横濱怪獣哀歌




婚約問答



 エレシュキガルの事件から一週間後、古代喫茶・ヲルドビスは営業を再開した。
 同時に、従業員が一人増えていた。その顔を見た途端、狭間は心底げんなりした。それもそのはず、新入りの アルバイトは渾沌の幹部であるリーマオだった。彼女は両足を怪獣義肢に置き換えられているので、それを隠すため にスカートではなくスラックスを履いている。上背がないが足は長いので、それなりに似合っている。
 リーマオに次から次へと仕事の指示を送っているのは、九頭竜麻里子だった。寿町での一件の後、寺崎が運転する サバンナに乗り込んだリーマオは無事では済まないだろう、と狭間は案じていたが、殺されずに済んだようだ。 だが、敵対しているヤクザの組長の娘に顎で使われるとあっては、渾沌の幹部としては屈辱の極みだろう。しかし、 リーマオは長らく虎牢関で給仕係を務めていたので手際も良く、仕事の立ち回り方も上手く、外面を取り繕うのも 上手かった。なので、傍から見れば、仕事熱心な新入りと丁寧に指導する先輩に見えただろう。
 リーマオが働いてくれる分、狭間の負担は減ったが、手放しで喜べる状況ではない。ヲルドビスは九頭竜会と渾沌 の中立地帯で、だからこそ実家を追い出された麻里子が下宿しつつ働いているのだが、そこにリーマオが来た となれば雲行きは怪しくなる。火に油どころか、ガソリンをドラム缶ごと投げ込んでいる。
 店から逃げたい。狭間はそんな衝動に駆られながらも決して口には出さず、注文を取り、厨房に発注し、レジ打ち をし、皿洗いをし、時折ツブラの相手をしてやりながら働いた。ちなみに、真琴はリーマオがシフトを代わってくれた ので丸一日休みをもらった。ちなみに、元町の名画座に映画を見に行った。
 注文を書いた伝票を厨房に届けた直後、ドアのベルが鳴った。なので狭間は条件反射で振り返って客を出迎えた が言葉が詰まってしまい、いらっしゃいませ、と言い切れなかった。新たな客は、和装の喪服姿の小柄な中年女性、 野々村美羽子だった。彼女は狭間を真っ直ぐに見返すと、深々と一礼した。狭間は空いている席に美羽子を案内し、 メニュー表を広げて示すと、美羽子はまとめ髪の後れ毛を上げた。

「――――主人は随分と狭間さんの御世話になっていたのに、あの日はすみませんでした」

「俺の方こそ、申し訳ありませんでした」

 美羽子の窶れた横顔に、狭間は腰を折り曲げて頭を下げる。狭間とツブラは箱根で光の巨人と死闘を繰り広げた が、最後の最後で隙が出来てしまい、危うく消されかけた。鳳凰仮面こと野々村不二三は身を挺して狭間を守り抜 いたが、光の巨人の分身である光の天使に消失させられ、残ったのは彼の愛車のジープとヒビの入ったサングラス だけとなった。狭間はそのジープを運転して横浜への帰路を辿りながら、何度となく、泣き、嘆き、苦しみながらも、 ダッシュボードに残されていた財布に入っていた運転免許証を頼りにして、野々村家に到着した。狭間を出迎えた のは美羽子だったが、美羽子は箱根での異変を知っていたらしく、その同行者が狭間であるとも知っていたようで、 出会い頭に罵倒された。うちの人を見捨てたくせによくも顔を出せたものね、と。
 野々村のジープの鍵とサングラスと財布を奪われ、玄関のものを手当たり次第に投げ付けられ、追い出された。 狭間は鉄の愛馬であるホンダ・ドリームとツブラに慰められながらアパートに帰った。美羽子の気持ちは解る、責めて はいけない、咎めてもいけない、ああして誰かに感情をぶつけなければ気が狂いそうになるからだ。それでも、夜に なるとまた押さえが効かなくなって、狭間はあの夜だけは酒に逃げた。
 ひどい二日酔いで寝込んでいると、愛歌が箱根の被害状況を報告してきた。芦ノ湖で療養していた怪獣は六割 が消され、芦ノ湖周辺の建物はほぼ全てが使い物にならなくなったが、人的被害は驚異的な少なさだったという。 行方が知れないのは、野々村不二三を含めた二十二人。二十二人も助けられなかったのか、と狭間が嘆くと、愛歌は 首を横に振った。狭間君とツブラちゃんはその三百倍の人数を救ったのよ、と。
 その言葉で気持ちは持ち直せたが、野々村の葬儀と告別式には行けなかった。今日は初七日が終わる日だな、と 思ったが、仕事を抜けられないから行けないのは仕方ない、と自分に言い訳をした。そこに現れたのが、野々村 の最愛の妻、美羽子だった。気まずさと罪悪感とやるせなさに苛まれながらも、狭間は美羽子と向き合う。

「うちの人の馬鹿に、最後まで付き合って頂いたそうですね」

 美羽子は黒のハンドバッグから鳳凰仮面のサングラスを出し、テーブルに置いた。

「フジさんは、昔からああいう人でした。充分強いのに、いつも言っていました。もっと強くなりたい、もっと正義の味方 をしたい、誰かを救いたい、と。綺麗事だけでどうにかなるわけがないのに、それが解ってしまって辛くなったから 警察を辞めたのに、それでもあんなことをして。何度も言いましたよ、危ないから止めなさいよ、他の方法がある でしょ、その恰好は目立ちすぎます、って。だけど、何度言っても聞かなくて。年頃の息子よりも手に負えなくて、 悩み抜いたんですけど、もうどうにでもなれ、ってあの人の衣装を作るのを手伝ったんです。そうしたら、フジさん があんまり無茶をしなくなったんです。それでも危ないことばかりしていましたけど、ケガをする回数も減って、帰って くる時間も段々早くなって。それがなんでかって、私が作った衣装をダメにするのが嫌だから、なるべく上手く戦うよう にしたんだって言うんです、フジさんは。それじゃ意味がないのに、戦うことをやめてくれなきゃどうしようもない のに、あの人があんまり嬉しそうに言うから。俺の正義を解ってくれる青年が現れた、だから俺はどんな悪に対しても 毅然としていられる、俺が目指す鳳凰仮面になれそうなんだ、って本当に嬉しそうに話すんです」

 美羽子はよれたハンカチで顔を押さえ、華奢な肩を震わせる。

「だから……私、狭間さんとはもっと早くにお会いすべきだったんです。つまらないことで拗ねたり怒ったりしないで、 もっとフジさんの話を聞いてあげるべきだったんです」

「俺もそう思います。野々村さんに、もっと色々と教わっておくべきでした。紙芝居の演じ方も」

「そうですね。私、フジさんが紙芝居を演じているところ、ほとんど見たことがありませんでした。練習しているところ は何度も見かけましたけど、断片だけでしかないし、紙芝居の絵だって描きかけのものばかりで、絵の裏側にある 筋書きも細切れだから良く解らなくて。――――嫌だわ、私、フジさんのことをなんにも知らない」

「よろしければ、コーヒーをお持ちしましょうか。少しは御気分が落ち着かれるかと」

「ええ、お願いするわ。いつもと同じ、モカをちょうだい」

「承知いたしました」

 ごゆっくりどうぞ、と狭間は心から述べてから、注文を取った伝票を手に厨房に入った。作り終えた軽食を載せた皿 を丸盆に載せ、リーマオに配膳を頼んでから、海老塚は狭間を出迎えた。

「狭間君、お辛そうですが」

「それは俺に限った話じゃないですよ」

「仕事は出来ますか」

「やります。じっとしていたくないんです」

 海老塚の心遣いをありがたく思いつつ、狭間は皿洗いをするために洗い場に向かった。麻里子と交代するためだ。 カムロの髪を借りながら皿洗いをこなしていた麻里子は、狭間がやってくると手を止め、カムロも長く伸ばしていた 髪を引っ込めた。ツブラはと言えば、芦ノ湖での戦いの消耗が癒えていないのか、開いたままの絵本に突っ伏して 寝入っていた。顔の下から絵本を抜き、枕代わりにタオルを敷いてやってから、狭間は洗い場に移動した。

「気丈なものですね」

 麻里子は水仕事をしているために少し荒れた手をタオルで拭い、狭間を見上げた。

「どこがだ」

 いつだって、精一杯強がっているだけだ。狭間は無意識にタバコを抜こうとしたが、ウェイター服のポケットに入れ 忘れていたので、所在なく手を下ろした。

「思っていたよりも、リーマオは使い物になりますね」

 麻里子が店内を窺うと、カムロも髪をするりと伸ばして潰れた赤い目を出す。

〈寺崎があいつを連れ帰ってきた時は適当に殺してやろうと思ったんだが、総司郎が生かしておけと言ってなぁ〉

「ろくな拷問もしませんでしたね。つまらない」

〈おまけに、リーマオの足に成り下がったカーレンの性格が鬱陶しくて敵わねぇ〉

「あれと須藤を殺し合わせたら、さぞや面白そうなのですが」

「麻里子さんもカムロも、物騒な話をするのは仕事が終わった後にしてくれませんか」

 狭間が顔をしかめると、麻里子は小さく肩を竦める。

「手を出せないから、口に出して発散しているだけです。あれは私に代わってヲルドビスを回してくれる労働力 になると解りましたから、これで安心して寿退社出来るというものです」

「…………今、なんて」

 寿退社ということは、つまり。狭間がひどく困惑すると、カムロがにゅっと髪束を突き付けてきた。

〈人の子、あの約束は守ってもらうぜ〉

「麻里子さんの友人として結婚披露宴に出席する、ってやつか? でも、あれは何年も先の話だろ?」

 狭間が及び腰になると、麻里子はエプロンから銀色の指輪を取り出し、左手の薬指に填めてみせた。

「両家の顔合わせと結納を済ませまして、婚約指輪を頂きました。結婚式は実家で、披露宴は新郎の邸宅にて 行う手筈となっております。招待状は狭間さんの御宅にもお送りしたのですが、まだご覧になって頂けていない のですね? でしたら、この場で改めてお渡しいたしましょう」

 少々お待ちを、と麻里子は言い残して二階に昇っていき、数分後に降りてきた。その手には、上品な桜色の封筒が 握られていた。うやうやしく差し出された封筒を受け取り、狭間は面食らった。封筒には、九頭竜会の代紋と共に 渾沌の代紋も印刷されていて、宛名書きは今し方書かれたばかりで万年筆のインクが乾き切っていない。麻里子に 期待を含んだ眼差しを注がれ、狭間は躊躇いつつも封を開け、中身を広げた。定例通りの文面の招待状を読んで いくと、この度結婚する二人の名が連ねられていた。
 新郎、金虎。新婦、九頭竜麻里子。




 ヲルドビスに帰ってきた真琴は、その招待状を見ると、腹を下したような顔をした。
 狭間も、ずっとそんな顔をしている。ツブラは狭間の表情の真似をしていて、唇を横一文字に引き結んで眉根に 当たる部分を寄せている。重たい沈黙は長く続き、兄も弟も何をどういったものかと思い悩んでいた。ツブラは 二人を見比べていたが、うとうとして舟を漕いでいた。
 時計の秒針の音と、隣室の麻里子が聞いているラジオの音と、階下の店内で海老塚が流すジュークボックスの 音色がうっすらと重なり合っている。狭間と真琴は揃って麻里子の自室の壁を窺い、狭間は壁の向こう側にいる 首が外れる娘を指すが、真琴は慌てて手を横に振る。ついでに腰を下げ、ベッドの奥に引っ込んでしまった。二人 のやり取りを見、ツブラも麻里子のいる部屋を指したので、狭間はその手を握って下げさせた。

「戦国武将の政略結婚じゃないんだから……」

 真琴は壁から背を離すと、少し伸びてきた髪を掻き乱した。

「長いこと抗争を繰り返したけど決着が付かないし、双方の消耗が著しくなったから、いっそのこと九頭竜会と渾沌 は和睦しちまおうって考えでそうなった、って麻里子さんは言っていたが……」

 狭間は椅子の背もたれを抱えるように座り、渋面を作る。

「結婚式が大惨事になるのが目に浮かぶよ」

 真琴は狭間以上に渋い顔になり、メガネを外して目頭を押さえた。

「兄貴の話を聞く限り、あの人の行く先々で血生臭いことになっている。で、あのリーマオって女の人も両足が普通 じゃないし、渾沌の幹部だ。何も起きない方がおかしい」

「どうする」

「どうするったって、どうしようもないよ。聖ジャクリーン学院の寮は空きはあるけど女子しか入れないし、兄貴の アパートは愛歌さんとツブラで一杯だし、だからといって独立出来る資金も後ろ盾もないわけだし。麻里子さんは結婚 したからといって渾沌の大将と一緒に暮らすとは限らないし、マスターには世話になりっ放しだから礼もしないで出て いくのは気が咎めるし……。手詰まりだよ」

「ひっそりと大人しくしていよう。俺はともかくとして、真琴は安全だからな。だって、招待状が」

 来ていないんだから、と狭間が言いかけると、ドアの隙間から例の封筒が音もなく差し込まれた。程なくして 足音が遠ざかって隣室に入ると、二人はまたも顔を見合わせる。

「来たじゃないかよ! どうするんだよ、兄貴が余計なことを言うからだ!」

 ドアの隙間に挟まっている桜色の封筒を指し、真琴は声を荒げた。

「縛られてテーブルの上に転がされて銃を突きつけられるのは二度とごめんだからな! 今だから言うけど、あの時、 ほんのちょっと漏らしたんだからな! 先に出すものを出しておいたから一滴で済んだだけであって!」

「落ち着け真琴」

「落ち着けるか、こんなの! 兄貴はツブラがいるからどうにかなるだろうけど、俺は違う! なんであいつらは俺に まで執着するんだよ! 俺は怪獣の声なんか聞こえないし、よしんば聞こえたとしても誰にも言わずに墓まで隠し 通す! どうして兄貴はそれが出来なかった! そうしてくれていたら、こんなことにはならない! 箱根から 戻ってこなかったらって思うと、兄貴までいなくなったらって思うと、怖くて怖くて仕方ないんだよ! 俺が死ぬの も怖いけど、あいつらに関わられるのも怖いけど、一人で放り出されたって思うと……」 

「落ち着けよ」

 そうは言ったが、狭間も真琴の動揺に引き摺られかけた。一呼吸置いてから、弟を宥める。

「九頭竜会と渾沌を大人しくさせる方法は、まるでないわけじゃない。と、思う」

「……なんだよそれ」

 声を詰まらせながらも問うてきた真琴に、狭間は自分を支えるために言葉を並べる。

「魔法使いって知っているか? 怪獣使いとは根本から違うが、怪獣に長けた技術者のことだ。俺が考えるに、この 抗争を焚き付けているも魔法使いで、神話怪獣であるエレシュキガルを現代に呼び出しやがったのは魔法使いだ。 居所は解らないし、どこの誰なのかも解らないが、魔法使いを探し出して黙らせれば、なんとかなるかもしれない。 或いは、エレシュキガルをどうにかするかだ。はっきり言っておくが、ツブラにも他の怪獣もエレシュキガルには 勝ち目はない。そもそも戦いにならない。俺はあいつと二度接触したが、逃げるだけで精一杯だったんだ。一度目は エレシュキガルも小さかったし、本気じゃなかったからだ。二度目は火を投げながら逃げたが、それがまた通用 するとは思い難い。だが、あいつを排除しないことにはいつまでも同じことの繰り返しだ」

 きっと、この会話は麻里子とカムロも聞いている。その前提で、狭間は話を続ける。

「だから、いっそのこと麻里子さんには暴れてもらおう。結婚式に列席するのは横浜に巣くう屑共なんだから、血が どれほど流れようともそんなに心は痛まない。そこにエレシュキガルが現れたところで、手を打つ」

「何も出来ないくせに?」

「出来ないなりに考えてみる。結婚式まではまだ時間があるだろ?」

 狭間は招待状の日付を確かめると、挙式披露宴が執り行われるのは二週間後の土曜日だった。

「漁夫の利を得ようってわけ? 得られるかどうかすらも怪しいけど、ただ怯えているだけよりはマシかな」

 兄の頼り甲斐がありそうでなさそうな発言に失笑し、真琴は気を持ち直した。

「何が釣れると思う?」

 狭間は身を反転させて椅子に座り直し、膝の上にツブラを乗せる。

「エレシュキガル」

 ツブラは狭間を見据え、きっぱりと言い切った。その短い言葉と共に発せられた怪獣電波には、並々ならぬ 決意が漲っていた。再生した触手を振り、眠たげに伏せられていた瞼を開き切り、体調が戻ったことを狭間に 示していた。真琴は気後れしつつもツブラに近付くと、ツブラは触手を一本伸ばし、握手をする要領で真琴の 手に絡めた。真琴はぎくりとして後退りかけたが、踏み止まり、弱く握り返す。
 もう、逃げるのはお終いにしよう。





 


15 1/12