが地盤沈下してもおかしくないんだよ。 土地が枯れるっていうのは、そういう意味なんだ」 「だからって、この家がある場所が地盤沈下するとは限らないじゃないか」 「誰だってそう言う。俺だってそう思う。だけど、こればっかりはなぁ」 真琴は頭が良いんだから考えりゃ解るだろ、と狭間が呟くと、真琴は声を詰まらせる。 「そりゃそうだけど……だけどさぁ……だからって、納得出来るものじゃない……」 「俺も無理だ」 弟の前だからだろう、先程よりは落ち着いていられる。狭間は退去命令書を一瞥する。 「なんだったら、俺と一緒に横浜に来るか? 俺と愛歌さんが住んでいるアパートは狭いが、その場凌ぎにはなる だろうしな。治安はちょっと悪いが、それはまあどうにでもなるよ。時間は掛かるが、光の巨人の被災者の身内には 政府から補償金が出るわけだし、被災証明書を発行してもらえれば学費も免除される制度があるから、なんだったら 横浜の高校に転入すりゃいい。俺と一緒にいたくないなら、下宿でもなんでも」 「そう簡単に言うな!」 テーブルを力一杯叩いた真琴は、狭間を忌々しげに睨み付ける。 「兄貴はいいよな、そうやっていられて! あんたはいつだってそうだ、変なことにばっかり気を取られて、変な方向 にばっかり進みやがる! 子供の頃からそうだった、怪獣の声が聞こえるとかなんとか言ってふらふら歩いて迷子 になって、そのせいで千代ねえの目が潰れちまったってのに、いつまでたっても怪獣の声が聞こえるって与太話を する! 高校卒業して働き出したと思ったら、また怪獣の声がどうとか言い出してすぐに辞めちまうし! 挙げ句の 果てに食堂の仕事を放り出して、勝手に上京しやがって! そんなふうにいい加減に生きている奴に命令されたく はない! あんたと関わりたくない! こっちまでダメになりそうだからだ!」 「あのなあ」 「父さんと母さんが死んだのも、千代ねえが死んだのも、全部全部あんたのせいだ! 怪獣の声が聞こえるってのが 本当だとしたら、あんたがムラクモを唆して暴れさせたんだろ! あの赤い髪の毛の怪獣と戦わせて何をしようと したのかは知らないが、どうせろくでもないことだ! 俺はあんたに関わって死にたくない、だからあんたの言う ことなんか何も聞かない! 横浜には絶対行かない、俺はこの家を守らなきゃならないんだ、あんたが何も守ろうと しないから! やるべきこともしないくせに、偉そうな口を叩くな!」 激昂した弟の声を聞くのは初めてで、狭間の鼓膜にびりびりと余韻が残った。今まで言いたくても言えなかった ことが溜まりに溜まっていたのだろう、真琴は怒りに顔を歪めていたが、どこか清々しげだった。反論してやろう かとも思ったが、火に油を注ぐべきではない。言わせるだけ言わせてやれば、気が晴れるからだ。しかし、真琴は兄が 反論しないのが癪に障ったのか、詰め寄ってきた。 「聞いてんのかよ、この」 いきり立った真琴は、狭間の胸倉を掴んだ。殴られるのには慣れているので、狭間は敢えて抵抗せずにいると、 ふすまが全開になった。それと同時に飛び込んできた赤い触手が真琴を突き飛ばし、更に手足を拘束して居間の 隅へと追いやってしまった。犯人が誰なのかは、考えるまでもない。 「部屋にいろって言っただろ、ツブラ」 狭間は襟を直してから、触手を不穏に揺らす少女怪獣を宥めた。 「デモ! マヒト、マタ、ナグラレル!」 ぼろぼろと泣き出したツブラは触手を引っ込め、座り込む。狭間はツブラを抱き寄せ、触手を撫でる。 「俺だってな、どこに感情を吐き出したらいいのか解らないんだ。解らないから、さっきはお前にぐちゃぐちゃしたの をぶつけようとしちまったぐらいだ。事の次第が解っている俺ですらもそうなんだから、真琴はもっと混乱している んだ。だから、あいつの気が済むなら奥歯の一本ぐらいは差し出してやれるさ。どうせ、まだ抜いていない親知らずが あるわけだしな。ツブラ、さっきはごめんな。あんなこと言っちまって」 「兄貴……それ、あの子供か……? なんなんだよ、怪獣なのか、人間なのか……?」 触手の戒めが解けると、真琴は青ざめて後退る。狭間はツブラを支えながら、弟を見やる。 「怪獣だ」 「でも、そいつ、喋った」 「ツブラはその辺にいる怪獣とはちょっと違うんだ。だから、やるべきことも違うんだ」 狭間はしがみついてくるツブラの背をさすり、呼吸を整えさせた。 「真琴。お前の言う通り、俺はどうしようもないろくでなしだよ。それは否定しない。けどな、父さんと母さんだけじゃ なくてお前まで死んじまったら、俺はどうすりゃいいんだよ。家を守るって言っても、家の人間が死んだら何の意味も ないだろうが。横浜が嫌なら、親戚の家でもなんでもいい。とにかく、船島集落を出てくれ」 ツブラを抱き上げて膝に乗せてから、狭間は真っ直ぐに弟と向き合った。体は大きくなったが、表情は子供の頃から ちっとも変わっていない。泣きそうになると唇を噛む癖も。真琴は壁に背を当ててずるりとへたり込むと、畳を拳で 殴り付けて声を上げた。どうするべきかは頭では解っていても、心が受け付けないからだ。 それから、真琴の気が済むまで傍にいた。ひとしきり泣いて喚いて暴れて疲れ切ると真琴は落ち着きを取り戻し、 途切れ途切れに話し始めた。兄貴が悪いわけじゃない、誰も悪くない、どうにも出来ないことだったんだ、だけど、 誰かを悪者にしておかないと気が狂いそうだった、だからあんなことを言ってしまった、言っちゃいけないことを 言ってしまった、と。狭間はそれを責めもせずに、ただ聞いていた。 「やるか?」 狭間はタバコを差し出すと、真琴は少し躊躇った後、押し返した。 「いらない。噎せるだけだから」 「生まれ付き怪獣の声が聞こえる体質だってこと、まだ信じてくれてなかったのか」 弟が吸わなかったタバコを銜えて火を灯し、狭間は煙を深く吸い込んだ。弟は、鬱陶しげに煙を払う。 「信じられるわけがないだろ、うちは怪獣使いの家系でもなんでもないんだから。ただの兼業農家だ」 「真琴にはそういうことはないのか?」 「ないよ。あったら、とっくの昔に報告しているって。それに、怪獣の声が聞こえるだのなんだのっていうのは、カルト 宗教にありがちな謳い文句だ。怪獣から神託を受けた、とか吹かして奇跡が起きるだの終末が訪れるだのと騒いで 信者と金を集めるやつが結構あるんだよ。怪獣の声が聞こえたっていう人間の体験談が書かれた本を探して一通り 読んでみたけど、新興宗教が信者にばらまくために書いたものだったり、ただの妄想だったりで、当てになるもの じゃなかった。――――だから、信じられないんだ。信じられる気がしないんだ」 「なんだかんだで、俺のことを気にしてくれていたのか」 それが嬉しいようでいて、なんだかくすぐったい。狭間が顔を逸らすと、真琴は逆方向に逸らす。 「兄貴が変な宗教にかぶれていたり、頭がおかしくなっていたとしたら、どうにかするのが身内ってものだろ?」 「心配してくれていたのか、そりゃありがたい。それで、俺は頭がおかしいのか?」 「おかしくはないんだろうけど……普通とはちょっと違うと思う」 「そうか」 「うん」 タバコの灰を灰皿に落としてから、狭間は膝の上で丸まって眠ってしまったツブラを見下ろした。狭間と離れるのが 余程嫌なのか、ズボンのベルトをしっかりと掴んでいる。真琴はツブラを恐る恐る窺い、首を引っ込めた。 「結局、それ、何なんだ? 人型怪獣だとしても、人間に似過ぎていて薄気味悪いんだけど」 「その辺の話は長くなるから、後でじっくり話してやるよ。真琴がどうするかを決めたら、言ってくれ。家を出るまで にはまだ三日もあるんだから、急ぐことはないさ」 三日もあれば、狭間も気持ちの整理が付けられる。真琴はふらっと立ち上がり、顔洗ってくる、と言って洗面所に 向かっていった。あの入道雲が降りてきたのか、ぱらぱらと雨音がした。重たい雷鳴も近付いてきているが、その中 にムラクモの声はない。船島集落を囲む山に住んでいた怪獣達がざわめき、他の土地に移ろうとする者、生まれた土地 で果てようとする者、ムラクモの後釜に収まろうとする者、と、それぞれの思惑が交錯していた。 雨脚は強くなる一方だった。 14 9/10 |