横濱怪獣哀歌




蟹光線



 波七型潜水艦に揺られること、丸三日。
 潜望鏡の先に陸地を捉えた瞬間、狭間は感極まり過ぎて泣きそうになった。やっと帰ってこられたと安堵した一方で、 上陸したらどんな困難が待ち受けているか解らないという不安にも駆られたからだった。その感覚を味わうのは自分 だけではないだろう、と狭間は発令所に留まっている皆を見渡すが、他の面々は静かなものだった。ヒツギは床に 横たえた棺の中で眠り続けている綾繁枢を甲斐甲斐しく世話をしていて、麻里子の生首とカムロに至っては座席に 詰め込んだ布の繭に収まってじっとしていた。どちらも体力を消耗しすぎると、文字通り命取りだからだ。
 バルブに配管、潜望鏡、無数の計器類。円形のメーターが何十個、或いは何百個と付いているが、潜水艦の知識 がまるでない狭間にとってはどれがどれなのかさっぱりだった。波号も意味は解っていないらしく、説明を求めても まともな返事は返ってこなかった。自身の機械性能に誇りを持っている伊号や、各種ソナーの性能の優秀さを誇って いる呂号であれば、自慢も兼ねて事細かに説明をしてくれただろうが。
 ハンドル型の操縦桿は独りでに動き続けていて、アクセルとブレーキに用いる棒も同様だった。怪獣を使った機械 の中でも、特に怪獣の命を実感出来る乗り物が船舶と飛行機だ。車とはまた違った趣があり、個性も強く、それ故に 船乗り達からも愛された。窓が一切付いていないので外の景色が解らないため、乗り始めた時は自分がどこに いるのか確かめたくて潜望鏡を何度となく覗こうとしたが、波号はそれを頑なに断った。必要時以外に潜望鏡を 海面から出すと、すぐに敵に見つかってしまうから、だそうだ。建造中に終戦を迎えたので実戦配備されなかった 潜水艦であっても、波号には潜水艦としての心掛けと海軍魂が備わっている。

「上陸するにしても、どこから行けばいいやら」

 狭間は缶詰を開けて食べつつ、ぼやいた。ヒツギが事前に運び込んでくれていたもので、元々は綾繁枢の非常食 として彼女の部屋に用意されていたのだそうだ。クジラの大和煮の甘辛い味付けは、缶にみっちりと詰まって いる白飯に合った。問題は、その白飯が詰まり過ぎていて掘っても掘っても喰い終わらないことである。

〈横須賀の軍港に行きたーい。三笠ちゃんがいるぅー〉

 波号の浮かれた言葉に、狭間は箸を上げて言い返す。

「三笠が係留されている港になんか行けるわけないだろ、目立ちすぎる」

〈えぇー、やだやだー。三笠ちゃんとお話ししたいよー、会いたくても会えなかったんだもーん〉

 すっかり拗ねてしまった波号が艦体を揺すったので、缶詰の汁が零れかけた。狭間はクジラの大和煮を平らげた 缶の中に残る甘辛い煮汁に白飯を入れ、掻き回し、味を付けた白飯を掻き込んだ。

「そんなもん、怪獣電波でどうにかしろ」

 それでも、白飯はまだまだある。長い療養生活の間に胃の要領が狭まってしまったのと、帝国海軍謹製の戦闘糧食 の腹持ちが非常にいいのので、三分の一ほど食べただけで既に胃が重苦しい。けれど、残すのは勿体ないので、狭間 は今にも折れそうな安物の割り箸を駆使してひたすら掘り返した。

「……味噌汁、沸かそう」

 このままでは埒が明かない。しばらくじっとしていろよ、と狭間は波号に言い聞かせてから、缶詰の山を探って 乾燥させた粉末の味噌と乾燥大根の入った缶詰を取り出し、乗組員達が暮らすための居住区に入り、調理場へと 至った。既に何度も使っているので、電熱式のコンロには慣れてきた。古めかしい鍋に水を張って熱し、乾燥味噌 を入れて味を付け、乾燥大根も入れて煮る。ダシの味もなければ味噌の風味もないので、正直言っておいしいもの ではないのだが、この際、贅沢は言っていられない。
 ふつふつと煮立ってきた味噌汁を汁椀代わりの空き缶に入れ、食べ残しの白飯に注いでふやかしながら食べて いると、怪獣達のざわめきが聞こえてきた。波号に対する反応も少なくなかったが、人の子が帰ってきた、生きて 戻ってきてくれた、人の子だ、人の子だ、との言葉も聞こえてきた。あの作戦には乗ろうともしなかったくせに 現金な奴らめ、と狭間は苛立ち紛れに白飯を貪り食った。その甲斐あって、缶詰は空になった。
 別の鍋で沸かした湯で作ったインスタントコーヒーを食後に飲んだが、海老塚甲治が淹れるものと比べることすら おこがましいほどの不味さだった。この味じゃ兵士の士気が落ちるぞ、と狭間はげんなりしながらも啜っていると、 艦体の揺れに伴ってふらつく足音が近付いてきた。ヒツギにしては軽すぎるし、麻里子の生首であれば、移動する際に 髪を使うので足音などしないはずだ。ということは。

「綾繁枢か?」

 狭間が調理場から顔を出すと、潜水艦に似つかわしくない襦袢姿の小柄な少女は、ただでさえ青白い顔色 を更に悪くした。細すぎる左腕には注射針の痕が残っていて、小さな傷口に張られたガーゼは汗と血を吸って よれている。意識を取り戻したはいいが、気分の悪さに耐えかねて彷徨っていたらしい。

「ぅ」

 枢は涙目になって蹲ったので、狭間はすぐさま彼女をトイレへと担ぎ込んだ。寸でのところで間に合った ので、ステンレス製の便器に顔を突っ込んだ枢は小さな体を折り曲げ、胃の中身を出し続けた。あまりにも 苦しそうだったので、狭間はその背をさすりながら慰めてやった。

「解るぞ、俺も慣れるまでは辛かった……」

 どうにかこうにか波号に乗り込んだはいいが、船に乗り慣れていない狭間は波の揺れに三半規管をやられ、すぐ に船酔いに見舞われた。食べたばかりの夕食どころか胃液も全部吐き出しても尚収まらず、丸一日はトイレの前で くたばっていた。水を飲めるようになり、雑炊を喰えるようになり、固形物を胃に入れられるようになると、常に 足元が揺れている環境に体が適応してくれた。だが、そこに至るまでは死んだ方がマシだと思えるほど辛かった。

「ほれ、白湯だ」

 狭間はコーヒーを淹れた残りの湯を湯呑みに入れてやり、枢に渡すと、枢はそれで口を漱いだ後に一口飲んだ。 湯の温かさでほっとしたのか、枢の華奢な肩から力が抜けていった。

「あの……わたくし……」

 枢は帝国海軍謹製の湯呑みを握り締め、怯えがちに狭間を見上げてきた。

「色々と説明しなきゃならんこともあるが、ここは潜水艦の中で横須賀沖合いだ」

 狭間は枢を調理場まで連れていき、そこに併設している手狭なテーブルと壁と一体化している椅子に座らせた。 枢は不安そうに目線を彷徨わせ、血色の悪い唇を噛んだ。肉付きが良い時は見目麗しい美少女だったのだが、床に 伏せっていたので肉が落ちたためか、大きな目がぎょろついている。唇もかさつき、襦袢から伸びている手足の 細さも尋常ではない。枢が常に振袖姿だったのは、欠食児童のような体を人目に曝さないためでもあったのだろう。 それはヒツギか、或いは怪獣使いの長の配慮だったのか。

「ヒツギの仕業なのですね」

 余った味噌汁を啜り、枢は少しだけ覇気を取り戻した。

「まあ、そういうわけだ。ところで、それ、不味いだろ?」

 狭間はタバコを吸いたくなったが、あるはずもないので、割り箸に付属していた爪楊枝で口寂しさを紛らわす。

「いいえ。味の付いた御料理は久方振りですので」

 枢はそう返したが、意識が冴えてくると襦袢一枚であることに羞恥心を覚えたらしく、俯いた。そこで待って いろ、と言い聞かせてから、狭間は寝床にしている士官用の乗組員室に入り、印部島で着ていた作業着を持ってきて やった。これもまた、ヒツギが狭間の着替えにするために運び込んでくれていたものである。枢はサイズが大きすぎる 国防色の作業着に袖を通してボタンを留めたが、袖も裾も余り過ぎてコートのようだった。

「あなたは随分と度胸のある殿方なのですね」

「どうだか」

 狭間は爪楊枝の先端を噛み、苦笑する。

「怪獣使いに対して何の感情もないと言ったら嘘になるが、俺はあんたには特に恨みはない。エレシュキガルに 対抗するために俺を怪獣使い側に引き入れようとしてきた時は、ちょっと頭に来たが、ヒツギからあんたの事情 を知ると怒る気も失せちまった。エレシュキガルのことも、愛歌さんの――――あんたの姉さんのことも」

「存じているのですか、御姉様のことを」

「俺を捕まえた玉璽近衛隊の隊長殿が、懇切丁寧に教えてくれたからな」

「私は……知りませんでした。療養のために印部島に連れてこられるまでは、何も」

 枢は冷めた味噌汁を飲み干し、空になった汁椀をテーブルに載せた。

「田室中佐は気高い軍人ですので、何も知らずに私を利用するのが気が咎めたのでしょうね。魔法使いの小父様も 大変真面目な方なので、きちんと教えて下さいました。何が原因で、誰が悪くて、どれが正しいのかを」

「事の発端は第三次大戦中の硫黄島の戦いで、硫黄島で戦闘に参加していたシュヴェルト・ヴォルケンシュタイン 魔術少尉は、マスターというか海老塚さんが敬愛して止まない奉公先の御長男だった。硫黄島を奪われれば東京 への空爆が免れないという状況下、シュヴェルト魔術少尉は護国怪獣を暴走させて連合艦隊を蹴散らして戦況を 覆して硫黄島を守り抜き、ひいては本土も守ったが、直後に戦死してしまった。だが、シュヴェルト魔術少尉に 栄誉は与えられなかったどころか戦果は抹消されて、その代わりに怪獣使いが護国怪獣を操って勝利を導いたのだと 記録されている。マスターはそれが許せないから、怪獣使いを陥れようとしている。でもって、怪獣使いを守る直属 の戦闘部隊であるはずの玉璽近衛隊は魔法使いに懐柔されていて、怪獣使いの味方ではない、と」

 自分なりにまとめた情報を羅列してから、狭間は爪楊枝を上向ける。

「なあ、怪獣使いにとってのエレシュキガルは一体何なんだ?」

「生きながらにして死ぬための力であり、呪いです」

 枢は膝の上で手を重ね、足を揃えて座る。長い黒髪は寝乱れていて、毛先はぱさついている。

「怪獣使いは生まれた時から死に掛けている、って聞いたが」

「はい、その通りなのです。生きながらにして死ぬために、私達は母と共に在る時から毒を含ませられ、十月十日を 無事に過ごして胎外に出てからも、少しずつ毒を飲まされます。十歳を超えるまで生き延びられるかどうかは、当人 の心身の強さによりますが、生き延びられるのは全体の三割程度なのです。その毒とは神話怪獣の体液であり、 エレシュキガルの闇、すなわちクル・ヌ・ギアなのです」

「んで、それはどこから調達しているんだ? 世界中に神話怪獣が通じていた遺跡はいくつかあるが、真日奔には クル・ヌ・ギアと繋がりのある遺跡の類いは見当たらないんだが。富士山は山そのものが火山怪獣で神話時代から 長らえているがあっち側じゃなさそうだし、天岩戸も高天原も黄泉の国も今となっては近付けもしない異世界だ。 まさかとは思うが、神話と現実の壁を貫いていたバベルの塔がその辺に転がっているってことは――――」

「横浜駅です。バベルの塔の破片は、横浜駅の地下にあるのです」

 枢は顔を上げ、狭間を直視する。

「あれの駅舎が何十年と工事中なのは、バベルの塔の破片の成長に合わせ、外界からの目隠しである外壁の増築を しているからと、バベルの塔の破片の成長を促進させるには人間と怪獣が発する熱が不可欠なので、横浜駅に 乗り入れる路線を年を追うごとに増やしているからです。その昔、バベルの塔の破片は江戸城の城塞に隠されて いたのですが、大政奉還に伴うあれやこれやでそうもいかなくなったので、建造中だった横浜駅の地下深くに バベルの塔の破片を埋め、その際に怪獣使いの拠点も横浜に移したのです」

「だから、横浜だったのか」

 狭間が戸惑いながらも納得すると、枢は物憂げに瞼を伏せる。

「横浜なのです」

「それじゃ、愛歌さんの狙いは横浜駅ってことでいいのか?」

「それは私にも解りかねますが、御姉様の行き着く先である可能性は高いです」

「バベルの塔の破片が埋まっている建造物は他にもあるが、そういうのはエジプトのピラミッドとかイギリスのストーン ヘンジとかチリのイースター島とかメキシコに多数ある古代都市とかその他諸々の、立派な遺跡じゃないか。それなのに、 よりによって横浜駅なのか? 東京駅でも上野駅でもなくて?」

「そうなのです、横浜駅なのです」

 枢は眉を下げ、なんだか申し訳なさそうな顔になった。

「じゃ、怪獣使いの実家も横浜駅なのか? まさか構内ってことはないだろうが」

「江戸時代までは空中庭園怪獣ブリガドーンを浮かばせてそこに住んでいたのですが、今はブリガドーンを操れるほど の力を持った怪獣使いもいなくなってしまったので、地上に戻ってきたのです。解放されたブリガドーンは、空の どこかを彷徨っています。綾繁家が横浜駅の地下で暮らすようになったのは、綾繁家の動きを察したバベルの塔の 破片が、自らの形状を変化させて居住区を作ってくれたからなのです」

「怪獣使いとあろう者が、怪獣の厚意を無下にするわけにはいかないもんなぁ」

「はい、そうなのです。そして、御父様は……」

 枢が言いかけた時、突如、大波に襲われた。調理場で鍋や御玉が踊り狂い、冷めた湯が零れ、空っぽの缶詰が頭上を 飛び交う。天井と床がひっくり返りかねない揺れの中、狭間は枢を座席とテーブルの下に入り込ませ、その上に覆い 被さった。非常警報が鳴り響き、波号も叫ぶ。

〈敵襲、てきしゅーっ!〉

「敵襲!?」

 どこの誰だ、このご時世に。狭間が驚くと、波号が混乱しながら捲し立てた。

〈ええっとね、横須賀の方がぴかって光って、びしゃーっでばごーんでどがーんなんだよぉ!〉

「解るように教えろ!」

〈ガニガニがぴかーってしたんだよぉ!〉

「そりゃ、あいつは発電怪獣だから光るだろ。漏電するし」

 となれば、波号がガニガニの発光に驚いたのか。騒がせやがって、と狭間は内心で毒吐いたが、海中でも通じる 周波数の怪獣電波が届いた。その中には、波号の大先輩である敷島型戦艦三笠の声も混じっていた。彼女の語彙は 古めかしかったが報告は的確で、ガニガニが放った光線は猿島の後方二キロに着弾したと教えてくれた。しかも、 その光線の直径は単純計算でも40センチ近くあり、かなりのエネルギー量だという。発射角度が悪すぎたので 海面に着弾したが、ガニガニの砲撃が上手ければ対岸の房総半島に着弾していたのは確実だ、とも。
 ガニガニが放ったのは超高温の熱線で、過電流というには多すぎる熱量を持つ、艦対艦兵器と言っても差支えの ない代物だった。確かに、大戦中に戦艦の動力源となった動力怪獣の中には、砲弾を装填する必要がない光線砲 を備えた怪獣もいるにはいたが、ガニガニはそうではない。ただのヤシガニに似た発電怪獣で、狭間が知る限りは 特殊な能力もなく、早とちりすることもあるが善良な性格の穏健派の怪獣だ。そのガニガニが、大和型戦艦が撃つ ような大口径の光線砲を撃てるものか。だが、三笠の声と共に流れ込む感情に嘘はない。
 そして、ガニガニが発する怪獣電波は苦悩に満ちていた。





 


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