吸血鬼の噂は、聖ジャクリーン学院に限った話ではなかった。 狭間が小暮小次郎から借りたカセットテープを返そうと佐々本モータースを訪れると、佐々本つぐみが嬉々として 吸血鬼の噂を話してくれた。出所が聖ジャクリーン学院であることには変わりはなかったが、小学生の間では話の内容 が少し変化しているようで、血溜まりに黒いマントが落ちていた、ではなく、黒いマントを被った怪人が現れて若い娘 の生き血を啜る、というものになっていた。 「ね? 怖いでしょ?」 若干興奮しながら喋り倒したつぐみに、狭間は苦笑する。 「そういうつぐみちゃんは怖くないのか?」 「噂話の化け物よりも貧乏が怖いです」 潮が引くように興奮が収まり、つぐみは遠い目をした。 「光の巨人が頻発しているからってのもあるけど、この間のゴリラ風邪でゴリラ化した人達が車を山ほどスクラップ にしちゃったから、直せるものも直せなくて……。引き取った車をバラして屑鉄として売ることも出来るんですけど、 そうすると動力怪獣達もバラさなきゃいけなくなるし、車から取り出したら政府に引き渡さなきゃならないし。屑鉄 はまだいいんです、金になるから。でも、政府に怪獣を引き渡しても一円にもならないんですよ」 「その怪獣達を流用して新しく車を組み上げられたら売り物に出来たんですけど、そのために必要な部品を買える ほどの予算が取れなかったんです。社長なら出来たのかもしれませんけど」 工場から事務所に戻ってきた小次郎は、機械油で黒ずんだ手袋を外した。 「で、カセット、どうでした? 僕が編集したやつ」 「いい曲ばっかりだったもんで、レコードを買っちまいそうだ。洋楽も多かったけど、意味解るのか?」 「いやあ、全然。英語なんて解りませんよ。文面で見たら辛うじて読めるかな、という程度で」 「はははは、俺もそんなもんだ。ただの記号にしか見えん」 笑いながらカセットテープを返した狭間に、小次郎は言った。 「ああ、そうだ。さっきの吸血鬼の話なんですけどね、あの噂が始まったのって六月の終わり頃なんです」 「随分前だが、そんな噂があるなんて全然気付かなかったぞ」 「オカルトに傾倒している女学生達の間でだけ、囁かれていたからですよ」 「なんで小次郎はそんなこと知っているのさ」 つぐみが不審げな目を向けると、小次郎はやや気まずげに目を反らす。 「聖ジャクリーン学院の女学生と話した時に、そこで」 「いつ、どこで、誰とだ!」 つぐみはすぐさま立ち上がり、小次郎に詰め寄る。小次郎はその剣幕に気圧され、後退る。 「お客さんの娘さんだよ。野毛町にあるキャバレーのオーナーに、車の調子が悪いから見てくれないかって御自宅 に呼び付けられて、そこで修理をした後に娘さんと話したんだよ。ええと、誰だったかな。そういう注文は結構 多いから……ああ、あったあった」 そう言いつつ小次郎は事務机から帳簿を出し、ページを広げた。 「キャバレー・クイーンビーのオーナーの蜂矢定元さん。で、その娘さんが」 「音々っていうんだろ?」 「あれ、御知り合いですか、狭間さん」 「ヲルドビスの常連だよ。その子と兜谷繭香って子と桑形桐代って子が、三人揃ってよく来るんだ」 音々の父親がキャバレーのオーナーだとは知る由もなかったが。狭間は答えると、小次郎は帳簿を閉じる。 「その音々さんが言うには、学院の女子生徒達がオカルト研究会のようなグループを作っていて、怪しげな呪文と 魔法陣を描いては、その中心で生贄だという名目で虫やトカゲを殺すんだそうです。音々さんは生物部で特に虫が 好きなので、それが許しがたいんだそうで。元々評判は良くなかったグループなんですが、集団ヒステリー騒動の 後に降霊会のような儀式をした後に全員倒れて、それきり登校しなくなったそうです。だから、僕が思うには、 降霊会に関する話に尾ひれが付いて吸血鬼の噂になったんじゃないか、と。虫やトカゲを殺すと当然ながら血が 出ますし、音々さんの話によれば赤い葡萄酒を儀式に使っていたそうですし、その葡萄酒の染みが床に残った のではないか、と。黒いマントは、窓に掛かっている暗幕を見間違えただけなのかもしれない、とも」 「おお、筋が通っている。コジは名探偵だな」 「筋は通っているけど、夢がなくなってしまった」 感心した狭間とは逆に、つぐみは残念がった。 「幽霊の正体見たり枯れ尾花。世の中、そんなもんじゃないでしょうかね。つぐみの言う通り、怖いのは貧乏ですよ。 だから、しっかり働かなければ」 帳簿を引き出しに戻し、小次郎は軍手を填め直しながら工場に戻っていった。 「真面目なのは結構だし、うちの稼ぎ頭で唯一の職人で未来の婿だけど、でも……なんだろう、この物足りなさ」 気晴らしに宿題でもしよう、とつぐみは応接セットのテーブルに勉強道具を広げた。 「ところで、狭間さん、仕事中じゃないんですか? あと、ツブラちゃんが一緒じゃないなんて珍しいですね」 「弟もヲルドビスで働くようになったからシフトが変わって、遅番が空くようになったんだよ。ツブラは、その、 なんか調子が悪そうでさ。今までそんなことはなかったんだけど」 「だったら、こんなところで油売ってないで早く帰ってあげて下さいよ」 ほらほらほら、とつぐみに急かされ、狭間は佐々本モータースから追い出された。調子が悪いと言っても、触手の 繭を作ってじっとしているだけなのだが。適度に水分も狭間の体力も与えているし、呼べば応えるし、体温も高くも なければ低くもないので、それほど心配する必要はない。と、思っているのだが。 段々不安になってきて、結局、駆け足になった。 息を切らして階段を昇り、部屋のドアを開けると。 何が起きているのか理解出来ず、狭間は目を疑った。だが、これは現実なのだと喉と足の痛みが教えてくれる。 しかし、信じがたい光景だった。なぜならば、愛歌がツブラの触手に絡み付かれていたからだ。さすがに口の中に 触手を突っ込まれてはいないようだったが、手足を拘束され、ストッキングを履いた太股には触手が食い込んでいる ので、その肉付きの良さが図らずも強調されている。 「あら、お帰りなさい」 ツブラの触手で体中を戒められているにもかかわらず、愛歌は至って普通に出迎えてくれた。 「な」 「何をしているのかって聞きたい気持ちはよーく解るけど、こうでもしないと検証出来なかったのよ」 「な、なにが」 「その辺についてじっくり話したいから、ドア、閉めてくれる?」 「あ、ああ、はい」 狼狽えながらもドアを閉め、きっちり施錠し、狭間は靴を脱いで上がった。愛歌に絡まっていた触手がするすると 解けると、小さく座り込んでいるツブラの姿が現れた。人間にとっては肌触りが良い、水玉模様の木綿のワンピース を着ていた。ツブラと再会してすぐに買ってやったものだが、どうしても着ようとしないのでタンスの肥やしになって いたものだ。外出する時以外は決して服を着ようとしなかったのに、なぜ。 「マヒト、コレ」 ツブラは白地に赤い水玉のワンピースの下に触手を戻して巻き付けると、裾を押さえた。 「……ニアウ?」 「うん。なんというか、無難に似合う」 狭間がいい加減な語彙で褒めると、途端にツブラは相好を崩し、小さな体と触手をくねらせた。 「ウニュウ」 「この触手はまだ傷が残っているわね、じゃあ早速試してみましょ!」 そう言うや否や、愛歌はツブラの触手を一本抓み、思い切り引っ張った。当然ながらツブラはつんのめり、その場 にひっくり返った。なんて乱暴なことを、と狭間はツブラを抱き起こしながら文句を言おうとすると、愛歌は手の中 に隠し持っていた赤い肉片を触手の先端にくっつけた。すると、乾涸びていた肉片は瑞々しさを取り戻し――触手と 繋がった。愛歌が手を離すと、触手はうねうねと波打ちながら束に戻っていった。 「羽生さんの仮説の通りね。シャンブロウの触手が伸縮自在なのは、細胞を膨張させられるからであって、再生能力 が異常に高いのもそれに由来している。摂取するものが液体に限られているのは、進化の過程でその機能を高めたが ために内蔵の機能が衰えたか内臓そのものが小さくなった可能性が高い、って心底楽しそうに語ってくれたけど、 この分だと大体合っているみたいね。傷口に分離した触手をくっつけるとすぐに繋がるのは、まあ、プラナリア みたいなものだってことなのかしら。その辺は鮫淵さんに聞いてみましょ」 「愛歌さん、さっきの肉の欠片みたいなものって」 やたらと甘えてくるツブラをあしらいつつ、狭間が訊ねると、愛歌は眉根を寄せた。 「この二三ヶ月、中華街で出回っているものよ。何千年も前から、中国人の間では昔から怪獣の血肉は妙薬として 珍重されていて、始皇帝が探し求めていた不老不死の薬も神話時代の怪獣が材料だったって話だもの。もっとも、その 不老不死の薬は完成しなかったんだけどね、材料になる怪獣が存在していなかったから。材料は説明するまでも ないだろうけど、ツブラちゃんの触手ね。集団ヒステリー騒動、というか、カムロと麻里子ちゃんが暴れた時に 切られた触手を中国人や浮浪者が掻き集めていったのね。裏社会だと高値で取引されるから。それを渾沌が買い 取って、渾沌が加工して、売り捌いていた。結果として、それが吸血鬼の噂の切っ掛けになったのよ」 「つまり、どういうことですか?」 「狭間君がまこちゃんから又聞きした話には、それまでの聞き込みには出てこなかった情報がいくつかあったんだ けど、中でも妙だったのが血溜まりのこと。血溜まりっていうからには、広い範囲にぶちまけられているはずでしょ? そんなものがあったら、用務員か教員が拭くだろうし、拭いたからには汚れた雑巾があるはずだし、学院側が警察に 相談しているなら、訳の解らない血が染み込んだ雑巾は警察に提出されるはずよ。でも、警察にはそれらしい 証拠品は提出されていなかった。黒いマントの件は生徒達の事情聴取で暗幕を見間違えただけだっていう結論が 出たけど、血溜まりのことを知っているのは聖ジャクリーン学院のオカルト研究会の生徒達しかいなかったの。 貧血で倒れたのもその子達だけで、閉め切った部屋で降霊会をしている最中に御香をいくつも焚いていたから、 酸欠気味になっちゃったらしいのよ。そして、その降霊会で悪魔に捧げる供物として使われていたのが、中華街 で出回っている怪獣の肉片だったの。子供でも、お金さえあれば買えないわけじゃないしね」 「それじゃあ、それがツブラの……」 背筋が冷たくなり、狭間はツブラを力一杯抱き締めた。 「更に言えば、その子達はとっくに転校していたもんだから、転校先まで追いかけてその時のことを聞き出すのに かなり苦労させられたわよ。だから、その子達は吸血鬼の噂が広まっているのなんて知らなかったし、噂の内容を 教えると、皆、驚いていたわ。オカルト研究会が降霊会で呼び出そうとしていたのは吸血鬼じゃなくて、旅行先で 光の巨人に消されてしまった同級生の霊なんだもの」 愛歌は神妙な顔で、聖ジャクリーン学院の方角を見据えた。 「でも、真琴が聞いた話だと、貧血を起こす寮生が多いって」 「年頃の女の子だもの、貧血の一つや二つ起こすわよ。体がまだ出来上がっていないのに、毎月のように出るもの は出ちゃうんだから。増して、変な噂が流れていたんじゃ不安になって、繊細な子だったら影響を受けすぎて具合が 悪くなってもなんらおかしくないわ。小中学校だと、吸血鬼と貧血はセットになっていないもの。けれど、黒いマント はセットになっている。それもまた正体は暗幕かと思ったけど、怪人が現れる、ってのが引っかかるのよ。子供達の 間には、実際に怪人を見たって子もいたのもね。ただの思い込みだと言って切り捨てるのは早計だし、怪獣Gメンが 捨て去るべきなのは先入観なのよ。シャンブロウもそうだけど、この世には正体がはっきりしていない怪獣が山ほど いるから、固定観念に囚われていると重大事件を見過ごしてしまうから。だから、きっと怪人はいるのよ。吸血鬼も 実在しているのよ。でもって、その正体は怪獣なのよ」 「てぇことは、つまり」 「付き合いなさい、残業に」 愛歌はにいっと口角を上げると、狭間の襟首を掴んで引き摺った。抱えているツブラも引き摺られた。この人は いつだってそうだ、と狭間は内心でぼやきながらも、従った。ツブラの触手が悪用されているとなると黙っている わけにはいかない。狭間自身が成せることは限られていてもだ。 その吸血鬼とやらを懲らしめなければ。 14 9/25 |