横濱怪獣哀歌




空中庭園地獄



 空の上は広い。
 途方もなく広くて、広すぎて、うんざりする。淡い大気の層を帯びた青い海が弓形に曲がり、緑と茶色が混在する 大陸もまた同じ角度に曲がっている。大気の層より遥か上、月と地球の間に無数の怪獣の残骸が散らばっている。 いくつかの肉片からは声が聞こえてくるから、彼らは生きているようだ。いや、そもそも怪獣には死は存在しない。 肉体が欠損しようが燃えようが潰されようが喰われようが朽ちようが、地球そのものである怪獣聖母ティアマトの膝元 に帰ってしまえば、生まれ変われる。怪獣の血肉と魂を得た地球は豊かになり、それを人々に与えてくれる。
 その、はずなのだが。狭間は、かつては怪獣使いが住んでいた屋敷の屋根に寝そべって、地球の地表に空いた 大穴を見つけては木炭で瓦に正の字を書いていた。最初は指折り数えていたのだが、すぐに片手で足りなくなって しまったからだ。手元を見下ろすと、正の字が瓦を五枚も埋め尽くしていた。

「ひぃふぅみぃよ、いつむぅななやぁこことお……」

 汚れた指を折り、正の字を数える。三百かける五、ということは。

「一八〇〇……いや、もっと、もっとなんだ」

 どうして、今の今まで気づかなかったのか。横浜が襲撃されているということは、世界中の大都市や発電所も 襲撃されているわけであり、ツブラ以外に光の巨人に対抗する力がないということは、つまり。

「兄貴。畑を掘り返してみたらイモが出てきたから、そいつを喰おう」

 ハシゴを使って屋根に上ってきた真琴は、学ランの制服姿に戻っていた。狭間は弟に目を向けようとしたが、 視界の端でちかりと何かが光った。それが何なのか、考える意味すらない。北ゴンドワナ大陸とユーラシア大陸の 合間、怪獣達が石油を掘削している油田がある海域で、光の柱が立った。

「まただ」 

 真琴は顔を歪め、痛ましげに目を逸らす。その左の上腕には、金色のスカーフと化した縫製怪獣 グルムが巻き付いている。狭間よりも相性がいいらしく、離れようとしない。

〈近頃は、怪獣電波の長距離通信を仲介してくれる通信怪獣も消されちまったみたいで、大陸側の情報が俺達には 届いていなかったんだが……。ここまでひどいことになっちまったから、それどころじゃなかったんだな。なんと いうか、変な気分だ。すかすかする〉

 グルムはスカーフの端に赤い目を出したが、真琴と目が合うと、布状の怪獣は痛ましげに目を伏せる。

「なあ、ブリガドーン。いつから、こんな景色を見ていたんだ?」

 油田で働いていた怪獣達の断末魔を僅かに聞き届けた狭間は、がしゃりと瓦にへたり込む。

〈十八征紀末からこんな具合だ〉

 狭間と真琴の足場である空中庭園怪獣ブリガドーンは、努めて穏やかに述べた。

「切っ掛けは、人類の火星進出か。いや、それだけとは限らんが」

 狭間は汚れていない左手で額を押さえ、前髪を掻き乱す。

「人類の歴史はここで途絶えるんだ。この分じゃ、次のテストの現代史は問題の数が少なそうだ」

 世界の危機を目の当たりにしても冷静さを欠かないためか、真琴は事の尺度を自分の世界に据えた。

「近代史の日本史も、せいぜい幕末までしかない。そこから後の歴史を教えられたことはないし、知ろうとしても、 帝国陸軍の奥の院が情報を握り潰しているらしいから、下々には届かない。飛行機を飛ばして海外旅行が出来る 時代が来る、と言われていたこともあったけど、戦時中に飛行機の動力源となる怪獣を狙って光の巨人が出現した から、民間の航空会社は事業を展開する前に頓挫した。古式ゆかしい船旅で行けばいいんじゃないか、と誰もが 思ったけど、その船すらも光の巨人は狙ってくる。だから、外国と光の巨人に関する情報を交換する以前の問題 なんだ。海底に埋められた通信ケーブルも光の巨人に寸断されてしまったし、通常の無線電波も光の巨人が現れる とダメになる。それを元に戻すまでには、かなりの時間が掛かる。放っておけば人類は緩やかに滅んでいくだろう。 電気だけでなく、一切の熱を使えない生活を送るのは到底無理だからね」

「かといって、火星が豊かになっているとも思えん」 

 狭間は気分を落ち着けるためにタバコを吸ったが、残りの本数の少なさに眉根を寄せた。

「地球からこれほど大量の熱と土と水と怪獣と人間を奪い去ったってのに、未だに襲撃し続けているのがその証拠 じゃないか。奴らはただの意思を持たない兵隊で、兵器で、光の固まりで、空間を超える穴だ」

 だから、ツブラは火星にいる。そう信じていなければ、やっていられない。

「物理的な穴はともかく、超空間の穴なんか塞げるもんかよ」

「じゃあ、光の巨人が持ち去った物資で潤うのはどこの誰なんだ? 火星怪獣か、火星人か? 兵隊なら、それを 指揮する大将がいるはずじゃないか。諸悪の根源は、その大将なんじゃないのか?」

 真琴の率直な疑問に、狭間は唸る。

「それについての情報はなんにもないから、今はなんとも……。あと、そいつはあくまでも人間的な観点から見た ものでしかないから忘れちまえ。光の巨人が徒党を組んで攻めてきているのは確かだが、だからって統制の取れた 軍隊であるとは限らないし、そうじゃない可能性の方が高いな。軍隊だったら、もっと効率的に横浜と俺とツブラに 襲い掛かってきたはずだ。だが、連中が高頻度で現れる時もあれば、そうじゃない時もあったんだ。ゴリラ風邪の時 なんて、あいつらはゴリラ風邪を引いた人間を消すかどうか迷っていたからな」

「何者かに指示を仰いだわけじゃなくて?」

「ゴリラ風邪の罹患者を前にして、ひたすら戸惑っていた。意志はない。ないはずなんだが」

「だが、ってなんだよ」

「一度だけ、変な動きをするやつに会ったんだ。佐々本モータースの近所で」

 光の巨人というには小さすぎるが、天使と呼ぶには羽根がない、奇妙な個体だ。狭間はその光の巨人がしていた ように、虚空に手を伸ばす。漆黒の宇宙と青い星の隙間が、手のひらで埋まる。まるで、人間が追い縋るかのような 仕草だった。だが、誰に。何に。狭間にだったのだろうか、それとも。
 兄弟は考え込んだが、考えれば考えるほど疲れてしまうので、屋根から下りることにした。ブリガドーンの中心 にある平地には、怪獣使いが住んでいた屋敷が丸々残っていたので、ありがたく使わせてもらっている。兄弟と 愛歌を乗せてブリガドーンを押し上げたトライポッドは、ブリガドーンの一角を貫通したが埋まってしまい、今もそのまま になっている。最大出力で飛行した反動がきついらしく、微動だにしない。銀色の球体が突き出しているのは屋敷の すぐ傍で、トライポッドは丸一日排熱しているが、まだ余熱があるらしく湯気を昇らせている。
 二人がここに来てから、太陽が頭上を一巡した。地上との連絡手段もないので、横浜がどうなったのかは知る由 もない。屋敷の中に黒電話はあったが、無線の通信設備が壊れているので使えなかった。使えたとしても、どこに 電話をすればいいのだろうか。古代喫茶ヲルドビスか、佐々本モータースか、九頭竜会か、怪獣監督省か、あるいは 綾繁家か。そんなことを考えつつ、狭間は台所を漁って包丁を見つけ出した。
 井戸から汲み上げた水を鍋に張り、乾涸びた薪で火を灯したかまどに掛け、湯が沸いてから、厚めに皮を剥いた サツマイモを放り込む。程良く煮え立って火が通ったら、台所の戸棚で見つけた味噌を溶かすと、イモだけしかない さつま汁の出来上がりである。食器棚から拝借した漆塗りの汁椀をやはり漆塗りの盆に載せ、囲炉裏のある居間へと 運んだ。兄弟は向かい合って座って熱い味噌汁を啜ったが、真琴は訝った。

「兄貴、お湯の沸点は何度ぐらいだった?」

「ん? そんなの、気にも留めなかったな」

「俺が見た限り、ブリガドーンが漂っているのは成層圏なんだ。地上から五〇キロから一〇キロの高さで、外気温は −15℃から0℃。世界の屋根たる山よりも高いし、気圧も低いはずなんだけど、きっちり100℃で煮立った んじゃないのかな。このさつま汁は。味噌の香りもへったくれもない味だから」

「水は古くなさそうだったし、味噌も良い感じに熟成していたが、一度は煮立てないと危ないじゃないか」

「それはそうだけど……火を緩めてから味噌を溶けばいいとは考えなかったのかよ、兄貴」

「文句言うなら自分で作ればいいだろ」

「そりゃ次からはそうするけど、そうしたいけどさ」

 真琴は箸を握る手に力を込めるが、手の震えが収まり切らなかった。トライポッドから下りてから、ずっとその 状態が続いている。無理に火星怪獣と神経を繋げたせいで心身に過負荷が掛かったのと、立て続けにショッキングな 出来事が起きたからだろう。狭間は自分の手を見下ろし、震え出す前に箸を握り締めた。

「辛かったら、寝ていてもいいんだぞ。ブリガドーンに何があるかは、俺が調べてくるから」

「いや、寝ようとしても寝られないんだ。頭が変に冴えちゃって、何かを考えていないとおかしくなりそうで」

「だったら、疲れるまで歩き回ろう」

「うん、それがいい」

 真琴は半笑いで頷くと、両手で汁椀を抱えてさつま汁を啜った。狭間はもう一本タバコを吸いたくなったが、残り は三本しかなかったので、食器と共に失敬してきた爪楊枝を銜えた。真琴の様子を気にしつつ、狭間は囲炉裏の間の 奥にある八畳間を見やった。雨戸が開きっぱなしだったので、砂埃でざらつく畳に布団を敷き、その上に愛歌を 寝かせてある。狭間は腰に提げたままのライキリに手を添えると、ライキリは少しだけ鍔を上げる。

〈人の子、あれをどうにかしなくてもいいのか?〉

「俺にどうしろってんだよ。これ以上出来ることもないし、することもねぇよ」

 愛歌さんに手を下せっつうのかよ、ヤクザ軍刀め、と狭間は毒吐いてから刃を押し込んだ。

「今は、なんとかして横浜に帰る方法を探るべきだ。お前だって、田室中佐に会いたいだろ?」

 元の持ち主の名を出すと、ライキリは途端に大人しくなった。しかし、エレシュキガルに通じる者がいるという 不安は拭い切れないのか、かちかちと鍔が鳴った。狭間もまた、己を戒めようと爪楊枝を噛み締めた。屋敷の外から は、木々のかすかなざわめきの他には何の音も聞こえてこない。きんと硬い静寂が、空中庭園を取り囲んでいる。 狭間は板壁に寄り掛かり、感覚を広げ、怪獣電波をブリガドーンに送り、繋げる。
 空中庭園怪獣を包んでいるのは、重力操作能力によって生み出された柔らかくも確かな空気の繭だ。平たい土 の円盤に身を収め、植物のように根を伸ばして円盤を強固なものとし、植物に栄養を注ぎ、水を清め、空気に酸素 を程良く満たし、人間が快適に過ごせるように環境を整えている。庭では花々が季節を問わずに咲き乱れていた ことからして、横浜駅の地下の居住臓器で目にした庭はブリガドーンから移植されたものだったのだろう。

〈人の子。私は……詫びようのないことをした〉

「いや、もういい。マスターがお前を操った怪獣電波は、そんなに強烈だったのか?」

 狭間はへし折れた爪楊枝を捨て、新たな爪楊枝を銜える。空中庭園怪獣は、声色を落とす。

〈魔法使いが私に向けて放った怪獣電波には、私を狂わせる歌が練り込まれていたんだ〉

「ツブラの歌と同じ歌なのか?」

〈よく似ているが、違う。人の子がバベルの塔の破片を揺さぶるために使った歌と音の具合は近しいが、歌を紡ぐ 言葉は黄金時代のものなんだ〉

「黄金時代って、神話時代よりも前の? なんでマスターはそんなのを知っているんだ?」

〈人の子こそ、知らなかったのか? 魔法使いは化石怪獣と通じている。化石怪獣は黄金時代を知っている〉

「あの化石って、そういうものだったのか!? だが、怪獣だったら俺が気付かないわけがない!」

 狭間が思わず声を荒げると真琴がびくついたので、弟を宥めてから、狭間はブリガドーンに問う。

「だったら、なんで他の怪獣はそのことを俺に教えてくれなかったんだ? ともすりゃ、ノースウェスト・スミス がなんなのかも化石怪獣が知っているってことじゃないか! 灯台下暗しにも程がある!」

〈ノースウェスト・スミスは、私も知っている〉

「知っているなら教えろ、会えるはずもない過去の男にどうやって会えばいいのかってこともだ!」

 狭間は囲炉裏の間から外に飛び出し、ブリガドーンの中心にそびえる山に叫ぶ。

〈賞金稼ぎの男、ノースウェスト・スミスは黄金時代末期に地球から追放され、金星人のヤロールと共に金星や火星 を渡り歩いていた。生まれながらに神々に好かれる性質を宿していたのだろう、彼はシャンブロウを始めとした異界 の神々に惹かれては囚われ、囚われては逃げ、生き長らえていた。しかし、彼も人の子だ、望郷の念からは逃れる ことは出来なかった。人の子、この歌を知っているか、地球の緑の丘という歌を〉

 暗黒の海原のはるかに、懐かしき緑の地球は輝く。ブリガドーンが怪獣電波に乗せて伝えてきた古い歌は、狭間も 知っていた。いや、全ての人間が知っている。どれほど音楽に疎い者でも、一度はこの歌を鼻歌で零した。子守唄に して童謡、唱歌にして軍歌、挽歌にして凱歌、そして愛歌にして恋歌。

〈ノースウェスト・スミスは、最期まで地球の土を踏むことは叶わなかった。彼が生前に犯した罪がいかなるもので あるかを知っているのは化石怪獣だけだが、それを知るべきか否かを決めるのは人の子だ。私は地球の一部ではある が、宇宙怪獣戦艦にもなれず、光の巨人を怖れるが故に地上に降りる勇気もない、無様な老いた怪獣だ。だが、私が まだ幼く熱く小さな怪獣でしかなく、大気と宇宙の狭間を漂っていた頃、私の体に一隻の宇宙船怪獣が降り立った。 それはノースウェスト・スミスのメイド号で、彼を宿していた。ヤロールの姿はなく、ヤロールは金星に帰ったのだ という。メイド号は私に彼を託すと海に身を投じた。そして、怪獣聖母の胎内に還った彼女は長い長い年月を経て 生まれ直し、再び船となった。その名は〉

「……もしかして、氷川丸だとでも言うんじゃないだろうな?」  

〈そうだ。彼女は、ずっと待っていた。彼が地上に戻れる日を。私を地面に叩き付けて砕いてしまえば、彼の棺も 土に還るだろうという、実に乱暴にして実直な考えを抱いている。もっとも、私がそれを知ったのは、魔法使いの 怪獣電波を通じて歌を聞いた時だった。だが、気付くのがあまりにも遅すぎた〉

 足の下で、地面が重苦しく唸る。それはブリガドーンの嘆きであり、呻きだった。狭間はいつのまにか口の中 で折れていた爪楊枝を吐き捨て、三本目の爪楊枝を銜えた。気付けていれば、気付いていたら、と後悔が怒涛の 如く押し寄せるが、その時に気付けていたとしても何が出来ていただろうか。何も出来ないだろう、海老塚の執念 にも臆してしまったのだから。何万年もの間、一人の男を思い続けていた怪獣を説き伏せられるわけがない。
 空の上には、逃げ場などない。





 


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