横濱怪獣哀歌




怪獣使イ対怪獣使ワレ



 麻里子と御名斗とは、敢えて合流しなかった。
 あの二人が怪獣使いの元に乗り込む目的は、狭間と枢の目的とは根本的に違うからである。狭間は怪獣使いの 伝手を通じて宇宙怪獣戦艦と連絡が取れるかどうかを知るためであり、枢は宮様の御音を真似たばかりか私事の ために使ったであろう怪獣使いが誰なのかを調べるためと、綾繁家の当主である綾繁定に事を収束させるようにと 懇願すること、そして魔法使いと争うべきではないと懇願しに行くためである。枢が背負うものの重さに、狭間は 自分の動機があまりにも不純で若干気が引けたが、それ以外に行動理念がないのだから仕方ない。
 茶色の外壁の洒落たデザインの駅舎は、閑散としていた。横浜駅の東口の駅前広場には人影はなく、代わりに 靴の片方やカバンや帽子といった私物がちらほらと落ちていた。それだけ、皆は必死に逃げたということになる のだが、それにしては逃げるのが早すぎるような気もする。ブリガドーンが現れたのは二時間程度前だが、最初 に発令される避難準備の段階では、人々はそれほど危機意識を抱かない。それというのも、怪獣が出現するのは 日常茶飯事であり、撤回される場合も多いからだ。それなのに、今回に限っていやに対処が早い。ということは、 ブリガドーンが出現する前に何か起きたのだろう。

「うひっ!」

 突如吹き付けた凍てつく風に、狭間は思わず首を縮めた。

「ひゃう!」

 枢も両腕を抱え、小さな背を丸める。

「これってまさか、いや、そういうことだよな……?」

 冷気の出所である帷子川を窺い、狭間は察した。冷気が濃厚に残っているということは、今し方まで、横浜駅 近辺にエレシュキガル――否、光永愛歌がいたということだ。彼女がここに至った理由と向かった場所については、 今更考えるまでもないだろう。だから、皆、早々に避難したのだ。横浜一帯で無差別で大量の殺人を繰り返している 神話怪獣が現れたとなっては、光の巨人が出現するのと同等かそれ以上の危機だからだ。騒ぎを起こせば綾繁定に 存在を感付かれてしまうから愛歌さんは不利になるだろうに、と狭間は訝りかけたが思い直した。きっと、愛歌は 人々を逃がすために目立つことをしたのだ、と。そう思いたかった。
 改札をまたいで通ってから、狭間は枢とヒツギに道案内を頼んだ。腰に提げたライキリは重たく、鬱陶しいもの ではあったが、逃げられては困るので柄を押さえながら歩いた。横浜駅の地下へと通じる道は地下鉄にあるのかと 思いきや、地上階の駅長室に案内され、その床に仕込まれている隠し階段がそうなのだという。枢は床板に手を添えて 祝詞を唱えると、床板に目が現れ、口を開けた。地下から湿っぽい風が吹き上がり、枢の前髪を持ち上げた。

「なるほど、怪獣が蓋なのか」

〈枢様がこちらからお入りになるとは珍しいな、昔はもっぱら鎬様が使っておられたが〉

 床板の蓋にされている怪獣は目をぎょろつかせ、狭間を捉えた。

〈で、これが人の子か。噂には聞いているが、ライキリを手懐けるとは大したもんじゃないか〉

「生憎、こいつは俺のものになったわけじゃない。帝国軍人から借りただけだ。それで、お前の名前は?」

 狭間がライキリを押さえて苦笑すると、怪獣は瞬きしてから四角く平べったい体を起こすと、角から一対のツノ を生やした。リノリウムの汚れ具合まで見事に再現された擬態能力は、かなりのものだった。

〈俺の名はイタオニ、つまりは妖怪扱いされてきた怪獣だ〉

「お前の眷属は他にもいるのか?」

〈おお、いるぞいるぞ。俺は擬態するのが得意だから、古くから隠し扉を塞ぐために使われてきたから、怪獣使い もまた例外じゃない。だから、怪獣使いの牙城に通じる通路はほとんどが俺の同種が塞いでいる〉

「麻里子さんと御名斗さん、というか、カムロとボニー&クライドが通っていったのはどの辺だ?」

〈あいつらか? お前らと同じく東口から入ってきて地下鉄に向かって、それから……最悪だった〉

「壁も何もぶち壊していったってことか?」

〈そうなんだよ! 俺達とノブスマ達がバベルの塔の力を借りて一生懸命拡張してきた駅舎だってのに、あいつらと 来たら勝手にぶち壊しやがって! おかげで地下鉄のレールはぐにゃぐにゃだし、天井も落ちかけているし、階段も ボロボロだし、配管も配線もダメになっちまった! これだから強硬派は嫌いだ!〉

「じゃ、カムロ達が通っていかなかった道を教えてくれ。俺と枢さんとヒツギはそっちから行く」

〈え? 人の子はあいつらの暴挙を止めに来たんじゃないのか? 怪獣使いに殴り込みに行かせないために、金色の 衣装に化けたグルムを着た若いのと悲様と合流して、怪獣使いを守りに来たんじゃないのか?〉

「グルムって、あのグルムか!? だっ、誰が着ているんだよあんなのを!」

 思いがけない名を聞かされて狭間が動揺すると、イタオニはぐにゅると捻じれた。

〈誰って……誰だろう。俺達が見分けが付けられるのは怪獣使いと魔法使いぐらいなもんで、他の人間はどれも これも一緒に見えちまうからなぁ。……お、おああっ、人の子、それはダメ、いやああんっ!〉

 イタオニがうにゅうにゅと不気味に波打つのも構わず、狭間は怪獣電波の出力を高められるだけ高め、イタオニ と繋がる同種の怪獣の記憶を手当たり次第に探った。訳もなく嫌な予感がしたからだ。彼らの目に映ったものを次々 に覗いていき、闇を引き摺る愛歌と鳳凰仮面の格好をした人影がいないかどうかを確かめた。一度に百体近い怪獣の 記憶を抉り出したので猛烈な疲労と頭痛に襲われたが、意地と気合で堪え、そして捉えた。
 麻里子と御名斗が暴れている道程とは異なる、西口の乗り換え口付近にて、防火扉に擬態しているイタオニの前 に金色の衣装を着た男が立った。格好だけ見れば鳳凰仮面には違いないのだが、体つきが細く背も低い。それに、 掛けているサングラスの形に見覚えがある。鳳凰仮面――便宜上、三号と呼ぶことにする――は、イタオニを興味 深げに眺めていたが、下半身を闇のドレスで包んだ愛歌が現れると身を引いた。愛歌は口を開いて喉を震わせる と、イタオニは枢の祝詞を聞いた時と同じようにぐにゅりと曲がって進路を開いた。そこで、愛歌と鳳凰仮面三号 は言葉を交わしてから奥に進んだ。怪獣だったんですか、これ。そうよ、行きましょ、まこちゃん。

「うおあああああっ!?」

 ということはつまり、あれは真琴なのか。突如絶叫した狭間に、枢は腰を抜かした。

「な……なにを、ごらんになったのですか……?」

「何がなにって、なんで真琴がこんなところにいるんだよ! というか、愛歌さんも真琴なんかを連れ込むなよ!  ああもう、どっちから先に行けばいいんだよ! よおし真琴が先だ! でないとどうにも落ち着かん!」

 混乱してきた狭間を、ヒツギは諌めた。

〈落ち着け、人の子。悲様にも考えがあってのことだ、たぶん〉

「じゃあそれはどんな考えだよ! 真琴は俺とは違うんだ、グルムに絞め殺されちまうかもしれないじゃないか! 愛歌さんもこれまでの愛歌さんとは違う!」

 ヒツギに掴み掛らんばかりの狭間に、ライキリがぱちんと鯉口を切って白刃を垣間見せ、怒鳴った。

〈やかましいっ! 人の子の弟と怪獣使いの出来損ないがどこでどうなろうと、人の子と枢様の目的は変わらん だろうが! さっさと先に進め、そうこうしている間にもブリガドーンが近付いてくるんだからな!〉

 脳に突き刺さるどころか吹き飛ばされそうなほど強烈な怪獣電波に、狭間はちょっと気が遠くなりかけた。だが、 おかげで冷静さを取り戻せた。たたらを踏んでよろめき、駅長の机に腰を下ろし、ライキリを鞘に収める。

「そう、だな。うん。愛歌さんが真琴をどうにかしようと思えば、とっくに出来ていたはずなんだ。グルムが真琴 に貼り付いたのも、あいつなりに俺に気を遣ったってことだろう。グルムだって馬鹿じゃない、俺が言ったことを 覚えているならの話だが。だから、先に進もう。とにかく、バベルの塔の破片まで辿り着かないと」

 狭間は深呼吸してから腰を上げ、すまなかった、と枢に詫びた。

〈ならば、案内しよう。怪獣使いの住まい、居住臓器へと〉

 ヒツギが灰色の階段に踏み込むと、床全体が波打って出入り口が広がった。イタオニが塞いでいたのは秘密の 通路だけではなかったということだ。枢はヒツギの腕に抱かれ、狭間は棺を担いだ怪獣の背を追っていった。弟の ことは気掛かりだが、今はそれどころではない。後ろ髪を引かれつつも、底知れぬ階段を歩いた。靴底に返る感触 はコンクリートに似ていたが、ほのかに体温を感じたので、既にバベルの塔の胎内に入ったのだろう。
 両脇の壁には青白い光が灯り、一列に連なって進路を示している。狭間が通り過ぎた傍から背後の光は消えて いったので、怪獣が道案内してくれているようだった。行き止まりに誘い込まれなければいいのだが、と危惧 しながら、狭間は無意識にタバコを抜いて銜えていた。
 だが、火は付けなかった。




 居住臓器とは、超大型怪獣が生まれ持つ臓器である。
 その名の通り人間が快適に住める環境が整った臓器で、人間で言うところの肝臓に当たる臓器と隣り合った位置 に出来る場合が多い。大きさは怪獣によってまちまちだが、巨大なものとなると直径三〇メートル近い。水や空気は もちろん、適度な光と気温、作物の栽培が可能な土壌だけでなく、火を使わずに調理が出来る、高熱を発する鉱石 細胞が臓器のそこかしこに生えている。桃源郷、ティル・ナ・ノーグ、アヴァロン、シャングリラといった伝説の 理想郷の正体は怪獣の居住臓器である。童話のピノキオに登場したクジラも例外ではない。あれも怪獣だ。
 居住臓器に至るための通路は、言うまでもなく血管である。大静脈に当たる太い血管の間を通っていくのだが、 そこには怪獣の体液は流れていない。居住臓器が人間が住めるほどに育ち切ったら、怪獣の体の構造は徐々に変化 していくため、大静脈は時間を掛けて流れを変えるからだ。滝の瀑布にも似た音が聞こえてくるのは、太い血管の 中で体液が循環しているからだ。どおどお、ごおごお、という水音に混じり、みぢみぢ、ぎゅるぎゅる、と筋肉の 軋みも聞こえてくる。生暖かくぬるついた空気には、生き物の胎内に相応しい生臭みがあった。下水道の臭気とは 異なり、排泄物にはない体温がたっぷりと含まれている。嫌悪感よりも先に安心感が先に立ったのは、狭間は怪獣との 距離が近過ぎる生活を送っている人間からだろう。枢も例外ではなく、見るからに表情が柔らかくなった。
 隔壁に当たる粘膜を何枚も通り、血管の曲がり具合も緩やかになり、ついに居住臓器に至った。レンズ状の粘膜 がぬろりと広がると、瑞々しい草と水の匂いが立ち込めたが、枢が目を剥いた。頭上の空色の粘膜からは赤い滝が 幾筋も垂れ落ち、清らかな泉を汚していた。青々と作物が生い茂った田畑はずたずたに切り裂かれ、豊かに膨れた サツマイモの残骸が散らばっている。花畑には肉片が撒き散らされ、土ごと肉が抉られている。怪獣使いの住居で あろう数寄屋造りの邸宅もまた例外ではなく、瓦礫の山と化していた。

「うひひひ、おっそーい」

 居住臓器を無残に破壊した張本人は、割れた茶器を放り投げ、熱線を撃ち込んで砕いた。

「それは大事なものです!」

 枢はヒツギの手から離れて駆け出すが、瓦礫の山の頂点に立つ御名斗は枢に熱い銃口を据える。

「で、御名玉璽はどこにあるの? ここにはなかったけど」

「……私は存じ上げておりません。お引き取り下さい」

 銃口に臆しながらも、枢は毅然と言い返す。ヒツギはすぐさま枢の前に出て、射線を塞いだ。

「でも、あんたは一人前の怪獣使いだ。怪獣行列を与えられているのがその証拠、知らないなんて嘘だ」

 御名斗はいつもと変わらぬ笑みを浮かべて、ヒツギを躊躇いもなく撃った。致命傷は敢えて与えず、肩、翼、腕、 尻尾、ツノと熱線を貫通させる。その都度ヒツギは流血するが、呻き声すら上げずに立ち尽くしていた。武蔵坊弁慶の 如き、忠臣の雄姿だった。枢は彼の傷が増えるたびに顔を歪め、震える手で顔を覆い、膝を笑わせる。

「存じ上げません! わたくしは、ほんとうに!」

「その辺にしておいてもらえますか、御名斗さん」

 御名斗の銃撃が止んだところで、狭間はライキリをすらりと抜いて御名斗に向けた。切るつもりはない、ただ 向けるだけだ。こちらにも武器があると示すことは、無駄ではないはずだ。

「バイト君こそ、この辺で引き下がった方が身のためだけど?」

 だが、そんな脅しが通じる相手ではなかった。御名斗はけたけたと笑ってボニーを構え、狭間も迷いなく撃つ。 銃口が上がった瞬間、熱線が放たれる直前、ライキリは己の身を翻して熱線を弾いたが、その反動で狭間は姿勢を 崩しかけた。その隙に撃たれては元も子もないので足を踏ん張り、熱を帯びた刀を構え直す。

「御名玉璽を斗わせるもの、っていう名前は伊達じゃないですね」

「んへへへへ、すーちゃんってアレで結構アカいからね。今はそうでもないけど。だから、俺も名前負けしないよう にしようって思って、こうしているってわけ。まあ、俺も怪獣使いがのさばっているのは面白くないから、名前に 乗っかった節もあるけどさ。というわけだから、御名玉璽がないってんならちゃっちゃと死んでもらおうかな!  怪獣使いを殺すのは初めてだな、腹から何が出てくるかな、怪獣の卵かな肉片かな体液かなマガタマかな!」

 割れた瓦を踏み切り、狂気の狙撃手は空中に躍り出た。ぞんじませんっ、わたくしはほんとうにっ、と叫んで枢は ヒツギの足に縋り付く。ヒツギは枢を棺に納めようと背中から降ろそうとするが、御名斗の精密にして強烈な射撃は そんな猶予は与えてくれない。それどころか、ヒツギの頭の後ろにはみ出した棺の上部をハチの巣にしてしまった。 更には肩紐を焼き切ってしまったので、枢に向かって棺が倒れてきた。呆然とした枢を、狭間は咄嗟に抱え込んで 身を引いた。直後、彼女のいた場所に木箱が落ちて砕け散り、中身を撒き散らした。棺や陶器の破片を浴びた狭間 は、声も出せずに震える枢を宥めてから、御名斗を顧みる。
 ――――こいつは一体、何なのだ。誰の味方にもなるが、誰の敵にもなる。怪獣使いの血筋であるが魔法使い に育てられ、ヤクザの愛人となって殺戮を繰り返してきた、男でも女でもないモノ。何者にもなれるが何者ですら ない、不定形な存在。いや、そうではない。何者にもなれるから、何者にもならずに本能のままに生きている。ある意味 では最も生き物らしい生き方をしている、剥き出しの獣だ。だから、楽しいか楽しくないかで状況を判断して行動 する。そこに一貫性を求めてしまうのは、外から見ているせいだ。当人にとっては、全てが真っ当で正しいのだ。 よって、悩むだけ無駄だ。ならば、刃を交えるしかないのか。

「言っておくが、俺は刀なんて使ったことないからな?」

 だから、どうなっても保証はしない。狭間が不格好にライキリを構えると、がちがちと鍔が鳴った。

〈おいボニクラ! お前らはそれでいいのか、って聞くだけ愚問ってやつか!〉

「だからなあに、俺と同じ土俵に立った時点でバイト君は俺の敵ぃ。だってその方が面白ーい」

 んひひひひひ、と嗤う御名斗の両手に握られたボニー&クライドが、真っ直ぐに狭間に照準を据える。

〈怪獣同士で戦って戦って戦って戦ってこの星を暖める、それが強硬派ってものじゃないかしら!〉

〈人間同士を戦わせて戦わせて戦わせて戦わせて戦わせて殺し合わせる、それも強硬派ってもんだろ!〉

〈道具に加工された怪獣が持ち主に感化されるってのは珍しくもなんともないが、お前らは特にひどいな! そいつ が魔法使いの出来損ないだから、余計に効いちまっているんだな。こうなっちまうと、どうにも出来ん。しかし、 人の子が俺の使い手となると勝ち目はまずないな。せめて正大だったら……いや、もう何も言うまい〉

「悪かったな、剣道もろくに出来ないような男に握られちまってよ!」 

 あからさまに落胆したライキリに言い返してから、狭間は日本刀の扱い方を思い出そうと記憶を振り絞る。しかし、 ヴィチロークと呼ばれていた時代のライキリを扱っていたのは九頭竜総司郎なので、剣術もくそもなかった。なので、 まともに戦うことは早々に諦めた。怪獣電波でボニー&クライドの精神を掻き乱そうかとも考えたが、あの状態の二丁 には強烈な感情を込めた怪獣電波を放っても、逆にこちらがやられてしまいかねない。どうする。
 不意に、視界の隅に黒い筋が過ぎる。それが何なのかは意識するまでもなく理解し、狭間はライキリを力任せに横薙ぎ に振り抜いてから後退し、枢を抱きかかえて駆け出した。振り返るな、何が起きても決して振り返るな。ヒツギが 息を呑んで呻いたのが解ったので、狭間はライキリを放り投げて勝手に鞘に戻るように命じてから、枢の目を手で 塞いだ。そうしてやるのが、せめてもの温情だった。
 居住臓器への入り口である静脈まで戻ると、狭間はひどく喘いだ。命じたとおりに鞘に戻っていてくれたライキリを 杖代わりに支えにして、分厚い内壁にへたり込む。歩道となる硬い部分から少しでも離れると、付いた膝がずぶりと 深く埋まり、滲み出した体液で足が濡れたが、そんなものはどうでもよかった。目を塞いでおいた枢は、ヒツギの胸 に縋り付いて泣いている。何が起きたのか、見ていないなりに察しているからだ。
 顎まで滴った汗を拭ってから、狭間は僅かに振り返り、後悔した。夥しい血を纏った黒髪が渦巻き、その中心では おぞましくも美しい少女が立っていた。恐ろしく長い髪に貼り付いた肉片をこそげ落とし、不愉快気に眉根を寄せた 麻里子は、御名斗だったものを一瞥して舌打ちした。

「外れです」

 これはトリクラディーダですよ、と麻里子が吐き捨てると、彼女の足元に出来た生暖かい血の池が変色していき、 鉄錆の色の肉片が崩れて青く透き通った粘液に変わった。つまり、偽物だったということか。狭間は安堵すべきか否か を迷ったが、死人が出なかったことだけは喜ぶべきだと判断した。
 とにかく、先へ進まなければ。





 


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