横濱怪獣哀歌




婚約問答



 翌日。ジンフーがヲルドビスに現れた。
 もちろん、客としてである。狭間は戸惑いながらも当たり障りのない接客を行い、注文を受けたが、内心では動揺 しすぎて倒れそうだった。真琴にはああは言ったが、いざ当人を目の前にすると尻込みしてしまう。海老塚が淹れた コーヒーとザッハトルテをテーブルに運ぶと、ジンフーはぎろりと狭間を見据えてきた。

「マオはどうしちょる」

 そう言われ、彼女の姿がないことに気付いた。狭間は一旦厨房に戻り、海老塚に尋ねると、材料が足りなくなった から御遣いに出したのだそうだ。その旨をジンフーに伝えると、男は獣の如き凶相を歪めた。

「いつまでたっても帰ってこんから、せめてツラだけでも拝もうと思うたんじゃがのう」

「へ? あ、え、ですけど、リーマオさんは九頭竜会の人質みたいなものでは?」

「そんなもん、とっくに金でどうにかなっちょるわい。要は儂が再婚するんが気に入らんのじゃ、あの娘は」

「再婚と仰ると」

 つまり、あれがこうでそれがああで。狭間は事実を認識し、たじろぐ。

「あれは儂の娘よ」

 少々面倒臭そうに答えたジンフーに、狭間は更にたじろぐ。

「ということは、あなたは自分の娘よりも若い相手と……!」

「そう驚くでない、鬱陶しいわい。ここがあの男の店でよかったのう、そうでなかったら、おぬしの喉を二つに裂いて おったわい。解せぬ気持ちは儂にも解らんでもないがのう。儂の親父もろくでもない野郎で、顔も知らん母親が何人 いたことか。つまらんことを聞かれる前に教えちゃるが、儂とマオの姓が違うんは、中国人っちゅうんは結婚しても 姓を合わせたりはせんからじゃ」

「母方の御名前ということですか」

「あれを産んだ女は、どこにでもおるような、つまらん女じゃったわい」

 しかし、あれは違う。しみじみと呟いたジンフーは、太い指でコーヒーカップの柄を抓んで口元に運んだ。

「儂の相手ばかりしとらんで、さっさと仕事に戻らんかい。皿洗いめが」

 ジンフーに追いやられ、狭間は慌てて離れた。他の客から御冷のお代わりや追加の注文を受けたので、それらを こなしたが、動揺の波はなかなか収まらなかった。皿を洗いながら、ふと思った。九頭竜会の組長、九頭竜総司郎 はいくつだったけ、と。外見だけなら、ジンフーの方が年上のように思える。九頭竜麻里子という少女は、いわゆる ファザーコンプレックスを拗らせに拗らせ、父親と殺し合いたいと願うほどの強烈な情欲を抱いていたが、近頃では 鳴りを潜めていた。色々あったから落ち着いたのだろう、と狭間は漠然と考えていたのだが、もしかすると麻里子は ジンフーに対して凶暴にして強烈な衝動をぶつけることで、ファザーコンプレックスから生じるエネルギーを発散して いたのではないのか。だから、父親よりも年上の男と結婚すると決めたのだろうか。

「……それはそれで丸く収まる、わけがないよなぁ」

 洗いカゴに載せて水が切れた皿を布巾で拭きながら、狭間は眉根を寄せた。

「マリコ、アレト、ケッコン、スル?」

 踏み台に載ったツブラは、触手を用いて泡にまみれた皿のすすぎを手伝いつつ、狭間を見上げてきた。

「割れ鍋に綴じ蓋、蓼食う虫も好き好き、適材適所、となればいいんだが」

 なるわけがない。そもそも、どちらも和平を望むような組織ではない。理想としては、ジンフーが麻里子の 衝動を受け止めきって押さえ、麻里子がジンフーの相手をして満足させ、九頭竜会と諍いを起こさないように させ、九頭竜総司郎は娘婿となったジンフーを丁重に扱うようになればいいのだが、どれもこれも馬鹿げた 綺麗事だ。そんなものが通用するのであれば、裏社会など出来上がらない。
 狭間が悶々としていると、コーヒーもザッハトルテも平らげたジンフーが店を出ていった。それと入れ違いで リーマオが帰ってきた。きっと、物陰からジンフーが出ていくのを窺っていたのだろう。リーマオは苦々しげな 顔をしつつ、父親の文句を垂れ流していたが、狭間はそれをひたすら聞き流した。
 昼休みの後、狭間は海老塚からケーキの配達を頼まれた。




 こんなことは、前にもあった。
 ケーキ箱を抱えたツブラを後ろに載せたホンダ・ドリームを駆り、狭間が行き着いた先は、九頭竜会の総本山で ある九頭竜屋敷だった。ケーキ箱の中身は前回とは異なるが、状況は同じだ。きっと、九頭竜総司郎が娘の様子 を知りたいがために狭間を呼び出すためにケーキを注文したのだろうが、傍迷惑である。そういうことは当人同士 でやってくれ、と内心でぼやきながらも、シャッターを開けられているガレージの傍にドリームを停めてから、狭間は 立派な佇まいの正門の呼び鈴を鳴らした。
 程なくして使用人が現れ、狭間はツブラ共々案内された。行き着いた先もまた前回と同様の奥の間だが、床の間 の前で待ち受けていたのは九頭竜とヴィチロークだけだった。他の組員達は部屋の外で待機しているようだが、中に 入ってくる様子はない。あの三人もいない。狭間と九頭竜は円卓を挟んで向かい合って座り、ツブラとヴィチローク もまた向き合う格好になった。九頭竜が注文したケーキは、四層のチーズケーキ、アイアシェッケである。それは 一旦台所に運ばれて切り分けられ、香り高いダージリンの紅茶と共に出された。だが、それらに手を出す気には なれず、狭間は膝の上で拳を固めていた。

「ヲルドビスに、ジンフーが来たそうだな」

 九頭竜はフォークを手にすると、アイアシェッケを真っ二つにした。

「部下から聞いた」

 九頭竜は大振りな切れ端を一口で頬張り、咀嚼する。やはり旨いな、と小さく呟く。

「方々からお話を伺いました。麻里子さんの御結婚、おめでとうございます」

 最も無難な言葉を使い、狭間は一礼した。

「何年、いや、何日持つかで賭けるか?」

 フォークの先端で九頭竜は狭間を指したので、狭間は忙しなく手を横に振る。

「いいえそんな、滅相もございません!」

「一日持てばいい方だ。あれの気性の激しさに付き合い切れる男など、この世にいるものか」

 カムロと俺以外に、と付け加えてから、九頭竜は残り半分のアイアシェッケも粗雑に食べた。

「極道の男のくせに父親らしいことを言うこともあるものだ、とでも思ったか?」

「ほんの少しですが」

 狭間が半笑いになると、九頭竜は頬を引きつらせる。嘲笑だ。

「俺がまともな父親であれば、あいつはもう少しまともな女になっていただろうさ。あいつとジンフーを結婚させる のは、言ってしまえば政略結婚だ。渾沌と利害が一致したからだ。今だけだがな」

 湯気の上る紅茶に角砂糖を入れ、混ぜてから、九頭竜はダージリンティーを口にする。

「お前とあの触手の化け物ならエレシュキガルをどうにか出来る、と俺とジンフーは踏んだからだ。あいつをどうにか しない限り、俺達も渾沌も商売上がったりだからな。エレシュキガルが死体と血痕を処理してくれるのはありがたい が、抗争が捗らない。政府も怪獣使いもエレシュキガルは手に負えないようだし、魔法使いも当てにならん」

「九頭竜さんは、魔法使いと御知り合いなんですか」

「知り合いというか、俺に女房を差し向けてきたのは魔法使いだ」

 九頭竜は床の間の隣にある仰々しい仏壇を一瞥した後、狭間に視線を戻す。

「あの頃、俺は切羽詰っていたんだ。九頭竜会は内ゲバでがたついていたし、渾沌が台頭してきたが、どうにも金が 足りなかった。桜木町一帯から巻き上げたみかじめ料だけじゃ乗り切れん状況が続いていたところで、魔法使いが 俺に接触してきた。存在は知っていたさ、怪獣義肢を人間にくっつけてくれる闇医者だからな。実験台に若衆を何人 か見繕ってくれ、と言われるかと思いきや、女を寄越された。それがシノギだ」

 そう言って、九頭竜は仏壇に飾られた写真立てを示す。麻里子に面差しが似た女性が、強張った面持ちで額縁の 中に収まっている。紅茶を飲み終えた九頭竜は、ほんの少しだけ相好を崩す。

「金は払う、だからこの娘をもらってくれないか、と言われた時はさすがに戸惑ったよ。計ったような頃合いで 旨すぎる話が転がり込んできたから、尚更だ。その上、シノギは俺が知る中では一番の美人だった。魔法使いから 色々と仕込まれていたんだろう、何をやらせても器用にこなした。おまけに床上手だった。反応は処女みたいな くせして、やることがえげつないと来たもんだ。填まるなという方が無理だった。それから何年か過ぎて、麻里子 が出来た。男も産ませてやるつもりだったんだが、その前にシノギは死んじまった」

「魔法使いが誰かは御存知ですか」

「それを知ってどうする」

「俺がやるべきことをするだけです」

「俺達に害を成すのはエレシュキガルだけで、魔法使いはそうじゃない。敵を見誤るな」

「ごもっともではありますが」

「が、なんだ。言うだけ言ってみろ、俺はヴィチロークに触れもせん」

 九頭竜の挑発に、狭間は狼狽えつつも述べた。

「魔法使いを大人しくさせて、怪獣使いの内部で起きているであろう内ゲバも収めなければ、一連の出来事は収拾が 付けられないと思うんです。なので、魔法使いに会わないことには」

「若造が偉そうなことを言いやがる」

 九頭竜は一笑し、着流しの袖に腕を入れる。

「怪獣使いがどうなろうが、俺達の知ったことじゃない。それともなんだ、国政にでも手出しするつもりか? 随分と 大きく出たもんだが、そんなものは土台からしてひっくり返せない。いいか、世の中ってのは思っている以上に複雑 で、上手く出来ているもんだ。世の中の上澄みでのうのうと暮らしている政治家と、俺達のような底辺を這う悪党 がズブズブだからこそ、お前らみたいな中間層が平凡に生きていられる。綺麗だろうが汚かろうが金は金で、右から 左に動かしてやらなきゃただの紙屑だ。怪獣使いが怪獣使いでいられるのは、お前ら庶民が怪獣の力を当てにして いるからであり、魔法使いのせいじゃない。仮に内ゲバが起きているとしても、お前がそいつに関わったところで 何が変わる? 変わらない。深入りするだけ無駄なんだよ、あっち側は」

「その言い方ですと、片足は突っ込んだことはあるようですが」

「片足どころか、腰まで浸かろうとしたんだ。その結果、麻里子の首が切られた」

 九頭竜は右手を上げ、己の首に手刀をとんと当てる。

「俺達が魔法使いと通じているように、渾沌も魔法使いと通じているんだと考えるべきだったんだ。麻里子の今後 のために少しでも金を調達しようと魔法使いを揺さぶろうとしたんだが、結果は大赤字だ。だが、あれがなかったら、 御名斗は手に入らなかった。須藤はついでだったが、あいつもなかなかどうして役に立つ。それはそれとして、結論 を言おう。九頭竜会と渾沌は結婚式で一大抗争を起こし、血と肉でエレシュキガルを呼び出し、エレシュキガルを 殺してもらう。それさえ終われば、二度とお前ら兄弟とシャンブロウには関わらないと約束する」

「渾沌もですか?」

「無論だ」

 結婚式が終われば、口封じに殺すつもりでいる。そうしないわけがない。狭間はともかくとして、真琴の身の安全 まで守り切れるかどうか。いや、守らねば。口約束だけでは済まさない、と言って九頭竜は部下に証明書を持って こさせ、先に九頭竜が署名した後、狭間にも署名させた。こんな紙切れ、すぐに燃やされるだろうが。
 エレシュキガルに勝つ方法だけでなく、生き残る方法も考え抜かなければ。そんなに都合よく思い付くわけない だろうが、でも考えなきゃ死ぬ、と自問自答を繰り返しながら、狭間はバイクを走らせた。九頭竜屋敷では一言 も発しなかったツブラは、狭間の背に力を込めてしがみついていた。外堀は溢れるほど埋められ、退路が塞がれ、 後ろ盾もないのだから、不安にもなる。ツブラの重みを感じながら、狭間は改めて決意を固める。
 自分の正義を見出し、貫かなくては。





 


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