横濱怪獣哀歌




遺志ハ石ニ非ズ



 佐々本モータースに、一人の男が訪れた。
 軍服に国防色のマントを羽織った矮躯の男、氏家武大尉である。彼を出迎えたのは、居候の身である田室正大 中佐であった。家人達を遠ざけてから、人目に付かない倉庫に移動し、部品やら機械油やらが詰まった段ボール 箱に囲まれて部下と対峙した。タヂカラオの傷はまだ癒え切っていないので、左腕は三角巾で吊ってある。部下と 言えども油断出来るものではないので、田室は多少の間合いを取ってから、手近な箱に腰を下ろした。

「俺の居所を見つけるのが早すぎやしないか」

「中佐を負かしたのは狭間君でしょう。というより、中佐が勝たせたんでしょう」

 氏家は軍帽も取らず、俯きがちに喋った。折られた歯に差し歯も入れずにそのままにしているので、乾いた唇の 間から覗く前歯は隙間だらけだった。氏家という男は、三十を過ぎようとも歯医者がすこぶる苦手だから、治療しろと 何度言い聞かせても行かないのだ。帝国軍人も人の子ではあるが、さすがに情けなさすぎる。

「マスターは伊達にマスターをやっていたわけではありませんよ。狭間君がどう動くか、誰と知り合っていて、 誰を信用しているかぐらい、把握しています。だから、狭間君が頼る相手もおのずと割り出せます。野々村さんが 健在であればそちらに頼ったんでしょうが、光の巨人に消されてしまいまいたからね。そうなれば、行く当ては ただ一つ、佐々本モータースの小暮小次郎君のところです。一番の友達ですからね」

「ああ、全くだよ。この工場を訪れた時、俺は血塗れだったから警戒されたんだが、狭間君の名を出した途端 に小次郎君は気を許したからな。余程気が合うんだろう、羨ましいね。お前がここに来たってことは、御門岳に 憲兵でも踏み込んできたかな?」

「いえ、もっとタチが悪いですよ。玉璽近衛隊の別働隊でした。政府の方から命じられてきたようでしたね。一連 の出来事を玉璽近衛隊の内輪揉めで済ませてしまおうって言う腹でしょう」

「なるほど、そりゃタチが悪い。大方、執務小隊か。あれは元を正せば、政府が怪獣使いを監視するために作った 部隊だからな。実戦向きの部隊じゃないとはいえ、かなりの手練れだ。よく逃げ出せたな」

「その辺は魔法で上手く立ち回りましたと言いたいところですが、生憎、僕は魔法には疎いし実戦は不得手なので、 マスターが確保しておいてくれた逃走経路から逃げ出して今に至る、というわけです」

「マスターは一緒に逃げたんだろうな、その様子だと。懲りずにまた良からぬことを企んでいるが、俺がそれをよく 思っていないことも承知の上だ。きっと、俺をブレーキにするつもりだったのだろう」

「よくお解りで。中佐はあの硫黄島から生きて帰ってきた帝国軍人です、国家安寧のためであれば手を汚すことは 厭わないでしょうが、その国家を支えている娘を手に掛けるほど落ちてはいない。そして、僕は見ての通りの小物 なので、マスターの見張り兼護衛を勤めるどころか、この有様です。僕に出来ることがあるとすれば、手負いの中佐 をこの場に留めておくことぐらいでしょう。というわけですので、事が済むまで大人しくしていて下さい」

「その間、氏家もここに詰めるのか?」

「それ以外にないでしょう。住み慣れた街ですから、勝手も解っていますし」

「俺はともかくとして、家主が了承するかどうかだな。というより、お前、娘さんに顔が割れているから、同居する のはまず無理だろう。そんな格好していたって、つぐみちゃんにとっちゃお前は橋の下のホームレスだ」

「それもごもっともです。けれど、この工場は安全圏なんですよ。しばらく身を隠させてもらえませんか」

「壁は硬い、窓は狭い、武器は多い。おまけに九頭竜会からも目を掛けられているからな。いい判断だよ」

 皮肉交じりに応じていたが、異音が聞こえてきた。田室は耳を澄まし、気を張る。 

「――――これはまた何の魔法だ?」

 かすかな震えが地を這い、建物を軋ませ、段ボール箱の中身を小刻みに跳ねさせていた。氏家は事態を把握して いるのだろう、首を竦めただけだった。倉庫の天井近くには明かり取りの小さな窓は付いているが、外を見られる ほどの大きさはない。振動が弱まり、過ぎ去った後、佐々本つぐみの叫び声が聞こえてきた。
 思わず腰を浮かせた田室に、氏家は立ち上がってドアを背で塞いだ。何が起きていようとも邪魔をするな、と でも言いたげだったので、何をしやしない、と言い切ってから部下を押しのけた。工場の真下にある地下倉庫から 出て母屋に戻った田室は、窓の前で呆然としている娘に声を掛けようとして――硬直した。

「氷川丸!?」

 横浜湾に係留されている古い船が、二度と動くはずのない巨大な構造物が、宙に浮き上がっている。ボラードに 繋がれていた鎖がぴんと張り詰めていたが、錆の浮いた鎖は徐々に伸びていき、そして千切れた。横浜湾の海底に 突き刺さっていた錨もまた、ぶらぶらと揺れて所在なく海面を引っ掻いている。海藻や砂や細かな貝類や甲殻類と いった堆積物が船底から剥がれ、海面だけでなく山下公園にも降り注いでいる。船底の後部に付いたスクリュー は微動だにしておらず、デパートの屋上のアドバルーンのように浮いていた。
 氷川丸の動力源である怪獣は死んでいなかった、というより、船体に癒着していて剥がせなかった。しかし、活性 が著しく低下していて輝水鉛鉱と水を与えても熱が上がらなかったので、係留されて保存されていた。だが、それは 氷川丸が何らかの目的のために休眠状態になっていただけだったのだ。何のために、と田室は考えたが、悩むまで もなく気付いた。氷川丸の船首の先には、点のように小さくなった空中庭園怪獣ブリガドーンがあった。
 そして、氷川丸は最後の鎖を引き千切った。途端に上昇速度も増し、船底の一部が抉れて穴になったかと思うと、 そこから青い炎を発して急上昇した。そんな色味の炎を放つ推進装置といえば、田室の知る限りでは宇宙怪獣戦艦 の推進装置しかない。となれば、あの船の正体は宇宙怪獣戦艦だったのか。だとしても、それにしては大きさが 小さすぎる。田室は圧倒されつつも部下を窺うと、氏家はいつになく興奮していた。
 宇宙怪獣戦艦にロマンを感じるのは、子供だけではないようだ。




 南極行きは、延期するしかなさそうだ。
 ブリガドーンの叫びを聞き付けて、狭間は真琴と共に島の端に至ると、一直線に迫ってくる船影を捉えた。船体の 形状だけで解る、氷川丸だ。ブリガドーンの話が真実であると否応なしに実感させられる。となれば、氷川丸は狭間 に対して敵意しか抱いていないということであって、今までのやり取りは氷川丸が狭間を油断させるための上っ面に 過ぎなかったわけで、その親しみやすさに癒されていたこともあったのだが、と思うと迎撃すべきか否かを迷って しまった。ライキリに急かされたが、結局、刀は抜けずじまいに終わった。
 空中庭園怪獣には飛行場もなければ港もないので、氷川丸は着地というよりも胴体着陸、いや、墜落といっても 過言ではない荒々しさで突っ込んできた。それでなくても陸地に乗れるように作られていないので、尖った船首で 豪快に地面を切り裂き、質量に任せて木々を薙ぎ倒していった。ブレーキを掛けられないので、摩擦で加速を軽減 しようとしているようだったが、重量が大きすぎるせいで上手くいかなかった。このままでは、ブリガドーンを横断 して落下してしまう。と思われたが、ブリガドーンが体を大きく傾けたおかげで速度が弱まり、落下する寸前で ようやく止まった。そのせいで狭間と真琴も落下しそうになったが、ライキリとグルムが手近な岩に己を引っ掛けて くれたので難を逃れた。こんなことで死んでしまってはたまったもんじゃない。

「ブリガドーン、大丈夫か?」

 平らな地面に戻ってから、狭間は空中庭園怪獣を案じた。

〈痛かった……。大丈夫だと言いたいが、言える気がしない……〉

 ううう、とブリガドーンが苦しげに呻くと、それに連動して火山がぼすぼすと蒸気を噴いた。

「愛歌さん、じゃなくてカナさんは!」

 真琴は氷川丸の船底が描いた直線を辿っていくと、怪獣使いが住んでいた屋敷は見事に潰されていて、粉微塵 になっていた。瓦屋根は小石と化し、古びているが立派な屋敷は乾いた木片となり、慎ましい畑と庭木が伸びた 庭も滅茶苦茶になっていた。真琴はぎょっとして屋敷の残骸に飛び込みかけたが、我に返る。

「あ、でも、カナさんって死んでいるし、あの体だからこの程度じゃ死なないのでは?」

「言われてみれば、それもそうだな」

 寝床が吹っ飛んだのは惜しかったが、それはどうにでもなる。氷川丸が落ち着くのを待ってから行動に出よう、 悲は心配しなくても大丈夫だろう、と狭間兄弟は事の次第を静観することにした。

「死なないけど痛いわよ!」

 すると、兄弟は背後から言い返された。何事かと振り返ると、岩や木で出来た薄い影が濃くなり、膨れ上がって 悲が現れた。移動するだけでも大分体力を消耗してしまうのか、顔付きは険しかった。悲は乱れた髪を掻き上げて から、不定形の下半身を渦巻かせ、バネ状にして上半身を安定させた。

「死人だからって不死身ってわけじゃないんだから、勘違いしないでくれないかしら。肉体的な死はないってだけで、 精神的な死はあるんだから。氷川丸に潰された拍子に心が折れてごらんなさいよ、私はクル・ヌ・ギアから二度と 出られなくなっちゃうんだから」

「けど、カナさんは結構図太いじゃないですか。俺の目の前で女学生の死体を喰えるほどに」

 狭間が言い返し返すと、悲は気まずげに目を逸らす。

「あれは、まあ、仕方なかったのよ。狭間君と一緒に暮らすようになってからは、ろくに人の命を喰えなくなっていた から、栄養失調気味だったの。でも、あの子は私が手を掛けたんじゃないからね? 本当よ? 聖ジャクリーン学院に 戻ってきて、何を思ったのか知らないけど、学院の裏庭でいきなり首を吊っちゃったんだから」

「ちなみに、それってどの辺?」

 真琴が怖々と尋ねてきたので、狭間は少し迷ったが教えてやった。

「学生食堂の手前の廊下だな」

「……知らなきゃよかった。カナさんの主食も、それを食べた場所も」

「だったら聞くなよ」

 自分から聞いておいたくせに青ざめた弟に、狭間は苦い顔をする。気持ちは解らないでもないが。悠長な会話を しながらも、皆、氷川丸からは目を離さなかった。砂埃にまみれて横倒しになっている船舶は、スクリューが がらりと空転し、積年の堆積物が剥がれ落ちた。船底には左右に三つずつ穴が開いていて、その中には推進装置 となる器官が付いていた。余熱が冷めないのか、推進装置の手前では陽炎が揺れている。
 不意に、爆発音と共に客室のドアが開いた。というより、内側から吹っ飛ばされた。円形の窓が付いた鉄製のドア は大きく弧を描いた後、地面に突き刺さった。枠だけしか残っていないドアを潜り、船室から現れたのは、他ならぬ 魔法使いの海老塚甲治だった。印部島で再会した時と同じ、軍服に似た服を纏っている。

「マスター……」

 狭間は複雑な感情がない交ぜになり、自分の表情がよく解らなくなった。真琴は海老塚の正体を目の当たりにする のはこれが初めてなので、狭間よりも混乱していた。平然としていたのは悲だけ、かと思いきや、彼女も下半身が 不規則に波打っていたので動揺を押さえ切れていなかった。
 老紳士は拳大の鉱石怪獣を指で小突くと、国防色のマントを翻して宙に身を躍らせた。が、地面に叩き付けられる ことはなく、緩やかに舞い降りた。使い込まれた革靴が抉れた地面を踏み締めると、一陣の風が吹き抜けたので、 あの鉱石怪獣は風を操れるのだろう。海老塚は軍帽を外すと、胸に手を添えて一礼する。

「お久し振りです、狭間君、真琴君。そして、悲様」

「ど……どうも」

 横浜にブリガドーンを墜落させようとしただけでなく、綾繁家を散々引っ掻き回して綾繁家の者達を理不尽な目に 遭わせた元凶なのだから、それ相応の報いを受けさせるべきだ。けれど、ライキリの柄を握る手に力が入りきらない のは、狭間はヒーローになる度胸がないからだ。鳳凰仮面なら、躊躇いもなく海老塚に殴りかかっていただろう。 だが、狭間は鳳凰仮面ではない。だから、出来ない。

「言いたいことは山ほどありますし、聞かなきゃいけないことも山ほどありますけど」

 鍔をかちかちと鳴らすライキリを宥めてから、狭間は魔法使いと向き直る。

「怪獣聖母にケンカを売る方法、教えてもらえませんか」

「それはまた意外な言葉ですね。私も長らく魔法使いとして働いてきましたが、そんな申し出をされたのは初めて かもしれませんね。時の権力者達は、怪獣聖母を懐柔して世界中の怪獣を掌握したがったものですが、怒らせようと する方は狭間君が最初で最後でしょうね。何が起きるか解らないのですから。あなたのその行動が、今にも壊れて しまいそうな地球を突き崩す一手になるかもしれないというのに。……恋とは恐ろしいものですね」

 魔法使いは穏やかな笑みを僅かに陰らせたが、口角は下げなかった。

「よろしいでしょう。私の大願と狭間君の劣情、どちらが勝つのか。競おうではありませんか」

 では、まずは腰を落ち着けて話しましょう、と言い残し、海老塚は再び体を浮かび上がらせ、氷川丸の中に戻って いった。程なくして彼は戻ってきたが、その手には革製のトランクが握られていた。中身は例によってコーヒーと ポットとカップで、御丁寧に御茶請けも用意されていた。余裕を見せつけるためでもなんでもなく、そうするのが 当たり前だと思っているから、いつ何時であろうともコーヒーを振舞おうとするのだ。丁稚奉公していた頃の経験 がそうさせるのではない、それが海老塚の本能なのだ。今更ながら、狭間はそれに気付いた。
 地球を見下ろしながら飲んだコーヒーの味は、格別だった。





 


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