床が傾いていると、恐ろしく歩きづらい。 頭では平坦なものだと認識しているのに足の裏から膝に掛けて伝わってくる感触は坂なので、バランスを取るだけ でも一苦労だ。左側が低くなっていて、右側が高くなっているので、重力に従って左側に落下した物が溜まっていた。 ケロリンの黄色い風呂桶にプラスチック製の風呂椅子が雪崩落ちていて、浴槽から溢れた湯もまた溜まっていて、その 中に二人の男も沈んでいた。だが、どちらも恐ろしくタフな上に順応性が高いのか、斜めになっていても尚プロレスを 続行していた。実力が拮抗しているのだろう。 無防備な下半身を気にしつつ、狭間は洗い場の右側――つまり、足掛かりがある場所を選んで進んでいったが、 途中でシャワーやカランに足を引っ掛けて転びそうになった。ただ転ぶだけでも痛い目に遭うのに、滑り落ちでも したら這い上がるのが一苦労だ。洗い場の縁を掴んで転倒を免れると、狭間は足に引っ掛かったシャワーのホースを 振り解いてから、浴槽の向こう側にあるボイラー室を望んだ。 「ううむ」 普段はあまり感じなかったが、斜めになると、浴槽と洗い場が離れていることに気付かされた。浴槽に届けば、 その奥にあるボイラー室のドアに行けるのだが、その浴槽までは五メートル近い距離がある。須磨湯は広い浴槽と 広い風呂場が売りであり、狭間もその解放感が好きで須磨湯を頻繁に利用していたのだが、こういう場合は不便だ。 もっとも、二度三度とこんな事態に陥るとは思えないが。 「無理してボイラー室まで行かなくてもいいか」 どうせ、ボイラー怪獣の声はここまで聞こえてくるのだから。狭間は洗い場に腰掛け、話しかける。 「おい、聞こえているんだろ。単刀直入に聞くが、なんでこんなことをした?」 〈僕の方こそ、人の子に聞きたいな。どうして横浜に戻ってきたの?〉 幼い印象を受ける声を発したボイラー怪獣は、配管を唸らせる。 「そりゃ、船島集落にはいられなくなったからに決まっているだろ」 ボイラー怪獣が狭間の身に起きた出来事を知っていることには、何の疑問もない。怪獣同士は、常に怪獣電波で 情報交換を行っているからだ。だから、ムラクモの蛮行も、それによって生まれた数多の被害についても、全ての 怪獣が知っているだろう。知らないわけがない。 〈人の子は、自分の行く先々で光の巨人が現れているってことを自覚していないの?〉 「何を言うかと思えば」 〈開き直らないでよ。だってそうでしょ、光の巨人が横浜に集中して現れるようになったのは、人の子が横浜に 来てからなんだ。それまでは滅多に現れなかったのに、この数ヶ月で何回、何十体、出てきたと思うの?〉 「あれと俺の行動に因果関係があると言いたいわけだな」 〈ないわけがないでしょ、どう考えても〉 「だから、これ以上の被害を出さないために俺を地下に閉じ込めたと? ニギハヤヒとミドラーシュと同じだな」 〈彼らは失敗してしまったけど、僕は失敗しないよ。地中なら怪獣電波の伝達も鈍るし、光の巨人に見つかりづらく なるからね。そうすれば、世の中はもっと穏やかになるんだ〉 「そりゃどうだかなぁ」 狭間が訝ると、ボイラー怪獣は蒸気を噴出させたのか、ドアの隙間から白い湯気が漏れた。 〈大丈夫だって! ほら、こんなに水が一杯あるでしょ? 人間は水を飲んでいれば生き延びられるんでしょ?〉 「水だけじゃなあ」 〈食べ物ならあるでしょ、ほら、いくつも〉 「何のことだよ」 〈今はどれもこれも動いているけど、頃合いを見計らって僕が処理しやすくしておくからさ〉 「ちょっと待て、待て、お前は何を言っている!?」 〈え? 人の子こそ、何を言っているの? 人間って肉を食べるんでしょ?〉 「喰うには喰うが、人間が人間を喰うもんか! 俺は絶対に喰わんし、喰えん!」 〈人の子は成体なのに、好き嫌いが多いんだね〉 「好きとか嫌いとかそういう問題じゃない、人間としての問題だ」 ボイラー怪獣の考えの浅さと人間に対する知識の薄さに、狭間は呆れた。だが、ボイラー怪獣がおぞましい 気遣いを実行に移す前に知れて、本当に良かった。取り返しのつかない事態になっていたかもしれないのだから。 〈でも、銭湯に入りに来る男の人はよく女の人を食べる食べないって話をしているけど〉 「そりゃ意味が違うんだ、意味が。捕食するって意味じゃなくて、比喩だ」 〈あ、そうなんだ! 僕はてっきり、人間は同種族同士で狩りをして捕食しているものだとばっかり〉 「解ればそれでいいんだ」 〈だったら、人の子も解ってよ。シャンブロウが光の巨人に立ち向かえなくなってしまったのなら、光の巨人 を倒す手立てがないのなら、世界を守るには光の巨人を招き入れないようにするしかないってことを。光の巨人 が執着しているのは光の巨人だってことを。ねえ、解ってくれよ〉 「じゃあ聞くが、今、俺が光の巨人に消されたら、光の巨人が二度と現われないって保証出来るか?」 〈そりゃあ……〉 「俺が横浜に来る前から、もっと言えば俺がこの世に生まれる前から、光の巨人は出現していたんだろ? だと したら、俺が人間として形になる以前の光の巨人は何を狙っていたんだ?」 〈それは、人の子と同じような力を持つ人間で〉 「だとしたら、真っ先に狙われるはずの怪獣使いに被害が出ていないのはどうしてだ? 俺が知る限り、怪獣使い は怪獣を操っている最中に光の巨人に襲われたことは一度もないし、怪獣使いの本家も分家も消し去られていない じゃないか。俺が知らないだけで、怪獣の声が聞こえる人間は他にもいるかもしれないし、いない方がおかしいと 思うがな。何せ、地球上には四十億人もいるんだからな」 〈屁理屈だあ!〉 「その屁理屈もひっくり返せないようなら、下らないケンカを吹っかけてくるなよ」 〈だって……だって……どうにかしたいんだよ。このままだと、いつか横浜は全部消失してしまうよ。横浜だけ じゃない、東京も、関東も、ともすれば日本全土が消えてしまうよ。だったら、全部消える前にどうにかしたいって 思うのは当たり前じゃないか〉 「俺だってそう思う。どうにかしたいって思うから、横浜に戻ってきたんじゃないか」 〈だったら、何か手立てがあるの? 光の巨人を追い払えるような作戦があるの?〉 「とりあえず、みっちり働いて真琴を大学に進学させる」 〈ええ? そんなの、人の子の事情じゃないか。怪獣とも光の巨人とも関係ないよ!〉 「そりゃそうだ、俺の人生なんだから。他人の行動にあれこれ指図して、思い通りに動かなかったら文句を言うのは 最悪の中の最悪だぞ。そんなことも知らないのか、ボイラーは。それが解ったら、黙れ。銭湯を元に戻せ。いい加減に 湯冷めしそうなんだよ、色々あって疲れているからちょっとしたことで風邪を引きそうで嫌なんだよ」 なんて不毛な言い争いだ。狭間は苛立ち紛れに吐き捨て、湯も汗も乾いた二の腕をさすった。 「そおだあっ!」 突如、雄叫びと共に左下に溜まっていた湯が爆発し、鳳凰仮面が仁王立ちした。 「狭間君が誰と喋っているのかはイマイチ解らんが狭間君が因縁を付けられて絡まれているのはなんとなく解ったっ! 鳳凰仮面も正義の味方ではあるが、鳳凰仮面の正義が通用するのは、この両の拳が届く範囲のみ! 世界 を救えと言われれば喜んで救いに戦いに行くが、それは嫁さんに怒られない程度にだっ! 一度みっちり叱られて 懲りたのだ、さすがにっ!」 「何がなんだかよく解らねぇけど、バイト坊主に喰われるのは嫌だな。俺の尻はサバンナにくれてやったしな」 左下に溜まっている湯に浸かりながら、寺崎がへらっと笑う。 「シニスターを通じて事の流れは感覚的に掴めたが、だからどうしたとしか言いようがないな。そのつまらない 与太話のせいで、俺はともかくとして御名斗の自由が奪われたとあっては、それ相応の報復をしなければ」 シニスターの瞳から出した赤い鞭を軽く振りながら、須藤がボイラー室を見る。 「バイト君が光の巨人に狙われるぅー? うっわぁー、すっごーい。俺、ちょっと感動しちゃーう。俺だって色んな奴 に命を狙われてはいるけど、そこまでごっつい相手に狙われたことないもん。でも、狙われたからって素直に殺される ようなタマじゃないもん、俺もバイト君も。人間を庇護すべき対象だと思い込み過ぎだよねー」 にやにやした御名斗は、ハンドバッグの中から二挺の怪銃を抜いて構える。 「なー、スマッキー。このボイラー怪獣、ダメにしちまってもいいか? 新しいの、手配してやるからさ」 床に這いつくばって出入り口に近付いた寺崎がボイラーを指すと、須磨は何度も頷く。 「また上に上がれるのであれば、なんだっていいですやぁ」 「相手が怪獣だろうがなんだろうが、因縁つけられたらきっちり返すのが極道ってもんだ」 暴力という欲望を得た寺崎の凶暴な笑みに、逆らえるはずもなかった。狭間が身を引くと、それと入れ替わる形で シニスターの力を用いて須藤がボイラー室に飛び込み、御名斗がげらげら笑いながら飛び跳ねて、ボイラー室の中 へと消えた。二人が暴れるたびにボイラー怪獣の悲鳴が上がり、銭湯全体が揺れ、軋み、傾斜が戻っていった。 そして、床が平行になると、寺崎も喜び勇んでボイラー室に駆け込んでいった。怪獣義肢も怪銃も持たない彼が 怪獣と渡り合えるのだろうか、と狭間は訝ったが、程なくして聞こえてきたボイラー怪獣の悲鳴の凄まじさで疑念は 一瞬で吹っ飛んだ。鳳凰仮面は手足の関節を解しながら戻ってきたが、そっと狭間に耳打ちした。 「帰るのなら今のうちだぞ、狭間君。窓の外の様子からして、元の位置に浮かび上がったようだしな」 「元よりそのつもりですよ」 これ以上三人に関わっていたら、ろくなことにならない。狭間は体と髪を拭いてから帰り支度を始めると、真琴 が我に返り、いそいそと服を着始めた。訳の解らない展開の連続で、全裸だったことを忘れかけていたらしい。 「狭間君。鳳凰仮面は造船所での一件で古くからの友人を失ってしまったが、だからといって、君が話していた相手 のように君を蔑みはしない。万が一、狭間君と光の巨人に何らかの関わりがあったとしても、光の巨人が出現する のは光の巨人の都合であって、狭間君のせいではない。鳳凰仮面は正義の味方だ、故に狭間君を信じている。君が 言っていたように、今までも、これからもだ」 「あ……どうも」 鳳凰仮面の真っ直ぐな善意が満ちた言葉に、狭間は少し感動しかけたが、彼が全裸なので感動しきれなかった。 筋肉の厚い胸を張っているから股間の一物が強調されているので、余計に可笑しい。黄色い手拭いとぼやけかけた サングラスを直してから、鳳凰仮面は真琴に手を差し伸べる。 「まこちゃん! 君も大変だろうが、鳳凰仮面は君の味方でもある! 困ったことがあれば、いつでもどこでも 全力で助けようではないか! それが鳳凰仮面だからだっ!」 「いえ、ですから俺は」 まこちゃんとは呼ばないで下さい、と真琴は言いかけたが、鳳凰仮面は真琴の手をしっかりと握った。 「君もまた、己の魂が求めるままに生きるといい! 鳳凰仮面との約束だっ!」 などと叫びながら、鳳凰仮面は真琴の手を力一杯握り締めてきたので、真琴はその痛みから逃れるために同意した。 鳳凰仮面は満足げに何度も頷いてから真琴の手を離すと、そろそろ帰らねば、とロッカーを開けて鳳凰仮面の 衣装を着込み始めた。どうやら、正義の味方として暴れている最中に風呂に入りに来たらしい。 土が入り込んでしまった下駄箱から靴を取り出して土を払い、同じく土まみれになっている玄関を通ると、夜の 横浜が待ち受けていた。壁掛け時計を見てみると、風呂に入りに来てから二時間以上過ぎていたので、この分では 愛歌もツブラも寝入っているだろう。須磨湯の周りでは、突如埋まったかと思ったら再浮上した銭湯を囲んで人々 がざわついていたが、問い詰められる前に摺り抜けて逃げた。真琴もそれに倣った。 フォートレス大神への帰路を辿りながら、狭間は一歩遅れて着いてくる真琴に何度も振り返った。思い詰めたように 目を伏せていて、兄を直視しようとはしない。無理もない、次から次へと非常識なことが起きたのだから。以前にも 増して弟と会話する機会が減るだろうが、それもまた仕方ない。そう思いつつ、狭間は生乾きの髪に少しでも風を 通そうと掻き上げていると、真琴の足音が止まった。 「兄貴」 「言いたいことは色々あるだろうが、さっき言った通りだ」 「俺を大学に通わせるっていうのが?」 「葬式なり何なりで財産は大分減っちまったから、それを切り崩すのもなんだしな」 「それが、どうにかするってことか? 筋違いだ、俺の人生がどうにかなったってなんにもならない」 「なれるさ。真琴なら、俺が出来ないことが出来る」 思春期で扱いづらくなってしまったが、趣味が合わないから話も合わないが、それでも弟が可愛いからだ。図体 ばかり大きくなって、生意気な口を叩くようになって、知識ばかりが増えて経験が伴っていないから頭でっかちに なっているとしても、可愛いものは可愛いからだ。だが、それを明言するのはさすがに照れ臭い。 両親の代わりにはなれないだろうし、真琴が高校を卒業するまでに大学進学に必要な資金を稼ぐのは並大抵の ことではないが、そうしたくてたまらない。真琴は狭間からもう一歩距離を開けてから、呟いた。 「兄貴は馬鹿だろ」 「悪いか」 他に何が出来るものか。狭間は弟との間隔を狭め過ぎないように気を付けつつ、歩調を緩めた。近付き過ぎたら、 真琴は遠ざかってしまうからだ。タバコを一本吸うと、いやに喉に染みた。風邪の引き始めかもしれないので、今夜 は早く寝なければ。そして、明日からは新しく仕事を探さなければ。古代喫茶・ヲルドビスの稼ぎだけでは真琴の 学費までは賄えない。何の気なしに弟にタバコを差し出すと、真琴はそれを受け取ってくれた。 それから、弟は盛大に噎せた。 14 9/20 |