聖ジャクリーン学院。 それが、真琴の転校先だった。光の巨人の被災者救済措置を行う政府機関から勧められた高校は他にもあった のだが、引っ越し後もなんだかんだで忙しかったために手続きに行けず、そうこうしている間に他の高校の転入枠 が埋まってしまったからである。聖ジャクリーン学院は女子校なのになぜ男子を受け入れるのだ、と疑問を抱いた 狭間が政府機関の担当者に訊ねると、こんな答えが返ってきた。 光の巨人が立て続けに横浜に現れたことと先日の集団ヒステリー騒動で保護者が聖ジャクリーン学院に我が子 を在籍させておくのが不安になり、他の名門校に転校させたせいで定員割れを起こしているそうだ。更に、古くから の伝統を守り続けていたと言えば聞こえはいいが、守りすぎて閉鎖的になってしまっているので、いっそのこと男女 共学にして校風を一新しよう、と男子の転校生を受け入れることにしたのだそうだ。 「納得出来るようで出来ないような……」 古代喫茶・ヲルドビスに出勤した狭間は、新学期を迎えた二人と対面した。聖ジャクリーン学院の制服姿の麻里子 と、一ヶ谷市立高校の制服を着ている弟の真琴だ。 「男女比は一対九ですね。男子の編入生は四〇人ほどで、転校などで在校生の数は五〇〇人弱から四〇〇人程 になりましたので。共学化すると聞いた時は驚きましたが、悪いことではありませんね」 麻里子が微笑むと、真琴は気まずげに白いワイシャツの襟を整えた。冬服は学ランだが、夏服は白いワイシャツ と黒のスラックスだ。聖ジャクリーン学院の男子の制服がまだ出来上がっていないので、ワイシャツの襟元に校章 の付いたピンバッジを留めている。 「あの、麻里子さん」 「はい、なんでしょう?」 にこやかな麻里子に、真琴はやや臆しながら尋ねた。 「本当に、俺と一緒に登校するんですか?」 「同い年なのですから、敬語はお控え下さい。私が誰に対しても敬語を使うのはただの習慣ですけど、真琴さんは そうではありませんでしょう? 仕事場では先輩かもしれませんが、私の先輩である狭間さんの弟さんともなれば、 他人ではありませんから。ねえ、狭間さん?」 麻里子が意味深に口角を上げると、ショートカットの黒髪の中でカムロがにやつく。 〈見たところこのガキは人の子とは違って変な力はなさそうだが、利用価値は高そうだ〉 カムロの物騒な物言いに、狭間は言い返した。 「ちょっかい出すなよ」 「あらまあ、狭間さんは心配性ですね。真琴さんが学校生活に慣れるまで、私が助力いたしますのに」 「そうは言うが、麻里子さんは少し前まで不良だったじゃないか」 「あれはもう昔の話です。今では心を入れ替えましたので、出席日数も充分過ぎるほどです」 ほほほほほほほほ、と御嬢様然と高笑いする麻里子を、狭間は苦々しく思った。実の父親と血みどろで戦った末に 殺されかけたのはほんの二ヶ月前の話じゃないか、と言いたくなったが、真琴を無用に怯えさせては今後の生活に 支障を来すので黙っておいた。麻里子と九頭竜会は切っても切れない関係であることは事前に説明しておいたが、 あらゆる意味で手練れの麻里子に掛かれば、真琴など手のひらで転がされてしまう。段々不安になってきて、 登校するなと言いたくなったが、そんなことを言えるはずもなかった。 幼馴染のように連れ添って登校する麻里子と真琴を見送ってから、狭間は盛大にため息を吐いた。真琴も不安に 駆られているだろうに、兄で保護者の自分までもが不安になってどうする。ここはしっかり支えてやるのが勤め ではないか。だが、あの麻里子に何かされたら、麻里子でなくてもカムロが毒針を差しでもしたら。 「狭間君」 「はい……」 店主の海老塚甲治に声を掛けられ、狭間は力なく応じた。心配しすぎて気疲れしていたからだ。 「真琴君は感じの良い少年ですね」 「そうですかね」 狭間からすれば、生意気盛りで愛想がない上に知識と経験が伴っていない子供なのだが。だがそれが可愛い。 「店の仕事も早く覚えようと頑張ってくれていますし、麻里子さんとも話が合うようですよ。お二人は読書の趣味が 似ているようでして、夜遅くまで話し込んでおられました。確かに麻里子さんは込み入った事情を背負った方ですが、 真琴君を無下にするようなことはないでしょう。不躾ながら、お二人の会話を横から聞いてしまったのですが、麻里子 さんはそれはそれは楽しそうでした。年相応の女の子になっておられました」 眩しげに目を細めた海老塚は、二人の学生の後姿を見つめた。 「狭間君が不安に思う気持ちは解りますが、ここはじっくり見守ってやるべきではないでしょうか」 「そう、ですよねぇ」 海老塚の視線を辿った狭間は、緩やかな坂道を登っていく二人の背中を見つめていたが、次第に小さくなって路地 を曲がり、見えなくなった。さあ今日も存分に働きましょう、と海老塚に肩を叩かれ、狭間は店に戻った。すると、 バックヤードで大人しくしていたツブラに飛びつかれたので、狭間は仕事着が乱れない程度にツブラを構った。 一緒に暮らしていた時はなんとも思っていなかったのに、両親と実家と故郷を失ったからだろう、弟に対してやけに 執心するようになってしまった。それは決して悪いことではないが、歯止めを掛けなければ。真琴もその節がない わけではないらしく、昨日の仕事中に何度も目が合った。これまで真琴に甘えられたことなど数えるほどだったので、 なんだか変な気分になった。だから、それを紛らわすためにツブラを構った。 思い切り、可愛がってやった。 その日の昼。 古代喫茶・ヲルドビスにやってきた愛歌はいつものようにナポリタンを注文して、綺麗に食べ終えてから、追加で コーヒーとビーネンシュティッヒという名のケーキを注文した。上部に香ばしいアーモンドとキャラメルの層があり、 ハチミツとバターの効いたカスタードクリームがパンに似た柔らかい生地に挟まれている、ドイツのケーキだ。その ビーネンシュティッヒを食べ終えてから、愛歌は狭間を手招きした。御冷を寄越せ、というわけではないだろう。 「御用でしょうか」 狭間が仕事用の態度で接すると、愛歌は空になったケーキ皿とコーヒーカップを重ね、狭間に渡した。 「まこちゃんが帰ってきたら、聖ジャクリーン学院に変な噂がないかどうかを聞いてみてくれない?」 「愛歌さんが聞けばいいでしょう、そんなこと」 「私が聞くと、まこちゃんは挙動不審になっちゃうのよ」 「あー……そうでしたね」 どういうわけだか愛歌に一目惚れした真琴は、愛歌と接するたびに慣れない感情の嵐に振り回されている。愛歌が ヲルドビスに来ている時も、用事があるからと狭間がフォートレス大神に呼び付けた時も、愛歌の顔すらもまともに 見られずに俯いてしまう。口数は少なめだが物事ははっきり言う性分なのに、愛歌が相手だと口籠ってしまう。それが 微笑ましいやら可笑しいやらなのだが、からかわずに静観している。弟の成長の一端だからだ。 「また面倒事ですか」 「事と次第によっては手伝ってね、狭間君」 「事と次第にですよ」 狭間は念を押してから、愛歌が食べ終えた皿を持って厨房に戻った。ランチタイムが一段落したので、洗い場には 汚れた皿が山と積まれていた。夏休みの間は麻里子がフルタイムで働いてくれていたので、皿洗いのタイミングも 上手く計れていたのだが、今は狭間だけなのでそうもいかない。汚れた皿とコーヒーカップを洗剤入り水に浸し、 皿洗い用のエプロンを付けて腕捲りをしていると、ツブラが寄ってきた。 「こらこら」 狭間はツブラを抱き上げて定位置のテーブルに戻そうとするが、ツブラは嫌がった。 「ヤーン」 「さすがにかぐや姫の絵本は読み飽きたのか? じゃあ、今度本屋で面白そうなのを」 「ツブラ、オテツダイ、スルゥ」 「お前には無理だろ、高さも足りないし、ちっこいんだから」 「デモ、ツブラ、オシゴト」 「良い子にしていろ。紙芝居を見に行ってもいいから、十円玉やるから」 「ヤダ。オテツダイ、スル」 狭間の腕の中でしゅんとしたツブラが俯くと、触手も弛緩し、黄色いレインコートの下から垂れ下がってきた。それを 慌てて掬い上げて元に戻してやると、ツブラは小さな唇をへの字に曲げてむくれた。 「コノマエ、オフロ、ツブラ、ナニモ」 「銭湯のことか? そんなこと、責任を感じるほどのことじゃない」 「デモ、マコト、マヒト、オテツダイ、シテル」 「真琴がヲルドビスで仕事をするのは家賃を支払う代わりなんだし、あいつは図体が大きいし器用だから、大抵のことは 出来る。だが、ツブラは」 「ヤダ。ツブラ、マヒト、オヨメサン」 つんと拗ねたツブラは唇を尖らせ、顔を背けた。そういうつもりで言っていたのか、と狭間は悟った瞬間に猛烈な 照れ臭さに襲われ、変な笑いが浮かんできた。いやまあ俺はそんな感じの意味であんなことを言ったわけだけど、 でもそれはそれであってツブラは子供なのであって、と悶々としてしまったが、ツブラのやる気を削いでしまう のは勿体ないし、機嫌を損ねると後が大変だ。なので狭間は厨房にいる海老塚に、ツブラに皿洗いの仕事を手伝わせて やってもいいかと聞くと、無理のない範囲でお願いします、と許可してくれた。どこまでも寛大である。 それから、狭間は洗い場に椅子を運んできてその上にツブラを立たせ、皿のすすぎを任せた。皿の汚れを取るのは 簡単そうでいて気を遣う仕事だし、洗剤で手が滑って皿やカップを割ったら大事だし、仕上げの乾拭きもきっちりと やらなければ水滴が乾いて痕が付いてしまうからだ。狭間と同じ目線に立ったツブラは、外から見えないように上手く 隠して触手を使いながら、狭間から渡された皿をすすいで水切りカゴに積み重ねていった。狭間の洗剤に濡れた手と ツブラの水に濡れた触手が触れそうになると、ぎくりとして互いに一瞬動きを止めてしまった。 毎日粘膜と触手を接しているのに、こんなことで戸惑ってどうする。胸の辺りが疼き、居心地が悪くなるほどの やりづらさに見舞われ、狭間は喉から漏れそうになる声を押さえた。どれだけ入れ込んでいるのだ、怪獣に。 我ながら、呆れてしまう。 愛歌の頼み事を果たせたのは、真琴が転校してから一週間後だった。 初めての転校で、増してそれが女子校とあっては、慣れるだけで一杯一杯になってしまう。だから、真琴は帰って くるなり寝入ってしまい、店の仕事も満足に出来ずじまいだった。麻里子は校内では真琴とは付かず離れずの距離 を保ってくれているようで、真琴が転入組の男子生徒達ともそれなりに上手くやれているようだと報告してくれた。 そんな状態の弟に噂話がどうのこうのと聞いたら、答えてくれるどころか怒らせるだけなので、狭間もまた真琴とは 一定の距離を保って接していた。 そんな真琴が学校にも仕事にも馴染んできた頃合いを見計らい、休憩時間にそれとなく聞いてみた。真琴は狭間 よりも骨格は細めで手足が長いので、ウェイター服が良く似合っている。賄いのジャーマンポテトのサンドイッチ を黙々と食べていたが、しばらく考え込んでから、口の端に付いたパン屑を拭った。 「あー、あれかな」 「心当たりがあるのか?」 同じものを食べつつ、狭間が聞き返すと、真琴は紅茶で喉を潤した。 「なんでも、学校に吸血鬼が出るんだそうだよ」 「吸血鬼ぃ? 全身から刃物を生やした包帯女じゃなくて?」 「何それ、そっちの方が遥かに怖いよ」 「で、具体的にはどういう噂なんだ?」 「包帯女の方が気になるけど、まあいいや。聖ジャクリーン学院は寮があるんだけど、寮生が貧血で倒れることが 増えたんだそうだよ。女性は元から貧血を起こしやすいけど、一日に十人も倒れるのはさすがに妙だから、寮の中 を調べてみたら血溜まりがあって、その血溜まりの傍には黒いマントがあったんだそうだ」 「それ、誰かがケガしただけなんじゃないのか?」 「俺もそう思って話を聞き直してみたんだけど、血溜まりが出来るほど大きなケガをした寮生も職員もいなかった んだそうだよ。その黒いマントも出所が解らないらしくて、警察に一通り調べてもらったけど、侵入者がいた形跡もない そうで。変な話だけど、血と黒いマントで吸血鬼に直結するのはあまりにも安直じゃないかな」 「他には何かないのか」 「集団ヒステリーのことは御法度みたいで、そのことは口にするなとシスターから硬く口止めされたよ。知りたいような 気がしないでもないけど、下手に引っ掻き回したらよくないんで聞かないけどさ。なんだよ、しつこいな」 真琴が鬱陶しげに目を逸らしたので、狭間は口を閉ざした。愛歌が知りたがっていたのはこの話だったようだが、 学校の怪談としてはありがちなので、怪獣Gメンが捜査するほどの事件ではないのでは。そうは思ったが、愛歌との 約束を齟齬にするとひどい目に遭うとゴリラ風邪の際に身に染みているので、帰宅後に報告した。愛歌は酒を飲み ながら又聞きの噂話に耳を傾けていたが、急に身を乗り出してきた。 何か、手掛かりがあったらしい。 14 9/23 |