狭間が出勤すると、薬膳中華・虎牢関が傾いていた。 物理的に、である。その様に、狭間はかの有名なピサの斜塔が脳裏に過ぎった。あれもかなり年季の入った楼閣 怪獣で、イタリアのピサ市にある大聖堂の鐘楼として使われていたのだが、地盤沈下と当獣の衰えによって傾いて しまったのだ。そんなことを考えながら、狭間は人差し指と親指を九十度にして、傾斜角度を測った。どう少なめに 見積もっても、一〇度は右に傾いている。虎牢関そのものである、楼閣怪獣シスイの仕業だ。 虎牢関の前では、従業員達がざわついていた。店に入ろうにも、ドアや窓が枠ごと歪んでいるので入れないから である。いつにも増して荒々しい中国語が飛び交い、通りがかった人々は足を止めて、興味深げに傾いた虎牢関を 見上げている。この騒ぎに乗じて中華街を抜け出そう、と狭間はいそいそと去ろうとすると、雑踏から少し離れた ところで座り込んでいる、一際大柄な男が目に付いた。中国式の年代物のキセルを銜えていて、黄色と黒の縞模様 というトラの毛皮のような強烈な柄のスーツを着ていた。顔付きは厳めしく、目は野生動物の如く鋭い。 「なんじゃい、若ぇの」 大柄な男は関西訛りのきつい日本語を喋り、狭間と目を合わせた。 「ああ、いえ、なんでもありません、失礼します」 狭間が立ち去ろうとすると、男は人々を掻き分けて狭間に近付き、行く手を阻んだ。近付かれると、尚更その背丈 の大きさに圧倒される。二メートル以上はあろうかという体には分厚く筋肉が付き、趣味の悪いスーツは針で突けば 弾けそうなほど張り詰めている。キセルを弄ぶ指は骨太だが器用なのか、細い金属管をくるくると回している。 「ほうか、おぬしがうちの店で最近働き出したっちゅう」 関西というよりも、広島の訛りだった。となれば、この男は。狭間は佇まいを直すと、逸らしたくてたまらない 目を必死に留め、男と目を合わせたが、一秒も耐えられなかった。早朝で日が昇り切っていないので、まだ暑くは ないはずなのに、汗がどっと出てきて顎にまで滴った。 「そがぁに固くならんどもええ、別に取って喰いやせん」 男は豪快に笑ったが、狭間は笑えなかった。男が笑うたびに、ストライプのワイシャツの襟元に隠れた太い首筋 に刻まれた刺青が垣間見える。男の笑い声が広がると、先程まで騒ぎ立てていた虎牢関の従業員達は静まり返り、 整然と男に向き直る。狭間を散々虐げていた皿洗いの男も、狭間が日本語を喋るたびに突き飛ばしてきた料理人の 男も、狭間と廊下で擦れ違うたびに罵倒してきた給仕の女も、皆、神妙な面持ちで男を見つめている。 男は懐から小さな缶を出し、その中にキセルの灰を叩き落とした。かん、と高い金属音が響き渡ると、一層緊張が 高ぶった。幅の広い顎を覆う顎髭は剛毛で、後ろに撫で付けている髪もまた黒々としている。右の頬には三本の傷が 横向きに付いていて、ネコのヒゲのようにも見えたが、ユーモラスさは全くなかった。男の強さを知らしめる勲章で だからだ。キセルを指の間で転がしながら、男――薬膳中華・虎牢関のオーナーにして渾沌の頭領、金虎 「店がこうなってもうたんじゃ、仕事になりゃあせん。しばらくは休みじゃ。店を建て直すめどが付いたら、その時は 仕事をさせちゃるわい。ちゅうわけじゃから、今日のところは解散じゃ。ほうれ、さっさと散れ」 ジンフーが手を振ると、途端に従業員達は散り散りになった。今、この場を離れても、また後で渾沌のアジトなり なんなりに呼びつけられるのだろうが。狭間は表情を取り繕いながら、中華街から脱して元町まで戻ると、ようやく 生きた心地が戻ってきた。九頭竜会の組長、九頭竜総司郎とはまた違った迫力の固まりだった。二度と会いたくない なぁ、でもどうせまた会っちまうんだろうなぁ、とびくつきながら、狭間は川沿いに歩いていった。 〈おい、人の子!〉 虎牢関そのものである楼閣怪獣シスイの声だった。狭間は人目を気にしつつ、小声で応じる。 「なんだよ。有言実行は結構だが、行動に出るのが早すぎないか」 〈違う、これは俺のせいじゃない。俺の意思じゃない。俺の根が消されたんだ〉 「……まさか」 光の巨人か。狭間はビルとビルの間に隠れ、タバコを銜えた。荒事にばかり巻き込まれて疲弊した精神の安定を 図るためなのだろう、近頃、吸う頻度も本数も増えてしまった。自制しなければと思うのだが、止められない。 〈それ以外に考えられるかよ? だが、俺は誰にも危害を加えたりはしない。地面から抜ける時だって、誰にも迷惑を 掛けずに立ち上がるつもりだったんだ。俺の根が張っているせいで崩れたアスファルトと土も丸ごと持ち上げて、海に 出る手筈だったんだ。だが、俺の足となる太い根が消されちまった。動けなくなったわけじゃないが、重心が上手い こと定まらなくなった。新しく根を生やして安定させるには一週間は掛かる。いっそのこと、四方の根を均等に 消してもらえれば、バランスが取れるようになって歩き出せるんだが〉 「具体的には、どこの根だ」 狭間は虎牢関の方角を窺いながら問うと、シスイは答えた。 〈俺の真下から西側に十二メートルの下水管に張っていた根だ。誰かがいるような気配もするんだが、俺は根に目が あるわけじゃないから、それが何なのかまでは……。だが、エレシュキガルじゃないのは確かだ〉 「エレシュキガルじゃなくても、放っておくのはよくなさそうだなぁ」 ゴールデンバットの煙を吐き出してから、狭間はぼやいた。 「何を一人でごちゃごちゃ言っとんねや」 突然、狭間の目の前に女が顔を出してきた。私服姿のコウだった。狭間はぎょっとして後退る。 「ああ、いえ、なんでも」 「一本、もろてええか?」 「あ、まあ、どうぞ」 狭間がゴールデンバットの箱を差し出すと、コウはそれを抜いて銜え、ライターで火を灯した。 「なんや、えらいことになってしもたなぁ。水道管が破裂したわけやなさそうやから、落盤なんやろか」 「何にせよ、店が元に戻るまでは時間が掛かりますね」 コウと隣り合ってタバコを吹かしつつ、狭間は頬を歪めた。仕事量が減るのはありがたいが、その分、実入りも 減るのはいいことではない。コウは人差し指と中指の間にタバコを挟み、深く吸った。 「またえらい安モンを吸っとるなぁ」 「すみません」 「別に謝るほどのことでもないやろ。ごっつ不味いモンやないし」 コウは口紅を塗った唇の端から紫煙を零し、薄汚れた壁にもたれかかる。 「虎牢関は二号店も三号店もあるさかい、すぐにそっちの店に回されるやろ。明日にも連絡が来るかもしれんから、 じっとしとることやな。電話が掛かってきた時に取れんかったら、その場でクビが飛んでまうで」 「コウさんは虎牢関の仕事を続けるんですか」 「そら、まあな。他に当てもあらへんし、給仕の仕事は嫌いやないんや。チップも弾んでもらえるしな」 コウはタバコの灰を落としてから、狭間を興味深げに見上げてくる。 「そういう狭間君はどないすんねや。喫茶店のバイトと並行しとるんやろ? 皿洗いなんかより、もっと割のええ仕事 がいくらでもあるで?」 「色々と事情がありまして」 話せないことばかりだが。狭間がはぐらかそうとすると、コウは少女のように無邪気に笑んだ。 「伊達に九頭竜会の手先っちゅうわけやなさそうやな。粉掛けても払われるばっかりやがな」 なぜ、知っている。狭間は目を剥いてフィルターを思い切り噛んでしまうと、コウはタバコを指の間で弄ぶ。 「狭間君、堅気やろ? そんなん、一目見りゃ解るがな。九頭竜会にどんな弱みを握られとるかは知らんけど、何も かも言いなりになっとったってええことないで、ホンマ。ええ機会やから、トンズラしたらええねん。九頭竜会も渾沌も 本格的に敵に回すことになるかもしれんけどもな。それが嫌やったら、うちの男にしたってもええで?」 「冗談にしても笑えないですよ、それ。ということは、あなたは渾沌の」 「そう言うわりに、驚いとらんな。ちったぁ場数は踏んどるっちゅうわけやな」 コウは火の付いたタバコを素早く上げ、狭間の眼球にひたりと据えた。熱気と煙の粒子が、粘膜を刺す。 「ビビりもせんとは。堅気っちゅうほど堅気やなさそうやけど、ヤクザモンでもあらへん。何モンや、あんさん」 ぢり、とタバコの巻紙が焦げて縮れる様を目の当たりにしながら、狭間は腰が引けていた。が、顔に出なかった のは、以前からコウに対しては猜疑心を抱いていたからだろう。だから、彼女に近付かれる際には少なからず警戒心を 抱いていたのだが、それが功を奏したようだ。もちろん、内心では心底驚いているし怯えている。 「ま、ええわ。狭間君がそのつもりやったら、うちも手加減せぇへんで。親父がのう、焦れとるんや。九頭竜会が妙に しぶといもんやから、このままじゃ埒が明かへん。せやから、何が起きてもおかしかないで」 ほな、またな、と言い残してコウはビルの間から出ていった。彼女の小柄な背を見送ってからしばらくして、狭間は ずるりと座り込んだ。虚勢が緩んだせいで、力が抜けてしまった。平静を取り戻すためにはタバコを二本吸い切るほどの 時間を有したが、足に力が戻ってきたので、狭間は帰路を辿った。 中華街を出て元町に入ると、そこからは九頭竜会の縄張りである。虎牢関のことを問い詰められたら面倒だな、と 思いながら足を進めていると、今度は須藤に掴まった。あれよあれよと言う間にマリアンヌ貿易会社に連れ込まれ、 あの忌まわしき社長室に放り込まれて応接セットに座らされ、須藤と向き合わされた。 「あれはお前の仕業か?」 開口一番、須藤は問うてきた。主語は抜けていたが、意味は伝わる。 「いえ、違いますよ。俺にそんな芸当が出来るわけないじゃないですか。怪獣使いじゃないんですから」 狭間が率直に事実を述べると、須藤は左腕を意味ありげに差し出してきた。 「だったら、虎牢関の楼閣怪獣から聞き出せ。それが出来なければ――」 〈俺が力ずくでも聞き出させてやる、と須藤は言いたいんだそうだ〉 須藤が左手を覆う手袋を外すと、怪獣義肢であるシニスターが赤い目をぎょろつかせた。 「須藤さんは、虎牢関が楼閣怪獣だと御存知だったんですね」 「その筋では有名過ぎるほど有名な話だからな。事と次第によっては、こいつでお前の指を詰める」 そう言いつつ、須藤は一振りの日本刀をテーブルに横たえた。斬撃怪獣ヴィチロークである。 〈俺は俺が認めた相手にしか刃を振るわせないが、この際仕方ない。須藤に俺の柄を握らせてやるよ〉 この前は怪獣使いと九頭竜会の間に挟まれたが、今回は渾沌と九頭竜会の間に挟まれてしまったらしい。正直 言ってうんざりしているが、逃げ出せないのは前回と同じだ。しかし、どちらの言いなりになったところで、狭間に 利益は出ないだろう。どちらかを立てればどちらかが沈んでしまうのだから、その合間に立たされている狭間は最も 先に沈んでしまうはずだ。となれば、自力で浮き上がるしかない。 「楼閣怪獣シスイが言うには、光の巨人が地下に現れて根が消えたから虎牢関が傾いた、ってことだそうで。なぜ 地下に現れたのかを調べるには、地下に潜る必要があります。それと、虎牢関そのものであるシスイは中華街から 逃げ出したがっているんです。だから、それを成功させてやれば、九頭竜会は有利になるんじゃないんですか? それなのに、シスイを自由にする手伝いをしてやれる俺を咎めるんですか?」 狭間は自分の立場を少しばかり利用し、須藤に文句をぶつけ、話の矛先を変えた。 「戦況は九頭竜会に傾くかもしれんが、あまりにも不可解な事件だから、何がどうなっているのか把握しておく のが幹部の仕事だろうが。そして、把握するべき情報を運んでくるのが下っ端の仕事だ」 「ごもっともです」 そう言われては反論のしようがない。狭間は強く出るのを諦め、へらっとした。 「一日だ。それだけの時間とヴィチロークをやるが、それよりも一秒でも長く待たせてみろ。容赦はしない」 須藤は左手で日本刀の鞘を掴み、狭間に突き出してきた。ほんの少しではあったが猶予を得られたので、全くの 無駄ではなかったようだ。 「では、お預かりします」 だが、この一件から引き下がれたわけではない。狭間はヴィチロークを受け取り、それを隠すための竹刀袋も貸して もらってからマリアンヌ貿易会社を後にした。が、とてつもない後悔に襲われ、またも物陰に隠れてタバコを吸った。 そうでもしないと、気が紛れなかったからだ。のらりくらりと逃げられたらいいのに、とは思うが、狭間は口の周り もそれほど良くないし、何より要領が良くない。だから、こうなってしまう。 ヴィチロークにごちゃごちゃと話しかけられながら、狭間は竹刀袋入りの斬撃怪獣を担いで改めて帰路を辿り、自宅 であるフォートレス大神に戻ってきた。そこである程度の身支度を終えてから、古代喫茶・ヲルドビスに立ち寄り、 いい子にしていたツブラを連れ出した。海老塚も虎牢関の件を把握しているのか、尋ねてきたが、狭間は見てきた ままを伝えてからヲルドビスを後にした。ツブラはどこに連れていかれるのかを気にしていたが、狭間はそれどころ ではなかったので言いそびれてしまった。ここまで来たら腹を括り、開き直るしかない。 そう思えたのは、下水道に入る直前だった。 14 12/17 |