横濱怪獣哀歌




虎穴ニ入ラズバ



 翌日。
 狭間は案の定寝過ごしてしまい、早番の仕事を遅刻したため、遅番まで皿洗いをやらされる羽目になった。当然 ながら古代喫茶・ヲルドビスの仕事は出来なくなり、申し訳なくて情けなくて仕方なかったし、疲れていたし、皿なんて もう見たくもなかったが、ここで角を立てると後が怖いので閉店するまで働いた。
 十二時間以上も立ちっぱなしで、休憩もろくに取れず、手も足も限界を迎えていた。最後の皿を洗い終えた頃には ほとんどの店員が退勤した後で、翌日の料理の仕込みをするために残っていた若手の料理人も引き揚げたので、 虎牢関は静まり返っていた。営業時間は午前八時から午後十一時で、客の数も多ければ料理人と店員の数も多い ので、朝から晩まで上へ下への大騒ぎなので、死んだように静まり返ると薄気味悪い。
 厨房も明かりが落とされ、フロアはカーテンが全て閉められ、非常灯だけがぼんやりと点いていた。生ゴミが大量 に詰まったゴミ袋がバックヤードの廊下に無造作に置かれていたが、半開きの口からはみ出している豚骨が人骨の ように思え、背筋がぞわりとした。実際、この店の冷凍庫には口封じされたであろう人間の残骸が隠されていた ので、あながち間違いでもない。そんなものを目にしたのに警察に通報しないのはどうかしている、と自戒したが、 警察に通報したところでどうにかなるものであれば、とっくの昔に誰かが通報している。つまりそういうことだ。

「よくないな、これは」

 裏社会に馴染むまいとしていたのに、いつのまにか流されている。一刻も早く日常に戻らなければ、ヲルドビスで 待っていてくれているツブラを迎えに行って、帰宅して、存分にツブラに体力を与えなくては。そのためには、まず 夕飯を食べなければ。重たい体を引き摺って更衣室に向かうと、隣の女子更衣室のドアが開いた。

「お、今、帰りかいな」

 私服に着替えたコウと鉢合わせ、狭間は挨拶した。

「御疲れ様です。今日は遅番だったんですか」

「そうや。遅番の子が急に休んでしもて、うちは休みやったんに仕事させられたんよ。ほんま、えげつないわ」

「それは大変でしたね。俺の方は、まあ、遅刻してしまいまして」

「そら、えらかったなぁ。ほんで、残業もさせられたっちゅうわけやな?」

「お察しの通りで」

 狭間は愛想笑いしながら男子更衣室に入り、古びたロッカーを開けて私服に着替えていると、ドアがノックされて コウが話しかけてきた。

「ほしたら、夜御飯はまだやろ? いにしなに適当に済ませへんか?」

「え、いいんですか」

「奢りやのうて割り勘や、割り勘。中国人相手の店でええんなら」

「構いませんよ。それじゃ、すぐに行きますんで」

「なんや、あれやな。お水のアフターみたいやな」

 コウの笑い声は明るく、一日働いたとは思い難いほど溌剌としていた。チャイナドレスを着ていた時は化粧も随分 濃かったので年齢は狭間よりも上に見えたが、ハマトラファッションに身を包み、化粧も落としてしまうといくらか 幼くなる。やや童顔ではあるが、二十歳前後といったところか。
 狭間が身支度を整えると、コウは壁にもたれかかっていた。ハイヒールを脱いでスニーカーに履き替えると身長も 下がり、狭間の胸元よりも少し下程度に目線が来ていた。つまり、小さい。愛歌はどちらかといえば長身で肉付きの いい女性なのだが、コウは体の凹凸はあっても身の丈が小ぢんまりとしているので、見ようによっては中学生程度に 見えなくもない。狭間の目線に気付き、コウは恥じらう。

「うちがええ女やからって、そんなに見はるとやすけないで」

「あ、すみません」

 狭間は気まずくなって目を逸らすと、コウは狭間の腕を取った。

「ほんなら行こか。シャッターを締められて施錠されてまうと、けったくそわるいやんか」

 コウは小柄ながらも腕力が強く、狭間をぐいっと引っ張って歩き出した。彼女に連れられるがまま、店の外に出た 途端にシャッターが閉められて施錠された。警備員か店員の誰かが来ていた気配はなかったのが。もしかして、だが、 いや、まさかな。狭間は疑問を抱えつつも、コウに案内されて路地裏にある手狭な中華料理屋に行き、狭間が選ぶ よりも先に彼女が注文してしまった料理を食べた。どれもこれも味が濃く、油が多く、香辛料がきつかったが、空腹に 任せて平らげた。量が多いわりに値段は良心的だった。
 初めて飲んだ紹興酒は、強すぎた。勢いに任せて二杯三杯と飲むんじゃなかった、と今更ながら後悔しながら、 狭間はふらつきながら帰路を辿っていた。日本酒もあまり得意ではないのに、飲み慣れていない中国酒となれば 尚更だ。食べたものが全部出なきゃいいなぁ、と弱々しく思いながら歩いていると、怪獣の声が聞こえた。

〈人の子。いい様だな〉

「誰だお前」

 路肩に座り込んだ狭間が気分の悪さを堪えて言い返すと、地を這うような低い声は言った。

〈穏健派も強硬派もお前の扱いを甘くしているが、だからといってそれに胡坐を掻いてもらっちゃ困る〉

「出来るかよ、そんなこと」

 狭間が小声で反論すると、怪獣の声は反比例して大きくなった。

〈お前がどうにかしてくれなければ、俺達はあいつらに喰い尽されてしまうというのに!〉

「虎牢関の連中のことか?」

〈他に何があるんだ。これまでも、俺達は人の子に窮状を伝えようとしていたのだが、俺達の声は強力な怪獣電波に よって掻き消されていた。人間同士の小競り合いを煽るかのようにな〉

「カムロのせいじゃないのか?」

〈あれは頭の回る怪獣だが、怪獣電波を打ち消す怪獣電波を発せるような能力はない。となれば、思い当たる節は 一つしかないんじゃないのか?〉

「……ぅ」

〈おい待てちょっと待て俺が話している途中で、ああっ、もう最低だな!〉

 怪獣が喚き散らすのを無視して、狭間は側溝に思い切りぶちまけた。食べた分だけ出てしまった。最低なのは俺の 方だ、と反論したかったが、胃の収縮が収まらないので声が出せなかった。生臭い排水に更に生臭いものをべしゃべしゃ と垂れ流していると、誰かに背中をさすられた。振り返ると、そこには知った顔があった。

「あ……えと、赤木さん」

「狭間君、大丈夫か」

 余程ひどい顔色をしていたのだろう、赤木は狭間を起き上がらせた。そういえばこの人に会うの久し振りだな、と 酔いと気分の悪さが残る頭で考えていると、水飲み場のある場所まで運ばれた。そこで水を飲ませてもらうと、 少しは胃の具合が落ち着いた。赤木は仕事帰りらしく、スーツ姿だった。

「まさかとは思うが、中華街まで飲みに来ていたのか?」

「えー、あー……色々ありまして」

 九頭竜会にスパイ活動をさせられているとは言えまい。狭間ははぐらかしてから、再度水を飲む。

「あまり深入りしない方がいいよ、俺達の仕事には」

「俺としてはそのつもりなのですが、相手の方からこっちにやってくるというかで」

「エレシュキガルの件については怪獣監督省でも把握しているが、正直、どう対処したらいいのか解らないんだ」

「専門家がいるじゃないですか、怪生研に」

「その怪生研が使い物にならないんだよ。怪獣使いの御嬢様の鶴の一声で、閉鎖に追い込まれてね」

「――――ぇ、あ、うえっ!?」

 数秒の間の後に驚き、狭間は一気に酔いが醒めた。政府直属の研究機関がそんなことで閉鎖されていいのか。 赤木も渋い顔をしていて、気を紛らわすためなのか、タバコを吸った。その煙がいやに鼻に突いた。

「研究のためにサンプリングした怪獣の組織片の管理方法に問題があったとか、怪獣の研究という名目で研究員 が怪生研の範疇を超えた行動を取っていたとか、怪獣監督省もそれに関わっていたとか、あることないことを政府 に申し出たらしくてね。研究員の大半は閑職に追い込まれるか、退職させられるかで、研究所の設備やサンプルの 怪獣の組織片に付いては綾繁家の管理下に置かれるそうだよ」

「それって無茶苦茶じゃないですか」

「無茶苦茶だけど、従うしかないんだよ。実際、この国は怪獣使いの独裁下にあるようなものだからね」

「それ、どうにもならないんですかね」

「どうにかなるようだったら、とっくの昔に誰かがどうにかしているさ」

 赤木の口調は厳しく、タバコを握る指にも力が籠っていた。だが、それが出来ないのがこの社会だ。怪獣ありきで 成り立っている世界であり、時代であり、国家だから、その怪獣を従えさせられる怪獣使いに重きが置かれるのは ごく当たり前のことなのだ。だが、それと政治は全く違うし、地位を傘にして権力を振るうのは大きな過ちだ。綾繁 枢は生まれ育った環境に何の疑問を抱いていないのは、その幼さと彼女を取り巻く環境から顧みると仕方ないこと かもしれないが、枢の従者である怪獣のヒツギまでもが怪獣使いを崇めているのは妙な気がする。怪獣達にとって の怪獣使いは、強制的に服従させられる相手なので、盲目的に従うのはおかしいような。

「――――狭間君?」

 不安げに呼び掛けられて、狭間は我に返った。考え込みすぎて、少し寝てしまったらしい。

「あ、はい、なんですか」

「聞いていないのであれば、それでいい。それでいいんだよ」

 赤木はタバコを揉み消してから立ち上がり、狭間の手を引いた。

「アパートまで送っていくよ。光永さんもそろそろ帰っている頃だろう」

「愛歌さん、随分忙しそうですね」

「本業の捜査もあるが、怪生研のこともあるからね」

 この一週間、まともに愛歌の顔を見ていない。そう思うと途端に寂しくなってきて、狭間は足早に帰宅した。ツブラ もアパートに帰ってきていて、狭間を出迎えるや否や抱き付いてきた。すぐさま触手を突っ込まれたが、酒臭いのは苦手 なのか、顔をしかめながら触手を引っ込めた。悪いことをしてしまった。
 居間で夕食を兼ねた晩酌をしていた愛歌は、ツブラが巻き付いている狭間を見、へっと頬を歪めた。親しげな笑み とは言い難い、苦々しげなものだった。その理由は解らないでもないので、狭間はツブラを離してから、ちゃぶ台に 腰を下ろした。愛歌はすっかり出来上がっていて、ビールの空き缶がいくつも転がっていた。

「愛歌さん、真琴にビールなんてあげたんですか」

「なあにそれぇ」

「俺が代わりに飲みましたけど、次からは別なやつにして下さいね。未成年なんですから、一応は」

「そんなん知るわきゃねえだろぉ、このう」

「うわあべろんべろんだ」

 先程の自分を棚に上げて狭間が呆れると、真っ赤な顔の愛歌は飲みかけのビールを押し付けてきた。

「私の仕事は怪獣使いの小娘の尻拭いじゃねぇんだよっ、ドンパチさせろぃ、暴れ足りねぇっ!」

「公私混同も甚だし、ぐふぇあっ!」

 愛歌を窘めようとしたが、缶ビールを強制的に飲まされて黙らされた。引っ込んでいた酔いがまた戻ってきて、 狭間は余計に気分が悪くなった。幸いなことに、それから程なくして愛歌が潰れてくれたので、それ以上飲む羽目 にはならずに済んだが、今度は愛歌を寝床に連れて行かなければならなくなった。こんな時こそツブラの触手の出番 だと頼んだが、ツブラは狭間が酒臭かったのが余程嫌なのか、言うことを聞いてくれなかった。
 仕方ないので、今夜は寝床を入れ替えることにした。愛歌の布団を居間に運び入れ、狭間は自分の布団を寝室 に運び入れ、ツブラも呼び寄せた。ツブラはつんと拗ねていたが、狭間が抱き寄せてやってから布団に横たわると、 急に甘えてきた。が、狭間はツブラの顔を押さえて遠ざけた。

「今はさすがに止めておけ、本当に。今さっき戻したばっかりで、その上、また酒を飲まされたから色々と最悪 なんだよ。気持ちは解るが、そういう状態であれをするのはちょっと」

「イヤ。マヒト、シタイ。マヒト、タベタイ」

 ツブラは触手を巻き付けて狭間の手を離させると、顔を寄せてきた。暗がりの中ではあったが、その距離の近さに 狭間はぎくりとした。少し離れていただけなのに、離れていたせいで今まで以上に意識してしまう。

「もらいゲロしても、知らねぇぞ」

「ン」

 狭間の忠告も厭わず、ツブラは口を開けて細めの触手をするりと伸ばしてきた。家の中なので、レインコートも ワンピースも着ていない。纏っているのは自身の触手だけだが、それも狭間と戯れた際に綻んでいる。冷たくも滑らか な触手の間に指を滑り込ませ、その下に隠されている肌を探る。人間の幼児と変わりのない肉付きの手が、狭間の指を 戒めるように手を繋いでくるが、敢えて振り解いて、腰に手を這わせる。

「ンッ」

 ツブラの目の間に小さく皺が寄ったが、不快感によるものではない。それぐらい、触手の動きで解る。狭間の喉 の奥に差し込まれた触手は羽毛のようにかすかに粘膜を撫で、狭間の舌を求めてくる。出会ったばかりの頃はただの 捕食行動しか行わなかったから、喉の粘膜は何度も痛めつけられたが、今は違う。狭間の体力よりも、愛撫を欲して くる。まだ酔っているからだ、と狭間は自分に言い訳をして異形の娘に情欲をぶつけた。
 そうすると、少しは不安が紛れた。





 


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