横濱怪獣哀歌




迷宮故事



 朧気ながら、狭間にも羽生の考えが解った。
 光の巨人が消失させられるのは、その体格と同等の質量であり、怪獣が人的被害をもたらすであろう危険性に 応じて出現時の体格は変わる。だから、怪獣を用いてごく浅い切り傷を作り、その痛みと傷に値する小ささの光の 天使を出現させる。ほんの数歩歩いただけで力尽きる程度の、本当に弱いものを。光の巨人の行動パターンさえ 把握していれば、どう動くのかが予想出来ていれば、光の天使を呼び出した当人は被害を回避出来る。
 だが、だからといって、こんなことが許されるものか。狭間は怒りとも恐怖ともつかない感情に襲われ、ツブラ の肩を抱き締める手が震えた。光の天使ではなく光の巨人が出現したらどうするのか。そもそも、人類にとって 最悪の災害を操れるわけがない。今のところは光の天使を操れているように見えても、羽生の意図を光の巨人側に―― いや、エレシュキガルに悟られたら。神話怪獣への冒涜だと思われたら、きっと。

「いいかい、狭間君」

 左手の親指に滲んだ鮮血を舐め取った羽生は、爬虫類じみた形相で口角を歪める。

「これはこの僕にしか出来ないことなんだよ。だから、真似をしようとは思わないことだね」

「出来るわけ、ないじゃないですか」

 狭間はツブラを抱き竦めて後退ると、羽生は乱れた髪を掻き上げる。

「だが、こんなのは研究の第一段階に過ぎないんだよ」

「やめましょうよ、こんなこと。いつか、羽生さんが命を落としますよ」

 言うだけ無駄だと解っていたが、言わずにはいられなかった。狭間が言葉を絞り出すと、羽生は肩を震わす。

「ああ、そうだね。この僕は死ぬはずだったんだ。生まれ故郷の村で。あの日、帰るはずだった家で。だけど、 いつだってこの僕だけは生き延びてしまう。姉さんも、満月も、この僕の子もいなくなったというのにね。でも、 この僕はまだ死ねない。死ぬ気ではいるけど、死ねるはずもない。この頭脳が死なせてくれない」

「それじゃあ、奥さんは」

「満月はここにいる。この僕の傍に、ずっといる。いるけど、触れられない」

 狭間が懐中電灯を上げると、羽生は闇が凝固した空間に手を差し伸べ、いつになく優しい顔になる。

「いるんだ」

 薄汚れた手で虚空を握り締めた羽生は、愛情深い眼差しを闇へと注ぐ。その声色もまた暖かく、彼の心根を支えて いるものがそこに在るのだと狭間も痛感した。きっと、羽生の妻である満月は光の巨人が出現した際に自宅ごと消失 してしまったのだろう。羽生はそれを理解しているし、認識しているが、納得出来ていない。だから、妻とその 胎内に宿っていたであろう我が子を思うがあまりに、研究の末に光の巨人を操る手段を生み出した。

「……お子さんは、どのくらいだったんですか」

 狭間が小声で問うと、羽生はいやに照れ臭そうに顔を逸らす。

「もう安定期に入っている頃じゃないかな。何事もなければ」

 つまり、羽生が妻を失ったのは半年前の出来事だ。狭間は記憶を掘り起し、それに該当する災害が東京都内で 起きたことまでもを思い出すと、喉の奥で声を潰した。両親と良く知る人々と生まれ故郷が消し去られた際の 苦しみが蘇り、手足が冷え込んでいく。それに気付いたのか、羽生は狭間の肩を支える。

「君はこの僕が狂っていると思ったかい」

 思えるが、思い切れない。狭間が首を弱く横に振ると、羽生は狭間の腕の中のツブラを見下ろす。

「何かをせずにはいられないんだ。あの日に戻れるわけでもないのに、取り戻せるものはないのに、じっとして いると自分が腐っていくような気がするんだ。だから、やれることを全てやり尽くそうと思ってね」

「俺は……あなたを咎められません」

「この僕も、君の愚行を笑えないよ。ヴィチロークを連れてきたことから察するに、九頭竜会の言いなりになっている んだろう。弟さんが人質に取られているか何かで。九頭竜会と渾沌の抗争に首を突っ込むことからして褒められたこと ではないし、逆らおうともせずに抗争に深入りしていることにも呆れ果ててしまうけど、でも」

 羽生はダンヒルを銜えるも、やはり火は灯さなかった。 

「どこまで関わらされている?」

「色々と。要点は、渾沌に潜入して怪獣ブローカーが誰なのかを炙り出せってことですけど、誰が何やら」

「それは役に立てるかもしれない。だけど、すぐには案内出来ないね。あちらにも都合がある」

 羽生はダンヒルを一本抜いて差し出してきたので、狭間はそれを受け取った。

「そんなことをすれば、羽生さんも睨まれませんか」

「楽園にのさばるアダムとイブを丸め込んで毒を飲ませるのは、ヘビの仕事だよ」

 タバコを銜えたまま羽生は立ち上がり、白衣のポケットから懐中電灯を出した。

「この僕の話し相手になってくれた礼だ、特別に案内してあげようじゃないか。楼閣怪獣の願いを叶えよう」

 そう言って、羽生は歩き出した。狭間はツブラと共にその背を追ったが、苦い思いが拭えなかった。狭間も羽生 も、出口のない迷路を歩き回っている。今、していることは正しいことではないのに、何もせずに突っ立っているの は害悪だとすら感じてしまう。そんなものは消えた者達に対する贖罪にも何もならないのに、敢えて悪路を選んでは 後悔している。悪人共に振り回されるのは嫌なくせに、自分の道筋が見えないからと他人の示す道を辿っている。 それが、迷宮でなければ何だというんだ。狭間はツブラと繋いだ手を強く握ると、強く握り返された。
 出口のない闇だけが続いていた。




 楼閣怪獣が旅立った後は、土台すらも残っていなかった。
 横浜湾へと至る道筋に建っていた建物は一つ残らず踏み潰されていて、随分と見通しが良くなっている。瓦礫の 連なる空間から海を臨むと、木の根に似た足をうねらせながら虎牢関本店が悠々と闊歩していた。自由を得た楼閣 怪獣を歓迎しているのか、横浜湾に横たわっている発電怪獣バンリュウは電流を放って点滅させていた。
 その光景を、狭間は山下公園の一角から眺めていた。背中には竹刀袋に戻したヴィチロークがおり、膝の間には 変装を整えたツブラが座っている。楼閣怪獣シスイの根は半分以上が切断されていたが、体液が漏れているような 様子もなく、至って平然と歩いている。羽生は光の天使を出して根を消してやると言ったが、二度も三度も危険な ことはさせられないので、狭間がヴィチロークを振るって根を切り裂いた。その切り口が鮮やかだったから痛みも 少ないのか、シスイの足取りは思いの外軽かった。一歩進むごとに左右に大きく揺れる長方形の箱はユーモラスで、 漏れ聞こえてくるシスイの鼻歌も上機嫌だった。そのリズムは、ツブラの歌に少し似ている気がした。

〈人の子〉

 ぎち、と背後でヴィチロークが鍔を上げ、竹刀袋の中でごそりと動いた。

〈あの男に使われていた奴……ヒゴノカミだが〉

「なんにも喋らなかったぞ」

〈あいつは穏健派でも強硬派でもなさそうだが、変な奴だな。下手を打てば自分が消されるかもしれないのに、 あの男に逆らおうともしないとはな〉

「怪獣にも色々ある。それだけのことだろ」

 羽生からもらったタバコに火を灯して吸ってから、別れ際に渡されたメモ用紙をポケットの中で握り潰す。

「ヴィチロークと何をお話ししておられるんです?」

 潮風に靡く髪を押さえながら近付いてきたのは、制服姿の九頭竜麻里子だった。

「大したことじゃない。やるべきことはやった、ヴィチロークを返すよ」

 狭間がヴィチロークを麻里子に差し出すと、麻里子の短く切られた髪が分かれて潰れた赤い瞳が現れた。

〈おい、ヴィチローク。ヘビ男を放っておくつもりなのか? あれは危険だ、怪獣にとっても〉

〈違うな。泳がせておくと言ってもらおうか〉

 カムロに言い返したヴィチロークは、ぱちん、と鍔を下ろした。

〈光の巨人を操る、というより、光の巨人に魅入られた人間はそういない。いずれ役に立つ、魔法使いのように〉

〈おいおいおいおい……。麻里子と総司郎が渾沌にケンカを売っていやがるんだ、そっちが重要だろうが〉

〈だが、それは人間同士の小競り合いだ。俺達が戦うべきはエレシュキガルだ。違うか、カムロ?〉

〈違わねぇが、今じゃないだろ〉

〈だが、エレシュキガルは現状の俺達では触れることすらままならない。だから、今は諦観する〉

〈戦うつもりのくせに、戦う前から及び腰か? お前は腑抜けだな、ヴィチローク〉

〈相手は神話怪獣だ。俺達が手出し出来る土俵に降りてくるまで待つしかない。魔法使いが引き摺り下ろしてくれる 時まで、じっとしているんだ〉

〈魔法使いなんか当てになるかよ〉

〈ならない。だが、利用出来るものは利用すべきだ。今の俺達は、道具として扱われることに慣れすぎた。生き物と しての活力は衰え、獣としての猛りもない。だから、その力を持つ者の威を借りておくしかない〉

 ヴィチロークがきっぱりと断言すると、カムロが瞼を下げるように髪を狭めた。

〈……痛いところを突きやがって。そこまで言うなら、今回はお前の判断に従おう。だが、二度目はないぜ〉

〈上等だ〉

 そう言い切って、ヴィチロークは鍔を戻した。怪獣同士の相談が一段落すると、麻里子の髪も落ち着いたので、 麻里子は軽く髪を整えてから、穏やかな語気に逃れ難い圧力を込めた。

「狭間さんとツブラさんの敵がエレシュキガルであり、我らが配下の怪獣達の敵もエレシュキガルであるとなれば、 利害は一致します。ですので、あなた方と私達の蜜月はもうしばらく続きそうですね」

「不本意だがな」

 狭間はヴィチローク入りの竹刀袋を麻里子に渡すと、麻里子は竹刀袋に染み付いた下水道の匂いに僅かに眉を 潜めたが、それ以上表情は変えなかった。夕暮れの街へと消えていく麻里子と、太平洋へと進んでいくシスイを 見送ってから、狭間はダンヒルを味わった。馴染み深いゴールデンバットとは全く違う、上品な味だった。
 あれから、羽生はどこに行ったのだろうか。結局、彼は下水道からは出ようとせず、狭間を出口まで送った後 は再び汚れた地下世界へと戻っていった。彼の傍には愛すべき妻がいるから、不安も何もないのだろうが。羽生が 手帳の一ページを千切って書いてくれたメモの内容は覚えたので、狭間はそれを海へと投じた。
 迷宮には、深入りする一方だ。





 


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