横濱怪獣哀歌




怪獣大清掃



 ホンダ・ドリームを駆り、芦ノ湖へと直行する。
 その間にも、狭間の感覚には怪獣達の絶望と悲鳴が矢のように突き刺さってくる。彼らの声が実物だったなら、 三国志の故事もかくやという有様だっただろう。怪獣達の声を総括してみると、光の巨人が出現した切っ掛けは、 作業中に足を滑らせて湖水に没した労働者がいたからだった。その男を掬い上げるべく、怪獣を清める怪獣達は 芦ノ湖に潜っていき、その男の足を銜えて湖畔まで引っ張っていったが、少し強く噛みすぎたために男の足の骨が 折れてしまった。それから程なくして、光の巨人が出現した。
 我先にと逃げ出す車の間を縫い、ドリームのおかげで何度となく衝突とスリップを回避しながら、狭間は光の巨人に 蹂躙される芦ノ湖へと迫っていく。すると、バックミラーに車の流れに逆らう一台の車が見えた。アクセル全開 でありながらも抜群のハンドリングで駆け抜けてくるのは、野々村のジープだった。引き返してくれ、と狭間は 叫びたかったが、その時間すらも惜しい。湖畔の船着き場まで至ると、狭間は車体を横滑りさせながらブレーキを 力一杯握り締めた。ドリームが踏ん張ってくれたので、桟橋に上がる前に無事停車出来た。その直後、野々村の ジープも急ブレーキを掛けた末に停車した。

「ツブラ!」

 狭間が名を呼ぶと、狭間の背中に貼り付いていたツブラは変装道具を脱ぎ捨て、触手を解放する。

「ワカッテ、イル」

 目を据わらせたツブラは、狭間と同等かそれ以上に憤っていた。船島集落を救えなかったことを悔やんでいるから こそ湧き上がる、確かな戦意だった。湖面は逃げ惑う怪獣達が起こす波で荒れ狂っていたが、中型怪獣のほとんど は鎖と錨で係留されているので移動すら出来ず、光の巨人とその配下の光の天使に呆気なく触れられ、湖水ごと 消し去られた。狭間はその様を凝視し、彼らの声を聞き届け、揺れ動きそうになる心に杭を打ち付けた。
 光の巨人の向こう側が火星であるというのなら、火星に故郷と家族と皆がいるというのなら、いっそのこと火星 に行ってしまいたい。遠く離れた赤い星に連れ去られてしまえば、魔法使いやら怪獣使いやらヤクザやらマフィア やらの厄介事から離れてしまえる。逃げてしまえる。ともすれば、ツブラと大っぴらに出歩ける。ツブラの故郷でも ある火星に行きたい。煩わしくて面倒臭い人生を捨ててしまいたい。
 澄んだ白い光を見つめていると、そんな気持ちに駆られてしまう。馬鹿馬鹿しい妄想だ、と狭間は己を律するため にツブラを抱き寄せ、荒っぽく、幼い唇を塞いで触手に舌を絡ませる。場違いな甘い声が僅かに聞こえたが、その声 をも貪ってしまう。ただの捕食行為、人ならざるものに戦う力を与える儀式、餌と獣。当分はその関係でいることに 満足しなければならないのだから、せめて体だけでも満たさなければ。
 ツブラの息が上がる寸前で舌を抜くと、狭間の喉に突っ込まれていた触手もずるりと抜ける。少し名残惜しそう ではあったが、ツブラは濡れた口元を数本の触手で拭ってから表情を一変させ、光の巨人に向き直る。一際深く息を 吸い込んで小さな胸を膨らませ、触手で地面を蹴り付けて跳躍すると、その身の丈はたちまち膨れ上がる。

「――――あれは」

 狭間の背後で足音が止まり、野々村が弱く零す。

「ツブラですよ」

 巨大化したシャンブロウから目を離さずに、彼の様子を窺う。彼女は触手を広げて無数の光の天使を捉え、潰し、 舞い踊った。それを受け、光の巨人は翼をはためかせて羽根を撒き散らす。それもまた触手で作った繭で阻もうと するが、羽根は触手に突き刺さり、炸裂する。だが、彼女は呻き声も漏らさずに繭を解き、光の巨人の死角であろう 水中に触手を突っ込んで、光の巨人の真下から触手を放った。それにより、光の巨人は片足を失う。

「そうか、ならば」

 野々村は、鳳凰仮面に姿を変えていた。彼は手にしていた袋を開き、瑞々しさの残る触手を取り出した。

「これはあの子に返してやらねば。渾沌の女が切り裂いたものを何本か拾っていたのだが、処分すべきか否かを 悩んでしまって、手元に置いておいたのだ」

「怖いとは思わないんですか。俺とツブラを」

「まさか」

 鳳凰仮面はサングラスを上げ、黒いレンズに巨大な怪獣娘と光の巨人の激闘を映す。

「彼女は体を張って戦ってくれている。造船所が消された日も、嵐の日も、それ以外の時も、ずっとそうだった。この 鳳凰仮面が、その正義を疑うものか。理不尽な暴力に立ち向かおうとする意思は、すべからく尊い」

「よかった。そう言ってもらえて」

 鳳凰仮面の正義は決して揺らがない。彼らしい答えに、狭間は感じ入った。

「ツブラ、聞こえたか? 鳳凰仮面が、お前を褒めてくれたんだ」

「キコエタ」

 ずっ、どぉん、との轟音の後に水柱が上がる。質量を持った光の巨人を殴り倒した後、ツブラが叫ぶ。声量が普段の 数百倍なので、その声色も必然的に大人の女性のそれに変わっていた。触手の間から白目のない赤い瞳が覗き、金色の 正義の味方を捉える。紙芝居の中のヒーローを見つめている際と同じ、真っ直ぐな眼差しだった。

「ダカラ、ツブラ、タタカウ!」

 誰かに信じてもらえれば、それだけで戦ってきた意味があるというものだ。ツブラの身のこなしが明らかに機敏に なり、触手に頼り切っていた戦法が、見覚えのある体術に切り替わる。大外刈、払腰、掬い投げ、逆水平チョップから のラリアット、ドロップキック、ボディスラム、フロッグスプラッシュ、ダメ押しのウラカン・ラナ。
 ツブラが誰の真似をしているのかは一目瞭然だった。実物の鳳凰仮面と紙芝居の中の鳳凰仮面が出していた技を、 手当たり次第に出している。それが光の巨人に対して有効かどうかは計りかねたが、触手ではなくツブラ本体の 質量に任せた打撃が繰り返されるうちに光量が衰えてきたので、無意味ではなかったらしい。だが、触手による 攻撃に比べると効果は低いようだった。けれど、触手の損傷は格段に減っていたので戦法としては有効だ。
 ウラカン・ラナにより、ツブラの太股に頭を挟まれた光の巨人は湖中に上半身が没し、六枚の翼も千切れて羽根 の枚数も大幅に減少している。背部の光輪は触手で砕き、飛び散った羽根から出現する光の天使は即座に触手で 潰し、光の巨人が薄らいでいるのか、ツブラの下半身を照らす光が弱まりつつある。このまま決着が付く、と 思いたかったが、そう容易くダウンが取れるほど甘くはない。
 狭間の懸念通りだった。ツブラの膝に締め上げられていた光の巨人は不意に質量を失い、ツブラがつんのめる と、湖面が爆発した。――――否、光の巨人は質量を捨てて分裂した。その数、一〇〇や二〇〇では足りない。 ツブラを倒せないならば人間と怪獣を消してしまえ、と作戦を切り替えたようだった。

「クソッ垂れのクソ天使共め!」

 繁殖期を迎えたバッタの大群のように、無数の光の天使が芦ノ湖から飛び立ち始めた。狭間は悪態を吐いたが、 だからといって何が出来るわけでもない。ツブラは出来る限り広範囲に触手を広げるが、いかにツブラであろうとも 湖面全体は覆い切れない。格闘戦で消耗していた光の巨人の最後のあがきであり、威力は弱い方だったが、物体を 消失させる役割は充分に果たしていた。山の木々、湖水、桟橋、食堂、簡易宿泊所、賭博場、ぼったくりの売店、 手漕ぎボート、怪獣を運搬するためのトラック、と次々に消されていく。
 逃げ遅れた人々が息を切らしながら上っている坂道にも、光の天使の群れが向かっていく。ツブラはぐっと 唇を噛んで湖底を蹴って跳躍すると、坂道の前に触手を巡らせて壁を作ると、光の天使を受ける。ひたすら触手 で受け続けるが、その度に小さな爆発が起きる。一度や二度は耐えられるが、三度四度と続くと触手に傷が付き、 皮膚が裂けて体液が噴き出してくる。人々が逃げ切るまでの間、ツブラは耐えて耐えて耐え抜いた。
 膝が笑い、濡れた全身が震え、体液の瀑布が止まらない。光の天使はツブラを痛め付けられるように出来ていた らしく、触手の損傷が激しい。狭間がツブラに駆け寄ろうとすると、ツブラは顔を歪めながらも首を横に振る。

「マダ、ダイジョウブ」

 唇の端が切れているにも関わらず、ツブラは懸命に口角を上げていた。そのいじらしい強がりに、狭間は喉まで 出かかった言葉を飲み下す。もういい、充分だ、と。ツブラは巨大な手で坂道の端を掴み、それを手がかりにして 体を起こす。実体でありながらも質量をほとんど持たない巨体ではあるが、度重なる戦闘による疲労と心身に蓄積 した過負荷がツブラの足取りを重くさせていた。それでも、ツブラは歩き出し、触手を身に纏う。
 触手を外装に変え、怪人エディアカリアの如き姿に変貌したツブラは、触手によって強化された脚力を駆使して、 芦ノ湖上空まで一気に飛び上がる。その際に発生した衝撃波で湖面は先程以上に荒れ、高波に呑まれそうになった ドリームとジープは独りでに動き出して高台にまで避難した。狭間と鳳凰仮面もまた高台に移動すると、熱い波が 湖畔に押し寄せ、瓦礫や木片やら何やらを湖中に引き摺り込んでいった。
 上空では、ツブラが光の天使を全て捕捉するべく、触手を伸ばし続けていた。彼女の触手は伸縮自在ではあるが、 何事にも限度がある。狭間は足元に流れ着いた地図を拾い、周囲の山の高さと芦ノ湖の広さを頭に入れた。面積は 7.1平方キロ、周囲長は21.1キロ。それだけでも広すぎるのだが、ツブラは更にその上、芦ノ湖を取り囲む 山並みの頂点に触手を届かせようとしていた。道という道に触手を突き刺して光の天使を潰し、逃げ遅れた人々は 触手で守り、空を赤く染め上げていく。薄い暗がりの中、狭間はツブラを見つめる。

「大丈夫だ、俺はここにいてやる」

 体液の最後の一滴まで絞り出すかのような所業を耐え抜くには、ツブラの心を支えてやるしかない。内臓でもある 触手を伸ばし切ると苦痛が訪れるのか、ツブラは吼えている。赤い目はきつく吊り上がり、目尻からは赤い体液 が溢れ出している。涙ではない、力みすぎて血管が切れているのだ。狭間は、ツブラが無意識に発している怪獣電波 を感じ取り、彼女が耐え抜いている苦痛を一抓みだけ分け与えられた。
 感じた途端に体が砕けそうになり、息が詰まり、内臓が破裂しそうになる。膝を折りかけたが、鳳凰仮面の手を 借りてなんとか踏み止まる。狭間の異変に気付き、ツブラは怪獣電波を引っ込めようとしたが、限界近くまで力を 引き出しているせいで制御が効かなくなっているのか、苦痛は流れ込み続けていた。

〈真人……〉

「やっと、お前の本当の言葉が聞けたな」

 こんな時でなければ、全力で喜んでやったものを。脂汗にまみれながらも狭間が笑んでみせると、ツブラの声が 返ってきた。狭間を思いやるがあまりに遠慮がちになっているが、甘えたくてどうしようもない気持ちが多分に 滲んでいるものだった。少女の姿を借りた古き神話怪獣の末裔は、体液で潤んだ目を動かし、狭間を見下ろす。

〈愛しい人。私の愛しい人。こんな思いをさせたいわけじゃないの。ただ、真人の傍にいたいだけ〉

「俺もだ。だから、最後まで付き合ってやる。――ところで」

〈やめて、言わないで。考えていることが全部伝わってしまうから、怪獣電波だけは使いたくなかったのに〉

「さっきの続きがしたいから頑張るのかよ、お前は」

〈だって……〉

 気恥ずかしげに、ツブラの目が揺れ動く。

「後でいくらでも可愛がってやるから、もう一踏ん張りだ」

 素面で言うには恥ずかしすぎる言葉だったが、それ以外に妥当な語彙が思い付かなかった。鳳凰仮面は狭間と ツブラを交互に見ていたが、何かを理解したらしく、深く頷いていた。だが、これといって言及してこなかったのは、 鳳凰仮面なりの優しさなのだろう。ツブラは目を丸めたが、唇を浅く噛む。照れたのだ。

〈うん、約束ね〉

 私の愛しい人。そう言い残して、ツブラは怪獣電波を引っ込めた。苦痛までは抑えきれなかったのか、狭間の体 には痛みが続いていたが、それすらも愛おしくなってくるのが恋というものだ。同じ感覚を共有していると、言葉 を交わすだけでは、粘膜を重ねるだけでは伝わり切らないものも伝わるから、より深く繋がれる。
 再び、ツブラは吼える。触手の網が、赤い膜が、光の巨人に対する唯一の防衛手段が、箱根一帯を覆い尽くす。 天から注ぐ陽光も塞がれ、束の間、箱根は闇に閉ざされる。その中では際立って目立つ光の天使目掛けて、的確 かつ鋭角に触手が突き刺さる。刺さる、刺さる、刺さる、刺さる、刺さる、刺さる。
 完全に光源が失われたことが、最後の一匹が潰された証拠だった。生温い風と蒸し暑い空気が籠る中、狭間に 訪れる痛みも徐々に引いてきた。山並みの端から空が垣間見え始め、触手が縮まっていく。ツブラが死守した坂道 では、労働者達とその元締めであるヤクザ達が唖然としながら空を見上げている。芦ノ湖からは生き残った怪獣達 の歓声が沸き上がる。狭間は鳳凰仮面の元から離れ、波が落ち着きつつある湖畔に近付く。

「ツブラ!」

 腹の底から声を出し、名を呼んだ。暖かくもまろやかな、人の営みを真っ当に照らしてくれる光を浴びて、少女の姿 に戻ったシャンブロウが降りてくる。狭間は足が濡れるのも厭わずに湖畔に入ると、触手を翼代わりにして 滑空してくるツブラを受け止めるべく、両手を広げた。

「マヒト!」

 身の丈に合った声を呼び返したツブラは、触手の切断面と全身の傷と目尻から体液を零しながらも、狭間の 胸に飛び込むべく短い両腕を精一杯伸ばす。あと一〇メートル、五メートル、三メートル。もう少しで手が届く、 というところで、狭間の足元が突如発光した。足に触れていた水が消え、地面が抉れる。
 光の天使が、一匹だけ湖中に潜んでいた。先程の光の巨人は、ツブラの力の源が狭間だと知っていたのだろう。 エレシュキガルを経由して得た情報を有効活用すべく、虎視眈々とその時を待ち侘びていた。ツブラが小さくなり、 狭間が無防備になる瞬間を。それが、正に今だった。
 足が冷える、凍り付きそうなほどに。逃げ出そうにも体温が奪われ、体が硬直する。狭間は目前まで迫ったツブラ に手を差し伸べるが、届きそうで届かない。他の怪獣も当てにならない。ドリームもジープも遠すぎる。火星まで の旅路を思い描く余裕など与えられない。羽根も光輪も千切れた光の天使が、ツブラに代わって狭間を抱き締める べく、短い両腕を広げる。その腕が狭まり、狭間の服に触れ、そして――――

「ふんぬああああああああっ!」

 金色のヒーローが割り込み、光の天使を蹴り飛ばした。その足にはツブラの触手が巻き付けられており、強烈な 一撃を喰らった光の天使は湖面を滑っていき、浮遊物に激突して砕けた。

「見たか、鳳凰仮面の正義を! ふははははははははははは!」

 熱い胸板を張って勝ち誇る鳳凰仮面の背を見上げながら、狭間は湖畔に倒れ込んだ。程なくしてツブラが着地し、 狭間に駆け寄ってくる。鳳凰仮面は足に巻き付けていた触手をツブラに返してから、サングラスを外す。

「狭間君、ツブラちゃん。お互いにややこしい事情はあるが、鳳凰仮面は君達の――――」

 と、言いかけて、鳳凰仮面は仰け反る。その背から千切れた翼が伸び、光を帯びると、心臓の位置に穴が開く。 血が出なかったのが、せめてもの救いかもしれなかった。

「君達の信じる、正義の味方だぁっ!」

 横隔膜を消されながらも、鳳凰仮面は拳を天へと突き上げて叫んだ。

「俺もツブラも、あなたの正義の味方です!」

 狭間は余力を振り絞って立ち上がり、彼が突き上げた拳を握ろうとするが、その手が触れる前に鳳凰仮面の拳も 腕も胸も腹も肩も足も衣装も何もかもが消え失せた。消される直前に外していたサングラスが、主の手から離れて 地面に落ちる。鳳凰仮面が強く握り過ぎたからか、レンズにヒビが走っていた。震える手でサングラスを拾った狭間 は、いつになく体が冷え切っているツブラを抱き寄せ、約束通りに愛情を注いだ。
 気付くと、ドリームとジープが二人に寄り添っていた。彼らを労ってから、狭間はドリームをジープの荷台に 乗り込ませてから、イグニッションキーが刺さったままになっていることを確かめた後、運転席に座ってツブラ は助手席に乗せた。ツブラの激闘によって荒れ果てた坂道を登り始め、ざわつく人々の間を抜け、横浜に戻るべく ハンドルを回した。この場で尽くすべき最善は尽くした。だから、次にやるべきことを成すためにも、体が動く うちに進まなければ。けれど、何度も路肩に止まって滂沱した。ツブラと抱き合い、声を上げて泣いた。
 泣かなければ、息が出来なかったからだ。





 


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