横濱怪獣哀歌




二ツノ川ノ間



 結局、狭間は九頭竜会の頼みを受けた。
 あの状況では、断れるわけがないからだ。自分とツブラだけならまだしも、真琴を盾にされては首を縦に振らない わけにはいかない。なので、九頭竜総司郎に投げ渡された誓約書に署名し、血判を押させられた。そのせいで左手 の親指が痛く、血が止まり切っていないので絆創膏のパッドが赤黒く染まっていた。ちなみに狭間の指を切ったのは ヴィチロークで、刀身に滴った血を綺麗に吸い上げて上機嫌になっていた。
 小銭入れの中に絆創膏を入れておいたのが幸いした。自由を取り戻した真琴はふらついていて、縛られた跡が 残る手首を隠すためか、腹を抱えるようにTシャツの裾に両手を突っ込んでいた。長袖の上着でも持っていれば着せて やれたのだが、生憎、残暑が抜けきっていないので狭間も真琴も夏の格好だった。
 真琴はいつも以上に無言で、世界中の絶望を背負っているかのような顔をしていた。攫われた当日に五体満足で 帰れたんだからよかったんじゃないか、と弟を慰めようとしたが、何の慰めにもならないのだと気付き、狭間はその 言葉を飲み下した。狭間が渾沌に潜入している間、真琴は実質的な人質になってしまうのだから、命が脅かされて いる状況に変わりはない。学校でも下宿先でも真琴さんの御傍にいます、と麻里子は言っていたのだから。

「……あ」

 気付けば、古代喫茶・ヲルドビスに到着していた。真琴は麻里子がいるのではと臆し、立ち竦む。

「大丈夫だ、まだ帰ってきちゃいない。それと、今日は休みだったんだな」

 棚卸につき、本日臨時休業、と恐ろしく達筆な字で書かれた紙がドアに貼り付けられていた。真琴は顔色が青 なのか赤なのか釈然としない色になり、体を折り曲げてため息を吐き、その場に座り込んだ。

「なんなんだよ、なんなんだよもう、なんであんな目に遭わなきゃいけないんだよ、それもこれも兄貴のせい だってのか、俺の兄貴があんただから、あいつらが兄貴に目を付けているのか、あーもう……」

「俺はもっとひどい目に遭ったことがあるぞ」

「そんな自慢をするな、されたくもない」

「心配するな、上手くやる」

「あんたに限ってそんなことが出来るわけがないだろ、要領悪いくせに」

「よく解っているな」

「十七年もあんたの弟やったんだから解るさ、それぐらい。立ち回るのが下手だから何度カツアゲされたんだ、何度 自転車盗まれたんだ、無関係なケンカに巻き込まれたんだ、不良の先輩から中古のバイクを相場の倍近い値段で 押し売りされたことだってある。どうしてこう、あー……言っても無駄だ、言うだけ無駄だ」

 真琴は頭を抱え、項垂れる。

「おやおや、お揃いでお帰りですか」

 二人の話し声を聞きつけたのか、裏口から海老塚甲治が現れた。

「タダイマ!」

 不甲斐ない男達に代わってツブラが挨拶すると、海老塚は柔らかく微笑んだ。

「はい、お帰りなさい。棚卸は一通り済みましたし、明日の分の仕込みも済んでいますので、よろしければ店の中で 休んでいって下さい。それと、試作品のブレンドの味見もして下さいませんか? 私の感覚だけでは、どうにも自信が 持てませんので。さあさあ、こちらへ」

 海老塚は座り込んでいる真琴を立たせてやり、店の中へと引っ張り込んだ。狭間とツブラもそれに続き、裏口から ヲルドビスに入ると、いつものものとは少し違うコーヒーの香りが立ち込めていた。綺麗に掃除した店内で休むのは 気が引ける、と真琴は言い張ったので、バックヤードのテーブルにて海老塚の試作品を味わうことになった。ツブラ は砂糖水をもらい、口から出した触手を入れてちびちびと飲んでいた。

「いつものブレンドよりも酸味が弱いですね、これ」

 ブラックのままでコーヒーを飲み、狭間が率直な感想を述べると、海老塚は思案する。

「私はアフリカ系の酸味が強めのコーヒーが舌に合うものでして、それを多めに配合したものをお出ししている のですが、コーヒーを飲み慣れていない御客様が最も多く注文するブレンドは酸味は少ない方がよろしいのでは、 と考えたのです。寿司屋で玉子を注文するようなものではないか、と思いまして。ですが、ブレンドがお好きな 御客様も多いので、安易に味を変えてしまうのはよくないのでは、とも」

「それは道理ですね、マスター。鳳凰仮面に連れて行ってもらってから通うようになった屋台のラーメン屋がある んですけど、俺、同じものしか頼まないんですよ。他のメニューもおいしいんでしょうけど、一度気に入ったもの とは違うものを選ぶのは惜しいような、気に入ったものが変わってしまわないことを確かめるような、そんな感じで いつものを頼んじゃうんです。単純に旨いからでもあるんですけど」

 狭間は弟を窺うと、真琴はまだコーヒーの味に慣れていないのか、渋い顔をしていた。

「砂糖入れたらどうだ?」

「飲めるよ、別に」

 真琴は狭間の視線から逃れるように半分身をずらし、コーヒーを傾けた。が、眉間のシワは緩まない。

「では、私はもう一度ブレンドの在り方について考え込んできますので、気が済むまで休んでいて下さい」

 お代わりもありますからね、と言い残してから、海老塚は厨房に戻っていった。狭間は一礼して見送ってから、 弟を再び見やると、真琴は疑り深い目で兄を見返してきた。

「兄貴のくせに、コーヒーの味なんか解るの?」

「慣れた」

「慣れるものなのか、これ」

 真琴は三分の一程度飲んでからコーヒーカップを置き、兄に背を向けて椅子の背もたれを抱えた。

「でも、これ飲んだら、少しは気が落ち着いた。手首も足首もまだ痛いけどさ」

「実はな、真琴。今朝方、政府の方から俺とツブラの力を貸してくれないか、と誘われたんだ」

「はぁ? それじゃ何だよ、兄貴のアレとそのちっこいののアレが知れ渡っているってことなのか?」

「たぶんな。だが、ろくなことじゃないだろうから、断ってくるよ。金を出してくれるとは言ったが、金を稼ぐ手立て なら他にいくらでもあるし、俺の能力を本気で信じているとは思い難いし、むしろその逆かもしれない」

「……いいのかよ」

「何が」

「俺さ、兄貴のアレについては未だによく解らないんだけど、解らないなりに考えてみたんだ」

 真琴は怪獣の声に耳を澄ませるように、遠い目をする。

「怪獣の声が聞こえてくるとしたら、それはどんな気持ちなんだろう。怪獣に四六時中振り回されて、自分の人生すら ままならなくなるのはどれほど屈辱だろう。挙げ句、その怪獣の声が聞こえるってことを身内にすら信じてもらえず、 他人にも言えず、ずっと我慢して暮らしてきた末に、その力を生かして金を稼ごうって誘われたら……」

「舞い上がっちまうよな。もっとも、それは少し前の俺だったら、って話だ。今の俺は、そこまで馬鹿じゃいられない。 怪獣のことも他人のことも関係ない、どうでもいい、深入りする前に逃げる、逃げなきゃならない、なんてことばかり 考えていたんだ。何がどうなっても責任なんか取れない、背負えない、戦えない、ってな。背負えるのは覚悟を据えた 人間だけで、強い奴は生まれ付き強いけど俺はそうじゃない、俺はそんなに立派になれない、とか、惨めたらしい ことばっかりをな。でも、そうじゃないんだ」

 狭間はツブラの口の端に付いた砂糖水を右手の指先で拭ってやり、舐めた。甘かった。

「俺に出来ることを、出来る限りするしかない。だから、俺はツブラを助けてやりたい」

「マヒトォ……」

 ツブラは口元を押さえ、照れた。

「はぁ!?」

 真琴は勢いよく振り返り、声を裏返す。至極当然の反応に、狭間は肩を竦める。

「悪いか」

「悪いに決まってんだろ、だって、そいつは」

 怪獣だ、と言いかけて口を噤んだ真琴に、狭間は迷いのない眼差しを返す。

「船島集落がああなったように、いつ、何が起きるか解ったもんじゃない。だから、後悔したくないんだよ」

 一瞬の選択の正誤を決めるのは結末だが、その結末がいつなのか、何をもって結末とするかは、その時が来て みないと判断を付けかねる。そもそも、結末すらないのかもしれない。正しいと思っていることこそが誤りであって、 間違いだと思っていることこそが真実に近いのかもしれない。ツブラを取り巻く神話時代からの因縁も、旧い因縁に 囚われているエレシュキガルも、怪獣達も、それを知らないのかもしれない。
 だったら、狭間が見つければいい。




 翌日。狭間はツブラを連れ、怪獣生態研究所に赴いた。
 怪生研の通常の業務の妨げにならないように、古代喫茶・ヲルドビスの午後のシフトに入れるように、始業前の 時間を指定した。つまり、昨日と同じく早朝である。研究所の上空と周囲には綾繁枢の配下の怪獣達が控えていて、 ヒツギは食堂の外から枢を見守っていた。アパートには帰ってこなかった愛歌とも対面し、羽生と鮫淵が同席して いるので、昨日と変わらぬ光景だった。一つだけ違うのは、狭間の左手の親指に傷があることだ。

「おはようございます、狭間さん」

 昨日とは違う着物を着た枢は深々と頭を下げてから、品の良い笑顔を向けてきた。

「期日よりもお早く御返事を頂けるようで、嬉しい限りです。では、お答えを」

「先約が出来たので、お断りします」

「あら、まあ。でしたら、先約を取り付けた方に事情をお話しして、御都合を変えて頂きましょう」

「それは無理です。引き受けなければ弟が殺されるので」

「あら、まあ。でしたら、弟さんを綾繁家でお守りいたしますわ」

「それもお断りします。というか、本人が嫌がるでしょうし」

「あら、まあ。でしたら、了承して頂けるようにこちらで条件を整えますわ」

「それも無駄です。それより、こちらから頼みがあります。枢さん、俺にはもう関わらないでもらえますか」

「あら、まあ。それはなぜです?」

 笑顔を保ちながらも、枢は声色を低めた。怪獣達が騒ぎ立て、窓の向こうでヒツギが身構える。

「怪獣使いにとって、俺みたいな野良怪獣使い――じゃないな、野良怪獣使われほど厄介なものはないでしょう。 怪獣使いがどれだけのことを出来るのかは把握しきれていませんけど、邪魔なのは確かです。俺が横からごちゃごちゃ 言うと怪獣達との繋がりが弱まるかもしれませんし、怪獣が支配から逃れるかもしれませんしね。そうなると、 綾繁家の面目が立たなくなってしまう。それと、これは枢さんの独断ですよね?」

 狭間が怪獣達を一瞥すると、枢の笑顔が僅かに崩れた。

「あら、まあ」

〈……仕方ないのだ、人の子。我らは枢様には逆らえん〉

 ヒツギは顔を背けるが、狭間は一笑する。

「嘘吐け。ヒツギ、お前は単純にこの子が気に入っているんだ。だから従うんだ、他の怪獣達にしてもそうだ。意思 のある生き物である以上、どんな力をもってしても自我は捻じ伏せられないんだからな。俺を抱き込んで他の怪獣達 と怪獣使いと差を付けて、この子をのし上げてやろうって腹か?」

〈だとすれば、どうする〉

 ヒツギは窓に手を掛けると、みしり、とガラスを軋ませた。

〈怪獣使いは人としても、能力を持つ者としても寿命が短い。その短い命を瞬かせようとして何が悪い!〉

「いや、悪くない。そいつはヒツギとこの子の勝手だからな。悪くないが、俺を巻き込まないでくれよ。俺はツブラの 厄介事に巻き込まれているだけで充分で、精一杯なんだ。お前も男だったら――――いや、怪獣に性別はないか、まあ いい、お前がそう思うのであれば、思うように行動すればいい。その先でどうなるかは、お前ら次第だしな」

〈人の子。後悔しても知らんぞ〉

「それはお互い様じゃないのか?」

 狭間がヒツギに言い返すと、枢は袖の下で握り締めていた手を緩め、狭間を睨んできた。

「あなたの御返事、聞き入れました。今回は引き下がりましょう。ですが、次があると思わないで下さいませ」

 帰りますよ、と枢は怪獣達に強く命じると、食堂を後にした。狭間は枢と怪獣達を見送ってから、狭間の足に しがみ付いていたツブラを撫でてやった。枢を見送ってから、羽生は手近な椅子に座り込んで髪を乱した。

「ああやれやれ、やあっと本来の仕事に戻れるよ。優秀過ぎて動きを鈍らせることが全宇宙の損失となるこの僕 が研究以外のことをさせられるとは思ってもみなかったよ。ああ、全く、ろくなもんじゃないね」

「あ、うん、その、接待って言うのは頭も体も普段使わない部分を使うので、凄く、疲れます」

 昨日今日と有給のはずだったんだけどな、とぼやいた鮫淵は、列を成して飛び去っていく怪獣達を見やった。

「あの御姫様がこれで引き下がるとは思えないから、手を回しておかないとならないね。ともすれば、怪獣使いの 権限で怪生研が解体されるかもしれないが、そうなったら地下に潜って研究を続けるまでだよ。ねえ、サメ男?」

「ああ、えと、はい。その辺はまあ、予想出来るんで、今までに集めた資料や何やらは、その、個人的に」

 それぞれの表情でにやつく科学者達は、事態を悲観してはいないようだった。むしろ、怪生研という組織の枠組み から離れれば思うように研究が出来る、という期待すら抱いているようだった。タフな科学者達である。

「で、愛歌さん。俺の愚行を責めないんですか?」

「デスカ?」

 狭間も手近な椅子に座ると、ツブラは狭間の膝に昇ってきた。

「責めるも何も、褒めてやりたいくらいよ。この調子で煽ってやりなさい。怪獣使いってのはね、狭くて古い世界の中 が全てだと思っているのよ。生まれてきてからずっと丁重に扱われているから、思い通りにならないことはないし、 出来ないこともないし、許されないこともないって思い込んでいるのよ。言ってしまえば、子供の頃に誰しもが抱えて いるあの万能感を死ぬまで引き摺っているのよ。そんな連中がいつまでも国家の権力を握っているんじゃ、遠からず 国全体が腐っちゃうわよ。そうなる前に、怪獣使い同士をぶつけて潰し合わせちゃいたいのよね、私」

 狭間に自前のタバコを勧めながら、愛歌はとんでもないことを語った。

「愛歌さん、え、あ、御自分が何を言っているのか」

 愛歌の手に伸ばしかけた手を引っ込め、狭間がたじろぐと、愛歌は狭間が受け取らなかったタバコを銜えた。

「冗談よ。本気にしないで」

「ですよねぇ」

「それで、その指の傷、どうしたの?」

「それがですね……」

 指を切るまでの経緯とその結果に下した決断を話すと、愛歌は一応は納得してくれたようだが、それでいいわけが ないと何度も言った。狭間もそう思うが、あの時はそれが最善だったのだから仕方ない。怪獣使いに流される ことを選ばなかったことで横浜の裏社会に流されたが、行き着く先を決めるのは自分だ。
 泳ぎ切って、すぐに浮き上がってやる。





 


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