横濱怪獣哀歌




仁義アル銭湯



 湯気の漂う風呂場に似つかわしくない殺気が、二人の男の間に張り詰める。
 先に掴み掛ったのは寺崎だったが、鳳凰仮面は素早く足を繰り出して寺崎の足を払い、よろけさせた。そのまま タイルの床に押さえ込み、絞め技に持ち込む。かと思われたが、寺崎も手練れである。絞められる前に鳳凰仮面の 肘を床に激突させて技を外し、鳳凰仮面にヘッドバットを喰らわせた。痛みと打撃で鳳凰仮面は僅かによろめくと、 寺崎の拳が腹筋が逞しい下腹部に深くめり込んだ。続いて逆水平チョップ、更にチョップ、チョップ、ラストは豪快な ラリアット。だが、鳳凰仮面は抗わずに全て受け切り、喉に叩き込まれた寺崎の腕を軸にして回転した。

「うぬおっ!」

 ラリアットを喰らった際に背中から倒れ込む瞬間に、強烈な延髄切りを放った。まさかその態勢で反撃されるとは 思ってもいなかったのだろう、寺崎が目を丸めた直後に鳳凰仮面の足先が首に叩き込まれた。鳳凰仮面は後頭部を 硬い床に打ち付けないためにブリッジの体勢になり、衝撃を受け流してから立ち上がり、前のめりに倒れた寺崎を 仰向けに寝かせてから、寺崎の足に己の足を絡めて足4の字固めに持ち込んだ。

「ぬあああああああああ!」

 足の関節を極められ、寺崎はたまらずに声を上げる。

「ふはははははははっ、どうだ、どおだぁっ! 早くタップした方が身のためだ、ここはロープがないからなっ!」

 あ、そうれっ、と寺崎の足首の関節も捻りながら、鳳凰仮面は勝ち誇る。

「4の字なんかになぁっ……落とされてたまるかってんだよぉ……!」

 脂汗を垂らしながら這いずった寺崎は呻くが、鳳凰仮面の足は全く緩まない。それどころか、より強く締める。

「立ち姿からして、お前には多少の心得があると見たっ! だぁがしかしっ、外し方を知らなければどうにでも なるというものだっ! 関節技はいいぞ、どんな相手にも通用するのだからなっ!」

「ぐげえええええええええ」

「ほうれ、ほうれ、タップしろぉっ! でなければ参ったと言え、参ったと! でないと外さんぞー?」

「ぎょおああああああああ」

「参ったと言え、そして前言撤回しろっ! でないと、この態勢でタマでもなんでも潰すぞ? んー?」

 心底楽しそうにとんでもないことを口走る鳳凰仮面に、野々村さんも変人だな、と狭間は解り切ったことを悟った。 そっと真琴を窺うと、渋い顔をしていた。銭湯で唐突に始まった野良プロレスを理解しがたいという顔であり、裸で 取っ組み合う男達に対してどんな表情をすればいいのか解らない、とも言いたげだった。狭間も同上である。
 鳳凰仮面の暴力的極まりない善意をありがたく受け取り、この隙に風呂から上がるとしよう。この空間から逃げる には、それしかない。真琴を小突いてから出入り口の引き戸を指すと、真琴は兄の意図を察してくれたのか、腹の底 からため息を吐いて立ち上がった。髪も体も洗い終えているので、今、風呂から出たところで特に不都合はない。 洗い場に置きっぱなしにしていた石鹸とタオルを回収し、風呂桶に入れて引き戸を開けると――――

〈行かないで、人の子!〉

 ボイラー怪獣に呼び止められた。だが、ここで立ち止まっては元も子もないので、狭間はボイラー怪獣が発した 声を聞かなかったことにしようとした。脱衣所に戻って引き戸を閉めようとしたが、引っ掛かった。

「ん?」

 擦りガラスの填まった引き戸を何回も引いてみるが、動かず、がしゃがしゃと鳴るだけだった。立てつけが急に悪く なったかのようだ。狭間が訝っていると、足元がぶるぶると震え出した。それから一秒も経たずに揺れが強くなり、 建物全体が振動する。ロッカーもがたがたと揺れて施錠されていない扉が開閉し、浴槽の湯が大きく波打ち、寺崎と 鳳凰仮面に盛大に掛かった。何事かと慌てる狭間に、再びボイラー怪獣は叫んだ。

〈人の子、外に行かないで!〉

 その声を聞き終えると同時に、奇妙な浮遊感が訪れ、体が浮き上がった。まるで、階段があると思って足を出したが そこには何もなかったかのような、そのまま空中を踏んだつもりになって転げ落ちる時のような、そんな感覚だった。 ということはつまり、と考える間もなく、浮遊感は終わった。
 短い落下の後に床に思い切り叩き付けられ、狭間は気が遠くなりかけた。強く咳き込みながら起き上がると、脱衣所の 天井から埃が舞い落ち、ぶら下がっている裸電球が振り子のように円を描いている。弟は無事かと目を上げると、真琴 はロッカーにしがみついて硬直していた。

「今の……何? 地震?」

 ずるりとへたり込んだ真琴に、狭間は背中をさすりつつ答える。

「いや、違うな。地震だったら、起きる前に大陸プレートとプレートの間にいる怪獣が騒ぐんだよ。だが、さっきのは それがなかった。だから、原因があるとすれば」

 狭間は浴室の壁の向こう側にあるボイラー室を窺うと、ボイラー怪獣が騒ぎ立てた。

〈こうでもしないと、人の子を引き止められないんだよ。解ってほしいんだ〉

「解りたくもねぇよ」

 そうやって強硬手段を取られると、こちらとしても話を聞く気が失せてしまう。狭間は生乾きの髪を掻き毟っていると、 番台に座っていた店主が慌てふためきながら駆け込んできた。

「大変ですぜぇ、寺崎さぁん!」

「ぬおおあああああああ」

 未だに足4の字固めから脱せていない寺崎が変な声を出すと、須磨は外を指した。

「玄関がいきなり土に塞がれちまってぇ、外に出られなくなっちまったんですよぉ!」

「ふはははははは、そんなことがあるはずが……なにぃ!?」

 足四の字固めを外して立ち上がった鳳凰仮面は、浴室の天井付近にある窓を見上げた途端に声を潰した。

「なー、バイト坊主ー。状況、説明してくれよー。あのクソ親父、本気で絞めてきやがって足が動かねぇ……」

 大股開きでひっくり返っている寺崎に要求され、狭間は渋々脱衣所の窓を開けた。窓の向こうには夜の街並みが あり、冷えた夜風が入り込み、電車の走行音が聞こえてくる――はずだった。だが、そこにあるのは平べったく硬い 土だった。砂利だった。夜風よりも何倍も有機的で湿っぽい土の匂いが流れ込み、へし折れかけている配管からは ガスが漏れ始めている。これは拙い、と狭間は窓を閉めて後退った。

「土砂崩れ……じゃ、ないよな。この辺、山なんてないしなぁ」

 呆気に取られた面持ちでトイレから出てきたのは、須藤邦彦だったが、全身ずぶ濡れになっていた。彼の背後の 洗面所の配管が先程の衝撃で壊れているので、その水を被ってしまったようだ。

「わぁいわーい、外が変だー、もしかしてもしかすると地底に入っちゃったとかー?」

 意気揚々と番台を飛び越えて男湯に入ってきたのは、半裸の一条御名斗だった。体を覆っているのはレースの 付いたショーツと薄いシュミーズだけで、裸といっても差支えがない。

「うお、あ、ああああっ」

 御名斗のあられもない姿を見たら、須藤に目を潰される。狭間が怯えると、御名斗はにやにやして半透明の生地 をつまみ、するりと持ち上げて太股から滑らかな下腹部を曝け出す。

「どお? どお、ドキドキするぅ?」

 性的興奮とは異なる意味での緊張で心臓が痛み、狭間は逃げようとするが、シュミーズを躊躇いもなく脱ぎ捨てた 御名斗が狭間を追いかけ回し始めた。鬼ごっこと同じ要領だ。きゃあきゃあとはしゃぎながら駆け寄ってくる御名斗 から逃げようとするが、脱衣所はそれほど広くないので、ロッカーの周りを走り回っただけだった。御名斗は異様 に足が速く、十週も回らないうちに距離を詰められた挙げ句、狭間はあっさりと掴まった。仰向けに倒された上に、 御名斗に跨られて動きを封じられてしまった。

「んふふふふ、バイト君ってば反応が童貞臭くて面白ーい」

 ほれどうだ、と御名斗は胸を張って形の良い膨らみを見せつけてきたので、狭間は顔を覆おうとしたが、御名斗 は狭間の両手を床に押さえつけて身を乗り出してくる。色白で瑞々しい肌からは、女性らしい甘ったるい化粧品の 匂いに混じってかすかに硝煙の臭気が漂ってきた。身長も低ければ体重も軽そうなのに、腕力は男並みか、それ 以上かもしれない。手首を戒める指の力は強く、骨までもが圧迫されている。
 そんな時、ふと、狭間はあることに気付いた。大きく足を広げた御名斗は狭間の腰に股間を当てる態勢になって いるのだが、下腹部に異物感がある。いやまさか、だけどな、と狭間は恐る恐る目をやると、女物の薄い下着の股が 見覚えのある形に膨らんでいた。男ならば、毎日のように目にする形に。

「うおあああああああ!?」

 二度目の悲鳴を上げた狭間がびくつくと、御名斗はにんまりする。

「どうだ、面白いだろー?」

「付かぬことをお伺いしますが、御名斗さんって女の人じゃなかったんですか!?」

「戸籍の上では男だよん」

「で、でも、ムネが」

「俺ねー、半分男で半分女なんだ。だから、胸はあるけど玉はなくて、竿はあるけど穴がないの」

 ほれこの通り、と御名斗は御丁寧にも見せてくれたので、狭間は理解した。させられた。

「そうだったんですか……。だから、一人称が俺なのにスカートを履いていたりしたんですね……」

「まあね。俺は別にどっちでもいいんだけど、すーちゃんの命令で女の格好をすることもあるんだぁ」

 御名斗は身を屈めると、艶めかしく笑み、狭間の汗ばんだ胸に柔らかな膨らみを当ててくる。

「で、今日はその女の格好をする日だったってわけなのさ。いつもは女の格好でイチャイチャした後にすーちゃんち で朝までまぐわうんだけど、俺の可愛いボニーとクライドをお風呂に入れてやったら風呂場が吹っ飛んじゃったもんで、 スマッキーの銭湯に来たってわけだ。そしたら、いきなり地震が起きて、窓の外が土に塞がれちゃってさ。バイト君は 例のアレで原因は解っているんでしょ? だろ? だったら、何がどうしてこうなったのか教えてよぉ」

 そんなことを聞かれても、答えようがない。ボイラー怪獣がこの異変と何らかの関わりがあるのは確かだろうが、 根本的な原因については把握していないのだから。狭間が口籠って目を泳がせていると、御名斗がひょいと上から 退かされた。と、同時に強烈に蹴り飛ばされ、狭間は二度三度と転がってから壁に激突した。足の主は、考える までもなく須藤である。御名斗を脇に抱えた須藤はシニスターを露わにし、指を鳴らして拳を固める。

「今日という今日は許してやるものか! 俺の御名斗に話しかけられただけじゃなく、跨られて、胸も当てられて、 おまけに薄布越しに竿も当てられて! それは俺だけの特権なんだ、お前如きが味わうべきものじゃない!」

「わーい、すーちゃん格好いいー」

 元凶である御名斗は、にこにこしながら須藤に声援を送っている。勝手に近付いてきて勝手に体を寄せてきたのは 御名斗であり、狭間はむしろ逃げ惑っていたのだが、須藤にはそんな言い訳は通用しない。というより、狭間が 何を言おうと聞き入れてくれやしない。だが、今度こそ逃げられない。窓の外は土なのだから。
 ちらりと弟を見やると、真琴は脱衣所の片隅で小さくなっていて固唾を呑んで事の行く末を見守っている。そうだ、 それでいい。兄が無様にやられるところを見ているといい。寺崎も御名斗も話が通じないが、最も話が通じないのは 他ならぬ須藤だ。彼は濡れたワイシャツを脱ぎ捨てると左手の拳を固め、手の甲に赤い目を開かせた。

「バイト坊主。お前は御嬢様と寺崎には少し気に入られているようだが、そんなのは知ったことじゃない。俺は最初 からお前を殺したかったんだ。御名斗がお前をからかうからだ。俺もからかわれたい。だが、御名斗は俺をそういう 対象としては見てくれない。いや、それはそれで嬉しいんだが、それとこれとは別なんだ」

 訳の解らないことを並べ立てながら歩み寄ってきた須藤は、シニスターの目から赤い鞭を伸ばし、翻す。

〈あーあ。これだから、人の子って馬鹿だよなぁ。それが面白いんだけどよ〉

 怒りやら何やらで表情を歪めている須藤が左腕を振り上げ、赤い鞭を狭間に叩き付けようとした。が、またも揺れが 発生して須藤の体勢が崩れた。床が斜めになると、須藤はその傾斜に従って滑り落ちていき、番台に激突した。 彼の脇に抱えられていた御名斗は床が斜めになった瞬間に素早く脱し、壁に作り付けられた手すりを掴み、被害を 免れた。狭間は作り付けの棚の側面に挟まれたおかげで難を逃れ、真琴もとりあえず無事だった。
 ぶしゅう、とボイラー室から排出音が聞こえ、ボイラー怪獣が強い蒸気を噴き出した。狭間は体のあちこちに付いた 汚れを手近なタオルで拭ってから、滑り落ちないように踏ん張りながら浴室に入り、ボイラー室を目指した。事の 原因が何なのかは察しが付いている、ボイラー怪獣だ。なぜこんなことをしたのかを聞き出してから、銭湯を元に 戻すように説き伏せなければ。ついでに、第二ラウンドを始めた寺崎と鳳凰仮面も止めなければ。
 そうしなければ、いつまでたっても風呂から上がれない。





 


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