横濱怪獣哀歌




虎穴ニ入ラズバ



 薬膳中華・虎牢関。
 それが狭間の新しい仕事先であり、九頭竜会と敵対している中国マフィア・渾沌の根城でもあった。四階建ての ビルのそこかしこに龍の装飾があしらわれ、赤い柱の極彩色が毒々しい。中華街に足を踏み入れた瞬間から、香辛料 と紹興酒の匂いが鼻を突いた。周りから聞こえてくる言葉もほとんどは中国語で、たまに日本語が聞こえてきても 片言で、日本にいるはずなのに中国本土に放り込まれたかのような疎外感に苛まれた。
 今度ばかりは、ツブラを連れてくるのは危なすぎる。相手はシャンブロウの触手を加工して密売するような輩だ、 人間のような格好をさせていても、少しでも触手が零れれば――いや、サングラスが外れかけて白目のない目が 見えてしまったが最後、ツブラは触手を一本残さず刈り取られるかもしれない。そうなったら、自分が死ぬよりも 余程辛いことになってしまう。だから、ツブラのことは海老塚甲治に預けてきた。海老塚もまた底知れぬ男では あるのだが、今現在、最も安全なのは彼の傍だけだからだ。

新手、快速去新入り、早く行け!」

 いきなり肩をどつかれて、喚かれた。その男は狭間を虎牢関に雇入れてくれるように口添えしてくれた中国人で、 ビルの裏口を指して威圧的に叫んだ。意味は解らないが、急かされているのは間違いない。狭間は解ったようなふり をしながら付いていき、華やかな表通りとは打って変わって薄暗い裏通りに入り、錆びた鉄階段を昇った。
 調理場の排気口からは揚げ油やトウガラシの匂いが混じった湯気が流れ出し、空気を濁らせていた。生ゴミの 詰まった袋が山盛りに積み重ねられていて、そのゴミを粗末な格好をした浮浪者が漁っている。ビルの裏手にある 住宅街では、サイズの合わない服を着た子供達が元気に跳ね回り、中国語で何かを捲し立てている。
 積年の油汚れが付いているのか、鉄階段は足場も手すりもべとべとした。三階に上がると、仲介人の男がドアを 叩いて声を掛けると、鍵が開けられた。途端に狭間は中に放り込まれ、転びかけた。

「オマエ、ニホンジンダナ?」

 仲介人の男は狭間を睨むように眺めてから、奥を指した。

「ニホンゴ、ワカルヤツ、ソッチダ。キエチマエ」

「あ……」

 どうも、と狭間は言いかけたが乱暴にドアを閉められた。なんで解るんだよ、とは思ったが、中国語を一切口に しなかったので、日本人だと解らない方がおかしいのだ、と理解した。付け焼刃の中国語を使っては逆に怪しまれる だろうし、話を合わせられないだろうからしないほうがいい、ついでに言えばあなたは演技が出来ません、と麻里子 からばっさりと言い捨てられたことまでも思い出し、狭間は小さく嘆息した。
 ここは厨房の裏手にある倉庫なのだろう、天井までみっちりと木箱が詰め込まれている。ここもやはり床がひどく 汚れていて、ねばねばする。そっちに行けと言われても、具体的な方向と相手の名前すらも教えてもらっていない のでは、動きようがない。かといって、突っ立っているわけにもいかない。まずは倉庫の外に出ようと、棚の間を 摺り抜けて人の姿が行き交う様が擦りガラス越しに見えるドアへと進んでいくと、赤い光を目の端に捉えた。

「あんさんが新入りかいな?」

 その光の正体は、タバコの火だった。慣れた手つきで洋物のタバコを吸っているのは、裾は長いがスリットが 深く入っているチャイナドレスを身に着けた若い女だった。日本語ではあるが、関西弁である。

「あ、はい。その」

 狭間が名乗ろうとすると、女は金属製の灰皿でタバコを揉み消した。

「見たところ、堅気みたいやな。なんでこんな店に働きにきたんや」

「ええと、色々と物入りでして」

「大方、借金でもこさえたんやな。女か賭け事か、どっちにしたってろくなことやあらへんな」

「ええ……まあ……」

 事態はそれよりももっと悪いが。狭間が言葉を濁らすと、女はアイラインを濃く引いた目を細める。

「まあ、うちもそんなもんやけどね。西の方からこっちに出てきたんやけど、思うようにいかへんねや。そんで、 どうにもならなくなってしもたから、この店で色んな接待をして稼いどるんや。けど、お勧めはせんわ」

「気に留めておきます」

「ほんなら、さっさと仕事に行こか。ああ、そうそう。うちの名前はコウ、よろしゅうな。あんさんは?」

「狭間真人といいます」

「ハザマか。なんや、御大層な名前やな」

 褒められていないことぐらい、狭間でも解る。気風の良い関西の女に対して、歯切れの悪い返事ばかりしていた から機嫌を損ねられたのだ。出会ったばかりの人間に愛想を振り撒けるほど器用ではないし、込み入った事情はある にはあるが、話せる相手ではない。増して、コウが日本人か否かも解らないのだから。
 料理人の怒号が飛び交う厨房の裏を通り、コウと同じ服を着た給仕係の女達が中国語で喚き散らしている部屋の 前を通り、通行の妨げになるほど木箱が積まれた廊下を通り、事務室に行き着いた。そこで、狭間はコウに通訳して もらいながら雇用契約を交わし、すぐに働きに行けと命じられた。
 それから、ひたすら皿を洗った。




 虎牢関で雇われてから、一週間が過ぎた。
 だが、下働きの皿洗いに過ぎない狭間が渾沌の情勢を探れるわけがないし、仕事量がとんでもないので、洗い場 からは片時も離れられない。休憩時間も短いので、賄いで出された昼飯を胃に詰め込んだらまたすぐに洗い場に 立たされて、ホールから運び込まれる皿の山をひたすら洗うしかない。洗浄液に浸けて汚れを浮かせてスポンジで 擦ってから、すすぎ水に浸し、仕上げの乾拭きをする。古代喫茶・ヲルドビスの仕事量が可愛く思えるほどの 忙しさで、息つく暇もなかった。疲労困憊していたため、今週はヲルドビスの仕事ではミスばかりしてしまい、海老塚 にも真琴にも麻里子にも迷惑を掛けてしまった。
 だが、ヲルドビスでの仕事が終わってもまだ気は緩められなかった。ヲルドビスの二階に連れていかれ、麻里子 が下宿している部屋に閉じ込められた。狭間の帰りを待ち侘びていたツブラ共々。重厚感のある欧風の内装と家具 には、禍々しいほど美しい少女は良く似合う。仕事着であるウェイトレスの衣装から部屋着に着替えた麻里子は、 洒落た丸テーブルとセットの椅子に狭間とツブラを座らせ、自分はベッドに腰掛けた。

「怪獣ブローカーについて何かお解りになりましたか、狭間さん」

「いえ、別に」

 一刻も早く帰りたかったので、狭間は簡潔かつ具体的に結論を述べた。実際、そうなのだから仕方ない。

「気のない御返事をなさりますね。そのおつもりでしたら、明日から真琴さんの御食事に気分が良くなるお薬でも」

「解った解った解ったから! 解ったから、真琴を巻き込むのだけは止めてくれ」

 狭間が慌てると、麻里子は陶然と微笑む。

「最初からそう仰ればよろしいのに」

「マヒト」

 不安げに触手を絡み付けてくるツブラを、狭間は撫でてやった。

「大丈夫だ。今のところは、だが。俺の先入観をなくすためなんだろうが、麻里子さんも九頭竜会も怪獣ブローカーの 疑いがある人物の名前も顔も教えてくれなかったおかげで、俺は客と店員の顔を覚えるために手当たり次第に雑用を 引き受けて動き回っていたら、皿洗いのくせに出しゃばりだのなんだのと文句を言われて冷凍庫に投げ込まれたが、 そこはまあ冷気怪獣に取り計らってもらって外に出たわけだ。……先客は何人かいたけどな」

「そういえば、中華街に乗り込んだはいいけれど消息を絶ったチンピラが何人かおりましたね」

「ああ思い出したくない、思い出したくないけど、思い出さないと話が出来ない。んで、それから、俺は鍵の掛かった 冷凍庫から出てきた男としてなぜか評価され、俺が虎牢関で働き始めた日に会った給仕係の女性が絡んでくるように なった。コウって名乗る関西弁の女で、年頃は二十歳前後ってところだな。字は解らん。そこまで深く関わっている 相手じゃないし、教えようともしなかった。日本人かどうかは解らない」

「そうですか」

 麻里子が気怠げに頬杖を付くと、短く切った黒髪の間から潰れた赤い瞳が覗く。

〈人の子。虎牢関にいる怪獣共は何か言っていたか?〉

「いいや、全く。冷凍庫の冷気怪獣、厨房のガス玉怪獣、自家発電用の発電怪獣、外回り用の車の動力怪獣、と やかましいのは山ほどいたが、冷凍庫や食糧庫に貯め込まれていた怪獣の……肉塊は静かなものだった」

 あの光景は思い出すだけで吐き気がするので、狭間はゴールデンバットを吸って胸の悪さを紛らわした。

「怪獣の肉を用いた料理は、大陸では伝統的なものですからね」

 食べたくはありませんが、と麻里子が吐き捨てると、カムロが毛先を曲げる。

〈人間如きに肉を喰われるとは、怪獣の名折れだな。そんな輩は穏健派でも強硬派でもなんでもない、ただの 家畜だ。いや、それ以下かもしれねぇな〉

「その怪獣料理が振舞われるのは店を閉めた後で、常連の予約客に限られていて、怪獣料理を作る料理人もそれ 専門の人間だそうだ。情報源は厨房のガス玉怪獣だから、まず間違いないだろう」

「イヤ、ソレ、イヤァアアア……」

 半泣きのツブラが狭間にしがみついてきたので、狭間はツブラを抱き締める。

「俺だって嫌だ。嫌だから、こうして九頭竜会に情報を流しているんじゃないか」

「他には何か、気になることはおありですか? ねえ、狭間さん?」

 狭間とツブラの痴態に苛立ちを隠そうともしない麻里子に、狭間はツブラをそっと押し戻した。

「麻里子さんこそ。親父さんを出し抜いて九頭竜会を今度こそ牛耳るつもりなら、どうして俺をこんなふうに 使うんだ? 俺よりももっと優秀な人材がいくらでもいるだろうが、そっちの業界には」

「いますけれど、差し当たって目に付いたの狭間さんだったというだけです」

〈何より、切って捨てても損害が出ねぇ。手塩に掛けて育てた組員だと、そうもいかねぇけどな〉

 麻里子とカムロの辛辣な言葉に、狭間は反論する気も失せた。どうせ、そんなところだろうと思っていたからだ。 それからしばらく詰問され、麻里子から解放されたのは午後十時半過ぎだった。欠伸を噛み殺しながら麻里子の部屋 を後にすると、風呂上がりの真琴と鉢合わせした。半袖の寝間着姿で、メガネが少々曇っている。

「兄貴、まだいたんだ」

「まー、色々とな」

 狭間は麻里子の部屋を一瞥すると、ツブラは狭間の足に隠れてしまった。

「マコト、ヤーン」

「嫌われるようなことをした覚えはないけどな。心外だ」

 真琴が不快感を示すと、狭間はツブラを宥めながら弟に問う。

「俺がいない間、ツブラを見てやってくれたか?」

「俺だってヲルドビスの仕事があるし、いちいち構っていられないよ。大体、怪獣の構い方なんて知らないし」

「普通の子供と同じだ。話を聞いてやって、触ってやって、水と飴湯を飲ませてやる。それぐらいだ」

「怪獣の話なんて解らないし、ぐねぐねした変なものに触りたくなんてないし、水なんて勝手に飲めばいい」

 真琴は刺々しく言い放ち、自室に向かった。

「おい、真琴!」

 自分のことならまだ許せるが、ツブラに向けた言葉となると話は別だ。狭間は弟の肩を掴み、振り向かせる。 つもりだったのだが、真琴に先に腕を取られ、弟の自室に引っ張り込まれた。一瞬の隙を突かれたので、ツブラ は置いてけぼりになってしまった。狭間がドアを開けようとすると、真琴はその前に施錠した。

「……おい。何のつもりだ」

 狭間が戸惑うと、真琴は顔を背けた。その横顔は、腹立たしげでもあり、面倒臭そうでもあった。

「ちったぁ休んでいけよ。アパートに戻っても、やることはあるんだろうし」

「そうなんだよ。ここんとこ忙しいもんだから、洗濯物が溜まり放題でなぁ」

「ん」

 真琴がぞんざいに突き出してきたのは、缶ビールだった。狭間はますます戸惑う。

「どこで調達した」

「愛歌さんがね。マスターに話を通して、愛歌さんから合鍵を借りて、アパートに行って兄貴がやり損なった家事 をしていたら丁度帰ってきて、これをくれた。やる」

「そんなこと言っても、愛歌さんに会いに行くのが本命なんだろ」

 弟の遠回しな気遣いをつい茶化してしまうと、真琴は缶ビールを引っ込めた。

「いらないなら、俺が飲む」

「ろくに舐めたこともないくせに、生意気言うなよ」

 狭間は改めて弟の手から缶ビールを奪うと、ドアが荒々しく乱打された。真琴を押しやって鍵を開けると、すぐに ツブラが飛び込んできて抱き付いてきたので、狭間はツブラを抱えたままドアを閉めた。真琴は不本意そうだった が、狭間の至る所に触手を巻き付けたツブラを剥がすのは並大抵のことではないので、諦めてくれた。

「学校、どうだ」

 ツブラに巻き付かれたまま、狭間は常温の缶ビールを傾けた。空きっ腹には良く沁みる。

「俺もだけど、他の連中も女子校に通うのに慣れてきたみたいで、なんだか落ち着いてきた。女子にちょっかい出す ような奴もいたけど、逆に女子にやり込められていたよ。力関係が全然違うんだよ、あの世界は」

「元町商店街にも行ってみたか?」

「行ってみたら、九頭竜会の禿げた人に絡まれて、自動車整備工場に連れていかれた」

「寺崎さんか」

「あの人、車の話をしている時だけは無害なんだね。あと、整備士の小次郎さんにすぐに兄弟だって見抜かれて、 色々と聞かれたよ。小次郎さんは良い人だけど、整備工場の社長令嬢の小学生がうるさい。でも、女で子供なのに あのヤクザの人と車の話が出来るんだから驚きだよ。専門用語をぽんぽん出してた」

「だろうなぁ」

「でも、ヤクザの人が俺にも話を振ってくれたから、一応は会話が成り立っていた。船島集落のこと、あんなに 喋ったのは初めてかもしれない。親のことも、兄貴のことも」

「何話しやがった」

「別に大したことじゃないよ。兄貴が鬼塚先輩とその一団に頻繁にカツアゲされていたこととか、そのせいで ろくな友達がいないのに一人でごちゃごちゃ喋っていて気味が悪かった、とかまあ、無難な話を」

「どこがだ。だったら、今度は俺が真琴の話をしに行ってやる。何から何まで喋ってやる」

 軽く酔ってきた狭間が言い返すと、ツブラが同調して触手を振り上げる。

「ヤルゥ!」

「ついでに、ヤクザの人に兄貴にちょっかい出さないでくれないかって話してみた。でも、ダメだった」

 真琴は濡れた髪をタオルで押さえ、俯いた。

「ごめん」

 この件に関しては、真琴には非はない。あるとすれば、不用意に九頭竜会と関わりを持ってしまった狭間にある。 一介の高校生が、暴力に耽溺している世界の住人達と渡り合えるはずがない。彼らに慣れてきた狭間であっても、 暴力を振るうことに躊躇いのない麻里子達が恐ろしい。だから、真琴は寺崎に話しかけるために、どれほどの勇気 を振り絞ったのか。容易に自分の命を消せる力を備え、それを使うことを厭わない女と同じ屋根の下で暮らすこと だけでも恐ろしいのに、自分の命と同等かそれ以上に兄の身も危うい。
 悪態を吐くのは、不安でどうしようもないからだ。その不安を受け止めることが出来るのは、不安を見せること が出来るのは、実兄だけなのだ。狭間は真琴の気が休まるまで傍にいてやり、ひたすら話した。ツブラも交えて 思いの丈をぶつけ合っているうちに時計の針が巡り、気付いた頃には日付が変わっていた。
 明日もまた、早朝から仕事だというのに。





 


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