狭間が調べたところによれば、エレシュキガルの行動範囲は半径五キロ圏内だった。 つまり、人間が徒歩で移動する距離となんら変わりはない。これまでに起きた死体消失事件を顧みても、同時に 傷害事件が多発した際は一ヶ所でしか死体は消え去らなかった。その場合は九頭竜会か渾沌が手を回すのだが。 だから、エディアカリアの行動範囲もその円の内側に限定される。狭間が傍受した警察無線、ツブラの五感を駆使 し、そして最後にチンピラ共の動きを出来るだけ高いところから見下ろし、状況把握の後に行動に出る。 ビルの屋上の給水塔から繁華街を一望し、争いが起きた現場を捉え、エディアカリアは両足の触手をうねらせて 体を弾き出した。触手をはためかせて軌道を変え、電線と電柱の隙間を摺り抜け、ほんの数秒で目的地に至った。 生ゴミが詰め込まれたゴミバケツを掠めた後、触手の固まりは路地裏に着地した。そこは雑居ビルの裏口で、早々 に事は始まっていた。人間の肉が殴打される音、血と酒とタバコの匂い、中国語と日本語が混じった罵声。 ゴミバケツから溢れるゴミに怪しげな注射器が紛れていた気がしたが、気付かなかったふりをして、触手怪人は 足音も立てずに荒事へと近付いていく。どちらが因縁を付けたのかは、最初からどうでもよかった。重要なのは悪意 の凝固物に餌を与えないことだけだ。エディアカリアは両足の触手を伸ばし、身の丈を増すと、ネオンを遮るように して男達の背後を取る。こういう時ほど第一印象が大事だ。見た目で圧倒出来れば、勝ったようなものだ。 「おい、こいつぁ」 九頭竜会の下っ端がエディアカリアに気付いて声を上げようとしたが、すかさず触手を放って口と喉を塞ぎ、一気 に体力を吸い上げる。死なない程度に加減するのは難しいが、やっと慣れてきた。鼓動に合わせて触手が脈打つと、 パンチパーマに趣味の悪いシャツを着た男は白目を剥いて膝を折り、昏倒した。 「どうした? え、あ、うぉあ、あああああああああああ!?」 仲間が昏倒したことで別の男もエディアカリアに気付き、拳銃を突き出してきた。発砲されると銃声が響いてしまう ので、素早く拳銃を絡め取り、ついでに服の中に触手を滑り込ませてナイフの類も奪い去り、動脈を絞めて意識を 弱めてから体力を吸い上げる。 「こいつだ、この化け物が邪魔をするんだあああああ!」 ヤクザの体面も失い、異形の存在に怯えて及び腰になっている。九頭竜会の下っ端は合計で六人、意識がある のは四人。この程度であれば、五分も使わずに畳める。こいつを殺せば名を挙げられる、触手を千切って売れば 良い金になる、などと叫びながら四人のチンピラは拳銃を抜いたが、銃口が上げられた瞬間に全て奪い、雑居ビル の空いた窓の中に投げ込んだ。奇声を上げて掴み掛ってきた男達との間合いが狭まったところで、エディアカリア はダンスを踊る。これが、多人数を相手にする際の最も効率が良い方法だ。 赤黒い肉の鞭に薙ぎ払われた男達は、次々に雑居ビルの壁に叩き付けられる。死なない程度に、ではあるが、 これで当分は動けなくなる。骨とコンクリートが激突する音は、何度聞いても嫌になる。かひっ、かはっ、と弱い 吐息を散らす四人の男達から体力を吸い上げてから、エディアカリアは今回の被害者に向いた。吸い上げた分の 体力を注入して逃がしてやるまでが、エディアカリアの仕事だからだ。体内に取り込んだ生命力を注いだ触手を、 砂にまみれている人影へと差し出すと、不意にそれが掴まれた。 「あんさんの尻尾掴むんは、結構簡単やな」 聞き覚えのある声に、エディアカリアはびくりとする。触手を思い切り齧られて再度痙攣すると、生命力が強引に 吸い上げられた。なるほど、こいつはえらい便利やな、と感心しつつ人影は起き上がる。かかとの細いハイヒール、 深いスリットの入ったチャイナドレス、小柄な割に豊満な体付きに、童顔なのに表情は泥臭く、いい加減な関西弁。 だが、その肉付きの良い両足は外骨格に覆われていた。年頃の女性らしい柔らかな曲線は備わっているが、太股の 中程からが別物に変わり果てていて、両足のくるぶしの部分には赤い目が付いていた。怪獣義肢だ。 〈あら、これが人の子と天の子?〉 くるぶしの目が瞬きし、甘い声が狭間の脳に届く。 〈この人はコウだよな? 怪獣人間だったのか? だが、虎牢関で働いていた時は全然気付かなかったぞ〉 狭間がコウの両足である怪獣に返すと、女性じみた人格の怪獣はにんまりする。 〈だって、私が彼女とくっついたのはついこの前だもの〉 〈え? それって、つまり……〉 エディアカリアが触手の内側で動揺すると、両足の怪獣は笑う。 〈マオちゃんはね、この前、人の子を逃がしちゃったでしょ? そしたら、ジンフーさんは怒っちゃって、マオちゃん の両足を切り落として私をくっつけたのよ。私の名前はカーレンよ。アカイクツって呼ばれている怪獣なんだけど、マオ ちゃんがそういう名前を付けてくれたのよ。私を履いたら最後、死ぬまで踊り続けるからよ〉 〈マオちゃん? コウじゃなくて?〉 〈そうよ。李昴って書いてリーマオ、だからマオちゃん〉 そう言って、舞踏怪獣カーレンは目を閉じた。コウ、もとい、リーマオと対峙したエディアカリアは怖気立った。あれ は狭間を捉え損ねたのではない、リーマオが狭間を逃がしたのだ。そうなれば、彼女は懲罰として怪獣人間に改造 されることを承知の上であんな行動に出た。いや、違う。改造してもらうための口実として、狭間を利用したのだ。 そうでもなければ、怪獣人間と化したばかりの女が、両足を奪われた女が、挑発的に笑ったりするものか。 「うちの足さえあれば、九頭竜会なんぞ目やないで」 かしゃかしゃかしゃん、と外骨格が開き、ミノカサゴのヒレのような棘が飛び出す。両足の曲線に沿って生えた 武器もまた真紅で、見るからに鋭利な代物だ。こんなもので蹴り付けられたら、触手が何本切られてしまうことか。 たまったもんじゃない、とエディアカリアは逃げようとするが、リーマオは両足を踏み切った。 彼女の背後で、アスファルトが円形に抉れる。ハイヒールに砕かれた石の礫が跳弾し、雑居ビルのガラスを砕く。 一瞬よりも短い時間しか要さずに間を詰めたリーマオは、エディアカリアの目前に顔を突き出した。乱れた髪の奥 で目が剥かれ、殴打されて赤く腫れた頬が歪む。その顔に視界を塞がれたほんの僅かな隙に、カーレンの赤い棘が エディアカリアの触手に覆われた足を薙ぐ。 飛び散ったのは、ツブラの体液と数十本の触手だけだった。露出しかけた狭間の足をすかさず新たな触手で包んで くれたツブラには、感謝してもしきれない。路地裏から表通りに蹴り飛ばされたエディアカリアは、横転した後に 電柱に絡み付き、制動を掛けた。ぼたぼたと垂れ落ちる体液と、背中で健気にも悲鳴を堪えているツブラを気に しつつ、エディアカリアは表通りに現れた女と対峙した。 硬い足音が迫り、チャイナドレスの裾が翻り、切られた触手が踏み躙られる。ぶぢゅり、と呆気なく潰された触手 が痛ましく、狭間は触手の鎧の内側で青ざめ、拳を固める。中華街と桜木町の合間に位置する歓楽街の人々は異変に ざわめいたが、それは束の間に過ぎなかった。エディアカリアの止まった電柱を取り囲み、幾重にも人の輪を作り、 手にした凶器を構える。誘い出されたのだと気付いたが、何もかも遅すぎた。 「あんさんは人を殺せんのや。ちゃうか?」 人垣を身軽に飛び越えたリーマオは、電柱の真下に至る。 「違いまへんやろ? 人を殺させんために、うちらの邪魔をしはるんよ。そやけど、あんさんはやることやったらすぐ に退いてまう。そやから、掴まえようにも掴まえられんかったんや。そやけど、いつまでもそないなことをされてまうと けったくそ悪いし、商売上がったりなんよ。せやから、仕留められてくれまへんか?」 給仕係だった頃と変わりのない笑顔を浮かべ、リーマオは両足の棘を波打たせて鳴らす。 〈巡り巡ってお前らのためになるんだから、放っておいてくれ! と言っても無駄だな、これは〉 エディアカリアがぼやくと、痛みの波が引いてきたツブラが狭間の耳元で弱く囁いた。 「マヒト、タタカウ?」 〈馬鹿言うな、逃げるに決まってんだろ! まともに相手をしていたら身が持たん、ツブラの!〉 路地裏に転がしてきた九頭竜会の下っ端共は気掛かりだが、ツブラの安全には変えられない。エディアカリアはするりと 電柱の頂点に上ると、コンクリートの柱を蹴って跳躍した。眼下でどよめきが起きる。中国語のありとあらゆる罵倒が ばらまかれたが、意味が解らないのが幸いだ。すぐにアパートに帰り、狭間の体力をツブラに存分に与えて傷を癒させて やらなければ。こうなることは予期していたが、予想よりも被害が大きかった。 一発、銃声が轟く。被弾はしなかったが、念のために身を反転させて手近な電線に着地する。ケーブルが撓んで 視界は上下するが、ツブラのバランス感覚のおかげで難なく直立出来た。エディアカリアが音源を辿ると、先程の 雑居ビルの屋上で銃火が光った。それも一度や二度ではなく、拳銃の装弾量の何十倍もの銃声が連続する。同時に、 怪鳥の如き高笑いが上がる。男でも女でもない声と、怪銃の声。 「ぎゃへははははははははははははははははははっ!」 渾沌の構成員達に機銃掃射の如く熱線の弾丸を浴びせているのは、一条御名斗だった。 〈げははははははははははははははっ! いいぞいいぞ、もっとやりやがれ!〉 怪銃、クライド。 〈あらあらまあまあ、血の海だわ! ほほほほほほほほほほほっ!〉 怪銃、ボニー。 「マヒト……」 エディアカリアは、苦しげなツブラの声で我に返る。見てはいけない、近付いてもいけない、と思うが、今になって 足が動かなくなる。エディアカリアの浅はかな考えは渾沌に見透かされていたが、渾沌の考えもまた、九頭竜会に 見透かされていた。だから、待ち伏せしていたのだ。あの三人と、その相棒の怪獣達が。 数十人が射殺された後、表通りに突っ込んできたのは真紅のサバンナだった。逃げ惑う中国人達を追い立てて、 巧みなハンドリングで急発進とドリフトを繰り返し、その度に何人、何十人もの人間を蹴散らしていった。鮮血で滑り がちな路面を利用してドリフトの速度を上げ、車体を一回転させる。運転席に座る寺崎はひたすら笑い、ボンネットの 中にいる動力源のサバンナもまた笑っていた。主の機嫌が良いからだ。 五分足らずで嵐が駆け抜けたかのような惨状と成り果てた表通りには、呻き声と鉄錆の匂いが充満する。路地裏に 逃げ込んでいたリーマオはよろけながら出てきたが、御名斗に発砲されてすぐさま後退した。が、赤い光の鞭が 振るわれて表通りに弾き出され、再度銃撃される。しかし、リーマオも素人ではなかった。側転から逆立ちの姿勢を 取り、両足の側面に映えた棘の合間に水掻きのような硬い膜を展開すると、ボニーとクライドから放たれた熱線を 跳ね返してから距離を取り、両足を大きく振るう。 「げっ!?」 赤い棘が夜空へと向かい、御名斗が絶叫する。リーマオの足であるカーレンは、あの棘を飛び道具にすることも 出来るのだと証明したからだ。棘の射線上にいた御名斗は咄嗟にボニーとクライドを撃ち、その反動で仰け反り、 辛うじて回避した。直後、港の背後にある給水塔が貫かれ、噴水となる。 「うちの脚線美に見惚れてはると、串刺しになるで?」 上下を戻したリーマオは、左の拳を掲げて殴り掛かってきた須藤を認めると、蹴りで受けた。金属同士が激突 したかのような轟音の後、須藤の左腕――シニスターに赤い棘が何本も突き刺さる。ぐげっ、とシニスターが 漏らした唸りが狭間の耳に届く。シニスターから噴出した体液を浴びながら、須藤は強く言う。 「お前はリーマオだな」 「なんや、知ってはったんか。だったら、自己紹介する手間が省けたっちゅうもんや」 リーマオはサバンナから下りてきた寺崎にも足と棘を向け、凄む。 「あんさんら、九頭竜会の幹部なんでっしゃろ? そやけど、どいつもこいつも鉄砲玉で人殺しが好きで好きで しゃあない屑共やって聞いてはるんや。そやから、荒事起こせば出てくると思うたんやけど、案の定や。ついでに 触手の化け物もどうにかしはろうって考えたんやけど、そこまで都合よくはいかへんもんやなぁ」 「黒のTバック」 サングラスを上げた寺崎の一言に、リーマオは眉根を寄せた。遠目ではあったが、リーマオの下着をしっかりと 視認したようだった。初々しい少女であれば激高しただろうが、この女はマフィアの幹部だ。その程度で動揺する わけがない。それどころか、唾を吐き捨てた。 「うちの大将はこの抗争をどうにかしようと思うてはるけど、うちはそうやない。あんさんらを生かしておいた ところで、なんもええことはない。そやから、うちがどうにかしたろうと思うてな」 「独断で行動して、この有様か。今度は足を切られるだけじゃ済まんぞ」 シニスターの目から出した光の鞭で棘を引き抜き、捨ててから、須藤は毒吐く。 「あんさんらの首を取ればええだけのことやんか。ほんで、うちの大将の前に並べたるんや」 リーマオの勝気な言葉に、ビルの屋上に這い蹲っている御名斗が言い返す。 「それはちょっと面白そうだけど、損害が大きすぎない? ふひひひひひひひ」 このまま逃げるべきか、それとも両者の間に割って入るのか、生存者を見つけ出して助けるのか。エディアカリア は僅かに煩悶するが、答えは既に出ていた。双方の幹部同士の抗争が始まってしまったのであれば、巻き込まれる 前に逃げるしかない。これまでもそうやって生き延びてきたのだから。 ツブラが切断された触手の先端を収縮させたおかげで、体液の流出は止まっている。制限時間は後三分もない、 だったらまだ間に合う。そう判断し、ビルの屋上から跳ね上がるべく両足に力を込めた時、視界の片隅が陰った。 否、闇が押し寄せてきていた。夜の帳という言葉を具現化したらこうなるのだろう、と脳裏に過ぎる。 血臭が消えていく。呻き声も、死臭も、温度さえもが。ツブラがわなわなと震え出したので、ビルの屋上の陰に身を 隠したエディアカリアはツブラを力任せに引き剥がして喉からも触手を抜き、声を取り戻した。小さな手で必死に しがみついてくるツブラを抱き締めてやりながら、髪も服も乱れ放題の狭間はそれを認めた。 神話時代の遺物、時代に逆行する異物。怪獣使い、或いは魔法使いの禍々しき願望により、帰還することのない 土地から現世に引き摺り出された死の女主人。――――エレシュキガル。 褐色の肌に緑色の瞳のシャンブロウが、闇から生まれる。 15 1/3 |