横濱怪獣哀歌




虎穴ニ入ラズバ



 更に翌日。
 狭間はロッカーに閉じ込められた。今日は遅刻もせず、無駄口も叩かず、皿洗いの職務を全うしたのに、帰りがけに 古株の店員に掴まって更衣室に引き摺られ、誰も使っていないロッカーに投げ込まれて今に至る。暗く狭い空間には 汗やら埃やらの臭気が詰まっていて、居心地が悪い。鍵を外側から掛けられたらしく、ステンレス製のドアを何度か 蹴ってもびくともしなかった。投げ込まれる際に中国語で罵倒された。意味は解らなくとも、その語気で怒りの程度 は解る。恐らく、昨日、コウと一緒に仕事を上がって夕食を共にしたのを店員の誰かに見られたのだ。そして、それが 彼らを苛立たせているのだろう。コウに填められたな、と気付いたのは今さっきだ。
 
「あーあ」

 学生時代もろくな目に遭っていなかったが、ここまでひどくはなかった。タバコを吸いたかったが、生憎、それは 自分のロッカーの中だ。狭間が舌打ちすると、どこからか聞き慣れた声が聞こえた。

〈いい格好だな、人の子。笑えちまうぜ〉

「……その声、カムロか?」

 だが、カムロそのものの気配はない。となると、カムロの髪の毛を仕込まれたと考えるべきだ。その場所は考える までもない。狭間は縛ってある髪を解いて掻き回し、手応えが違うものを見つけ出すと、引っこ抜いた。

〈気付くのが遅ぇんだよ、人の子のくせによ!〉

 狭間の髪よりも少し長めの黒髪、カムロの分身は髪の太さと同等の赤い目を出した。大方、麻里子が狭間が命令 通りに仕事をしているのかどうかを見張るために仕込んだのだろう。腹立たしくなって投げ捨てようとしたが、ふと、 あることに気付いた。麻里子と会った時に仕込まれたとなれば、昨夜の一部始終を、ツブラとのじゃれ合いをカムロ と麻里子に知られているというわけであって。途端に血の気が引き、狭間は後退ろうとしたが、ロッカーに後頭部を 激突させただけだった。酔いも情欲も冷めてしまうと、恥ずかしくてどうしようもない。

「う、おっ、お、お前と麻里子さん、な、何をどこまで」

 声を震わせながら狭間が問うと、カムロの分身は髪の毛をくるりと捻った。

〈あそこまでやっといて出すモノも出さねぇなんて、人の子は相当出来上がっていたみたいだな?〉

「そこまでやるのは人としてどうかと思うし、だぁっ、大体、ツブラはあの成りだから無理だろうが色々と!」

〈てぇことは、天の子が大きくなればヤる気なのか〉

 それ以上は答えられず、狭間はずるずるとへたり込んだ。自分は男であり、ツブラは見かけだけかもしれないが 女であるが、まだ子供なのだ。そして怪獣だ。しかし、ツブラへの好意を自覚してからというもの、日に日にツブラ に対して感じる情欲が強くなっているのもまた事実である。悔しいが、カムロの言う通り、昨日は酒の周りが良すぎて 役に立たなかったから、あの程度で済んだのだ。だが、次はどうなることやら。
 自分の浅ましさに恥じ入った狭間が頭を抱えていると、カムロの分身がちくちくと刺してきた。外に出ろとでも 言いたげだが、生憎、ロッカーのドアが開かないのだから。狭間がカムロの分身を振り払ってから文句を言おうと すると、錠前が独りでに開き、軽く軋みながら細長いドアが開いた。

「カムロ、お前の仕業か」

〈他に誰がいるってんだよ。鍵開けぐらい、俺にとってはどうってこたぁない〉

 カムロの分身は得意げにくねるが、それを無視し、狭間はロッカーの外に出た。狭いところにいたせいで強張った 手足を伸ばし、背骨を鳴らしてから、自分のロッカーを開けて私物を出した。

〈おいおいおいちょっと待て、このまま帰る気かよ!〉

「仕事が終わってもうろうろしていたら、余計に怪しまれるだろうが」

 洗剤やら油汚れで汚れきった作業着を脱いで私服に着替え、狭間は髪を結び直した。が、その手をまたもカムロの 分身が刺してきた。蚊よりも少し強い程度だが、だからこそ煩わしい。

「なんだよ、しつこいな」

 羞恥心と苛立ちに任せてカムロの分身を床に叩き付けるが、相手は怪獣であり悪党だ。そう簡単にへこたれるわけ がなく、狭間のジーンズを這い上がってきて目の前に戻ってきた。また神経に刺さってきたら後が大変なので、カムロ の分身を手で絡め取って握り締めてやると、別の怪獣の声がした。

〈そうだ。人の子をこのまま帰らせるわけにはいかない〉

 カムロよりも整然とした声色だった。昨日も耳にした声だが、その怪獣の姿が見当たらない。狭間が狭く汚らしい 部屋を見回していると、蛍光灯が点滅した。

〈俺はシスイ。この建物そのものだ〉

「お前の体の一部がビルの構造物に使われているってことか?」

〈だったら、こんなに意識ははっきりしちゃいない。言葉通りだ。聞いたことがあるだろう、一夜城の話を〉

「豊臣秀吉の?」

〈そうだ。あれはあの時代にいた楼閣怪獣を怪獣使いが見事に操り、成し遂げた奇策だ。人間からすれば、俺達は ただの建物にしか見えないだろうが、それは俺達がそういう形に擬態しているからだ。小振りな楼閣怪獣はマヨヒガ と呼ばれていて、山奥に忽然と現れる家として人々には知られている。つまり、俺が虎牢関なんだ〉

「でも、名前はシスイってのは……ああ、三国志か」

〈あの時代にも数多くの楼閣怪獣が城塞として活躍したが、戦乱の最中にいくつもの怪獣が焼き討ちに遭い、皆、 傷を癒すために地中に没してしまった。俺は海を渡ってこの国に至り、他の建物に混じってひっそりと生きていた んだが、渾沌の頭領は俺が楼閣怪獣であると一目で見抜いてしまった。これまでは、誰にも悟られなかったのに。 その日から、俺は渾沌の慰み者にされている。だが、俺は地中深くに根を張っているから、逃げようがない。かと いって、光の巨人を呼び出して渾沌共々滅ぶのは俺の趣味じゃない。そこでだ、人の子。桜木町の地下に張り巡らされた、 俺の根を切ってきてくれないか〉

〈デタラメ言い出しやがる〉

「全くだ」

 カムロの分身の言葉に、狭間は心の底から同意した。

「地下は広いし、深い。根を切れと言われても、どれを切ればいいやら。そもそも俺は怪力じゃない」

〈いやなに、太い根を何本か切ってくれればいい。後は自分でどうにかするから。根が抜けたら、自力で土台から 抜け出して海に出ていくから。それだけでいいから。後生だから!〉

〈そんな与太話を吹っ掛けてくるとは、俺を填める気か? だが、麻里子は填まらないぜ?〉

 シスイにカムロの分身が言い返すと、蛍光灯が消え、局地的な停電が訪れる。

〈この抗争、九頭竜会に勝たせてやると言っているんだ。断る理由もないだろう? 俺、すなわち虎牢関は渾沌の 根城でもあるが財源だ。その俺が抜けてしまえば、九頭竜会に追い風が吹くのは間違いない〉

 怪獣同士の腹の探り合いが、狭間の頭越しに始まった。勝手にしてくれよ、と狭間はこの場から去ろうとしたが、 更衣室のドアは頑なに開かなかった。先程の話を受けるか否かを答えていないから、シスイが施錠したようだった。 だが、地下に潜って怪獣の根を切れ、と言われても何をどうすればいいやら。そもそも、怪獣を切れる刃物なんて その辺に転がっているわけがない。と、思っていると、その思考を怪獣電波経由で読まれたのか、カムロの分身が にやりとするように髪の毛を捻った。

〈人の子がその気になるってんなら、ヴィチロークの野郎を貸してやってもいい。但し、条件がある〉

「さっさと言え」

 こうなっては、断れそうにない。狭間がぞんざいに言い返すと、カムロの分身は狭間を指す。

〈麻里子の結婚式に友人として出席しろ〉

「……はあ!?」

 なんでそうなる。狭間が面食らうと、シスイも不思議がった。

〈カムロは変な奴だと聞いていたが、本当に変なんだな〉

〈で、その条件で受けるのか受けないのか、さっさと答えやがれ〉

 カムロの分身にせっつかれ、狭間はしばらく唸っていたが、承諾した。

「まあ、その程度のことであれば。麻里子さんの結婚式なんて、何年も先のことだろうしな」

〈良い心掛けだ。御祝儀もたっぷり弾んでくれよ? というわけだ、シスイ。交渉成立だ〉

 カムロの分身が天井を指し示すと、蛍光灯が蘇った。

〈了解だ。俺は渾沌が傾くように動く、カムロは九頭竜会の組長代理をそそのかす、人の子は俺の根を切る。利害関係は 一致しているんだ、誰も裏切るなよ? 俺の成功報酬は自由、九頭竜会の成功報酬は中華街の覇権、人の子 は……まあ、いいか。適当にその辺で利益を拾い上げてくれ〉

 よくねぇ、と狭間はシスイに突っかかりそうになったが、相手は怪獣だ。怪獣の使い走りの分際で、怪獣から利益 を得られると思う方が間違いなのだと思い直した。それから怪獣同士で話し合いが始まり、更に小一時間経過して から、やっと狭間は解放されたが、その頃には夜中の十二時を回っていた。昨日一昨日も帰宅が深夜になったが、 今夜もそうなってしまった。ツブラは拗ねているだろうなぁ、と考えるだけで寂しくなってくる。
 夜空の下で吸ったゴールデンバットが、一段と沁みた。




 そのまた翌日。
 ツブラに拗ねに拗ねられて嫌われてしまったのが予想上にショックで、寝付きも悪ければ寝起きも早かったの で、狭間は虎牢関の始業時間よりも一時間以上も早くアパートを出て、早朝の山下公園に至っていた。喉の奥には 触手を乱暴に突っ込まれた違和感が残っているが、それがまた切なさを煽り立てる。今朝のツブラは義務的に体力を 吸っただけで、キスさえもしてくれなかった。抱き締めるのも拒否された。ツブラの気持ちは痛いほど解るのだが、 仕事をしなければ明日をも知れない身なのだ。だから、今ばかりは耐えるしかないのだ。
 朝露で湿ったベンチに腰を下ろしてゴールデンバットを吸おうとしたが、寝起きの一服で吸い終えてしまっていた ので空っぽだった。空袋をぐしゃりと握り潰してポケットに押し込め、狭間は深く深く嘆息した。発電怪獣バンリュウ からは心配され、他の怪獣達は狭間の身に何が起きているのかを囁き合ったが、眠気も相まって面倒臭かったので 全て無視した。出来ることなら、人間同士の抗争も怪獣同士の抗争も放り出して逃げ出してしまいたいが、それが 出来ないのが自分なのだ。中途半端に真面目だから、一度引き受けたことを投げ出せない。

〈大変そうね、人の子〉

 汽笛混じりに朗らかに話しかけてきたのは、氷川丸だった。

「どいつもこいつも、俺を間に挟みやがる。当人同士で正面切ってやり合えばいいものを」

 狭間が愚痴を零すと、氷川丸は微笑む。

〈それだけ、皆、人の子を頼りにしているのよ〉

「それはどうだかな」

 氷川丸の声を聞くのは、なんだか久し振りだ。狭間は冷ややかな朝の空気を吸い、吐く。

「エレシュキガルはどこにいる」

〈知っていても、言う義理はないわ〉

「そうかい。だったら、それだけ聞けば充分だ」

 シスイの言っていたことを鵜呑みにするほど浅はかではないが、氷川丸を疑わないほど愚かでもない。他の怪獣 達とは一線を画した人格の持ち主である氷川丸は、その柔らかな態度と語気から善良なのだと漠然と感じていた が、それはただの思い込みでしかなかったようだ。稀代の美少女である麻里子が残虐な嗜好を備えているように、 人当たりが良いからといって本性までそうだとは限らないのだ。人間の世界でもよくあることなのだから、怪獣 にも当て嵌まるとしてもなんらおかしくはない。
 だが、物事には順番がある。目の前の厄介事を取り除かなければならない。狭間は勢いを付けて立ち上がると、 氷川丸に背を向けた。今日こそは定時で帰り、ヲルドビスにツブラを迎えに行くためにも、始業時間よりも早めに 出勤し、トラブルを回避しなければ。そして、ツブラと仲直りして存分に可愛がるのだ。
 狭間が得る報酬は、それだけだ。





 


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