横濱怪獣哀歌




聖キ娘ノ園



 聖ジャクリーン学院の裏口に至ると、学院の主が待ち構えていた。
 乙女達を見守る清らかなる異形の怪獣、聖ジャクリーンである。愛歌は面食らったが、狭間は道中で怪獣達から 聞かされていたので知っていた。全長三メートル以上の体躯の守護聖獣は白い布状の薄い皮膚を夜風に靡かせ、 刃物が生えた手をひらひら振って、包帯まみれの顔の中で唯一露出している左目を弓形に細めた。

〈やっほー。人の子が来てくれるの、今か今かと待っていたんだよ〉

「守護聖獣がいちいち外に出てくるなよ、有難味のない」

〈いいじゃん、別にぃ。結果として学院に貢献しているんだから、守護の範疇じゃんか〉

 狭間の文句も意に介さずに、聖ジャクリーンは指先から薄く細い刃物を伸ばし、裏口を塞いでいる鉄柵の錠前に 差し込んで軽く捻った。大振りな南京錠が外れ、地面に落ちると、聖ジャクリーンは親指を立てた。

〈いえーい。さあどうぞ、いらっしゃーい〉

「ついでに率先して不法侵入を許すな」

〈私がサービスするのは人の子と天の子だけだよ、勘違いしないでほしいなぁ〉

 聖ジャクリーンは鉄柵を開くと、手招いてきた。一部始終を見ていた愛歌は、こめかみを押さえる。

「学院側と交渉する手間が省けたけど、解せないわ、何かが」

「ナニガ?」

「なんでもいいから、さっさと終わらせて帰りましょう。騒ぎになる前に。聖ジャクリーンもさっさと礼拝堂に 戻ってくれ。でないと、また変な噂が立っちまう」

 狭間は愛歌とツブラを先に入れてから、聖ジャクリーンを追いやろうとすると、怪獣はにんまりする。

〈私に関する噂なんて、掃いて捨てるほどあるよ? だから、気にしないで。でも、心配してくれてありがとう〉

 じゃあね、と聖ジャクリーンは気軽に手を振ってから、全身から生えた刃物をしゃらしゃらと涼やかに鳴らしながら 礼拝堂に戻っていった。ツブラも釣られて手を振っていた。愛歌は外された錠前を元の穴に差し込んでから、噂の 出所である学生寮に向かった。
 夜の学校は奇妙だ。昼間はなんとも思わないのに、図体のでかい校舎が化け物じみた存在に思えてくる。少女達の 甘酸っぱい青春で満たされているはずなのに、度重なる混乱で暗澹とした空気が漂っているからだろう、夜の帳 も陰鬱に感じてしまう。以前、止むに止まれぬ事情で潜り込んだ時とはまた違った感覚があった。真琴を始めと した男子生徒だけで構成されたクラスは、三階の空き教室を使っているそうだが、それがどこなのかは外からでは よく解らなかった。見当を付けようにも、そもそもどこが空き教室なのかすらも知らないのだから。

〈あ、そうだ、言い忘れていたことがあるんだけどね〉

「うぉあっ!」

 突如、目の前に聖ジャクリーンが降ってきた。狭間が思わず仰け反ると、聖ジャクリーンは左目を瞬かせる。

〈あの吸血鬼、怪獣じゃないような気がするの。怪獣だったら、ほら、怪獣電波で声が聞こえるでしょ? 人の子に むやみやたらに話しかけちゃうでしょ? でも、吸血鬼って呼ばれている奴は一言も喋らないの〉

「え? あ……そうかもな」

 愛歌は吸血鬼を怪獣だと断定しているが、これまでそれらしい声は聞いたことがない。

〈でしょ? でも、人間でもないの。人間だったらすぐに解るもの。怪獣人間って呼ばれている継ぎ接ぎの生き物が 人間だってことは、一目見るまでもなく感覚で理解出来ちゃうから。だけど、あれはどっちでもなかった〉

「怪獣でも人間でもないモノってことか?」

 それをどう言うべきなのか、狭間の語彙ではすぐに思い浮かばなかった。じゃあ今度こそ帰る、と聖ジャクリーン は再び礼拝堂に駆けていった。愛歌は狭間と聖ジャクリーンのやり取りを聞いていたが、不満げだった。自分の推理 が間違っていたのだと認めるのが癪に障るらしい。
 教室棟、講堂、体育館、運動場、礼拝堂、と通り過ぎていき、敷地の最も奥にある学生寮に至った。消灯時間を過ぎて いるのだろう、全ての窓がカーテンに塞がれていて真っ暗だ。それでも、懐中電灯を使うと不法侵入したことが すぐに露呈してしまうので、愛歌の記憶を頼りに学生寮の裏口に向かった。狭間は階段や段差に躓いて転びそうに なったが、その都度ツブラが助けてくれた。情けないやら恥ずかしいやら。
 裏口のドアの鍵は開いていた。女学生達が夜中にこっそり抜け出すために開けているのか、守衛の不備なのか、 或いは吸血鬼に誘われているのか。いずれにせよ、慎重に進むに越したことはない。学生寮に足を踏み入れると、 甘ったるい匂いが押し寄せてきて、狭間は反射的に息を止めた。化粧品の匂いではないが、人間そのものの匂い とは異なるものだ。愛歌はこの匂いをなんとも思っていないらしく、パンプスを脱いで裸足になると、狭間にも靴を 脱ぐように指示した。足跡を残さないためと、足音を立てないためだ。ツブラも赤い長靴を脱いだので、狭間は 自分のスニーカーとツブラの長靴をぶら下げながら、愛歌の背を追った。
 真っ赤な非常灯が煌々と輝く廊下を通り、少女達が眠っている部屋を過ぎ、面会室、ロビーを兼ねた多目的室、 管理室、自習室、と建物の奥へと進んでいく。進むにつれ、例の甘ったるい匂いがどんどん濃くなってくる。息をする のも辛くなるほど、強く、重たくなる。吸い込んだ甘い匂いが粘膜にこびり付き、軽い痺れさえ覚える。

「愛歌さん、さっきから変な匂いがしませんか。なんていうか、キンモクセイを煮詰めたみたいな匂いが」

「しているわよ。だから、進んでいるの」

 愛歌も匂いに辟易しているのか、ハンカチを鼻と口に当てている。ツブラは触手をいつになく縮めていて、狭間と 繋いだ手にも力を込めていた。食堂にまで行き着くと、非常口に面した廊下に特に強烈に匂いが籠っていた。廊下の 隅には、白い固まりが落ちている。固まりからは粘り気のある液体が漏れていて、細い手足が生えていた。
 人間だ、と狭間が気付いた時には愛歌が動いていた。ポケットに忍ばせていた懐中電灯を点けて狭間に投げ、 すぐさま倒れている人間を寝かせた。それは白い寝間着を着た少女で、長い髪が青白い顔に掛かっているせいで顔が 良く見えなかった。首筋から一筋の赤い血が流れていて、寝間着の襟から胸元を赤黒く汚している。愛歌は自分の ハンカチを使って首筋の傷口を拭ってやり、止血し、顔に掛かった髪を払ったが、不意に手を止めた。

「この子、見たことあるわ」

「御知り合いですか?」

「いえ、違うわ。写真の中でよ。だって、この子、例の降霊会で呼び出されていた子だもの」

 愛歌は少女を硬い床に寝かせると、後退り、汚れた手を拭った。狭間もツブラの手を引いて、やや距離を置く。

「どうします?」

「このまま放っておくのも気分が悪いけど、何も調べずに去るのは消化不良ね。もう少し、待ってみましょ」

 そう言うと、愛歌は狭間の手を引いて食堂の物陰に隠れた。狭間はツブラを膝の上に乗せると、ツブラは狭間に しっかりとしがみ付いた。愛歌は懐中電灯を取り返してから、腕時計で時刻を確かめてから明かりを消した。午後 十一時過ぎ。それから、息をするのも憚られるほどの静寂が訪れた。
 寝入りそうになったことは一度や二度ではなく、その度に愛歌に揺り起こされ、ツブラにも起こされ、ぼんやりする 意識を繋ぎ止めるために狭間は必死に踏ん張った。あの甘い匂いを嗅いでいると、どうしようもなく眠たくなる ようで、意思とは無関係に瞼が下がってしまう。匂いの根源は食堂ではなく、例の少女だと気付いたのは、覚醒 と睡眠の境界を彷徨っていた時だった。窓の隙間から風が滑り込んでくると、少女の辺りから甘い匂いが広がる からだ。となれば、例の少女は香水でも振りかけているのだろうか。

「――――来た」

 小さく呟き、愛歌が立ち上がった。狭間もそれに従って腰を上げると、一枚の布が翻っていた。夜の切れ端、とでも 称すべき黒い布が、赤い非常灯を受けながら宙に浮いている。風を孕んでいるかのように丸く膨らみ、水中を漂う 海藻のように、ゆらゆらと空中を泳いできている。あの少女に向かって。
 これが吸血鬼なのか、それとも。狭間は固唾を飲んで事の次第を見守っていると、黒い布は少女に覆い被さり、 包み込んだ。ぎちぎちぎちぎちぎち、ぎしぎしぎしぎしぎし、と軋みが上がった。歯を食い縛った際に頭蓋骨の中に 響き渡る音と酷似している。つまり、骨が軋むほどの猛烈な力で締め上げているということだ。だが、少女は呻き も上げずに大人しくしている。いや、動けないのかもしれない。あの甘い匂いをたっぷりと嗅がされて意識を 失っているとしたら、匂いの強さにも納得が行く。しかし、このままでは少女は黒い布に砕かれてしまう。狭間 は愛歌に助けるべきだと急かすが、愛歌は首を横に振る。
 
「あの子、脈がなかったのよ。驚かせたくないから、さっきは言わなかったんだけど」

「それじゃ、まさか」

 ごぎゅるぢゅっ。

「マサカ」

 狭間と同じ言葉を繰り返したツブラは変装を解いて触手も解き放ち、狭間の制止も聞かずに廊下に出た。

「キュウケツキ?」

 硬い声でツブラが呟くと、黒い布が広がって、少女だったものの残骸も広がった。甘い匂いが爆発的に濃くなり、 最早有毒ガスといっても差支えがない。非常灯の明かりを帯びてぬめぬめと光る肉片と白い骨と赤い血の海が、 ごぼん、と泡立った。泡が弾けると、黒い布に血肉の海が没し、更に布が膨れた。

〈吸血鬼? ――――いいえ、私はシャンブロウ!〉

 歓喜に打ち震える声を放ったのは、黒い布から生まれた赤い触手を持つ女性型怪獣だった。形だけならば巨大化 したツブラに酷似しているが、肌と目の色が違う。ツブラは白い肌に赤い目だが、この怪獣は褐色の肌に緑色の目 だった。狭間はその容貌を知っている。情報と一致するからだ。

〈やっと会えたわ、愛しい御方〉

 シャンブロウと名乗った女性型怪獣は、白目のない緑色の瞳を狭間に据える。

〈私の言葉が聞こえるのでしょう? 聞こえているのなら、どうか私に応えて、そして受け入れて〉

 うねうねと赤い触手を波打たせて、シャンブロウは滑るように移動する。頬に訪れた冷たさで我に返ると、肉食獣 じみた緑色の瞳が間近に迫っていた。後退ろうとするが、ツブラのそれよりも太い触手に阻まれる。ノースウェスト・ スミスとヤロールがC・L・ムーアの名で書き記した、幻想と狂気の神話時代を描いた小説の描写と同じだった。

「……シャンブロウ?」

〈そうよ、私こそがシャンブロウ。本物のシャンブロウ。うふふふふふふ〉

 美しく整った顔が歪み、にちゃりと口を開くと、赤い触手が零れ出す。

〈光の巨人を通じて何度も肉片を地球へ送り込んだけど、まともに成長出来たのは私だけね。私達シャンブロウは、 性別を持たない代わりに生殖器官も持っていないの。だから、捕食した相手の肉体に子株となる肉片を寄生させて 成長し、繁殖するの。要するに単体繁殖ね。けれど、その子は違うわ。単体繁殖じゃない。だから、私達にも火星 怪獣にも地球怪獣にも属さない、宇宙の異物。病巣。病原体。毒物。毒素〉

「は……?」

〈なあに、あの子は人の子に自分のことをなんにも説明していなかったの? 教えなければ事実は隠蔽されるとでも 思っているの? 浅ましいわね、怖気立つほど〉

 シャンブロウの緑色の瞳がツブラに定まると、ツブラは表情を強張らせ、触手を威圧的に波打たせる。

「ソンナコト、ツブラ、イワナクテモイイ。ツブラハ、ツブラ」

〈ツブラ? 違うわ、あなたはイナンナ。あのイナンナの分身、あのイナンナの、あの憎らしい女の排泄物!〉

 刹那、シャンブロウの触手が躍る。ツブラのそれよりも倍以上の太さを持つ触手は素早く、力強く、あっという間に ツブラの触手を圧倒して壁に縫い付けてしまい、ツブラの本体も縛り上げた。狭間もまた縛られ、手足を念入りに 縛られたために這いずることさえ出来なくなった。シャンブロウはツブラに迫り、禍々しく笑う。

〈忘れたとは言わせないわ。火星でのことを〉

「エレシュキガル! ダメ!」

 ツブラは必死にシャンブロウの触手を解こうとするが、それ以上の力で押さえられ、喉も塞がれる。

〈そう、エレシュキガル。過去の私、本当の私、真実の私。それがエレシュキガル!〉

 誇らしげに胸を張るシャンブロウ、否、エレシュキガルはツブラの全身を締め上げる。愛歌さえ無事ならば、と狭間 は彼女の様子を確認しようと首を逸らそうとするが、恐ろしい怪力でねじ伏せられ、目も塞がれる。これではツブラ の安否も解らない。また何も出来ない。まただ。その繰り返しになるというのか。
 そこで、ふと気付いた。エレシュキガルは狭間に触手を突っ込んでこない。それどころか口も塞いでいない。ツブラ の捕食相手など歯牙にも掛けないという意思表示なのかもしれないが、口が開くなら歯が使える。舌も使える。喉も 粘膜もだ。狭間はのたうち回って触手に僅かな隙間を作り、強引に顎を引き、首に巻き付いている触手を銜えた。

〈ひっ〉

 思いがけない感触に戸惑ったのか、エレシュキガルが妙に女々しい声を上げる。触手の隙間に舌を滑り込ませて 太さを計り、中でも太めの触手を探り出すと、それを思い切り噛んだ。途端に異形の女は仰け反り、触手が緩む。 太い触手は神経が通じているから、そんなものを噛まれてはひとたまりもない。更にもう一度力一杯噛むと、口の 中に鉄臭い液体が広がった。狭間は口に残った肉片を吐き捨てると、触手を解いた。

「失せろ」

 崩れ落ちたエレシュキガルの触手を引き千切り、ツブラを抱いてやってから、狭間は再度太めの触手を掴んだ。 罵倒してやりたかったが、頭に血が上りすぎて上手く言葉が出てこない。エレシュキガルの触手に爪を立てて強く 握り締め、捻り、更に結ぶ。声にならない声を放ちながら暴れ、苦しみながら、エレシュキガルはどろりと溶けて 赤い血溜まりと化した。不定形な液体となったシャンブロウはぬるぬると廊下の隅を這っていき、窓の隙間から外へと 脱していった。愛歌はどうしたのだ、と狭間が振り返ると、赤い液体まみれの愛歌は仰向けに倒れていた。

「死にそぉ……あいつに色々吸い取られた……」

「あ、そうか」

 エレシュキガルが狭間を捕食しなかったのは、愛歌を捕食していたからだったのか。あれだけ触手の本数が多い のであれば、一度に複数の人間を捕食出来そうなものだが、愛歌の前に少女を捕食していたようなので、狭間まで は食べなくてもいいと考えたのかもしれない。愛歌は俯せに転がると、半泣きになる。

「うぅ、上から、下からぁ、ぐちゃぐちゃって、ぬっちゃぬちゃってぇ……ひぃいいん……」

「お嫁には行けますか」

「それは意地で死守したけどぉ、狭間君、毎日、こんな目に遭っているの?」

「下までいじられたことはないですけど、上の方はいつもあんな感じですね」

「よく表に出られるわねぇ……」

 憔悴しきった愛歌のぼやきに、狭間は何も言えなかった。これは自分に課せられた運命なのだと諦め、開き直り、 受け入れたからこそ堂々としていられるのであって、ツブラに捕食され始めたばかりの頃は海底に沈みかねない ほど悩み抜いたものである。その結果、触手を喉の突っ込まれるのを日常として享受し、ツブラの好意も感受し、 自分自身の感情も肯定出来た。だが、そういった段階を踏まえずに触手を突っ込まれたら、こうなって当然だ。

「吸血鬼の正体も解ったし、目的も察しが付いたから、あれを野放しにしてはおけないんだけど、ああ、でも、 腰に力が入らない……立ち上がれない……お風呂入りたい……うあああああ……」

 突っ伏して嘆き悲しむ愛歌を、狭間は慰めた。

「学院の職員に事情を説明して、お風呂を貸してもらいますよ。あと、着替えも」

「うん……。お願い……。羽生さんにも連絡して、この粘液、採取してもらって、調べてもらわなきゃ……」

 半死半生の愛歌に懇願され、狭間は宿直室を探そうと食堂を出た。が、背後からツブラにしがみつかれ、触手を 足に巻き付けられた。狭間は膝を折ると、ツブラと向き直り、抱き寄せる。水玉のワンピースは細切れになって いて、辛うじて残っている布切れが触手に絡み付いていた。狭間は胸苦しくなったが、聞くべきことを聞いた。

「ツブラ。イナンナって、なんだ?」

「イナンナ。ツブラ、チガウ。ツブラハ、ツブラ。イナンナ、エレシュキガル、モトモト、オナジモノ。デモ、シンワ ジダイ、フタツ、ワカレタ。イナンナ、チキュウ、キタ。エレシュキガル、コロス、イヤ、ダッタカラ。ダケド、 エレシュキガル、イナンナ、キライ。ズットズット、キライ」

「エレシュキガルは火星にいるのか?」

「カセイ、イル。イナンナ、チキュウ、イル。ダカラ」

「ツブラが光の巨人を倒せることと、イナンナがエレシュキガルと戦っていることに関係があるのか?」

「アル。ダケド……イエナイ。キット、ツブラ、コワガル。マヒト、ツブラ、キライ、ナル」

「ならない。なるわけが、ないんだ」

 泣きじゃくるツブラを強く抱き締め、狭間は己の内心と戦っていた。ツブラ以外のシャンブロウが現れたばかりか、 そのシャンブロウはツブラよりも凶暴で、悪意に満ちていて、ツブラを心底憎んでいた。怪獣電波に含まれていた 感情はあらゆる怪獣から感じたものよりも遥かにどす黒く、毒のように精神を蝕んでくる。神話時代の怪獣同士の 争いにまで首を突っ込むつもりか、今度こそ死ぬ、今まででさえ手に負えなかったのに、ただの人間が出しゃばり 過ぎだ、一時の劣情で人生を棒に振る気か、まともに生きろ、と感情という感情が喚いてくる。けれど。

「言える時が来るまで待ってやる。その時が来るまで一緒にいてやる」

 だからいい子にしていてくれ、と狭間はツブラの涙とエレシュキガルの体液に濡れた頬を拭いてやってから、助け を呼びに行くために立ち上がった。あまり放っておくと愛歌が可哀想だからだ。叫び出したい気持ちを押さえ、明確 にツブラに危害を加えてきた敵に対する怒りを押さえ、怪獣に近い存在が人間を殺したのに光の巨人が現れないという 不可解さへの苛立ちを押さえ、押さえ込み、狭間は闇の中を進んだ。
 光は見えなかった。





 


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