九頭竜会の代紋入りの提灯が、夕暮れの道を照らす。 傘を差し掛けられた花嫁が、しずしずと歩き出す。介添人に白無垢の裾を持ち上げられ、からり、ころり、と下駄の 歯を鳴らしながら一歩ずつ進んでいく。嫁入り行列が行きつく先は、九頭竜邸の前に停められた黒塗りの外車で、 花嫁である麻里子はそれに乗ってジンフーの邸宅へと運ばれる。普段着ならまだしも、晴れ着では歩いて行ける 距離ではないからだ。白無垢の胸元に差し込まれた懐刀がいやに目に付く。 麻里子は外車の後部座席に乗り込む前に立ち止まり、九頭竜家に振り返り、深々と一礼した。提灯の持ち手のすぐ 後を歩いていた九頭竜総司郎は、麻里子と相対する。十年前、その首を切り落とした男の元に嫁いでいく一人娘 を見下ろす眼差しには、寂しさも切なさもなかった。最も身近で、最も凶悪で、九頭竜総司郎の命を狙うことが 最上級の感情表現であった狂気の女。それを手放さなければならない惜しさが垣間見えただけで、結婚を祝う言葉 も労いも何も掛けなかった。麻里子はかすかに瞼を伏せたが、外車に乗り込んだ。 麻里子が車に乗り込むと、嫁入り行列には相応しくない強面の男達が一斉に頭を下げる。須藤と寺崎は九頭竜 総司郎に近い位置におり、、一条御名斗は男として扱われているのか、洋装の黒のスーツ姿で参列していた。 黒塗りの外車はどるんとエンジンを鳴らし、狭間にこっそりと話しかけてきた。 〈俺、怖い……〉 〈安心しろ、俺も怖い〉 狭間が怪獣電波で応じてやると、メルセデス・ベンツはヘッドライトを点灯させた。 〈御嬢様も怖いけど、エレシュキガルはもっと怖い……。あいつが近付いてくるの、解るんだ……〉 〈どの辺りにいる〉 〈近い、とにかく近い。クル・ヌ・ギアもすぐ傍にある〉 〈この前、エレシュキガルが引き摺っていた闇のことか〉 〈あの時はエレシュキガルもまだ小さかったから、あの程度で済んだんだ。だが、今は〉 アクセルを踏み込まれたため、ベンツの言葉は遮られた。花嫁を乗せた車が遠ざかっていき、角を曲がっても、 九頭竜会の極道達は面を上げようとしなかった。ベンツが走り去る様を注視していたのは、九頭竜家の屋敷の中に いた狭間とその後ろで縮まっていた真琴、そして九頭竜総司郎だけだった。 「お前ら、さっさと支度をしろ。虎の穴にカチコミに行くぞ」 九頭竜に命じられると、男達は力強く応えた。九頭竜家の車庫とその手前には、やはり黒塗りの外車がずらり と並んでいる。男達はこれに相乗りして結婚式の会場でもあるジンフーの邸宅へ向かうのだが、寺崎の愛車である サバンナだけは赤なのでいつになく目立っていた。 「バイト坊主、まこちゃん、俺のサバンナに乗るー?」 寺崎は気軽に誘ってきたが、狭間は丁重に断った。 「いいえ、お構いなく。歩いて行ける距離ですし」 「兄貴、場所は知ってんのか?」 真琴が不安がると、狭間は側頭部を小突いた。 「聞いてもいないのに教えてくるんだよ。あの足のやつが」 「話を聞く限りだと、リーマオさんの足になった怪獣って世話焼きというか御節介な性分なんだなぁ」 頼れるようでいて面倒臭いタイプってやつだ、と言いつつ真琴は学生の礼服である学ランを整えた。ボタンを二つ 外して、襟元を緩めていたからだ。いつもの黒髪のカツラとサングラスに黒いワンピースを着たツブラは、九頭竜会 の男達が車に乗って出ていく様を食い入るように見つめていた。狭間はツブラを抱え、撫でる。 「大丈夫だ。ここさえ踏ん張れば、後はどうにでもなる」 「マヒト」 ツブラは狭間の膝に頭を預け、サングラスの下で赤い目を瞬かせた。 「ツブラ、コノトキ、ズット、マッテタ」 「お前の役割は、要するに光の巨人とその根源でもあるエレシュキガルを追い払うことなんだな?」 「ウン。ダカラ、オワルト、ツブラ、イミ、ナクナル」 「馬鹿言え。全部終わってからが本番なんだよ」 狭間はツブラの頬に触れ、冷たくも柔らかな肌をなぞり、小さな唇を指先で軽く弄ぶ。 「ンゥ」 「だから、そんなこと言うな」 指先に絡み付いてくる繊細な触手の感触に、狭間はほんの少し気が緩んだ。そのまま抱き上げて、気晴らしに 可愛がってやろう、と思ったが、真琴が軽蔑しきった目を向けてきたので、狭間は己を律した。ツブラも照れ臭く なったらしく、狭間の胸に顔を埋めた。ツブラの背を軽く叩いてやりつつ、狭間は取り繕う。 「俺達もそろそろ行こう。遅刻したら、元も子もない」 「俺、やっぱり行かなきゃダメかな」 「途中まではな」 さあ行くぞ、と狭間はツブラの手を引いて歩き出すと真琴も渋々付いてきた。いってらっしゃいませーん、とミツ子 がにこやかに見送ってくれたので、狭間は返礼してから正門を通った。すると、子供の姿がちらほらと目に付いた。 嫁入り行列に付き物の花嫁菓子をもらおうとしていたようだが、受け取れなかったらしく、九頭竜家から出てきた 狭間らの様子を窺っている。狭間はツブラのために買い込んであった水飴を出し、これをやるから嫁入り行列には 近付いちゃダメだぞ、と言い聞かせると子供達は去っていった。ケチ臭い、との文句は聞こえてきたが。 ジンフーの邸宅は中華街の一角にあるため、九頭竜家のある本牧緑ヶ丘からは石川町と元町を経ていくことになり、 必然的に古代喫茶ヲルドビスの前も通ることになった。従業員が軒並み休んでいるのでさすがに店は休業だろう、 と申し訳なく思いつつも様子を窺うと、ヲルドビスは営業していた。客の入りは上々で、海老塚甲治はそつなく 動き回って滞りなく仕事をしていた。考えてみれば、狭間が働き始めるまでは海老塚は一人で営業していたわけで あって、アルバイトなしの期間の方が遥かに長い。だから、それが当たり前なのだが、一抹の寂寥に見舞われた。 真琴は裏口から店の二階に上がり、下宿している部屋に戻り、十数分後に――――戻ってきた。 「えぇと……」 着慣れない学ランと付け慣れないメガネに戸惑いつつもやってきたのは、真琴の姿に擬態した怪獣、ダイリセキ だった。ツブラと仲良くなった大石理子に擬態していたダイリセキと同じ鉱脈から掘り出された卵から生まれた、 別の個体のダイリセキである。言うならば、あのダイリセキの兄弟のダイリセキだ。 「こんなものでいい、の、かな」 真琴の口調と声を精一杯真似ているダイリセキは、へらっと笑った。なので、狭間はその顔を押さえる。 「いや、違う。真琴はもっと不愛想で目付きが悪くて調子に乗った喋り方をする」 「仕方ないだろ、時間が足りなかったんだから」 言われた通りに態度を変えた真琴の紛い物は、ヲルドビスの二階を見上げると、真琴当人がカーテンの陰から外 を覗いていた。狭間が手を振り返してやると、カーテンの裾がひらひらと揺れた。後は、結婚式が終わるまでの間、 真琴が息を潜めていてくれればいい。ダイリセキに身代わりになってもらって結婚式に出席してもらうのは、弟の 身の安全と戦力の増強を図るための作戦である。先日、狭間が呼びかけた際、兄弟が迷惑を掛けたから償いの意味 も込めて力を貸してやる、と申し出てくれたのだ。 狭間の呼び掛けに応じてくれた怪獣は、数少なかった。怪獣達は狭間を特別扱いしているようでいて、その実は ぞんざいだ。それに、エレシュキガルは腐っても神話怪獣であり、怪獣達が畏れ敬う相手なので、刃向おうと 思うことすら臆してしまうようだった。だから、この作戦に加わってくれたのはダイリセキだけだったが、 贅沢は言っていられない。力を貸してくれるだけで御の字だ。狭間は弟の紛い物を連れ、新郎の邸宅を目指した。 中華街は、思いの外遠かった。 ジンフーの邸宅は、慶事の飾りが施されていた。 異人館として使われていた洋館を買い上げ、住み着いたようだった。なので、西洋の造りの立派な屋敷に中国式 の紋様や庭木がある上に、慶事の飾りは和式のそれだったので、和洋折衷というよりも無節操だった。黒塗りの外車の 群れは邸宅を取り囲み、両者の関係者がひっきりなしに出入りしている。どちらも外では諍いを起こすなと厳命を 受けているのか大人しかったが、互いに相手が気に入らないのか睨み合いはそこかしこで起きていた。 一触即発の緊迫感の中、狭間は宴会が開かれる大広間を覗いてみた。洋式の丸テーブルが所狭しと並び、上座 には金屏風と新郎新婦が座る雛壇が設えられ、艶やかな花籠が雛壇の左右を埋め尽くしていて、花籠に刺さって いる名札は狭間でさえも見覚えのある名のある会社のものばかりだった。九頭竜家、金家、との立札が雛壇の傍 にあり、三々九度の盃も既に揃っている。丸テーブルには招待された人数分の皿とグラスが置かれ、酒瓶が次々 に運び込まれてくる。宴会料理も着々と仕上がっているのか、台所からは良い匂いがしている。ホテルの宴会場 で行う結婚披露宴と比べてもなんら遜色のない、立派な披露宴になるのは間違いない。 「ひ―――じゃない、兄貴」 真琴の紛い物は狭間の袖を引き、声を潜めた。 「ここの料理、食べない方がいい。材料は、全部怪獣だよ」 「まさか」 「嘘じゃない。俺も怪獣の端くれだから、解るよ」 真琴の紛い物は眉を下げ、口角も下げた。真琴本人であればまずしない表情だったので、狭間は物珍しさも あって見入ってしまうと、真琴の紛い物はちょっと気恥ずかしげに視線をずらした。彼の言葉を疑うわけではない のだが、確認するためにも狭間はそれとなく台所に近付き、中を窺った。 刺身の盛り合わせ、尾頭付きのタイ、茶碗蒸し、大きなエビ、寿司、タケノコの煮しめ、メロン、といった御馳走 が仕上げられていく。見た目はどれもこれもおいしそうで、滅多に食べられないものばかりだったが、どの料理も 元は柔らかな肉を持つ怪獣だった。ダイリセキとは違った方向性の擬態をする怪獣らしく、ぶよぶよとした半透明の肉に 料理を放り込まれると、それと全く同じ形のものを複製して量産している。揚げたての熱々の天ぷらが鍋から上がり、 油も切られないうちに放り込まれると、程なくして衣の形もそっくりなカボチャの天ぷらが生み出された。 「あれ、どういう怪獣なんだ?」 台所から遠ざかってから狭間は訝ると、真琴の紛い物は教えてくれた。怪獣電波で。 〈あいつはトリクラディーダ。脳みそはないわけじゃないんだけど、体が柔らかすぎてまともに動けないから、人間や 動物に自分の体の一部を持っていってもらうために体に触れたものを複製する能力が出来たんだ。でも、あいつは 人間が立ち入る場所にはまず出てこないはずなんだけど、変だなぁ〉 〈食べたらどうなるんだ?〉 〈酩酊するんだよ。トリクラディーダは依存性の強い幻覚物質を生まれつき持っていて、その物質を生き物の体内に 取り込ませるためにああして擬態するんだよ。縄張りの拡げ方が変なんだ、あいつ〉 〈つまり、トリクラディーダが肉を喰わせた相手が排泄なり何なりしてくれると……ってことか〉 〈悪意はないけど害はある、そんな奴だよ〉 〈おかげで、ジンフーの腹積もりは大体解った。九頭竜会の人間に怪獣料理を喰わせてヤクをキメたのと同じ状態に させて、その隙に麻里子さんとカムロに手を下すつもりだろう。エレシュキガルが現れるとしたら、血の匂いを 嗅ぎ付けた後だろうから、その辺りか。となると、俺は何も飲み食い出来ないな。迎え酒はさすがに勘弁だ〉 〈あれなら大丈夫じゃないのかな〉 と、真琴の紛い物が指したのは、ビール箱の上に一つだけ載っている三ツ星サイダーだった。元々は帝国軍人の ために作られた飲料であり、透き通った炭酸水に栄養剤が添加され、すっきりとした甘さに味付けされている。スリー ポインテッドスターと赤いラベルが特徴で、滋養強壮、百戦錬磨、剛毅果断、と雄々しい熟語が記されている。今は 亡き船島集落温泉街でも、湯上がりによく飲まれていたものだ。 確かに、あれなら蓋も締まっているし、異物を混入させられる可能性も低い。懸念があるとすれば、他の来客に 飲酒を強要されることだが、それはどうにかして逃げよう。狭間は腰を屈めてツブラと目を合わせると、ツブラは 薄い唇を真一文字に引き締めた。狭間は懐に入れてきた祝儀袋と、その中に詰め込んだ札束の分厚さを何度となく 確かめる。以前、辰沼が引っ越してきた際に寄越してきた大金なのだが、汚い金なので一切手を付けていなかった。 まさか、それがこんなところで役に立つとは。狭間は受付で記帳し、真琴の紛い物の分も含めて御祝儀を渡した 後、席次表に従って指定された席に隣り合って座った。ツブラは一人分として扱われていないので、必然的に狭間 の膝の上に座ることになった。膝に載せたツブラの頭は、狭間の顎の下に届いていた。以前はツブラの頭は 狭間の胸の高さに位置していたのだが、いつのまにか背が伸びたようだ。 「オヨメサン」 「そうだな」 「オヨメサン、ナリタカッタ」 「そうだな」 「マヒト、ヤッパリ、ダメ?」 「……そうだなぁ」 お嫁さんにしてやる、と言えればよかった。出来ることなら、言ってやりたかった。けれど、そんなことを口にすると 堅く据えた決意が揺らいでしまう。黒髪のカツラの下に手を差し込んでやると、触手が柔らかく指に絡んできた。人目が あるのでキスはしてやれないが、代わりに頬に触れてやった。ツブラは唇を噛み、狭間の胸に顔を埋める。 抱き締め返してやるだけで、精一杯だった。 15 1/20 |