横濱怪獣哀歌




空中庭園地獄



 散歩を終え、兄弟は屋敷に戻ってきた。
 腰から下のない女は起き上がっていて、縁側の柱に寄り掛かっていた。意識ははっきりしているようだが、二人と 目を合わせづらいのか、あらぬ方向を見ていた。彼女をどの名で呼ぶべきか逡巡したが、どちらの名でも呼ぶべきでは ないと判断し、狭間は彼女から少し離れた場所に腰を下ろした。真琴はその隣に座った。
 地球は巡り続けている。その最中にも光の柱が立ち、海が、陸が、空気が、人間が、怪獣が消されていく。狭間が 爪楊枝を一本噛み潰す間にも、真琴がグルムでメガネの汚れを拭っている間にも、彼女が唇を噛んで押し黙っている 間にも、事態は進んでいく。光の巨人に抗える力を持つ怪獣がいないからだ。

「――――なんといいますか、その」

 重苦しい沈黙を耐えかねて、狭間は彼女に話しかけた。

「ここに住んでいたこと、あるんですか?」

「うんと小さい頃よ。海軍に連れ出される前までは、ねえさまと一緒に住んでいたわ。でも、こっちの母屋じゃなくて、 庭の奥にあった離れにいたわ。その頃はまだ、私とねえさまは同じように扱われていたから」

 彼女は柱の木目を指でなぞり、懐かしげに目を伏せる。

「だけど、空の上を飛んでいるってことまでは知らなかったの。戦争が始まる前に横浜駅の地下に居を移したんだけど、 移動する時は箱に入れられて外を見せてもらえなかったから、解らなかったのよ」

「にいさまって、どんな人だったんですか」

 真琴の問い掛けに、彼女はやや躊躇うも口を開いた。

「素敵な人だったわ。だけど、にいさまは――シュヴェルト様はそうじゃなかったでしょうね。だって、私、知っていた もの。シュヴェルト様が軍服の下に隠しているペンダントの中には、婚約者の御写真が入っているってこと。なんで 知っているのかって、それは秘密よ。とても小さな白黒の写真だったけど、御顔立ちが優しくて美しい、花のような 淑女だったわ。汚物まみれの子供がそんな女性と張り合おうだなんて、どうして思っちゃったのかしらね。本当に、 馬鹿だったのよ。子供だったから」

 彼女は真琴を窺うが、目が合わないうちに顔を背ける。

「ノースウェスト・スミスには会ってきた?」

「墓参りはしてきましたよ、一応」

 狭間は、丘の上にぽつんと建っていた墓標を思い起こす。草花が生い茂る小高い丘の頂点に、西洋風の小屋が 一軒だけ建てられていて、それに寄り添っていた。黄金時代のものと思しき言語も刻まれていたが、読めなかった。 その下に眠る男の姿を思い描こうとしたが、上手く想像出来なかった。黄金時代は鉄の時代たる現代よりも文明 が進んでいたそうなので、それらしいものを考えようとしたが、狭間の想像力は貧困なのでいい加減なものしか思い 浮かばなかった。名前からして西洋の生まれなのだろうが、狭間が知る西洋人は映画俳優ばかりなので、彼らの顔 を継ぎ接ぎしたものがぼんやりと過ぎっただけだった。
 彼に会って何が変わるというのか。怪獣達はしきりにノースウェスト・スミスに会えと急かしてきたが、実際 会ってみたところで、彼は当の昔に果てているのだから会話も出来なければ情報を得ることも出来ない。劇的な変化 が訪れるどころか、複雑な気持ちを抱いただけだった。映画や小説の中であれば、彼の墓には事態を解決するための 重要な情報やアイテムが仕込まれているのだろうが、生憎、そんなことはなかった。

「ここまで来たのに、手詰まりもいいところですよ」

 狭間は縁側に寝そべると、先端が折れ曲がった爪楊枝を庭に投げ捨てる。

「ブリガドーンの話を信じるならば、いずれ氷川丸が突っ込んでくるでしょう。今のところ、光の巨人は 熱量の多い地上に出現していますけど、いつ連中がブリガドーンに気付くかも解らない。既に気付かれているかも しれないけど、そうだとしたら目溢しされている理由が解りません。今まで、散々俺を狙ってきたってのに」

 何が正解で、どれが間違いで、どこに正義があり、誰が悪なのか。

「光の巨人をどうにか出来たとしても、根本的な解決にはなるとは思えないし。事の原因が火星にあるんじゃないか とは思っているけど、生きたまま火星に行く方法はないし、あったとしても宇宙飛行士でもなければ軍人でもない俺に そんなことが出来るとは思えない。思えるわけが、な」

 い、と言いかけた時、狭間の瞼の裏にノースウェスト・スミスの墓が過ぎる。彼は地球から追放された身だった から、宇宙を飛び回る賞金稼ぎに身を窶していた。そうだ、そうなのだ。地球の外に出る方法は真っ当でなくともいい、 狭間自身も堅気とは言い切れない身の上なのだから。落雷の如き天啓に、狭間は飛び起きる。

「そうか、そうすりゃいいんだよ! そうだよ、何を馬鹿正直に生きようとしてたんだよ俺は!」

「は?」

 真琴が面食らうと、彼女も訝った。

「どうしたのよ、急に」

「ブリガドーン、南極に行け!」

 狭間が勢いに任せて命じると、空中庭園怪獣は傾いた。進路を変えたわけではない、困惑したのだ。

〈な、なっ?〉

「んな、なっ、南極ってどうして南極なんだよ!?」

 真琴は狭間に詰め寄ってきたが、狭間は彼女を指す。

「南極には怪獣聖母ティアマトがいるだろ」

「そうだけど、けど、だからって」

 彼女も戸惑ったのか、這いずりながら近寄ってくる。

「火星に行くには宇宙怪獣戦艦を調達しなきゃならんが、宇宙怪獣戦艦を調達しても地球の外に出られなきゃ何の 意味もない。火星怪獣襲来の一件以降、宇宙怪獣戦艦の建造すらされなくなったが、その原因は怪獣達の元締めで ある怪獣聖母ティアマトにある、と思う。そこで、ティアマトにケンカを吹っ掛けて地球から追放してもらい、火星に 行く! そしてツブラに会う! そして嫁に取る!」

 狭間の乱暴極まる三段論法に、真琴は涙目になった。混乱しすぎたせいだ。

「兄貴が馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、ここまで馬鹿だとは思わなかった……」

「帰りはどうする気よ。狭間君はともかくとして、まこちゃんは帰らないと拙いでしょ。学校もあるし」

 彼女は心底呆れながら弟を指したので、狭間は少し考えた後に言った。

「まあ、なんとかなるだろ」

「ならないっ! なるわけがない! ああ帰りたい、今すぐ帰りたい!」

 真琴は頭を抱えて蹲り、大いに嘆いた。

「そう悲観するなよ、兄ちゃんに任せておけ」

 狭間が一欠片の根拠もなく励ますと、真琴はごんごんと板張りの床に額を打ち付ける。

「なんでもいいから、ちょっと黙っていてくれよ! お願いだから!」

 ああもう、本当にもうこの人は、とぼやきながら、真琴は体を丸めている。その右上腕に巻かれているグルムは、 金色の布の端に赤い目を出して狭間を窺ってきた。いつのまにか真琴に懐いてしまったグルムは、布の先端で弟を 撫でて慰めている。その様に、狭間は我に返りそうになる。
 人間が人間らしく暮らすために不可欠な地球を切り捨てて生きていけるのか、否だ。過去の記録によれば、火星に 至るまでは最低でも六ヶ月は掛かる。当然ながら、その間に消耗する大量の食糧と水と空気をどこから調達するべき なのか。そもそも、どこの誰が地球から追放される人間に物資を与えてくれるのか。火星に到着出来たとしても、どこに 着陸すべきなのか。火星怪獣達に敵だと思われて迎撃されでもすれば一巻の終わりなので、穏便に事を運ぶにはどの 火星怪獣と交渉すべきなのか。問題山積どころか地雷原である。
 しかし、そこまでしなければ迎えに行けるはずもない。狭間はスカジャンの背中に刺繍されたかぐや姫を窺うと、 今一度決心を固める。故郷は失った、横浜に帰る術はない、そして愛する娘はこの星にはいない。だから、旅立たない 理由はない。狭間は残り少ないタバコから一本抜くと、火を灯して煙を肺に入れた。
 相変わらずの安い味だった。




 黒電話のダイヤルを回すと、佐々本モータースに通じた。
 狭間はブリガドーンの配慮に感謝しつつ呼び出し音を聞いていると、がちゃりと受話器が上がり、少女の声が 聞こえてきた。佐々本つぐみである。狭間は軽く挨拶を交わしてから、佐々本モータースに田室という名の軍人が 来ていないかと尋ねると、少し待っていて下さい、と言われて受話器が置かれた。
 しばらく間を置いてから、受話器が上がった。物理的に距離が遠いので、こちらから発した声が届くまでには 間隔があるらしく、話しかけてから一秒半は経ってから応答があった。田室正大陸軍中佐の声である。

「どうも、狭間ですけど」

『……君が無事で何よりだが、一体どこから掛けているんだ、この電話は』

 電話口からは、がさごそと布が擦れる音が聞こえてくる。メモを取っているようで、紙が擦れる音もする。

「ざっくり言いますと、空の上です。ブリガドーンの上です。中佐、左腕の御加減は?」

『……佐々本の奥さんの止血が上手かったのと、ライキリが手加減してくれていたおかげで、大したことはないぞ。 しかし、ブリガドーンだと? そこに移動した手段が何なのかはまた後で聞くとしよう、長くなりそうだからな。横浜の 危機は去ったが、今度は光の巨人の出現が収まらん。五時間の間に、東京湾に三体は出現した。持続時間が短かった おかげで被害は少ないが、次はそうもいかんだろう。これでは、羽生技術少尉の方法でも防ぎようがない』

「それは上から見ていれば解ります、嫌ってほど。九頭竜会はどうなりました?」

『……あの連中がしぶといことは、俺よりも狭間君の方が知っているだろう。元気なもんだよ』

「マスターはどこにいるか御存知ですか?」

『……御門岳の小屋にいると氏家が教えてきたが、どうも臭う。俺の部下達は今も印部島にいるから、出動させよう にも出来んから、帝国海軍と陸軍のどちらにも情報を横流ししておいたが、どうなることやら。魔法使いの目論見は 失敗したことにはしたが、ここで終わるとは思えん。あの男の淹れるコーヒーは、最後の一滴まで旨いからな』

「言えてますね」

『……小次郎君に代わるか?』

「出来れば」

 狭間が答えてから三十秒以上経ってから、別の声が聞こえてきた。

『……御電話代わりました、小次郎です』

「よう、コジ」

『……あの軍人さんがブリガドーンがどうとかと言っていましたけど、まさか、あの変な島に乗り移ったとでも』

「だとしたら、どうする?」

『……冗談にも程があります。だけど、帰ってきたら、どこで何をしていたのかは聞かせてほしいですね』

「ああ、帰ったら聞かせてやるよ。うんざりするほどにな。で、用事を一つ頼まれてほしいんだが」

『……見積書を書いておきますんで、帰ってきたら支払って下さいね』

「おう、そのつもりだ。愛歌さんのシビックと俺のドリーム、手入れしておいてくれないか。シビックの動力怪獣は いなくなっているかもしれないが、それでもいい。いつでも動かせるようにいじってやってくれ」

『……お安い御用です。毎度御利用、ありがとうございます』

「それじゃ、またな。うららさんとつぐみちゃんにもよろしくな」

『……ええ、また。弟さんにもよろしく』

 小次郎が受話器を置いたのを確かめてから、狭間も受話器を置いた。いつ果たされるとも知らない約束を交わす つもりはなかったのだが、小次郎の声を聞いたら、何かを残さなければ気が済まなくなってしまった。そんな脆弱な ものであろうとも、地球との繋がりが作れればいい、と思ってしまったのは、腹を括り切っていなかったせいだ。 だが、これで気は済んだ。あとは、アレを捨ててしまわなければ。
 狭間はブリガドーンの端に立つと、未練の中でも最も強烈なもの、三本だけ残ったタバコを力一杯握り潰して 地球へと放り投げた。ブリガドーンを包む空気の繭を通り抜けた後、季節風に巻き込まれたゴールデンバットは 一瞬で細切れになり、飛び散っていった。タバコの葉が描く細い筋に背を向けてから、狭間は宇宙を睨んだ。
 火星よ、首を洗って待っていろ。





 


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