財産整理、各種手続き、葬儀、と嵐のように事を終えた。 両親の葬儀を終えた後、真琴が船島集落を出るという意思を固めたので、弟の引っ越しも兼ねて狭間達が横浜 に戻ったのは八月も終わろうかという頃合いだった。暑さはまだまだ厳しいが、空の色合いは秋のそれに変わり つつある。狭間の私物と弟の私物と両親の遺品を積めるだけ積んだ軽トラックで本州を縦断し、懐かしき横浜の フォートレス大神に至ったのは日没の一歩手前だった。 愛歌のシビックを追って細い路地に入り、舗装の悪い道を通り、土が剥き出しになっている道を通り、狭い駐車場 に停めた。軽トラックのクッションがへたれた運転席に長らく収まっていたせいで、背中も腰もかなり痛む。狭間は 呻きながら運転席から這い出し、助手席で眠りこけていたツブラを揺り起こしてやると、寝ぼけて触手を絡めてきそう になったので制止した。愛歌のオレンジ色のシビックからは、ぐったりしている愛歌とやはり眠そうな真琴が出て きた。新車同然に艶々しているシビックは西日に映えているが、狭間にはそれが不思議で仕方なかった。確かに、 このシビックはムラクモに噛み付かれた車なのだ。牙がめり込んだ外装は抉れ、ガラスは割れ、シートも破れていた はずなのだが、傷一つなく、塗装は鏡のように滑らかだ。 〈私が治ったのがそんなに不思議? 人の子ってば、あんまりじろじろ見ないでよ。ちょっと照れ臭いわ〉 テールランプを点滅させたシビックに、狭間は痛む腰をさすりつつ返した。 「不思議っちゃ不思議だが、まあ、あんたはそういう能力の怪獣なんだろう。そういうことにしておくよ」 「狭間君、その子の言葉も解るの?」 愛歌がいやに驚いたので、狭間は凝り固まった肩を解しつつ応じた。 「何を今更。軽トラだってうるさかったですよ、道中」 「で、兄貴、なんて言っていたのさ」 兄の能力をまだ信じ切っていない様子の真琴に、狭間はじゃれてきたツブラをあしらいつつ答える。 「シビックが独りでに治ったのが不思議だったから眺めていたら、あんまりじろじろ見るなって言われたよ」 「そうなのか……」 真琴は興味深げにシビックと兄を見比べると、シビックはウィンカーを片方だけ点滅させた。 〈ふふ、そうなのよ〉 「とりあえず、今日は荷物を運び入れるだけにしておきましょうか。さすがにもう働きたくないわ」 お腹空いた、お風呂入りたい、そして寝たい、と愛歌は死んだ目で挙手したので、狭間も同意した。 「ええ、俺もです。だから、今日のところは真琴もアパートで寝てもらうしかないな。ヲルドビスのマスターは真琴を 下宿させてくれるって言ってくれたけど、あっちも準備ってものがあるだろうし、こっちも色々と準備しないとならん。 それにしても、マスターの懐の深さはマリアナ海溝の如しだよ」 「家賃代わりにアルバイトしてくれ、っていう条件は麻里子ちゃんと変わらないけど、事情がちょっと違うものねぇ。 マスターは長いこと一人暮らしだったから、若い子と暮らすのが楽しいんじゃないの?」 「何にせよ、落ち着ける場所があってよかったです。兄貴と一緒だと、勉強にも身が入らないでしょうし」 真琴の辛辣な言葉に、狭間は半笑いになる。 「六畳二間のアパートで三人と一匹が暮らすってのは、物理的に無理があるからな」 「前々から思っていたけど、狭間君とまこちゃんって仲が悪いの?」 愛歌に問われ、狭間は弟を見やる。 「単純に相性が悪いってだけですよ。あと、話が合わないんです。趣味が全然違うんで」 「あー、そういうこと。確かに、まこちゃんってそんな感じだものね」 納得した様子で頷く愛歌に、真琴は少々やりづらそうに目をやる。 「ええ、まあ、それだけのことなんです」 真琴の横顔は心なしか緩んでいるので、愛歌に限ってはまこちゃん呼ばわりされるのは嫌ではないらしい。千代に そう呼ばれるのは嫌がっていたくせに、現金なものだ。愛歌は真琴の初々しい反応が面白いらしく、近付いては どうでもいいことを話し掛けている。その度に真琴は挙動不審になり、たどたどしく答えている。ツブラは真琴 の感情の機微には興味がないらしく、狭間にべったりと甘えてきた。 三人と一匹は長旅で疲れ切っているので、荷物の整理と引っ越しの本番を行うのは明日にしておいて、今日は 商店街の大衆食堂で夕食を摂ってから銭湯に行き、その後は愛歌の部屋で寝ようということになった。弟と同じ部屋で 寝るのは十数年ぶりなので、狭間はなんだか妙な気分になったが、船島集落ごと実家と両親が消失しなければそんなこと にはならなかっただろう。そう思うと、妙な気持ちが一気に冷え込みそうになったが、律した。 忙しくなくなると、考えずに済んでいたことを考えそうになる。 夜も更けた頃、狭間兄弟は風呂桶を片手に銭湯に向かった。 食後に一杯引っ掛けた愛歌は長旅と事後処理の疲れのせいか酔いが回ってしまったため、銭湯に向かう気力を完全 に失ってしまったからである。酔い潰れた愛歌の相手はツブラに任せておくことにして、狭間は弟を夜の横浜 に連れ出した。だが、その間、会話は一切なかった。 話を切り出そうにも、何から切り出せばいいか解らなかったからだ。両親の葬儀や資産の整理、光の巨人に被災 した国民に与えられる補償を受けるための手続き、一ヶ谷市立高校から横浜市内の高校への転校手続き、遺品の整理、 親戚とのやり取り、といった必要事項を行う際は話し合っていたし、横浜に至るまでの道中では愛歌に頻繁に話しかけて いたそうだが、狭間と二人きりになった途端に真琴は黙り込んでしまった。 無理に話題を振っても余計に気まずくなるだけだし、却って拗れてしまう。そう思い、狭間は物珍しげに街並みを 眺める弟を窺いつつ、目的の銭湯に至った。須磨湯。料金、大人一八〇円、中人八〇円、小人三〇円。船島集落 にも温泉を引いた大衆浴場があったが、料金設定は全く同じだった。狭間は一八〇円を払い、真琴は八〇円を払って から、男湯の脱衣所に入ったが、いやに空いていた。 「あれ?」 いつもはこんなことはないのだが。狭間が不思議がると、番台から店主が顔を出した。 「ボイラー怪獣の調子が悪くてなぁ、沸くのが遅かったんだぁ。だから、さっきまで店は閉めていたんでなぁ」 須磨湯の店主、須磨拳五郎は気まずげに風呂を示す。中年を過ぎているので年相応に体は弛んでいるが、上腕は Tシャツの袖がはち切れそうなほど太く、筋肉で張り詰めている。厳つい顔つきには古傷がいくつも残っていて、 語尾には妙な訛りが付いている。 「だから運がいいなぁ、兄ちゃん達はよぉ。先客は一人二人いるがよぉ、日雇い連中がまだ入っていねぇから、湯は 綺麗なもんだぁ。んで、海老塚さんとこの若ぇの、そっちは弟分かぁ?」 「弟分じゃなくて弟ですよ。あんまり似てないですけど」 狭間は須磨に一礼してから、脱衣所に入り、手近なロッカーを開けて荷物を入れた。服を脱いで半端に伸びた髪 を解いていると、真琴は度の強いメガネを外し、眉根を寄せながら店主を窺った。 「兄貴、あの人って堅気じゃないよな」 「あー、まあ、そうだな。だから、ここに来る客の大半が筋者だな」 「なんでそんなところに連れてくるんだよ」 「川の向こう側にも銭湯はあるが、そっちは中華街に近いから、渾沌のシマなんだよ。中華街には近付かない方が いいって愛歌さんも言っていたし、俺もそう思うから、行かないんだよ」 「なんでそんなことに詳しいんだよ」 「詳しくなりたくなくても、詳しくなっちまうんだよ。色々あったから」 真琴をあしらい、狭間は石鹸とタオルを入れた風呂桶を脇に抱えて風呂に向かった。引き戸を開けると、もうもうと 立ち込める湯気の先に広い浴槽が横たわっていた。店主の言った通り、洗い場には誰もいないので順番を待たずに 済みそうだ。0.03の強度近視に乱視が混じる真琴は、服を脱いだ後にメガネを掛け直して風呂に入ってきた。 「あれ、バイト坊主じゃねぇの」 すると、湯船に浸かっていた男から声を掛けられ、狭間は立ち止まって一礼した。最早体の一部と言っても過言では なさそうなサングラスを外してはいるが、狭間に対する二人称とその体に刻まれているモノを見れば、誰なのかはすぐ 解る。普段は鋭角なサングラスに隠されている目もまた鋭く、きつく吊り上がっている。 「どうも、寺崎さん」 「んで、そっちのは? バイト坊主の弟?」 「そうです、真琴って言います」 狭間が弟を示すと、寺崎は湯を撒き散らしながら湯船から飛び出し、真琴に詰め寄ってきた。 「うわ、なんだこいつ! 色が白いわほっそいわで女みたいだな! しかも顔が似てねぇ!」 「何だよ、この人」 いきなり不躾な言葉を掛けられ、真琴は戸惑った。 「紹介しておこう。寺崎さんは九頭竜会の舎弟頭で、暴走族のトップで、ついでに鬼塚先輩の先輩だ」 狭間が寺崎の素性を雑に紹介すると、真琴は顔をひきつらせた。無理もない反応だ。狭間にやたらと絡んでいた 鬼塚八尋は、寺崎と肩を並べるほどの不良だったからだ。真琴は狭間ほど頻繁に鬼塚に絡まれることはなかった が、鬼塚の悪い評判は嫌でも耳に入ってくる。しかも、その不良の先輩とくれば、優等生の真琴が怯えないわけ がない。実際、寺崎はろくでもない男だが、扱い方さえ間違えなければ無用な被害を被らずに済むし、曲がりなり にも古代喫茶・ヲルドビスの常連なので無下出来るものではない。 「そこまでビビらなくてもいいじゃねぇかよー。なあ、まこちゃん」 「ま」 まこちゃんはやめて下さい、と真琴は言おうとしたようだが、開いた口を閉じた。寺崎の背中に刻まれている見事な 千手観音を、湯気でぼやけたメガネ越しに見てしまったからだ。しかも、筋彫りなどではなく、千手観音には仏画 さながらに鮮やかな色が入っている。狭間も初めて見た時は気圧されたが、さすがに見慣れてきた。寺崎は須磨湯 を使う頻度が高いので、その度に目にしているからだ。千手観音の腕は背中だけでなく、硬い筋肉が付いた上腕から 腰に掛けて伸びている。筋肉が付いているのは腕だけでなく、体全体が満遍なく鍛え上げられていた。なんでも、 レーサーってのは体が出来上がっていないと車に負けちまうからだ、ということだそうだ。 「マスターから話は聞いたぜ。親が死んじまったんだってな」 不意に狭間の肩を掴んできた寺崎は、ひどく真面目な顔をした。 「あと、テレビも見た。久々にスポーツ新聞以外の新聞も読んだ。俺としたことが、政府広報なんてものもちゃんと 見ちまった。……ムラクモが暴走したってのは、本当なんだな」 「はい」 それ以上、何が言えるだろう。狭間が頷くと、寺崎は狭間の肩を掴む指に力を込める。 「鬼塚が消えたってのも本当か?」 「はい。ふなしま食堂も、あかね先輩も一緒に」 「そっか。あいつ、まだあかねちゃんと結婚してなかったよなぁ。馬鹿野郎め、さっさと結婚しときゃよかったんだよ、 あんなクソッ垂れなろくでなしを真人間に戻してくれる女なんて二人といねぇってのによお、料理人の腕前がどうこう 能書き垂れやがって。あー……こんちくしょうめ」 「すみません」 「バイト坊主が謝ることじゃねぇし、ツブラちゃんにだけ責任をおっ被せるつもりはねぇよ。少なくとも俺はな」 寺崎は狭間に背を向け、見事な千手観音が刻まれた背を丸めた。 「山と田んぼと硫黄臭い温泉しかねぇクソ田舎だけどよ、実際、こう、なくなっちまうとなぁ」 「気になるのであれば、一度、帰ってみては」 「馬鹿言え、帰れるわけねぇだろ。レーサーを目指した時に勘当されちまったんだから。で、俺んちはどうなった」 「浄法寺は……」 「ああ、解った。それ以上言わなくてもいい。悪いな、ただでさえしんどい時にしんどい話をさせちまって」 さっさと体洗っちまえ、と寺崎は大股に歩いて浴槽に戻っていった。寺崎は十年以上前に故郷を捨てた人間では あるが、それでも情だけは捨てきれなかったのだろう。熱い湯に両足だけを浸しながら、しきりに汚い言葉を 吐き出していた。そうでもしなければ気持ちの整理が付かないのだ。狭間も真琴もそうだったように。 体と頭を洗い終えた狭間は湯船に浸かったが、真琴は狭間とも寺崎とも距離を置いていた。無理もないことなので、 とやかく言いはしなかった。再び湯に浸かった寺崎は天井を仰いで考え込んでいたが、狭間に向いた。 「なあ、バイト坊主」 「なんでしょう」 「俺の舎弟にならねぇ?」 「はい?」 「バイト坊主は今までもなんだかんだで九頭竜会に貢献してくれたわけだし、御嬢様とも仲良しだし、親分ともまとも に話が出来るぐらい肝が据わっているじゃねぇか。だから、いっそのこと九頭竜会に引き入れちまおうかなぁーって 前々から考えていたわけよ、俺は。んで、船島集落がああなっちまっただろ? だから、養ってやろうかなって」 「いやあの寺崎さん、さすがにそれはちょっと」 「若衆をすっ飛ばして舎弟頭の弟分だぞ、異例の大出世じゃねぇか。もっと喜べよ」 「いやですからその」 湯の熱さとは異なる意味での汗が噴き出し、狭間は狼狽えた。視界の端では、真琴があからさまに蔑んだ目で兄 を睨んでいる。妙に事情に詳しいと思ったらヤクザの使い走りになっていたのか、とでも言いたげだ。九頭竜会との 関わりが多いのは事実だが、だからといって九頭竜会の一員になりたいわけではないのだが。寺崎は妙案だと思って いるらしく得意げで、にやにやしている。これは、何が何でも断らなければ。だが、寺崎を説き伏せられる言葉が 思い浮かばない。しかし、長々と黙り込んでいると寺崎を苛立たせてしまいかねない。 「ええと、その」 すると、唐突に引き戸が全開になり、大柄な人影が仁王立ちした。 「話は大体聞かせてもらったっ!」 黄色い手拭いの覆面と風呂には場違いなサングラスを掛けた筋骨隆々の男は、肉厚の胸板を張る。 「うわあ!? 何やってんですか!」 野々村さん、と言いかけたが、彼が覆面をしているのならこう呼ぶべきだと仕切り直し、狭間は改めて驚いた。 「何やってんですか、鳳凰仮面!」 「弱き者が助けを求め、正義を欲するところ、いつでもどこでも現れるっ! それが鳳凰仮面だっ!」 顔以外は素っ裸で変なポーズを決めた鳳凰仮面は、寺崎を指した。 「そこの……ええと、あれだ、その、うん、九頭竜会のヤクザ! 純朴な青年を極道に引き摺り込もうなどとは 許せはしない! 現に嫌がっているじゃないか! その青年はな、人が良いから頼まれ事を断り切れない性分なんだ、 そこに付け込むとは悪鬼の所業! この鳳凰仮面が成敗してくれる! って言ってみたかったのだ!」 そう言うや否や、鳳凰仮面は駆け出してきた。が、途中で立ち止まって湯を被って体を流してから、湯船にそろりと 入ってきた。飛び込むと湯が溢れ出してしまうからだ。寺崎はといえば、話の腰を折られたのが不愉快そうだったが、 絡んできた相手を無下すると極道のメンツに関わるので立ち上がった。当然ながら、全てが露わになる。 「ふむ、なかなか立派なモノをぶら下げているではないか!」 「おっさんこそ、なかなかじゃねぇか」 寺崎と鳳凰仮面が真っ先に始めた勝負の程度の低さに、狭間は居たたまれなくなった。男としては解らないでも ないことではあるのだが、口には出さないでほしかった。胸の内だけで収めておくべきである。浴槽から出た二人 は互いの距離を測りながら、互いの体付きと身のこなしを窺っている。夜な夜な歓楽街に繰り出してはチンピラと やり合っている鳳凰仮面は当然として、寺崎も両手の指の付け根の具合からしてケンカ慣れしているのは確実なので、 どちらが勝ってもおかしくはない。だが、どちらが勝っても面倒臭いことになる。 どうやって、この状況をやり過ごすべきか。 14 9/17 |