闇は、死を喰らう。 マントのように、花嫁のヴェールのように、十二単の裾のように、触手で闇を引き摺りながら、死の女主人は死者 に溢れた道を歩む。豊満ではあるが母性は微塵も感じられない胸を反らし、肉付きは良いが子を産み落とすため のものではない尻を振り、扇情的な腰付きで血と肉と骨と内臓を裸足で踏み、触手の合間からねっとりとした甘い 匂いを立ち昇らせて死臭に含ませ、死した者達の命を、命だったものを吸い上げていく。 これが、エレシュキガルだ。狭間は膝が笑い、血の気が引いていき、声も出なくなった。近付かなくても解る、目に しているだけで、同じ空間にいるだけで痛感する。これは相手にしてはいけない。聖ジャクリーン学院で初めて遭遇 した時のエレシュキガルはまだ幼く、弱かったから、狭間も臆さずに対処出来た。しかし、今のエレシュキガルは 違う。横浜の裏社会の歪みに殺された者達の血肉を供物としてたらふく喰らい、成熟しつつある。 神話怪獣がいかなるものなのか、今、この瞬間まで狭間は漠然としか捉えていなかった。神話怪獣から現代まで 長らえた怪獣とは会話したことがあったが、それとは根本的に違う。ツブラも神話怪獣の分身ではあるが、それは 現代に適応した姿であり、本来の神話怪獣が持つ力の一千分の一程度しか力を持たない。 神話時代、怪獣は神だった。人間は神の供物であり、怪獣の餌だった。人間の価値は麦の一粒よりも低く、怪獣 の価値は天に届くほど高かった。人間の個性や命や権利が重んじられるようになったのは、ごく最近だ。むしろ、 重みすら与えられなかった時代の方が遥かに長い。だから、エレシュキガルが人間の血肉を喰らう様を目にしても 恐れるべきではないし、喰われた者達を敬い、羨み、尊ぶべきなのだ。 ――――古代人であれば、の話だが。狭間はがちがちと震える顎を食い縛り、手のひらに爪を喰い込ませ、本能から 生じてくる畏怖と戦った。ツブラは狭間を押し止めようと触手を巻き付けてきたが、その力は緩かった。負傷した ところに仇敵の出現となれば、ツブラであっても怯えてしまう。ツブラの小さく冷たい手と手を繋いでやり、狭間 は生臭くも甘ったるい空気を吸い、吐く。緊張と恐怖と血臭でくらくらしてきたが、鼻と口は塞げない。 「ホンマやったんか……」 一跳ねで電柱の頂点に飛び乗ってエレシュキガルの闇から逃れ、リーマオは呆然とする。 「くそぉっ!」 サバンナの運転席で寺崎は毒吐き、ハンドルを殴り付ける。何度もエンジンを掛けようとしても掛からず、エンストを 繰り返している。その原因は言うまでもなく、サバンナのエンジンである動力怪獣がエレシュキガルへの恐怖で 凝り固まってしまったからだ。乗り捨ててしまえば寺崎は逃げ出せるだろうが、彼の性格ではそんなことをするはず がない。罵倒しながらエンジンを掛けようとするが、何度やっても動き出さない。その間にも、エレシュキガルは 刻一刻と迫ってくる。バックミラーを覗いた寺崎は首を横に振ってから、タバコを出した。 「なあ、おい」 寺崎はハンドルをとんとんと叩いてから、エレシュキガルに振り返る。 「お前がここで死ぬつもりだってんなら、俺はそれに付き合うしかねぇよ。お前は俺を何度生かしてくれたか、数える のも面倒臭いぐらいだ。どれだけ無茶な運転をやらかそうが、馬鹿なレースをやらかそうが、アホな速度でカーブに 突っ込もうが、文句も言わずに俺に従ってくれたんだからなぁ」 サバンナの運転席に深く身を沈め、寺崎はタバコに火を灯す。程なくして、紫煙が車内を満たす。 「思えば、俺がヤクザになったのはお前を買い上げるためだったな。レース用のマシンだったから、手に入れるため にはべらぼうな金を積まなきゃならなかった。佐々本の社長にも大分世話になった。殺しに潰し、強請りにたかり、 運び屋に鉄砲玉に売人、金を稼ぐために言われた仕事は全部やった。で、背中に彫り始めた千手観音の腕が一通り 揃った辺りでお前を手に入れられた」 目に見えて近付いてくる死を目の当たりにしながらも、寺崎はいつも通りだった。 「それからはもう、すっげぇ楽しかったな! 暴走族のガキ共を集めてレース三昧! 埠頭も峠も高速も、俺が一番 速かった! 俺に勝てる奴は一人もいなかった! それもこれもお前のおかげだ、愛しのサバンナ! だから、お前 を見捨てて死ねるわけがないだろうが! 俺の死に様は、一九六〇年のベルギーグランプリ並みの大クラッシュって 最初から決めてんだからよぉ! だから、もう一度だけ起きやがれ! この俺の走り、見せてやる!」 跳ね起きた寺崎は勝気な笑みを浮かべ、手早くギアを切り替えてアクセルペダルをベタ踏みする。 〈……馬鹿言うな、俺がお前みたいなレーサーを死なせるわけがないだろ〉 震えた声ではあったが、サバンナは応えた。その声を狭間が聞きつけたと同時に車体は息を吹き返し、エンジンは ピストンを始め、後輪が急速回転する。 〈俺、本当はカムロにもヴィチロークにも賛成じゃなかったんだ。俺は強硬派ではあるけど、神話怪獣にケンカ売って 勝てるわけがないから、俺は関わらずにいようって思ったんだ。実際、本物のエレシュキガルに近付くと、体液が ガチガチに凍り付いちまった。でも、でもさ、俺、寺崎が好きだ。ずっと、こいつの愛車でいたい!〉 甲高いスキール音に、サバンナの反抗による興奮が混じっていた。その声を聞きつけたのは狭間だけではなく、 エレシュキガルは少し目を伏せて侵攻を止めた。おい、さっさと乗れ、と寺崎はビルの合間に隠れた須藤を呼び、 須藤がサバンナの後部座席に乗り込んだ直後に発進させて御名斗のいるビルに向かった。が、一旦引き返し、電柱 の上で硬直しているリーマオへ寺崎は叫んだ。 「おい中国娘! 乗るなら乗れ、死ぬなら死ね!」 「アァ!?」 思いがけないことにリーマオが唖然とすると、須藤が不本意げに吐き捨てる。 「車を降りるまで無事でいられるかどうかは、お前の足癖の悪さ次第だ」 「ダボが!」 素早く状況と利害関係を判断し、リーマオは電柱から飛び降り、ビルの壁を蹴ると、宙を飛び抜けてサバンナに 至った。後部座席のドアを開けて乗り込んだ途端に急発進し、エンジン音も遠ざかっていった。程なくして御名斗 も回収されたらしく、ボニー&クライドの声もまた小さくなっていった。 その場に取り残されたのは、狭間とツブラ、そして死体の山だった。これで回りを気にせずに立ち回れる、と頭の 片隅で思ったが、立ち回れるほどの技量などない。狭間はツブラを抱き上げて後退るが、逃げたところでどうにか なるものか、ここで放り出せるわけがないだろうが、この時が来るのを待っていたくせに、と頭の中で冷静な 自分が喚き立てる。だが、しかし、けれど。 〈人の子〉 ぞっとするほど滑らかで艶やかな声が、狭間の脳をくすぐる。 「ぁ……あ……」 狭間が悲鳴すら漏らせずにたたらを踏むと、闇を束ねて足場にし、エレシュキガルはビルの屋上と同じ高さにまで 昇ってきた。ツブラは狭間に力一杯しがみ付いてくる。闇の端に引っ掛かっていた死体がずぶりと飲み込まれ、骨も 残さずに溶かされ、一滴残らず吸収される。扇状に広がった触手は恐ろしく長いばかりか本数が多く、ビルの屋上を 難なく取り囲んでしまった。狭間とツブラの退路も塞がれ、徐々に狭められる。 真紅の繭、肉の紐の牢獄、甘美なる享楽の坩堝。足元から這い寄ってきた触手はツブラのそれよりもほんの少し 太く、悩ましげに波打っている。狭間は背を丸めてツブラを庇い、ツブラが小さな手で胸元に縋り付いている感触で 恐怖に屈しそうな心を奮い立てながら、エレシュキガルを見返す。清らかささえある、緑色の瞳を。 〈私を待っていたのでしょう? 会いたかったのでしょう? それなのに、なぜ私を怖れるの?〉 「会いたかったんじゃない、お前を阻むためだったんだ!」 意地と気合を限界まで振り絞り、狭間は叫ぶ。だが、ただのヒーローごっこに過ぎなかった。 〈人の子は私の食事を減らそうとしていたようだけど、人間は様々な場所で血を流すのよ。この時代は医療機関が 発達しているから、そこで毎日のように誰かが血を流し、死に絶えている。薬漬けだからあまりおいしくはないけど、 お腹一杯食べられたわ。あなたが待っていると思ったから、一杯、一杯、一杯、食べたのよ〉 恍惚と目を細めるエレシュキガルとは対照的に、狭間は凶相を作る。 「どうして俺に執着する!」 〈イナンナのものは私のものにすべきだからよ〉 「どうして横浜に来た!」 〈イナンナが来ると解っていたからよ〉 「どうして人間を喰う!」 〈イナンナが食べないからよ〉 「どうして蘇った!」 〈イナンナが蘇るからよ〉 「どうして何もかもイナンナのせいにする!」 〈イナンナが在るからよ。そして、その小さいのはイナンナだからよ〉 「違う! ツブラはツブラだ!」 〈いいえ、イナンナよ。そして、イナンナはイナンナである限り、私はイナンナを疎むのよ〉 神に理由など必要ない。人間の理解の範疇を超越した世界の住人だからだ。不毛なやり取りでしかない。狭間は 自分とエレシュキガルの間に横たわる溝の深さと、イナンナでなくなったツブラとエレシュキガルの違いをまざまざ と思い知らされた。エレシュキガルは近付いてくる、神と人の狭間に立つ男に。 「チガウ」 狭間の陰から顔を出し、ツブラはエレシュキガルを見据える。いつになく、毅然とした眼差しで。 「イケナイコト、シタノ、ゼンブ、エレシュキガル。イナンナ、イテモ、イナクテモ、オナジ」 〈そう……。だったら、なぜあなたは人の子を欲するの? それはいけないことじゃないの?〉 「イケナイ。ダカラ、ツブラ、ソノツミ、ツグナウ。ニンゲン、マモルコトデ」 〈あなたは神話怪獣であることを捨てたの?〉 「ダッテ、ツブラ、マヒト、オヨメサン、ナル! ダカラ!」 〈馬鹿げている、という程度で収まるものではないわね。それはバベルの塔じゃない、ソロモン王でもない、私達と 怪獣達と人間を繋げてくれたりはしないわ。私達が神話怪獣でいられたのは、バベルの塔が天と地と万物の 理を貫き、連ねていてくれたから。けれど、バベルの塔は人間共に倒されてしまった。だから、私はバベルの塔 を建てなければならないのよ。人間に喰い尽された青い星ではなく、私の赤い星に!〉 「ダカラ、ヒカリノキョジン、ツカウ?」 〈赤い星は冷たいから、暖めなければならないのよ。温まらなければ、人は〉 だから光の巨人は、人間に何らかの危害を加えた際に過熱した怪獣を奪うために現れるというのか。となれば、 今まで光の巨人によって消されたと思っていたものは、火星にあるのか。盗まれただけなのか。船島集落も、両親も、 千代も、ムラクモも、鬼塚とあかねも、イナヅマも、造船所とその従業員達も、佐々本モータースの社長も、鳳凰 仮面の古い友人も、羽生の妻とその胎内の子も、何もかもが。 「だったら、ここでどうにかされるわけにいかねぇなぁ!」 俄然、戦意が湧いてくる。奪われたとばかり思っていたものを取り戻せるのであれば、その可能性が一握りでも あるというのなら。だが、だからといってエレシュキガルに真っ向から立ち向かえるわけもないので、狭間はポケット を探ってマッチを出し、火を付けてエレシュキガルの触手に投げ付けた。放物線を描いた火種が触手の束に落ちると、 エレシュキガルは奇妙な悲鳴を上げ、火に触れかけた触手を割った。その隙間目掛け、狭間は火を付けたマッチやら タバコやらを投げ散らしながら、ツブラを抱えて触手の割れ目から外に脱した。 ツブラの触手を頼りに、ビルからビルへと飛び移り、飛び移り、飛び移り、見覚えのある空き地に到達したところ で着地した。息も絶え絶えでへたり込んだ狭間は、今一度ツブラを抱き締める。逃げ切れたことによる安堵が全身に 巡ると一歩も動けなくなりそうなので、足を無理矢理伸ばして立ち上がる。 生きなければ。取り戻すためには、歩き出さなければ。 誰かに伝えなければ。 エレシュキガルが語った真実を教えれば、救われる人間は大勢いる。狭間もその一人だからだ。手始めに、古代 喫茶ヲルドビスに行って弟に伝えよう。真琴に教えよう。それから、愛歌にも伝えよう。歩き出しているうちに歩調 が早まり、狭間はいつしか走り出していた。ツブラを担ぎ、その幼い体の傷を案じながらも、夜の住宅街を駆け抜けて いく。いくつもの角を曲がり、車をやり過ごし、フォートレス大神が見えてきたところで―――― 「待ちたまえ!」 良く通る声が背中から掛けられ、狭間はぎょっとした。ツブラを変装させていない、かといって今から触手怪人 に変身しても誤魔化し切れない、それ以前にツブラが限界だ。逃げおおせてしまいたいが、この声の主に脚力で 勝てるわけがない。恐らく。狭間はぎこちなく振り返ると、金色の衣装を纏った巨漢が腕を組んでいた。 「鳳凰仮面は今までどこにいたと思う?」 上腕には赤黒い手形が付き、白い手袋は赤黒く染まり、腰に巻いたクジャクの羽根に似た飾りの先端も重く濡れ、 白いブーツには無数の飛沫が散らかっている。息を飲む狭間に、鳳凰仮面は歩み寄る。 「そう、君がいた場所だ」 街灯による逆光を背負った正義の味方の威圧感に、狭間は言い訳を言い損ねた。 「君は何をしてきた。その、触手の怪獣を操って」 鳳凰仮面はエレシュキガルとツブラを誤認している。狭間はそう言おうとしたが、胸倉を掴まれる。覆面と サングラスで顔を隠した野々村不二三と額を突き合わせられると、サングラスの奥で怒りに燃える瞳を目に して、拙い言い訳が吹き飛んでしまった。今、この人には何を言っても無駄だ。 「友人である君に手を下すわけにもいかないが、この鳳凰仮面の紙芝居を待ち望んでくれている子供に手を出す など言語道断だが、それでは鳳凰仮面の正義が廃る」 握り締められた襟元に血が染み、狭間は心臓が冷え込んでいく。エレシュキガルをどうにかするためだった とはいえ、相手が屑ばかりの悪党共だったとはいえ、自分は何をしてきた。何をしなかった。 「俺は」 どんな語彙を並べ立てても、言い訳にすらならない。狭間はツブラをきつく抱き締め、鳳凰仮面から目を逸らし たくなる自分を懸命に制した。この人だけは裏切りたくない。短い間の後、狭間は言った。 「俺は、どうしてくれても構いません。でも、ツブラには手を出さないで下さい。お願いします。負傷しているんです。 だから、殴りたければ俺を殴って下さい。一応客商売なんで、出来れば服に隠れるところを」 「マヒト、ダメ、ソンナノ」 憧れの鳳凰仮面から向けられた敵意と狭間の自己犠牲に臆し、ツブラは狭間の服を引っ張ってきた。狭間はその 手を握り返してから、今一度、正義の味方と対峙する。サングラスが陰ると、彼の表情は一切読み取れなくなった。 重たく苦い沈黙を経て、鳳凰仮面はマスクの下で口を開いた。 「案ずるな、ここで裁きはしない」 鳳凰仮面は衣装に付いた血の染みを握り、狭間に背を向けた。 「一晩、時間をくれ。少し頭を冷やさなければ、俺は君を――――潰してしまいかねない」 赤いスカーフが夜風で靡くが、血を吸っているので翻りはしなかった。 「俺は、正義の味方だ。だが、君は正義の味方ではなかったのだな」 断罪、処罰、私刑、落胆。鳳凰仮面が、野々村が、苦々しげに述べた言葉は、リーマオが放った棘よりも遥かに 強く、狭間の心中を貫いた。野々村不二三だけは何があっても狭間を疑わない、信じてくれている、この体質のこと もきっと理解してくれる、引いてはややこしい事情についても、と狭間は無条件な信用を彼に求めていた。しかし、 それは正義ではない。彼の言う正義とは、誰に対しても、何事に対しても公平であることだったのだ。だから、狭間の 罪を責め立てている。抗えるわけもない。鳳凰仮面の背を見送ってから、狭間は己の罪を悔いた。 怪人はヒーローに罰せられる。それが世の常だ。 15 1/4 |