一時間の労働を終えると、骨の髄まで疲れ切った。 水をたらふく飲み、塩を舐め、汗みずくの服を着替えると少しは落ち着いた。額から垂れ落ちて目に入った汗が 染みて痛く、体全体に塩が浮いてざらついている。風呂に入りたいところだが、生憎、人間用の温泉場は小田原に まで戻らないとない。箱根は怪獣のために切り開かれた土地であり、怪獣が最優先に作られているからだ。娯楽と いえるものはヤクザのしのぎとなる賭博場しかなく、外界への交通手段であるバスもヤクザの手が回っているの で、料金が異様に高く、場合によっては許可証も必要になるが、その許可証を買うための代金がこれまたかなりの 高額だった。だから、賭博で身を持ち崩せば箱根から脱出出来なくなるという寸法だ。 つくづく、ヤクザは商売上手だ。そんなことを思いながら、狭間は野々村に連れられて入った大衆食堂で、雑な 味付けのうどんを啜っていた。ダシの味がしない上にやたらめったら塩辛く、おいしくない。野々村も同じ感想らしく、 黙々と食べていた。掘っ建て小屋の如き狭い店内にひしめき合っている男達は、誰も彼も汚れていて、泥と硫黄の 匂いにまみれていた。空腹に任せてうどんを平らげた後、狭間は向かい側に座る野々村を見やった。 「たまに来るんですか、ここに。店に入った時、会計係に挨拶されていたから」 「紙芝居屋は儲からないからなぁ。テレビが普及した今となっちゃ」 野々村は生温い麦茶を呷り、レジの背後の棚に押し込められている小さなブラウン管を見上げた。 「どうしても稼ぎが出ない時、金が底を突いた時、日雇いで働いて糊口を凌いでいたんだ。だから、若い頃は美羽子 に散々苦労を掛けちまったんだ。亭主がいきなり公務員を辞めてきて、とち狂ったことに紙芝居屋なんぞ始めた んだからなぁ。だが、美羽子はこう言った。フジさんが好きなことをするんなら、私も好きなことをしたいように させて頂きますからね、ってな。それで、洋裁学校に行くようになって、職人に弟子入りして、その間に一人息子 をきっちり育て上げてくれて、気付いた頃には美羽子の名前が入った服が店に並ぶようになった。つくづく俺には 勿体ない女房だよ、美羽子は」 「だから、鳳凰仮面の衣装も作ってくれたんですか」 「あれは演劇の舞台衣装の端切れで作ったと言っていたが、その割に出来が良くてな。問屋で金色の布地の値段 を見てみたら、ぎょっとするほど高かった。なのに美羽子は、ただの手慰みですから御代は結構です、なんてこと をつんとしながら言いやがる。破れたところがあればすぐに縫い合わせちまうし、汚れていたら洗ってくれるしで、 俺のヒーロー活動が嫌だ嫌だというわりには気を回すんだ。可愛い奴だよ」 「いい奥さんですね」 「言われなくても解っているさ、そんなもん」 野々村は相好を崩しかけたが、すぐに引き締めた。 「狭間君。俺に言いたいことがあるんじゃないのか」 「まあ……それなりに」 狭間の推論と野々村の昔話を擦り合わせられそうだから、突き詰めたいと思っていた。だが、大衆食堂には客が 多すぎて、どこの誰が聞き耳を立てているのか解らない。怪獣使いの命令を受けた公安か警察が張っていたら、 今度こそ無事では済まない。野々村は食後の一服をせずに腰を上げて、勘定を済ませて外に出た。狭間も勘定を 済ませ、彼の大きな背中を追いかけた。駐車場に置いてきたツブラが気掛かりです、と狭間が不安を零すと、 密談の場所はジープの車内に決定した。 坂道を上り、階段を昇り、駐車場に至る。車はまばらに停まっているだけなので見晴らしは良く、人気もなかった。 狭間のドリームと野々村のジープは大人しく待っていてくれ、ジープの後部座席ではツブラが絵本を抱えて転寝して いた。窓を小突いてやると、ツブラははっとして起き上がり、狭間を認めるとロックを開けた。 「マヒト! オカエリ! ツブラ、イイコ、シテタ!」 「見りゃ解る、偉かったな」 狭間は擦り寄ってきたツブラを撫でてやってから、ジープにも礼を言った。 「あんたもだ。ありがとう」 〈どうってこたぁねぇよ。天の子とお近付きになれるたぁ、光栄至極ってもんよ〉 どるん、とジープはエンジンを軽く唸らせてから、運転席のドアを開けた。と、そこで狭間は我に返った。ツブラが 気掛かりだったのと重労働を終えて疲れていたからか、当たり前に話をしてしまった。野々村は狭間とツブラと愛車 に素早く視線を巡らせてから、運転席に乗り込んでドアを閉めた。狭間も後部座席に乗り、ドアを閉める。 「あの……えっと、俺が今し方喋った相手は……」 狭間はヘッドレスト越しに恐る恐る声を掛けると、野々村は腕組みをする。 「シャンブロウを連れているんだ、狭間君は普通じゃないと薄々思っていたから、驚きはせん。それで、俺のジープ とどんな話をしたんだ? そもそも、こいつは喋るのか?」 「俺がどういう体質なのかも解ったんですか」 「薄々はな。で、俺のジープとどういう話をしたんだ」 「どうったこたぁない、天の子とお近付きになれるたぁ光栄だ、とまぁそんな感じのことを」 「天の子? ……地の子とは違うのか?」 「地の子って、天の子とは違うんですかね?」 初めて聞く単語だった。狭間が思わず聞き返すと、野々村は振り向く。 「知っているのか!?」 「あ、いえ知りませんよ、知らないですよ地の子の方は! 天の子ってのはツブラのことです!」 その剣幕に気圧された狭間がツブラを抱えて後退ると、そうか、と呟いた後、野々村は座り直す。 「さっきの話の続きをしよう。俺達が守らされていた怪獣使いの成り損ない、綾繁哀は、綾繁家の当主である綾繁定 「え? マガタマって、人間を材料にして作るものじゃないですよね? あれは怪獣の体内で出来る結晶体で、 神経細胞の固まりで……」 「そのはずなんだが、怪獣使いは人間からマガタマを作る技術を持っている。らしい」 「もしもそれが本当に出来たとしたら、怪獣使いは商売上がったりになるのでは? いや、違うな、その逆ですね。 怪獣使いが操れるのは、鹵獲してマガタマを摘出した怪獣か、怪獣使いの祝詞によって精神を繋げた怪獣だけです からね。天然ものの怪獣となると、余程相手が大人しくしていないとまず無理ですもんね。タテエボシを綾繁枢が 操れるようになったのは、タテエボシが大人しかったからですし。マガタマを量産して怪獣に片っ端から埋め込んで しまえば、使役出来る怪獣の数が段違いに増えるし、ともすれば戦術兵器並みの出力を備えた超大型怪獣を操ること すら可能になります。そうなれば、国益も軍事力も馬鹿みたいに跳ね上がりますね。上手くいけば、ですが」 「政府の古い役人の中には、戦時中の価値観を未だに引き摺っている輩が多くてなぁ。人道的にも法律的にも問題 が山ほどあるというのに、誰も怪獣使いを止めようとしないんだ。そりゃ、人型多脚重機のような傷痍軍人の成れ の果ては今でも沢山いるが、あれはやむにやまれぬ経緯を経てあの姿になったのであって、彼らはそうなることを 望んでいたわけじゃないんだ。それなのに、怪獣使いは人間から造ったマガタマを使って罰当たりなことをしようと している。その怪獣の名は――――」 言っていいものか、と野々村は逡巡していたが、重々しく述べた。 「怪獣聖母ティアマトだ。別名、神話怪獣アマテラスオオミカミ」 その名を聞き、狭間は後部座席からずり落ちかけた。馬鹿げている、怪獣使いは常軌を逸している、そんなこと が出来るものか、出来たところでどうなるというのだ。ツブラは狭間の腹の上できょとんとしていて、ジープは 動揺してがたつき、ドリームも意味もなくライトをパッシングさせている。 怪獣聖母ティアマト。神話時代よりも遥か昔、地球の創世記から存在し、言ってしまえば地球そのものといっても 過言ではない太古の怪獣だ。南極のエレバス山の地中深くに眠っていて、世界中に張り巡らされた怪獣鉱脈は全て そこから始まっており、力尽きて火山に放り込まれた怪獣達が再びマグマに溶けた後に行き着くのも、怪獣聖母の 御膝元だ。怪獣だけでなく地球上の生物の営みを支えている存在を操ろうだなんて、考えるだけでもおこがましい というのに、そのために怪獣使いになりたがっていた少女を犠牲にしたのか。 「そんなの、どう考えても失敗しますって。怪獣使いの考えって、理解するしない以前の問題ですよ。倫理観と いうか、理性というか、道徳というか、観念というか、その辺が一切ないですね」 比喩ではなく頭が痛くなってきたので、狭間は頭を抱えた。 「だから、俺だけでも筋を通そうとしたんだ。綾繁哀を救い出して、その双子の妹も救い出して逃がそうとしたんだ が、最後の最後で失敗した。それから、双子の行方は解らん。幸い、俺はその場で殺されはしなかったが、政府が 方々に手を回したらしくて定職に付けなくなっちまった。古い馴染みの伝手で紙芝居屋になれたのは運が良かった んだ。……いや、すまん、また俺ばかり話しちまって。今度は狭間君が話してくれ、そっちの言い分を」 野々村はポケットに入れたタバコを探ったが、こちらも切れていたのか、舌打ちして包装紙を丸めた。 「ええと、推論というには浅はかなものなんですが……」 弱気な建前を置いてから、狭間は自分なりに考えた事の元凶を述べた。怪獣使いと魔法使いには何らかの繋がりが あり、怪獣使いと魔法使いのどちらかがエレシュキガルを蘇らせたのであり、エレシュキガルが成長することは どちらかにとって有益であり、一部の怪獣使いは魔法使いと結託して事を荒立てているのではないか、と。狭間の 推論を一通り聞き終えてから、野々村は唸った。 「うぬう、ややこしくなってきたな」 「それと、こんなことも知っているんですけど、一応教えておきます。怪獣Gメンの中には、魔法使いと通じている 人がいましたよ。それが誰かまでは言いませんけど」 「それは驚くには値せんな」 「え?」 「エ?」 野々村の返事に狭間が驚くと、ツブラがその声を真似る。 「怪獣監督省が出来たのは五十年ほど前なんだが、あれは外国のやり方を真似て造られたものなんだ。だから、 設立する際に顧問として外人の要人から意見を募ったんだが、その中に魔法使いがいたんだ」 「知りませんでしたよ、そんなの」 「政治の背景についてはもっと知った方がいいぞ、狭間君。新聞は一紙だけじゃなくて複数読むことだ。怪獣監督省 と怪獣Gメンは怪獣の取り締まりが主立った仕事だが、怪獣監督省が出来るまでは玉璽近衛隊の仕事だった。だが、 文化の欧米化に従ってやり方を変えねばならなくなり、外国のやり方と法律を取り入れたのが怪獣Gメンってわけだ。 狭間君と同居している光永さんも怪獣Gメンだそうだが、あれは大分キテるぞ」 「確かに困った人ではありますよ、愛歌さんは」 狭間が苦笑すると、野々村は少し躊躇ったが、間を置いて言った。 「そうか……一般人には秘匿されているんだな。どうしようもないな、全く。あの状態で仕事をさせている方も大概 だが、仕事をしようと思う方も大概だ。裏社会の連中は、怪獣の体液による中毒症状で色素異常と身体機能の変異が 起きた状態のことを怪獣人間と言っているようだが、あれは立派な病気だ。怪獣の切れ端を体に結合させた連中のこと は怪獣人間と読んでも差支えはないし、書類の上でもそうだが、アレは」 野々村は手持無沙汰なのかマッチを手中で弄んでいたが、不意に身を起こしてフロントガラスに貼り付いた。狭間 もそれに倣って芦ノ湖を見下ろすと、光の柱が屹立していた。途端に全身の血の気が引き、喉が痛み、息が詰まり、 身動きが取れなくなる。ああ、ああ、ああ、思い出させないでくれ。あの光景を見せないでくれ。 だが、狭間の願いは叶うはずもない。光量が増すにつれて湯気が消え、湖水が消えて大穴が開き、あれほど熱して いた風が冷え込む。日雇い労働者達の汗と垢と泥と、怪獣達の老廃物と石と堆積物で充ち満ちた芦ノ湖の上空 に、厳かに光の天使が舞う。六枚の翼を背負い、頭上に光の輪を携えた、全長三〇メートルほどの光の巨人が、 光の柱に沿って降下してくる。その両足が湖水に接すると、疲れを癒していた怪獣達が、怪獣達を清めていた 人々が消え去る。戦わなければ、阻まなければ。狭間はツブラを抱え、車外に出た。 今度こそ、守らねば。 15 1/6 |