狂気を具現化した存在との遭遇から、一夜明けた。 愛歌にそそのかされたからとはいえ、狭間は聖ジャクリーン学院へ不法侵入し、死体と化した元生徒との遭遇、 吸血鬼の噂の出所である黒い布と接触、そしてその正体を知ってしまった。ツブラが抱えている事情も朧気ながら 見えてきたが、正直、全部知るのは恐ろしい。神話時代の怪獣まで絡むとなると、根が深すぎるからだ。とてもじゃ ないが、狭間の手に負えるとは思えない。 しかし、関わらざるを得ないのだ。毎度のことだからだ。そんなことをぼんやりと考えながら、狭間は眩しい朝日を 浴びていた。だが、白い日差しと晴れ渡った空を四角く区切っている窓は、フォートレス大神の愛歌の部屋のもの でもなく、聖ジャクリーン学院の一室でもなく、かといって警察の留置場でもなかった。 怪生研こと怪獣生態研究所の仮眠室で、狭間は見慣れぬ天井を見上げていた。ツブラも一緒だが、夜通し泣いて いたらしく、抱きかかえている厚いタオルがしっとりと湿っていた。喉の渇きと頭の重たさに苛まれながら、あれから どうしたんだっけか、と記憶を反芻する。死んだ女学生の血肉を喰らって黒い布から出現した新たなシャンブロウ、 エレシュキガルと図らずも交戦する形になり、辛うじて追い返したものの、愛歌がエレシュキガルの触手に蹂躙されて 粘液まみれになってしまった。なので、聖ジャクリーン学院の宿直室で待機していた職員に助けを求めたが、当然 ながら真っ先に警察に通報され、愛歌とツブラ共々、パトカーに乗せられて連行されてしまった。 そこまでは予想の範疇であり、俺って前科付くのかな、真琴にどう説明しようか、というかまず愛歌さんを病院 に連れていくのが筋じゃないのか、と粘液まみれで微動だにしない愛歌と落ち込むツブラを支えながら思っていると、 最寄りの伊勢佐木町警察署に連れていかれた。身分証や何やらで愛歌の素性が判明すると、今度は怪獣監督省に 連れていかれたが、怪獣監督省は夜間は業務を行っていなかったので、あちこちをたらい回しにされた末、最後 に辿り着いたのが怪獣生態研究所だった。 「なんで逮捕されなかったんだ、俺?」 真っ当に考えても、二三の犯罪は犯しているはずである。罪状が付かないのであればそれはそれでいいのだが、 解せない。狭間は寝心地が今一つの布団から身を起こすと、寝癖の付いた髪を掻き回した。ブラウン管のテレビの 上に置かれている置時計は、午前七時過ぎを指していた。寝入ったのは午前四時頃だったのだが、外が明るくなった せいで目が覚めてしまった。この分だと仕事に行けそうにないので、二度寝するべきか否かを真剣に考えている と、ドアが叩かれた。生返事をすると、愛歌が顔を出した。 「おはよー。元気ぃ?」 「おはようございます。それはこっちが聞きたいですよ、病院に行かなくていいんですか?」 狭間は身綺麗にした愛歌を見、訝った。愛歌は髪も肌も粘液が綺麗に落とされていて、化粧までしている。服は 怪生研の女性職員から貸してもらったようで、襟の付いた裾の長いワンピースを着てる。 「病院、嫌いなのよ。あれぐらいでどうにかなるほどヤワじゃないわよ」 愛歌はからからと笑うが、狭間は渋い顔をする。 「いかなる種類の怪獣であっても、怪獣の体液が人間にとって有害なのは解り切ったことじゃないですか。奴らは 元を正せば溶岩の固まりなんですから、濃度の高い硫黄や液化した硫化水素が溶け込んでいるんですよ。怪獣Gメン が知らないはずはないと思いますけどね。そんなものが肌に触れたらただじゃ済みませんよ」 「あら、心配してくれるの?」 「そりゃしますよ。愛歌さんがどうにかなったら、真琴にどれだけ恨まれるやら」 「朝御飯の支度が出来たから、食堂にいらっしゃい。羽生さんと鮫淵さんも来ているから」 「こんな朝っぱらに?」 「正確には、昨日の夜中からね。私の服に付いた粘液の成分分析をしたいってのもあるけど、狭間君から証言を 得たいって言って聞かなくてね。でも、狭間君が爆睡しちゃったもんだから、今朝に後回しってわけ。それと、 うちの部署の上司も来ているから、ちょっとはまともな格好にしておきなさいよね」 「愛歌さんの上司って……怪獣監督省のですか?」 「広い意味ではね」 食堂は一階にあるから、と言い残し、愛歌は去っていった。人を待たせているとなれば、ぼやぼやしているわけ にはいかないと、狭間は仮眠室の隅にある洗面所で顔を洗い、髪を濡らしてまとめて出来る限り整えた。欲を言えば 風呂にも入りたかったが、さすがにそんな時間はない。それなりにまともな格好になってから、ツブラを起こすと、 ツブラはタオルを放り出して狭間にしがみついてきた。 「ニュゥ」 「いい子だ、そろそろ起きろ」 「マヒト」 ツブラは赤い目を瞬かせて焦点を定めると、不安げに問うてきた。 「マヒト、ツブラ、ヌルヌル、イヤ、ダッタ?」 「へっ」 それは、今、この状況で聞くことなのか。狭間が面食らうと、ツブラは泣きそうになる。 「ダッテ、アイカ、エレシュキガル、ヌルヌル、サレテ、スゴク、イヤガッタ。マヒト、ヌルヌル、イヤ?」 「ツブラが触手を操る際の擬音はヌルヌルだったのか」 「ウン、ヌルヌル。ツブラ、ヌルヌル、スル、スキ、オナカイッパイ。デモ、マヒト、ヌルヌル、サレルト、イヤ?」 触手をだらりと下げ、ツブラは目を伏せる。 「ええと……」 どう答えてやるものか。狭間はツブラの前で胡坐を掻き、しばらく考え込んだ末に言った。 「慣れると、そんなに悪いもんじゃない」 「ワルイ?」 ツブラの赤い目がみるみるうちに潤んできたので、狭間は言葉選びを誤ったのだと気付いて訂正した。 「悪いっていうのは否定的な意味ではなくてだな、その、朝っぱらからこんなことを言うのもなんだが、最初の頃は そりゃ気色悪いし苦しいし喉の粘膜が痛くなるし貧血に襲われるしで目も当てられない状況だったんだが、ツブラも 俺も回数を重ねるとペース配分が解ってきたから、そこまでじゃなくなったんだ。なんというか、こう、粘膜と粘膜 を接触させるとある種の快楽が生まれるのは生物として真っ当なことであって、要するにあれだよあれ、触手の束が 喉までぬるっと一気に入り込むと、…………ちょっとだけ気持ちいい」 「イイ?」 途端にツブラは機嫌が良くなったので、狭間は安堵する。 「程度の問題だけど、ぬぇあっ!?」 褒め過ぎた、と気付いたのは、喜色満面で襲い掛かってきたツブラと意気揚々と暴れ回った触手に押し倒されて 口を塞がれて触手を突っ込まれた後だった。そして、狭間がなかなかやってこないので様子を見に来た愛歌から、 白い目を向けられた時に悟った。触手と接して気持ちいいと感じている自分が異常なのだ、と。 今更ではあるが。 もう一度身支度を整えてから、食堂に向かった。 ツブラとの一悶着のせいで午前八時を回っていたので、羽生と鮫淵と愛歌の上司を随分待たせてしまった。少し どころかかなり気まずくなりながらも食堂に入ると、窓の外には見覚えのある人型怪獣の一団が控えていた。一体は 背中に棺桶に似た箱を担いでいて、狭間に気付くと目礼してくれた。綾繁枢の配下の怪獣、ヒツギだ。ということは まさか、と狭間は食堂を見渡すと、愛歌らが着いているテーブルに着物姿の少女がちょこんと座っていた。 「おはようございます、狭間さん」 艶やかな鶴の刺繍が施された白の振袖に朱色の帯を締めている綾繁枢は、深々と頭を下げた。 「お……おはよう、ございます」 どうして怪獣使いが怪生研に。狭間が気後れしながらも返すと、愛歌は食堂のカウンターを指した。 「狭間君の分もあるけど、すっかり冷めちゃったわよ。イチャイチャしているから、そんなことになるのよ」 〈すまない、人の子。枢様にお前の力と存在を知られてしまった〉 申し訳なさそうに顔を伏せたヒツギは、枢と目を合わせると、枢はにこやかに手を振った。 〈私も他の怪獣達も出来る限り隠そうとはしたのだが、マガタマを通じて直接思考を抜き取られてしまっては、いくら 我々といえども防ぎようがなかったのだ。約束を守れなかったことを誠心誠意謝ろう〉 「ヒツギと何をお話ししておられるのですか、狭間さん?」 枢は興味深げに狭間を覗き込んできたので、狭間は枢とヒツギを見比べつつ返す。 「マガタマは随分と応用が効くんですね」 「使い方次第でどうにでもなりますわ。力任せに使ったのはこれが初めてではありますけれど、怪獣達のざわめきから 察するに、大きなことが動いているのでしょう? でしたら、南関東を任されている怪獣使いである私が関わらない わけには参りませんわ。それもまた、怪獣使いの務めですもの」 「それはどうも、畏れ多いです」 狭間は苦笑いしつつ、愛歌らが座っているテーブルに椅子を追加してツブラを先に座らせてから、カウンターに 置かれている盆を取ってきた。朝食の内訳は小松菜の味噌汁に白飯、サケの切り身に生卵とタクアンだったが、 愛歌の言う通りの有様だった。魔法瓶に入っていたほうじ茶は熱さを保っていたが。 それをテーブルに運び、愛歌の刺々しい視線と羽生と鮫淵の諦観混じりの視線と枢の好奇心に満ち溢れた視線に 耐えながら一通り平らげると、タバコを吸うタイミングを計っていた羽生が話を切り出した。 「面倒だから本題から入ろうじゃないか、狭間君。愛歌さんの証言によれば、ツブラはイナンナの後継者であって、 聖ジャクリーン学院とその一帯を騒がせていた吸血鬼はエレシュキガルの後継者なんだね?」 「ええ、まあ。吸血鬼呼ばわりされていたのは、黒い布から出現する怪獣だったんです。その怪獣はシャンブロウ だと名乗って、ツブラをイナンナの分身だと言って罵って、自分はエレシュキガルそのものだと言って」 綾繁枢の前で話してもいいものかと少し迷ったが、ここまで来ては隠せるものではない。狭間が事実を述べると、 黙々とノートに書き込んでいた鮫淵が顔を上げ、鉛筆の尻で頭を引っ掻いた。 「あ、え、その、イナンナとエレシュキガルというのはですね、神話時代に実在していた神話怪獣なんですが、どちらも 外来性なんです。つまり、地球の外から来た怪獣で。あ、でも、太陽系外ってわけではなく、イナンナは金星 からで、エレシュキガルは火星から来たんです。地球は金星と火星の間にあるので、両者がランデブーするには丁度 良い立地だったんでしょうね。紀元前四〇〇〇年頃に栄えたメソポタミア文明とは関係が深く、ウルク文化と呼ばれる 先史文明を栄えさせた熱源でもあったんです。その当時は今と違って怪獣が発する熱をエネルギーとして利用する 技術も道具も完成されていなかったし、怪獣を採掘することも難しかったし、運良く怪獣を都市部まで連れてきても 怪獣使いがほとんどいなかったので使いこなせなかったんです。でも、イナンナはそうじゃなかった。人間に対して 友好的で、率先して熱を分け与えたばかりか、地母神怪獣ナンム、風神怪獣エンリル、雷神怪獣マルドゥクといった 分身の怪獣も生み出して人間に従属させ、古代都市ウルクを発展させたんです」 そこまではよかったんです、と鮫淵はツブラに目をやると、ツブラは触手で顔を覆ってしまった。 「そこに現れたのが、エレシュキガルで。エレシュキガルはイナンナとは正反対の性質を持つ怪獣で、文明の発展を 何よりも疎んでいた、と当時の石版には記されています。エレシュキガルはイナンナが育ててきた都市と住民達を 蹂躙したばかりか、魔神怪獣ラマシュトゥという分身を生み出し、イナンナの分身の怪獣達を次々に滅ぼしていき、 最後にはエレシュキガルとラマシュトゥがイナンナに襲い掛かったんです。そこで、イナンナは」 「イナンナ、エレシュキガル、ラマシュトゥ、ケシサッタ」 ツブラは触手に僅かな隙間を開いて目を出し、か細く呟いた。 「イナンナ、ヒカリ、チカラ、ツカエル。ダケド、エレシュキガル、ラマシュトゥ、オオキスギテ、カセイ、モドスダケ、セイ イッパイ、ダッタ。ダケド、エレシュキガル、キエルマエ、イナンナ、クル・ヌ・ギ・ア、フウジタ」 「クル・ヌ・ギ・アねぇ。思った通り、その単語が出てきたか。この優れすぎて新文明を築きかねない僕の仮説と三割 は一致しているが、この僕が立てた仮説は五〇〇を超えるから、その中の三割と一致していると考えてほしいものだね。 もっとも、クソ真面目に理詰めで考えた仮説ではなく、神話時代の神話を適当に拾い上げてくっつけた仮説に近いのが なんとも腹立たしいけど、世の中そんなものだね」 「話の腰を折るようで悪いんですけど、クル・ヌ・ギアってなんですか」 狭間が率直に疑問をぶつけると、羽生が少々面倒そうに説明した。 「怪獣の声が聞こえるのにそんなことも知らないのか、狭間君は。クル・ヌ・ギアとは、神話時代に実在していた異次元 空間――言わば、怪獣の墓場だよ。シュメール語で、帰還することのない土地という意味さ。本題に戻ろうか」 羽生にせっつかれ、ツブラは狭間の手に触手を絡み付けてから、心細げに俯く。 「イナンナ、クル・ヌ・ギ・ア、フウジラレタ。ダケド、エレシュキガル、イナンナ、ユルサナイ。ダカラ、イナンナ、カラダ、 タマシイ、バラバラ、サレタ。イナンナ、ヒカリ、チカラ、エレシュキガル、ワルイ、リヨウ、スル」 「つまり、光の巨人の根源はイナンナであって、エレシュキガルはイナンナの力を悪用していると?」 愛歌が要点をまとめると、ツブラは狭間の手にしがみつき、ただでさえ小さな体を縮める。 「ダカラ、ツブラ、カセイ、イカナキャ、ナラナイ。ツブラ、イナンナ、カワリ、スル」 「ですけれど、イナンナは良い怪獣なのですよね? 光の巨人が出現する法則については羽生さんから御伺いしました けれど、良い怪獣であるイナンナが、怪獣が人間に危害を加えたら光の巨人が現れるように決めたのですか? 広い目 で見ますと、人間一人よりも怪獣一匹の方が遥かに価値がありますのに、たった一人殺めただけで罰しますの?」 怪獣使いの常識が全人類の常識であるかのように語った枢に、狭間は少なからずカルチャーショックを受けた。 それは確かにそうなのだが、どう答えたものか。狭間が言葉に詰まっていると、鮫淵が説明した。 「あ、それはですね、枢さん。光の巨人が出現する法則は、神話時代の価値観に由来しているんですよ。イナンナ が地球に来た時代の常識に準じているので、現代には合わなくなっているから違和感を感じるんです。神話時代には、 人間は神々とそれに匹敵する怪獣への奉仕のために存在している、という価値観が真っ当であって……」 「怪獣が人間に危害を加える、という考え方がそもそもの間違いなんだよ。神話時代は、怪獣に捧げられる人間は 選ばれた者であり、供物となるために穢れを削ぎ落していた。怪獣と共に光の巨人に消し去られる、というのも解釈 が根本的に違うのさ。怪獣に捧げられた人間は、光の巨人に触れられることで浄化され、天に召され、神々の領域へと 至る。だから、消し去られるのは祝福であり、栄光だったのさ」 羽生は鮫淵の話に割り込むと、タバコを抜いて銜え、薄い唇の端に挟む。 「けれど、それは黄金時代たる神話時代のことであって、鉄の時代たる現代に通用するものじゃない。光の巨人の 出現頻度が多すぎて、この僕の計算上、このままだと十年足らずで日本全土が消えてしまうよ。となれば、尚更、 光の巨人が出現しないように手を打たなきゃならない。けれど、たかが人間が神話時代の怪獣に太刀打ち出来る はずもない。そこで、政府と怪獣使いは一計を案じたというわけだ」 「狭間さんには、怪獣使いとは少し異なりますが、怪獣と通じ合える御力があると怪獣達から伺いました。その力が とても貴重なことと、ツブラさんが神話怪獣同士の争いの板挟みになっていることも重々承知しております。なので、 狭間さん、ツブラさんを使役して国防に助力して頂けませんでしょうか?」 枢は狭間と向き直ると、両手を胸の前で組んだ。 「もちろん、御給金は弾みます。これまでは狭間さんとツブラさんがいらっしゃった場所に現れた光の巨人にしか 対処出来ませんでしたけれど、政府の力添えで組織的に光の巨人対策を行えば、救える命も、助けられる街も、大幅 に増えますわ。国家認定の怪獣になれば、ツブラさんは身を隠して暮らす必要もなくなりますし、ともすれば英雄と して人々に慕われるでしょう。いずれは怪獣使いとして認めてもらえますよう、御父様にも御口添えいたしますわ。 警察の方々のように簡単にはいかないでしょうけれど、きっと解って下さりますわ」 枢の迷いのない眼差しに見つめられ、狭間はたじろいだ。急にそんなことを言われても。枢の言うことが全て本当 だとしたら、この上ない好条件だ。快諾すべきだと直感しそうになったが、狭間の指を力一杯掴んでいるツブラの 手が震えていた。羽生、鮫淵、愛歌、そしてツブラの視線に突き刺されながらも、狭間は考え抜いた。 「少し、考えさせて、下さい」 誰よりも何よりも、ツブラのために正しいことをしなければ。狭間は曖昧な語句で言い訳をして食堂を後にすると、 宿直室に戻った。とりあえず一旦帰って真琴にもマスターにも話せることは話さなければ、だが、何からどうやって 話したものか。いきなり降りかかってきた事の大きさに押し潰されそうになりながら、思い悩んでいると、狭間の背 にツブラが縋り付いてきた。胴体に緩やかに巻き付いた触手を握り、その滑らかさを味わった。 最善を選ばなければ。 14 9/30 |