慌てふためく波号を宥め、猿島の東側に向かわせた。 波号が発令所に後生大事に持っていた横須賀近辺の地図を頼りに指示し、ガニガニの視界の影になるであろう 位置まで後退させた。だが、岩礁だらけで潮の流れも速いので、ただでさえ落ち着きを失ってしまっている波号 は海流に煽られてふらふらしていた。万が一ガニガニが放つ怪光線を喰らって沈没してしまえば、波号ごと狭間も枢も 麻里子もやられてしまう。怪獣達は海に沈んでも平気かもしれないが、人間はそうもいかない。ここまで来たのに 海の藻屑と化すのは不本意極まりないので、狭間は本土に上陸することを諦めた。 「ヒツギの力を借りて、猿島に移ろう」 狭間は枢の手を引いて発令所まで戻ると、ヒツギが棺を開けて待ち構えていた。 〈お待ちしておりました、枢様〉 「こちらの方も御一緒するのですか……?」 枢は棺の中を覗き、怖々と肩を縮める。足元に当たる位置に、麻里子の生首入りの布袋が置かれていた。 〈どうか御容赦を、枢様。私が枢様と人の子とカムロとその宿主を一度に運ぶには、こうするしかないのです〉 〈俺も不本意だが、四の五の言っていられる場合じゃないからな。話は島に移ってからしようぜ、人の子〉 布袋の結び目から伸びた髪が左右に振られた後、引っ込んだ。 「では、参りましょう、ヒツギ。波七型潜水艦も、ここまで本当に御苦労様でした」 枢は棺の中に体を収めると、狭間を見上げてきた。 「狭間さん、猿島でお会いしましょう」 ヒツギは棺に蓋を被せて朱色の紐で括ると、棺を頭上に担いで歩き出した。潜水艦の艦内は人間一人がやっと 通り抜けられる程度の直径しかない円形のハッチと狭い通路ばかりなので、それでなくても大柄で尚且つ有翼の 怪獣であるヒツギが棺を担いで出られるわけがないからだ。狭間はヒツギの翼と尻尾が生えた後姿を追い、迷路の ような艦内を歩き、昇り、曲がり、昇り、外に通じるハッチに至った。 波号にハッチが開ける程度まで浮上するようにと頼むと、バラストタンクから排水を行うと同時に圧縮した高圧の 空気をバラストタンクに送り込み、浮き上がり始めた。だが、波号の計算が今一つだったのか、ハッチが海面から 顔を出し切っていなかった。なので、波号に再度頼んでバラストタンクの空気量を微調整してもらい、ハッチを海面 から十数センチの高さまで出させると、すぐさま開いて外に出た。ヒツギ、枢と麻里子入りの棺、狭間の順番で外界 に出ると、ヒツギは棺を担いで狭間を前に抱え、尻尾でハッチを器用に閉めてから飛び立った。辺りはすっかり暗く なっていて、月の高さからして日没から二時間程度といったところだろうか。 急速潜航ー、と波号は言いつつ、バラストタンクから入れたばかりの空気を吐き出し、潜航していった。潜水艦 の中では小振りな艦体が黒い波間に没し、海底に沈んでいくと、闇に紛れて見えなくなった。バラストタンクから 排出された空気の気泡も弾け、消えていく様を見つつ、狭間はヒツギに身を委ねた。 「あれ?」 視点を高くすると、あることに気付いた。発電怪獣ガニガニの異変により横須賀一帯が大停電に見舞われているのは 予想の範疇だったが、猿島までもが沈黙していて、潜水艦が近付いたことにも気付いていないのは妙だった。 世界に名だたる軍港であり海軍基地もある横須賀の海に浮かぶ猿島は、帝都防衛の拠点だった。冥治時代には 砲台が合計六門据え付けられ、高角砲も合計六門配備された、れっきとした要塞島だ。今でこそ軍備は縮小されて いるのだが、砲台怪獣達はいずれも現役なので帝国海軍の兵士達も配置されているはずなのだが。 発電怪獣に異変が生じて停電が起きた場合、軍隊ならば自家発電用の小型発電怪獣を使って明かりを得るだろう。 戦時中だったら、砲台怪獣から照明弾を撃っていただろう。それなのに、猿島には明かり一つ付いていない。狭間 はヒツギと顔を見合わせ、近付くべきか否かを話し合った。そして、陸地に近付くよりは危険が少ないとどちらも 判断したので、当初の予定通りに猿島に着陸した。人目に付く砂浜ではなく、砲台基地の近くでもない、岩場にて 翼を折り畳んだ。鬱蒼とした森からは、潮の匂いに混じって虫の鳴き声が聞こえてきた。 ヒツギは棺から枢と麻里子の生首を出したので、狭間は麻里子の生首を抱え、ヒツギは枢を抱き上げた。石畳の 敷かれた道は硬く、足場もしっかりしている。人の気配はないように思えるが、油断してはならない。波号の針路を 察知した玉璽近衛隊が、尖兵を送り込んでいないとも限らないのだから。 横須賀港とガニガニの状況を把握するべく、高台へと向かう。その間にも一人の兵士の姿もなく、砲台怪獣達も 静まり返っていた。単純にガニガニが放った光線砲に驚いているだけかもしれないが。一番見晴らしが良いのは、 高角砲のある場所ではなくレンガ造りのトンネルの上にある見張り台だ、と、ヒツギが教えてくれた。横浜駅地下 で綾繁一族が暮らすようになってから、横浜と横須賀とその周辺にある軍事施設の構造や軍備を頭に叩き込んだ のだそうだ。有事の際にはそれらを利用して対処出来るように、とのことだった。忠誠心の賜物である。 見張り台のある広場に至ると、ヒツギは狭間を遮った。異変を察知したのか、枢も預けてきた。狭間が不安 そうな枢を背に隠してやると、ヒツギは頷き、足音を殺して姿勢を低くして歩き出した。コンクリート製の見張り台 の足元に、光が灯った懐中電灯が転がっていたからだ。それは、何者がいる証拠だ。或いは、狭間達の気配を察して 身を隠したのかもしれない。嫌でも緊張が高ぶり、狭間は枢の小さな手を握った。 背後で枯れ枝を踏む音が響き、狭間とヒツギは同時に振り返って身構える。すると、足音の主は狭間達以上に 驚いて後退したが、石畳に躓いて仰向けに転んだ。その際に発せられた悲鳴には聞き覚えがあり、狭間はヒツギ の尻尾を引っ張って諌め、枢をヒツギに渡してから、彼に近付いた。 「鮫淵さん、ですよね?」 光源が乏しいので顔は見えづらいが、恐らく。狭間が訊ねると、男は腰をさすりながら起き上がる。 「あ、えと、んと、え、あ、は、狭間君……? なんで、確か、玉璽近衛隊が」 「その辺についてはあんまり聞かないでくれますか」 「いや、でも、その」 作業着姿の鮫淵は尻の汚れを払いながら立ち上がると、メガネを掛け直したが、狭間が懐に抱えているものを 目にして小さな目を最大限に見開いた。布袋の口が解けていて、麻里子の生首が覗いていた。麻里子の生首は 無反応だったが、カムロは髪束をしゅるりと出して赤い目を出し、鮫淵を威嚇する。 〈なんだ、こいつは〉 「……毛髪怪獣! しかも、こんなに大きな個体! 毛髪怪獣のほとんどは拳大にまで成長しないのに、成長した としても人間に近付かないから捕獲するのも難しいのに、しかも人間と融合している!」 鮫淵の興奮ぶりに、狭間は妙な気分になった。てっきり、驚かれるか怖がられると思っていたのだが、やはり鮫淵 も骨の髄まで科学者なのだ。鮫淵はタオルを手に巻いてからカムロの髪を掴み、観察する。人間の皮膚など容易に切れる ほど鋭利な髪だと知っているのだ。彼はまじまじと髪を眺め、考えたことをそのまま口に出した。 「毛髪怪獣ケウケゲンは小型だから昔は妖怪として扱われていたけど、大きな個体が見つからないからそうなって しまっただけであって、潜在能力は大型怪獣にも匹敵する。毛髪に似た形状の外骨格で触れたものを簡単に細切れ に出来るのは外骨格に膨大な熱を宿してマイクロミリ単位で物質を焼却して切断しているからであって、質量を 持たない熱線よりも確実で、切り裂くだけの刃よりも遥かに高性能だ。こんなに高度な技術を使っているからには、 毛髪怪獣自身の知能が高くなければいけないんだけど、毛髪怪獣単体では情報処理能力が今一つだから、中型から 大型の怪獣に寄生することが多いんだけど、その結果、怪獣の外見が本来のものとは異なる状態で記録されて後世 に伝えられる場合が多い。古代中国にいた神話怪獣のゲンブも大陸の毛髪怪獣に寄生されたものであるというのが 最近の学説で、キリンやリュウオウがヒゲを蓄えていたのも毛髪怪獣の一種と同化して知能が高まったから神格を 得たのでは、というのもあって!」 力説するうちに熱が入ってきたのか、鮫淵は狭間に詰め寄る。 「え、ああ、そうだったんですか……」 〈そうなんだけど、いちいち言うほどのことでもねぇからなぁ〉 狭間の腕の中でカムロは鬱陶しげに髪を振ったので、狭間は肩を竦める。 「怪獣使いが欲しがる理由はあるにはあるんだな、一応」 〈一応ってのは余計だ〉 カムロはそう言い返してから、髪を引っ込めるついでに布袋の口も締めた。 「あ、で、その、えっと、どうして猿島に」 話すだけ話して気が晴れたのか、鮫淵は態度を改めた。狭間もはぐらかしつつも、横須賀港を指す。 「それについてもまた後日お話します。それで、鮫淵さん。ガニガニが発射した怪光線は何だと思います?」 「あ、うん、えと、僕はガニガニの電圧が高まり過ぎているから調査してこいって政府に言われて、猿島に 放り出されたんだけど、でも、その、ここからだと解ることもあるにはあるけど少なくて」 「具体的には何が解ったんですか?」 「はっきりとした確証を得るには物証が足りなさすぎて、僕の推測の域を出ないんだけど、その」 鮫淵は作業着の前を開き、その中に入れていたノートを出してべらべらと捲った。 「ガニガニの急激な電圧変動が起きたのは三日前なんだけど、その前に異変らしい異変は起きていないんだ。 海軍基地で空砲が発射されて驚いた、とか、予告なしでサイレンが鳴って驚いた、とか、他の発電怪獣の 電圧変動が起きたのはそういうことがあったからなんだけど、ガニガニには何もなかった。特定の音域の音 が怪獣に何らかの作用を与えることは知っているけど、今、それを扱えるのは……宮様だけなんだ」 「御音放送ですね」 静かながらも重みを湛えた言葉を発したのは、綾繁枢だった。 「夜分遅くに失礼いたします」 「――――あなたは」 鮫淵が小さい目を見開くと、枢は体の前で手を重ね合わせ、一礼した。 「怪獣使いによる洗礼を受けた怪獣達を真の祝詞で鎮められるのは、神話怪獣の直系の子孫であらせられる宮様 だけであり、私達怪獣使いに出来るのは怪獣を荒ぶらせることだけなのです」 「……そう、そうなんだよ」 だから、海軍に報告出来なかった。そう呟いた鮫淵はノートを握り、ページを歪める。 「怪獣がその能力の百倍近い能力を発揮するのは、それ相応の措置をされた場合なんだ。たとえば、広島と長崎 に投下された怪獣爆弾。あれも爆縮レンズによって爆発の衝撃とそれに伴う衝撃波と音波を怪獣弾頭に収束させて、 怪獣弾頭の威力は最大限に引き上げられていた。怪獣使いの祝詞で怪獣弾頭の威力は設計の百分の一にまで下がったけど、 でも、被害は甚大だった。けれど、宮様は怪獣を一言で黙らせられる。ほんの一語で」 「では、調べなければいけませんね。どこのどなたが、宮様の御力を騙ったのか。怪獣使いは宮様に代わり、穢れを 引き受けるためのものでもあります。私が、あの怪獣を止めなければなりませんね」 きっぱりと言い切った綾繁枢は、最初に出会った時の御嬢様然とした態度から逸脱していた。生と死の狭間を 幾度となく彷徨っていたからだろう、覚悟が据わり、表情にも力がある。ヒツギが彼女に惚れこんでいる理由が、 今になって解ったような気がする。狭間は鮫淵と目を合わせると、鮫淵はメガネの位置を直して頷いた。 再び、ガニガニの放った光条が夜空を焼いた。 15 2/18 |