桜木町、元町、寿町、そして中華街。 それらを含んだ中区の地図をテーブルに広げ、愛歌に頼んで調達してもらった、その界隈でこの三ヶ月間に発生 した傷害事件の記録のコピーした紙の山から一枚ずつ取っていく。その事件が発生した場所を、地図に一つ一つ 書き込んでいった。九頭竜会が手を回して死体を処理したものは赤、渾沌が手を回して死体を処理したものは黒、 それ以外のものは青のサインペンを使い、印を付けていく。事件の後処理はどちらの組織が行ったのか、という 裏付けを取るのは意外と簡単で、事件を担当した刑事の名前さえ解ればいい。九頭竜会と癒着している刑事と、渾沌 と癒着している刑事の名前は、先日の再会の後、赤木から教えてもらったものだ。 寿町は赤い×印まみれになり、中華街は黒い×印まみれになり、青い×印はまばらに散っていた。予想通りの 結果ではあるが、問題はこれからだ。狭間は赤のサインペンをタバコ代わりに銜えながら、緑色のサインペン の蓋を開けた。九頭竜会の怪獣達と渾沌の怪獣達から直接聞き出した、双方の構成員同士の抗争が起きた場所を 新たに書き込んでいく。血痕はあっても死体はなかった事件、血痕も死体もないが争う声が聞こえた事件、薬莢 だけが転がっていた場所、チンピラが着ていた服だけが落ちていた場所、などなど。 「んー……」 サインペンの尻で地図の端を叩き、狭間は唸る。 「探偵の真似事を始めたのはいいけど、何か解った?」 捜査資料を持ち出す言い訳を考えるのが大変だったんだからね、と愛歌は文句を言いつつもジャケットを脱ぎ、 ハンガーに掛けた。狭間の膝の上では、ツブラが興味深げに×印だらけの地図を覗いている。 「ムゥ?」 「大体解りましたよ。エレシュキガルの行動範囲が」 狭間は中区全体に散らばっている緑色の×印を線で繋いでいき、輪にした。その中に、桜木町と元町と寿町と 中華街はすっぽりと収まった。その外には、赤の×も黒の×も青の×もない。 「意外と狭いわね」 愛歌は狭間の肩越しに地図を見下ろしてきたので、狭間は愛歌を見上げる。 「そうなんですよ。黒い影の固まりで、神話怪獣だから、もっと広範囲なのかと思ったんですけどね。ということは、 エレシュキガルもツブラみたいな状態なんじゃないでしょうか。エレシュキガルといっても、神話時代に存在していた エレシュキガルと同等の力を持っているわけじゃなくて。神話怪獣にしては体格も小さすぎるし、能力は恐ろしいけど、 あの方法でいちいち人間の血肉を吸い上げるのは手間なんですよね。体を溶かしてどんな形にも変形させられるという のなら、馬鹿でかい布のように広がって辺り一帯を覆い尽くすのが手っ取り早いはずです。もしくは、光の巨人の力を 借りて大量の人間を一ヶ所に集めて、その時に一気に喰らった方が効率は遥かにいいと思うんです。でも、これを見た 限りでは、エレシュキガルはこの前の聖ジャクリーン学院と同じように、一人ずつ襲っている。しかも、九頭竜会と 渾沌の抗争で傷付いたチンピラを。例の甘い匂いで誘い出してしまえばいいのに、それをした様子もないようだし。 となれば、エレシュキガルは成長途中ってことじゃないかと」 「なるほどねぇ」 愛歌はピンク色の髪を解き、ブラウスの襟元を緩めた。 「敵が大きくなる前に潰してしまえ、っていう算段ね。それにしても、いきなりどうしたの。これまでは九頭竜会と 渾沌に振り回されるばかりだったのに、急に行動に出るなんて」 「魔法使いに先を越されると、面倒だと思ったんで」 狭間はサインペンに蓋を付け、一纏めにしてペン立てに突っ込み、資料を片付けた。 「あんまり深入りしない方が身のためよ、狭間君」 愛歌は諌めるが、狭間はツブラを撫でつつ返す。 「今更ではありますけど、愛歌さんは何者なんですか」 「は?」 思いがけない言葉に愛歌が面食らうと、狭間は愛歌を真っ直ぐ見返す。 「魔法使い側ですか、それとも怪獣使い側なんですか」 「――――どうして、そう思うのよ」 オレンジ色の瞳が僅かに揺れ、狭間と合わせた目線がずれる。その目線を、狭間は追う。 「神話怪獣のエレシュキガルを現代に蘇らせたのが魔法使いにせよ怪獣使いにせよ、エレシュキガルが成長する ことは魔法使いの何らかの利益になります。けれど、それは怪獣使いにとっては不利益です。怪獣使いの力では 制御出来ない怪獣が存在していることだけでも、怪獣使いの地位を脅かしかねないんですから。けれど、それは こうも考えられます。魔法使いと結託している怪獣使いがいるのではないか、とも。怪獣使い――というか、綾繁家 が失墜することで利益を得られるのは魔法使いだけじゃないんです。怪獣使いだって一枚岩じゃない、その証拠に 枢さんに使役されている怪獣のヒツギは野心を抱いていたんです。綾繁家での枢さんの地位を押し上げるために、 俺を抱き込もうとしてきたんですから。どこの世界でも、長く続いた旧家は遺産相続やら何やらで揉めに揉める のがお決まりです。俺の地元でもありましたから、そういうの。だから、事の原因は綾繁家の内乱なんじゃないのか、 って。まあ、どれもこれも俺の想像に過ぎないんですけどね。でもって、怪獣監督省は怪獣使いとも関わりが深い 一方で、怪獣Gメンの中には魔法使いと通じている人もいます。だから、愛歌さんもどちらかの派閥に入っている じゃないかと思ったんですよ。考え過ぎかもしれませんけど」 愛歌の目線は戻ってこなかった。彼女の横顔から目を外し、狭間は背を丸めて頬杖を付いた。 「そうだとしたら、俺が立ち入るべきじゃない事情だらけなんですけど、誰かがエレシュキガルをどうにかしない ことには被害が広がる一方だよなー、とも思っていまして」 それはそうだけど出来ることと出来ないことがあるわ、それよりも目の前のことに集中すべきよ、と愛歌が言う のではと思った。だが、いつまでたっても言われなかった。狭間は不思議がりながらも振り返ると、愛歌は顔を覆って 項垂れていた。泣いているのか笑っているのか判然としない声を漏らし、肩を震わせている。 「あの、俺、拙いことを言っちゃいましたか?」 その様に臆した狭間は、びくつきながらも問い掛けた。 「いや、なんか、ちょっとね、どうしよう」 愛歌は半笑いのような声を漏らし、顔を覆って狭間に背を向ける。 「私がどっち側だったら、狭間君は嬉しい?」 「そういう問題なんですか?」 「そういう問題」 そんなわけないだろう、とは思いつつも、狭間は少し考えた後に言った。 「愛歌さんはどっち側でもなかったら、それが一番嬉しいですよ」 「そっか、そうかあ、いよぉし!」 と、愛歌は勢いよく顔を上げた。泣いてはいなかったが、笑ってもいなかった。その代わり、攻撃的にさえ感じられる 強気な表情を浮かべていた。にやりと持ち上げられた口角からは歯が覗き、瞳に宿る輝きは異様に眩しい。その様には 既視感がある。悪事を働かんとする九頭竜麻里子が見せる、美しくもおぞましい笑顔に似ている。 「そこまで解ったんなら、こっちからエレシュキガルに打って出ましょう!」 「は?」 先程の愛歌と同じ反応をした狭間に、ツブラが真似をする。 「ハ?」 「狭間君、警察無線って傍受出来る?」 「あー……まあ。無線機に使われている怪獣の声は拾えますけど、あいつら自身がうるさいし、警察無線は情報量が 多すぎて長時間聞くと頭が痛くなってきて」 「だったら、それを使わない手はないわ! エレシュキガルをどうにか出来るのはツブラちゃんだけで、警察無線を 何の道具も使わずに傍受出来るのは狭間君だけとなると、私が割り込む余地は最初からないわね。本来の仕事も あるわけだし、赤木君が掴まらないせいで私の仕事量が増える一方だし。というわけで狭間君、ツブラちゃんと 一緒に、エレシュキガルに喰われそうな人間がいたら守ってやりなさい。ついでにエレシュキガルを倒しなさい、 と言いたいところだけど、さすがにそれは無理か」 「でも、そういうのは鳳凰仮面の領分じゃないんですか?」 「あの人は人間離れした強さだけど、人間よ?」 何を寝ぼけたことを言ってんのよ、と愛歌が真顔になったので、狭間はそれもそうだと思い直した。 「マヒト、ツブラ、ガンバル」 ツブラは身を乗り出してきて、狭間のTシャツの裾をぎゅっと握り締めた。 「だが、ツブラの存在を知られても面倒なことになっちまうし。かといって、俺一人でそんなことが出来るわけが ないし。だからといって、縫製怪獣グルムを呼び戻せる保証はないし、というかあいつは嫌いだし……」 狭間が超人的な能力を得るには、何らかの助けが必要だ。当てになりそうなのは縫製怪獣グルムだけだが、あれに 包まれたが最後、かなりのダメージを受けさせなければ脱げなくなる。鳳凰仮面は恐ろしく強いが常人で、面倒な 事情に関わらせたくはない。ツブラ一人でエレシュキガルと戦わせるのは酷だ。いかに触手が万能であろうとも、 心身が幼いツブラでは凌げない局面が訪れれば最悪の事態になる。となれば、どうするべきだ。 ああするしかなさそうだ。 その夜から、桜木町界隈に触手の怪人が現れるようになった。 九頭竜会の若衆に因縁を付けた渾沌の若衆のグループが、数に物を言わせて路地裏へと引き摺り込んだ。暴力 に次ぐ暴力の後、九頭竜会への見せしめとするために射殺される。はずだったのだが、雑居ビルの屋上から突如 降ってきた赤い触手の固まりが、両者の間に割って入った。 身の丈は二メートル半ほどあり、両手足からは触手を伸ばしていて、歩行する際は両足の触手を波打たせて 移動していた。顔も触手に包み隠され、人相は解らない。背中には丸いコブ状の膨らみがあったが、それもまた触手 に覆われていた。それは体を一回転させて触手を放ち、渾沌の若衆を一人残らず薙ぎ倒してしまうと、昏倒した男達 の口に触手を突っ込んだ。程なくして渾沌の若衆が動かなくなると、全身を殴打されて半死半生の九頭竜会の若衆 にも触手を突っ込んだが、体力を吸い上げられるのではなく、逆に流し込まれた。おかげで活力を取り戻した九頭竜会 の若衆は慌てて路地裏から逃げ出したが、振り返った時には触手の怪人は消え失せていた。 また次の夜。寿町の一角で、再び触手の怪人が現れた。今度は前回とは逆の状況で、九頭竜会の若衆達が渾沌の 若衆をガレージに連れ込み、嬲り者にしていた。手足の関節を外してから頭に銃口を突き付け、脳天を吹き飛ばす、 という瞬間に飛び込んできたのが触手の怪人だった。動揺した九頭竜会の若衆が乱射した弾丸を一つ残らず触手で 弾き、拳銃を叩き落としてから、長く伸ばした触手の一振りで九頭竜会の若衆全員を昏倒させた。それから触手で 九頭竜会の若衆から体力を吸い上げ、渾沌の若衆に流し込むついでに外された関節を元に戻し、息を吹き返させて 逃がしてやった。九頭竜会の若衆が気付いた頃には、触手の怪人は姿を消していた。 よって、触手の怪人は九頭竜会の味方でもなければ渾沌の味方でもないと判明した。強いて言うならば、弱者の 味方であった。警察に通報されると間もなく降ってくるので、警察の手先ではないかとも疑われたが、九頭竜会と 渾沌と癒着している刑事達も触手の怪人に対してはひどく困惑していた。それ以降、九頭竜会と渾沌が諍いを起こす たびに触手の怪人が降ってきて邪魔をするので、抗争は膠着状態に陥っていた。 「ということがあってだな」 と、狭間に力説してきたのは鳳凰仮面だった。ラーメンの湯気で、サングラスが白く曇っている。古代喫茶 ヲルドビスからアパートに帰宅する途中で鳳凰仮面に掴まった狭間は、高頻度で訪れているラーメン屋の屋台に連行 され、夕食を共にしているというわけである。 「俺もその話は知っていますけど」 狭間はふやけた海苔を麺に絡ませ、啜った。 「マスケド」 狭間の膝の上で水を飲むツブラが、語尾を真似る。 「なんだ、その気の抜けた感想は。鳳凰仮面はちょっと寂しいぞ」 そう言いつつ、鳳凰仮面はメンマを齧った。 「相手は普通じゃないんですから、放っておいたらどうです? それと、どんな形であれ、九頭竜会と関わるもんじゃ ないですよ。一度関わったら、死ぬまで付き纏われますよ」 「マスヨ」 「それはそうなのだが、正義の血が騒ぐのだ。鳳凰仮面は何者に屈しないと決めたのだ、紙芝居の筋書だってそう なっている。今週の鳳凰仮面は地底人に攫われた少女を追って地下帝国に潜入するのだが、そこにいたのはかつて の友人だった。そう、地底人の正体は鳳凰仮面の昔馴染みであり、一時期はコンビを組んで戦っていたヒーロー でもあった。しかし、友人は地底人としての本性を現し、祖国から命じられた任務を果たすべく、鳳凰仮面の前 に立ち塞がる。少女の命を御神体に捧げ、祖国を地上に浮上させるという重大な仕事だ。それをしなければ地下 帝国は遠からず滅んでしまう、だが少女の命には代えられない、しかし友人は見捨てられない! さあどうする 鳳凰仮面、その拳は誰を守る! その背中は何を背負う!」 語るうちに気合が入ってきたのか紙芝居屋の調子で捲し立てた鳳凰仮面に、ツブラは身を乗り出す。 「ドウナル?」 「この先の筋は鳳凰仮面も少し迷っているのだよ。絵は描いてあるんだが、結末はどうしたもんかと思っていてな。 地下帝国の民に罪はない、地下帝国の軍人である友人も咎められない。だが、少女は鳳凰仮面を慕ってくれている。 誰を裏切るべきか、と問われれば、紙芝居を見てくれる子供達を裏切るべきなのだ。良い意味でだ。今回の話 では、鳳凰仮面の限界を描こうと思った。男として、人間として、そしてヒーローとしての限界だ。彼の両手 でも救い切れないものがある。それを、どうしたもんかと考えて考えて考え抜いたが、煮詰まってなぁ」 だから外に出てきた、と鳳凰仮面はラーメンの丼を持ち上げ、スープを飲んだ。 「全部守ればいいでしょう」 狭間は割り箸を置き、丼を屋台の店主に返した。 「鳳凰仮面には、それが出来るんですから」 「それは紙の上での話だ。だが、近頃、鳳凰仮面と紙の上の鳳凰仮面の差が大きくなりすぎてなぁ」 鳳凰仮面も丼を返してマスクを戻してから、嘆息した。 「人間の手は小さいのだ、その手に余ることをすべきじゃないぞ、狭間君。鳳凰仮面はこれでも身の程を弁えているから、 致命傷を負わずに生き延びてこられたのだ。だから……」 「すんませんちょっと失礼します!」 怪獣を介して警察無線が頭に飛び込んできて、狭間はツブラを抱えてラーメンの屋台から飛び出した。鳳凰仮面から どこに行くのかと問われたが、便所です、と答えておいた。一番無難だからだ。物陰に入った狭間は、ツブラを 背中に担いでから深呼吸し、触手に身を委ねた。ツブラは狭間の背中に抱き付くと、全ての触手を広げて狭間の 全身に被せ、戒めてきた。口頭で指示する手間を省くために、狭間が迂闊に喋らないように、喉の奥に数本の触手 を詰め込んで触手と神経を接続させる。服の下にも躊躇いなく入り込んできた触手は、容赦なく狭間の四肢を戒めて 局部すらも圧迫するが、そこに痛みはない。むしろ、快感が勝る。狭間がツブラを受け入れ切っている証拠であり、 ツブラが狭間の体を知り尽くしている証拠でもあった。ツブラの体感と狭間の体感が完全に交わると、そこにいる のは狭間でもツブラでもなくなった。名付けて、触手怪人エディアカリア。 〈名乗ったことはないんだけどな〉 「ナンデ? セッカク、マヒト、カンガエタ」 狭間の背中にくっついているツブラが耳元で囁いてきたので、狭間は怪獣電波で応える。 〈下手に声を漏らせば正体がバレちまうから、って喉を塞いじまったからでもあるんだけど、照れ臭くて〉 「ドウシテ? ツブラ、エディアカリア、スキ」 〈古生代のイソギンチャクの名前だから、俺とツブラが合体した姿にはぴったりだと思って付けたんだが、名乗った ところで誰が覚えてくれるわけでもないし……。ノリノリで名前を考えた自分が恥ずかしくなってきて……〉 「ドウシテ?」 〈あんまり聞くな。要するに俺は、鳳凰仮面みたいな男じゃないってこった!〉 ヒーローになるべく行動に移しているのに、開き直り切れないのだから。なので、誰にも名乗ったことのない名前 も怪人にしている。一呼吸置いてから、エディアカリアは跳躍してビルの屋上に飛び乗った。十数メートルを一息で 越え、コンクリートに着地しても両足に至る過負荷はほとんどない。不都合があるとすれば、視野の狭さと持久力の なさだ。実戦に出向く前に何度となく練習し、限界を調べた結果、狭間の体力が持つのはせいぜい十五分。その間に 九頭竜会と渾沌の抗争が起きている現場を察知し、移動し、殺されかけている人間を助けなければならない。 今のところ、エレシュキガルに遭遇したことはないが、遭遇した場合は更にエレシュキガルとも一戦交える 必要が出てくる。というより、それが当初の目的なのだが、このままではエレシュキガルを捉える前に狭間とツブラが 消耗してしまう。その前に来てくれ、と思う一方で、触手怪人エディアカリアとして戦うことに慣れるまで時間を くれ、とも思わないでもない。だが、そんなものは狭間の一方的な都合だ。 〈身の程知らずなのは、今に始まったことじゃない〉 解っている、鳳凰仮面に言われなくとも。それでも動かずにはいられないのは、羽生の言葉が狭間の背中を押してくる からだ。何もせずにはいられない。そう思っているのは自分だけではなく、理不尽な状況にあるのだと知っている のも自分だけではなく、抗おうとしているのも自分だけではない。だから、夜の街に飛び込める。 触手の鎧と愛する少女を身に纏い、青年は舞い上がった。 15 1/1 |