横濱怪獣哀歌




ダーク・オン・ザ・ウォーター



 香りだけしか楽しめないから、と彼女は愛おしげにカップを見つめた。
 となれば、真琴はコーヒーをお代わりする羽目になるだろう。三杯も飲んだら寝つけないな、と思いつつ、溶けた 砂糖の硬い歯触りと黄金色にとろけたバターが染み込んだトーストを齧った。テーブルに顔を寄せ、白く儚い湯気を くゆらせるコーヒーを眺めている、人間のようでいて人間でない女性の名ははっきりしていない。だが、これだけは 解っている。彼女は光永愛歌の愛車であるシビックの動力源であり、普段はボンネットに隠れていて、青いコート に見えるものは外皮が変化したものなのだと。つまり――怪獣なのだ。
 真琴が彼女と最初に出会ったのは、兄が帰省してきた時だった。今は亡き両親と共に食卓を囲み、賑やかな夕餉 を楽しんだ後、真琴は夏休みの課題を片付けるべく二階の自室に移動した。その時は、真琴が思い描いていた憧れ を形にした女性である愛歌にどぎまぎしていたこともあって、勉強に気が入らず、かといって布団に入っても 寝付けなかったので、夜中に家を抜け出した。
 そのついでに、温泉街と集落の中間辺りにある自動販売機でタバコでも買ってみよう、と考えていた。兄や他の 男達からすればどうってことのない行為だが、真琴にしてみれば大冒険だった。それまでは真面目で潔癖な少年だと 周囲から思われていて、真琴自身もそう思っていたのだが、怪獣だのなんだのといい加減なことを言って好き勝手に 生きている兄が羨ましくなる瞬間が多々あった。あったが、ただそれだけでしなかった。だが、真琴の理想そのもの である愛歌を連れて帰ってきたことで、手前勝手で浅はかな羨望に火が付いてしまった。だから、不良の真似事をして みようと考えた末、真琴は百円玉を握り締めて夜の山道を歩いた。
 背が伸び切った草が壁のように連なり、金属質な虫の音が夜の静寂を打ち消している。十数分歩いて、羽虫と蛾が 大量に群がっている街灯が見えてきた。件の自動販売機は、その下にあるトタン小屋の中だ。真琴はやけに心臓が 高鳴り、ずきずきと痛むほど緊張してきた。硬貨を入れてボタンを押すだけなのに、たったそれだけのことなのに、 勇気と名が付きそうな感情は一滴残らず使い切った。蒸し暑さも相まって、喉が乾涸びそうだ。
 重たい唸りを漏らしている自動販売機に小銭を飲み込ませ、ボタンを押し、ことん、と軽い箱が落ちてきた。羽虫 を払いのけながらそれを取り出していると、背後でブレーキ音がした。堂々としていればよかったのに、罪悪感から 真琴はぎょっとして振り返り、強かに後頭部をぶつけた。呻きながら目を上げると、そこにはオレンジ色のシビック が停まっていて、独りでにボンネットが開いた。そこから現れたのが、彼女だった。

「それで、私の名前は決めたの?」

 透き通っているせいで眼球の底が見える目を上げ、彼女は真琴を捉えた。そこに、困惑気味の少年が映る。

「決めるも何も、あなたには元々の名前があるでしょうが」

「あれは捨てたの、昔にね。名前というのはね、外から授かるものなの。でないと、呪力がないもの」

「そんなもの、古代や神話時代ならまだしも、現代ではあってないようなものでしょう」

「あってないようなものだから、大事にしなくちゃ」

 彼女は身を乗り出し、真琴に迫る。真琴はシュガーバタートーストを食べ終え、口元を拭う。

「でも、俺が考えた名前なんて大したものじゃないですよ?」

「なんでもいいから言ってみて、ほらほら」

「んー、それじゃあ……」

 真琴はコーヒーで喉を潤してから、乏しい語彙で考えた彼女の名を口にした。

「光永哀歌。あの人と読みは同じだけど字は違う、っていうやつで」

「哀れな歌? ああ、ブルースね。でも、それはちょっと趣味じゃないかも。というか、私は昔の名前が好きじゃ ないのよねぇ。家督を継いだ後の名前も可愛くなかったしぃ」

「えー? じゃあ、他に何かあったかな……」

 彼女の我が侭に辟易しつつも、真琴は再度頭を捻った。十数分ほど唸った後、別の単語を絞り出した。

「恋歌、とか?」

「レンカ? もしかして、恋の歌?」

「そう、そのレンカ。で、どう」

「恋の歌かぁ、んへへへへへへへ。なんかくすぐったいなぁー」

 彼女はベッドに寝転がると、顔を枕に埋めてごろごろと転がった。見た目は細身の女性だが、体重は人間のそれ よりも遥かに重たいので、ベッドが嫌な音を立てて軋んだ。れんか、れんか、と自分の名前を何度も口にしながら、 彼女はくすくすと笑った。気に入ってくれたのはいいが、はしゃぎすぎである。

「ありがとう、まこちゃん。これで私は、ちゃんとこっち側に戻ってこられたよ」

 枕から顔を外した彼女――否、光永恋歌は乱れた髪を整えた。

「ここからだと、横浜駅は見えないね」

「そりゃあ、建物も多いですし」

「私の体はね、横浜駅の地下にあるんだ。この体は、シビックの動力源の怪獣にちょっとお願いをして、間借りして いるだけなの。だから、今の私は私であって私じゃないけど、やっぱり私なんだ。身も心もクル・ヌ・ギアと直結して いたから、ちょっと死に掛けたぐらいで精神がクル・ヌ・ギアに引き摺り込まれちゃってさあー。そのせいで、私と 精神を繋ぎ合わせている全国各地の超大型発電怪獣が暴走しそうになっちゃったんだけど、それは妹達がなんとか してくれたから大丈夫だった。枢ちゃんも頑張ってくれた。だけど、私が死にそうだって解ると、妹達は当主の後釜に 収まろうと思うがあまりにいがみ合い始めちゃったんだ。世継ぎは私が死ぬ時が来たら決めるから、今は一日でも 長く生きていてね、って妹達に怪獣電波で伝えようとしたんだけど、全部掻き消されたんだ。魔法使いに」

 仇敵の名を口にした恋歌は、眉根を寄せる。白すぎる肌に赤みが差した。

「あの時もそうだったんだ。大戦末期の硫黄島の戦いで、枢軸軍のシュヴェルト・ヴォルケンシュタイン魔術少尉が 不用意に護国怪獣を暴走させて守り切った本土を襲いかねなかったから、その頃はまだ元気だった御父様と力を 合わせて頑張って、やっとのことで大人しくさせたのに、カナちゃんは私を凄く恨んでいる。ああでもしないと、本土と 国民だけじゃなくてカナちゃんも死んじゃうかもしれないから、一生懸命護国怪獣を宥めたのに、カナちゃんは私が 魔術少尉の手柄を横取りした挙げ句に厚かましくも当主の座に収まったんだ、って思っているんだ。全然違う、そう じゃないよ。カナちゃんには自由になってほしかったから、私が辛いことを引き受けようとしただけなのに」

 恋歌が膝を抱えると、青いコートは独りでに動いて白く長い足に絡み付く。それは、ツブラの触手が白い肌を 覆い尽くす様によく似ていた。恋歌の頼みを察し、真琴は呟いた。

「となると、俺は愛歌さんを止めに行かなきゃならないわけか」

「うん、無理を言っちゃってごめんね」

「全くですよ。でも、愛歌さんを止める方法はあるみたいですね」

「どうして解るの? まこちゃん、すごーい」

「誰だって解りますよ、あんなものを見れば」

 恋歌の肩越しに見えるのは、鮮やかな西日に包まれた住宅街の景色だった。その上空に、教科書や記録映画で 散々目にしてきた三本足の物体が浮かんでいた。多肢型外骨格怪獣トライポッド。かつて地球に襲来した火星怪獣 達が兵器として運用した怪獣であり、トライポッドから得た技術が文明の発展を著しく促進させた。古代の甲殻類 じみた形状の基部は滑らかな光沢を帯び、二つ目の太陽となって鮮烈に輝いている。蛇腹状の三本足はぐねぐねと 曲がり、さながらタコのようだ。怪獣の出現に人々がざわめき、そこかしこから驚きの声が聞こえてくる。

「あれ、どこから調達してきたんですか。ブリテンに展示されているはずですよね?」

 真琴が戦々恐々とすると、恋歌はしれっと言った。

「そうだよ! そのブリテンから呼び寄せたの!」

「何を無茶苦茶なことを」

「私が空間をどうにか出来るのはごく短距離だけだから、呼び寄せてから到着するまで時間が掛かっちゃった んだよねー。もうちょっと早く到着していたら、エレシュキガルをどうにか出来たんだろうけど」

「見通しが甘いんですよ」

「そりゃまあそうだけど。飾っておくだけじゃ怪獣の持ち腐れだから、使ってやらなきゃ損よ!」

「だとしても、あんなものを何に使うんですか? そもそも、どうやって動かすんですか?」

「カナちゃん退治! 動かすのはまこちゃん!」

「馬鹿を言わないで下さい。俺にそんなことが出来たら、とっくにやっていますよ」

 兄ならまだしも、真琴にどうやって怪獣を動かせというのか。しかも火星怪獣だ。真琴が辟易すると、恋歌は得意げ に頬を持ち上げた。年齢の割に表情が幼いのは、愛歌とそっくりだった。

「人の子の力は生まれ持ったものだけど、土壌ありきのものなんだよ。一ヶ谷市には長いこと天の子の卵が埋まって いたから、火星と似たような地質に変化していたんだよ。言ってしまえば、一ヶ谷市は天の子に汚染されていたわけ。 だけど、怪獣達がそれを気付かせなかったんだよ。その理由は、鉄の時代のソロモン王たる人の子を生み出すため。 んで、やっとのことで生まれたのが人の子ってわけ」

「兄貴の体質って生まれ付きじゃないんですか? というか、なんで恋歌さんはそんなことを知っているんですか」

「人の子の体質は生まれ付きと培養の半々だよ。ああいう個体の人間は二度と出来ないんじゃないかな、幸運に次ぐ 幸運の固まりだから。でもって、怪獣になってからは、怪獣使いでしかなかった時には聞き取れなかった怪獣同士の 会話が良く聞こえるようになったから、怪獣達が人の子に隠していることもよぉく聞こえるんだ」

「今更ながら聞くのもなんですけど、俺と恋歌さんが普通に会話出来ているのはどうしてなんですか」

「人間だった頃の話し方を忘れていないからってだけ。で、話は戻るけど、まこちゃんも人の子と全く同じ環境で 育ったわけだから、目覚めなくてもまこちゃんも通じ合える。はず!」

「はずって、ただの希望的観測ですか?」

「だって、私は元怪獣使いの怪獣であって科学者じゃないもーん」

「適当なことを言って得体の知れない怪獣に乗せようとしないで下さいよ!」

 調子のいいことを言う恋歌に真琴は言い返すが、恋歌は真琴の右腕を取った。

「まあまあ、そう言わず。とりあえず乗ってみよう、トライポッドに!」

 途端に、恋歌は窓を開け放って飛び出した。無論、真琴も一緒だ。窓から外に引きずり出されながら、真琴の 脳裏に駆け巡ったのはヲルドビスの戸締りとガスの元栓のことだった。どっちも閉めてあったっけ確か閉めたはず なんだけどいやそんなことよりも、と混乱していると体内の血流が体の左半分に偏った。急激な加速によって右肩も 抜けそうになり、ごぎ、と鈍い音が鳴った。激痛で涙目になった真琴は、足元を見下ろして猛烈に後悔した。
 空を飛んでいる。いや、跳ねている。足場がない空虚さで背筋が逆立ち、左側に寄った血の気が音を立てて 引いていく。地面までの距離は目測で十数メートル、この高さから落ちたら確実に死ぬ。真琴は込み上がって きた悲鳴を堪え、恋歌の腕に縋り付いた。髪を広げながら振り向いた恋歌は、妙に照れ臭そうに笑った。
 映画やらアニメでは空中散歩は優雅に描かれるが、現実はそんなにいいものではない。恋歌は人ならざる者の身に 相応しく、空中に何かしらの力で足場を作ってそれを蹴り、トライポッドを目指して跳ねていくのだが、その都度 急激な加速が無防備な真琴の肉体に襲い掛かる。だから、景色を楽しむなど以ての外だった。視界がブラックアウト しかけた頃、ようやく目的の火星怪獣に辿り着いた。
 兄の苦労が、今更ながら理解出来た。




 銀色の三本足の怪獣の出入り口は、上部に付いている。
 円形であることも相まって、戦車のハッチを思わせた。だが、人が出入りするには直径が狭すぎるので、真琴は かなり苦労して中に体を滑り込ませた。しかも、内部に至るための通路が曲がりくねっているので、匍匐前進しな ければ前に進めない。恋歌はどうしているだろう、と振り返ったが、背後に彼女はいなかった。ということはそういう ことなのだろう。緩やかに円を描いた通路を下りて広い空間に出ると、案の定したり顔の恋歌が待ち受けていた。 図書室で見せびらかしてくれた芸当で、一瞬で中に移動してきたのだ。

「空間を飛び越えられるんなら、なんで俺も一緒に飛ばしてくれないんですか」

 学ランに付いた汚れを払いながら真琴がむっとすると、恋歌は舌を出す。

「生身の人間が一緒だとどうなるか解らないんだもん。まこちゃんをぐちゃぐちゃの肉塊にしたくないし」

「お気遣い、どうも」

 真琴がため息を吐くと、恋歌は手を叩き合わせた。その音がトライポッドの内部に広がると、銀色の壁が青白い 光を放った。続いて祝詞を唱えると動力機関が唸り出し、祝詞に合わせて足を踏み鳴らすと電子機器に似たものが 作動した。怪獣使いの真価を惜しみなく発揮した恋歌に、真琴は圧倒された。怪獣使いは音と振動で怪獣を操ると 知ってはいたが、実際に目にするのは初めてだったからだ。

「んじゃ、横浜駅に行こうか。カナちゃんが来るのは、間違いなくそこだから」

 私を殺しに来るんだもの。そう言った恋歌がなんだか嬉しそうなのは、気のせいではない。真琴は何か言葉を 掛けるべきだと思ったが、結局何も言えなかった。言われるがままに火星怪獣仕様のトライポッドの操縦席に 収まった真琴は、ゲル状のクッションが付いていてぬめつく座席に辟易しながらも、あることに気付いた。
 目の前の計器の片隅に、落書きがあった。筆記体の英語のように見えたが、字が全体的に歪んでいるので上手く 読み取れない。もしかすると英語ではないのかもしれない。意味が気になったので、真琴は学ランの胸ポケットに 常に入れている生徒手帳と短い鉛筆を取り出し、カレンダーのページに落書きを書き付けていると、恋歌が鉛筆を ひょいっと取り上げてしまった。それから、真琴にしなだれかかってくる。

「ちょ、っと」

 恋歌は冷たくて重たいが、柔らかい。真琴は二の腕に当たる膨らみの感触に戸惑い、赤面する。

「ねえ、まこちゃん。私は間違っていないよね? 私はずっと正しいことをしてきたんだよね?」

 真琴の腕に恋歌はしがみ付き、爪を立てる。石の破片を押し込まれたように、肉も骨も痛い。

「カナちゃん……じゃない、愛歌ちゃんは間違っているから、私がしていることは正しいんだよね? お願いだから 正しいんだと言って。人の子が天の子を戦わせていたように、まこちゃんも私を戦わせて。妹は一度死んでいるん だから、もう一度殺しても平気だって言って。ねえ、まこちゃん」

 恋歌の手を握り返そうとして、躊躇った。そんなのが正しいわけがない。何もかもが歪んでいるから、自分の感情 だけは正しいのだと信じたいのだ。だが、それは恋歌と愛歌だけではない。兄もツブラも海老塚も麻里子も、他の 者達も変わらない。真琴でさえも例外ではない。
 だから、この感情も認めてやろう。あなたは間違っていない、あなたがそう思うのなら。自分と恋歌に俗な言葉を 与えて罪悪感を紛らわしながら、恋歌の肌に触れた。柔らかいが、やはり石だ。彼女と通じ合えれば、きっと真琴は 兄と肩を並べられる。兄は真琴を同列に扱っているつもりだろうが、真琴からすれば兄の優先順位の最上位はいつも 怪獣だった。今もそうだ、シャンブロウに捕らわれたままだ。だから、真琴も怪獣と通じれば、きっと。
 けれど、これは恋でもなんでもない。





 


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