魔法使いの手の内は読めない。だが、こちらの手の内は読み切られている。 狭間の性格のみならず、ライキリの特性、攻撃力、能力、そして太刀筋をも。玉璽近衛隊と共に在った男が、特務 小隊隊長の腰に下がっていた刀について知らないはずがない。狭間は素人丸出しの構えのまま、海老塚の立ち姿を 見回した。片手に握っているのは化石怪獣だが、その中身についてはまるで知らない。パンサラッサとはまた別の 巻貝怪獣で、槍のように細長かった。だが、それだけではないはずだ。狭間は息を詰めて感覚を研ぎ澄ませ、怪獣 電波を感じ取ろうとしたが、すぐさま引っ込めた。 腰の後ろに隠し持っている短刀も、拳銃に込められた弾丸も、胸と腹に仕込まれた防刃用の板も、軍帽の中に 仕込まれている折り畳み式のナイフも、軍歌の底に入れられている鉄板も、それらに用いられている素材は全て 怪獣だった。いや、それだけではない。怪獣由来の鉱石から作った金属の糸が編み込まれているらしく、軍服全体 から怪獣の気配がする。狭間は気後れしかけたが、歯を食い縛る。 「お気付きになりましたか。ソロモン王」 海老塚は軍帽の鍔を上げると、ホルスターから拳銃を抜き、銃口を上げる。 「これほどまでに重武装するのは久し振りですので、体が重くてたまりません。ろくに鍛えておりませんでしたので、 拳銃は構えているだけで精一杯です。この分では、思った場所を狙い撃つことは難しいでしょう。ですが」 柔らかな眼差しに、獣じみた凶暴さが宿る。 「あなたのような若輩者に、私の人生を否定されてなるものですか」 「やっと本音を言ってくれましたね」 ライキリの刀身で魔法使いの視線を受け止めながら、狭間は強がる。出来る限り気を張っていないと、海老塚の 気迫に屈してしまいそうになる。いかなる魔法にせよ、真正面から受けると身が持たない。狭間はライキリを横に してから柄を握り締めると、熱し、陽炎が漂う。それで思い切り空を斬り裂くと、衝撃波が放たれ、砂埃が盛大に 舞い上がる。が、海老塚はぱちんと指を鳴らしてからマントを翻し、砂埃を呆気なく吹き飛ばす。 一瞬、海老塚の視線が外れた。その隙を見逃さずに、狭間は再びライキリで地面を斬り付けて衝撃波をぶつけ、 その反動で宙に舞い上がった。グルムもいなければツブラもいないのだから、着地の衝撃で足を痛める可能性は 高かったが、これ以外に何も思い付かなかった。ブリガドーンを囲んでいる空気の層から飛び出しそうになった ので、二度三度と衝撃波を放って進行方向を変え、氷川丸の傾いたデッキに向かう。手すりに突っ込む寸前に刀 を反転させ、峰を手すりに引っ掛けて鍔を噛ませた。両者が接する寸前、ライキリは衝撃波を軽く放って反動を 軽減させてはくれたものの、狭間の体重と落下速度に見合った衝撃が右腕と肩に及んだ。 「いだぁあっ!」 〈無茶しやがる〉 ライキリに呆れられたが、狭間は抜けそうになった右肩を押さえて激痛をやり過ごした。足元を見下ろすと、 船室の壁があったので、そこに飛び降りた。 「今日はとことん付き合ってくれよ、でないと困る!」 〈馬鹿言え、魔法使いが相手とあっちゃ興奮しないわけがない!〉 ライキリの高揚した言葉を受け、狭間は内心で安堵した。ヴィチロークと呼ばれていた頃から好戦的な性格では あったが、それをありがたく思う時が来るとは思ってもみなかった。窓を斬り付けて無造作に穴を開け、中に入ると、 そこは一等食堂だった。分厚い絨毯にシックな壁紙に彩られた部屋もまた傾き、ハイカラなテーブルと椅子が左舷側に 集中していた。怪獣の体液が集中している場所は機関室だ、ここには用はない。 「機関室までぶち抜けるか、ライキリ?」 狭間はカーテンとテーブルクロスを縄代わりにして、デタラメに積み重なったテーブルの山の頂点へと下りる。 ライキリは切っ先で床を軽く小突いたが、赤い目を見開く。 〈つまらねぇ質問をするな!〉 ライキリが放つ熱量が急上昇し、空気中の水分が一瞬にして蒸発した。赤く熱した刀を振り上げて頑丈な床板に 叩き付ける、と思われたが、突如、氷川丸が右舷側に傾いた。 「追いかけてこないと思ったら、そういうことかぁっ!」 当然ながら、テーブルと椅子は重力に従って右舷側へと――狭間の頭上へと吹っ飛んできた。それらを滅茶苦茶に 斬り刻み、豪奢な家具を木片に変え、粉々に砕けた食器を更に細かく砕き、破片の山を背後に築いた。揺れが 止まり、これで一安心かと思いきや、今度は左舷側へと傾いた。続いて襲い掛かってきたのは、今し方斬り捨てた 破片の山だった。無数の尖った物体が雪崩れ落ちてくる。 「くそっ!」 だったら、行くだけ行くしかない。狭間はライキリの発する高熱と衝撃波で頑丈な床板を斬り裂いて大穴を開け、 下の階層へと飛び込んだ。そこに待ち受けていたのは、鍋と包丁とその他調理器具だった。調理室である。狭間は 斜めになっている調理台の側面に飛び降り、鍋とフライパンの雨を斬り捨ててから、息を詰めた。 金属と埃と船特有の油臭さが漂う。氷川丸の気配が大きすぎて海老塚の怪獣の気配は感じ取りづらい。それを 掴み取れていたら、海老塚の手中の怪獣達を混乱させていたのだが、その手は通用しない。誘い込むつもりでは いたが、逆に追い込まれただけだ。これでは埒が明かない。 海老塚を誘い込むために、有効なもの。誇りを穢してしまえばいい。狭間は黙している氷川丸に怪獣電波を強く 送ると、ぎぎぎぎぎぎぎいぃっ、と船体が激しく軋んだ。苦しさと愉悦と後悔と達成感と幸福感と恐怖がない交ぜに なった感情が跳ね返ってきたが、ぐっと堪える。 「氷川丸、お前は魔法を知っているな?」 〈……ああ、あなたを殺せないのがとても歯痒い。私の中にいるのに、私は空を飛んだだけで力尽きてしまった のだから。悔しい、悔しい!〉 「答えろ! お前の恨みだなんだのは、あとでいくらでも受け止めてやる!」 〈いいわ。だったら、後で死ぬほど苦しめてあげる。私が知る魔法は初歩の中の初歩よ、それでもいいのなら〉 「なんだっていいさ。あの人の誇りを傷付けられるなら」 最大級の侮辱を与えなければ、魔法使いは挑発されはしない。狭間は氷川丸が伝えてきた言葉を記憶し、理解し、 ただの音と刺激を怪獣に授けて活性化させる手段、魔法を得た。付け焼刃もいいところだが、目的は使いこなすこと でもなんでもない。紳士のプライドを蹂躙するためだけの、薄っぺらくて下らない手品だ。 「デア・フライシュッツ!」 直訳すると、魔弾の射手。狭間はライキリに言葉を叩き付けると、ライキリの衝撃波が収束し、一点を貫いた。 しかし、魔弾というには狙いも威力も不安定で、船底まで貫通してしまった。赤く熱した小さな穴の遥か彼方には、 地球が覗いた。なんだ、意外と簡単ではないか。狭間は頬を引きつらせ、ライキリを構え直す。 「あんたは所詮喫茶店のマスターだ、ソロモン王たる俺とケンカをする度胸もないんだからな」 だから、心を抉り、奮い起こさせるまでのこと。 「あんたの師匠の魔法使いは、ケンカのやり方も教えてくれないほど弱っちいのか?」 船底まで至る穴が煌めき、青白い光線が迸った。怪獣の光線だ。すかさずライキリの側面で受け、反射すると、 青白く細い光線が壁を斬り裂き、調理室に隣接している機関室への入り口を斬り開いてくれた。聞こえている ようだ。だったら、続けるまでのこと。 「あんたも青いな、俺みたいなド素人に煽られた程度で怒るんだからな!」 光線が上下に振られると、氷川丸の船体が驚くほど簡単に真っ二つにされた。氷川丸の悲鳴が聞こえたが、今は 構っている暇はない。機関室に滑り込んでから、狭間は付け焼刃の魔法を撃つ。デア・フライシュッツ。 「腰抜けが!」 ライキリが放った衝撃波は湾曲し、あらぬ方向に飛んでいく。 「ここまで来ておいて、俺一人仕留められずに帰るつもりか!? 魔法使いの出来損ないが!」 機関室に滑り込み、奥へ奥へと進んでいく。光線に通路を断ち切られていたり、切断された配管からガスが噴出 していたりしたが、ひたすら潜り続ける。下に降りるためにハシゴに手を掛けたところで、どこからか飛んできた ナイフが手元に突き刺さった。赤い目をぎょろつかせるナイフに最大出力の怪獣電波を叩き込み、意識を弱らせると、 それを投げ返す。朦朧としたまま主の元に戻っていったナイフは、海老塚に刺さらなければいいのだが。 ずらりと並ぶパイプの間を走り、階段を下り、下り、下り、最深部に到達した。スクリューに繋がるクランクと シャフトが収まる区画で、狭間は歩調を緩めた。ずくん、どくん、ごおん、と鉄製の壁の内側で胎動しているのは氷川丸 の本体である動力怪獣だ。ここを切れば、氷川丸の熱い体液が迸る。 後は防戦一方だ。魔法使いの手の内が尽きるまで、ただひたすらに受け切る。再び飛んできたナイフは真っ赤に 熱していて、恐るべき速度と身軽さで狭間の周囲を飛び回った。縄張りを守るハチの如く、唸りを上げて幾度となく 狭間を斬り裂きに掛かってくる。その度にライキリが凌ぎ、鍔迫り合い、火花を散らし、最終的には鞘に刺さらせる ことで事なきを得た。続いてやってきたのは短刀で、軍帽とマントを纏っていた。怪獣由来の金属糸が編み込まれた マントと軍帽は短刀怪獣の意思を受け、人間のように立ち回った。だが、肉も骨も持たないマントは斬り裂いても 手応えがなく、真っ二つにしてもすぐさま糸を縫い合わせてしまった。だったら、燃やしてしまえばいい。狭間が そう考えるよりも早く、ライキリは行動に移した。高温の刃を喰い付かせて、マントと軍帽を灰燼に帰した後、短刀 怪獣と激しく斬り結び、力に任せて折った。残すは拳銃と防刃板と靴底の鉄板だ。 だったら、その装備を剥がすまでだ。鞘に突き刺さっているナイフ怪獣を抜き、怪獣電波を叩き付けて意識を朦朧 とさせてやってから、ナイフ怪獣に魔法を授ける。衝撃波の弾丸、デア・フライシュッツの質量のある弾丸となった ナイフ怪獣と意識を同調させ、視界を奪うと、猛烈な速度で過ぎ去る景色を見据え、海老塚に狙いを定めた。だが、 海老塚が指を弾くと勢いが緩み、意識の同調も綻びかける。けれど、ここが踏ん張りどころだ。狭間はライキリの 怪獣電波も借りて出力を上げ、ナイフ怪獣の意識の主導権を再び奪い――――拳銃の銃身を砕いた。 「……っ、まだまだぁっ!」 怪銃を砕いた際の衝撃が怪獣電波に乗ってもろに返ってきたが、狭間は耐え抜いた。配下の怪獣が乗っ取られた と悟ったのか、海老塚は隠し武器を次から次へと繰り出してくる。果物ナイフに剃刀、針にハサミ、手鉤に鎖、と 手品のように取り出してはぶつけてくる。ナイフ怪獣の強度は確かだが、狭間が耐え切れないので、避けられる限り は避けていき、そして海老塚の懐に滑り込んだ。カッターシャツを鮮やかに斬り裂いてから、防刃板を体に付ける ためのベルトを裂いていき、引き剥がした。最後に軍靴の靴底の鉄板だ、と意識を下に向けたが、その軍靴の靴底 で強かに蹴り付けられた。ナイフ怪獣が宇宙へと吹っ飛ばされ、このままでは狭間の意識も引き摺られてしまうので、 狭間は怪獣電波を切って自分に意識を戻した。 直後、船底が破られたのか、斜め下から振動が起こった。光線の類いではない、物理的にだ。足元の隔壁が薄紙 のように破られる轟音が聞こえてくる。狭間は咄嗟に身を引くと、正にその場所に大穴が開き、風を纏った魔法使い が現れた。鉄板に加工した鉱石怪獣を入れた軍靴による蹴りだけで頑丈な船底を壊し、手中に握り締めた鉱石怪獣が 生み出す風を盾代わりにして突っ込んできたのだ。海老塚らしからぬ、荒々しい戦い方だった。 「あなたを仕留めるために必要なのは魔法ではなく、怪獣の要素を排除した武器だと今更ながら気付きましたよ。 もっとも、この世にはそんなものは存在しないのですが」 破られたカッターシャツの襟元を直しつつ、海老塚は目を上げる。乱れきった銀色の髪とずれたメガネは、理性の 下に隠していた凶暴性を発露させていた。気付いていたが、気付かぬふりをしていただけだ。かつての主の栄誉のため であれば、誰であろうと何であろうと滅ぼそうとする男が、大人しいはずがない。 その凶暴性に呑まれかけて、気付き損ねた。海老塚は軍靴の足首から小振りな拳銃を抜き、構えるや否や狭間の 脳天目掛けて撃ってきた。咄嗟にライキリが刀身を上げて弾丸を反らしてくれたからよかったが、下手をすれば 眉間を撃たれて御陀仏だ。海老塚の灰色の瞳からは理性が失せ、殺意が剥き出しになっていた。 「私はあなたのようであればよかった。そうすれば、どれほど大旦那様のお役に立てたことか!」 撃鉄を起こして弾倉を回転させた後、引き金に指を掛ける。 「私がどれほどあなたを羨み、妬み、恨み、蔑んでいたか、知る由もないでしょう! 感情を隠すこともまた従者 の務めですからね! ソロモン王たるあなたが、もう十年早く生まれていれば!」 二発目はライキリの目玉を抉り、鉛玉が潰れ、赤い眼球が抉れて体液が散る。 「あなたのような力を持つ者さえいてくれたら、ヴォルケンシュタイン家は安泰だったことでしょう!」 三発目はライキリの柄を削り、狭間の手を痺れさせ、刀を落とさせた。 「そんなことを夢想しなければ、私は耐えられなかった! それもこれも、大旦那様がおられないから!」 四発目は狭間の足を貫く、かと思いきや、ライキリの鞘が阻んでくれた。 「解りますよね、解りますとも、解らないはずがない! シャンブロウに心を奪われたあなたであれば、私の 苦悩を嫌というほど理解出来るでしょう! あなたに私を止める権限もなければ力もないと、なぜ自覚しようと しないのです! 鳳凰仮面が振り翳していた生臭い正義にかぶれるのは結構ですが、それが私に通用するとは 思わないことですね! この、魔法使いたる私に!」 五発目は狭間の首筋を掠め、一括りに結んだ後ろ髪を散らす。 「お願いです、どうかここで引き下がって下さい。ソロモン王」 熱した銃身がかすかに震えるが、声色は力強さを保っていた。 「違う。俺は、ただの怪獣使われだ」 存分に浴びせられた敵意が、首筋に火傷を刻んでいた。ずきずきと痛む首筋を押さえながら、狭間は魔法使い を見据えた。品の良い老紳士の内側には、今も尚、丁稚奉公の少年が宿っている。 「あんたまで買い被らないでくれよ、たかがアルバイトの若造を」 〈そうとも! 人の子は人の子だ!〉 息を吹き返したライキリが跳ね、狭間の左手に収まる。軽く衝撃波を撃って海老塚を壁に叩き付けた後、狭間は 鉄板の壁に刀を突き刺し、横に斬り裂いた。細い切れ目が膨張し、氷川丸の体液が一気に溢れ出す。狭間はライキリ の力を借りて上の階層に脱したが、背中を強かにぶつけた海老塚は身動きが取れずにいた。赤い体液が機関室の底を 満たしていくにつれて、男の手足は赤に没していく。薄く湯気が上り、硫黄臭さが立ち込める。 「マスター。あんた、もしかして大旦那様に惚れていたのか?」 赤い泉が波打ち、男の老いた指が上がる。 「……だろうな」 恋だの愛だのといった、煌びやかな単語で彩るべき感情ではない。憎悪と執念と復讐心で鍛え上げられた、頑なな ものだ。海老塚の面差しが僅かばかり変わったのを、狭間は見逃さなかった。彼の場合、同性愛者というわけでは なく、ヴォルフラム・ヴォルケンシュタインという人間を慕い、敬い、焦がれるがあまりに愛してしまったのだろう。 だから、海老塚の生活圏には女性の影は一切なかった。若い頃に一度結婚したが離縁でもしたのだろう、と狭間 は考えていたが、ある時、そうではないのだと悟った。 「――――大旦那様しかいないのだ、私には」 氷川丸の船体に空いた大穴から宇宙を望み、魔法使いは赤い水を握り締めるが、指の間から零れ落ちた。 「丁稚奉公に過ぎぬ小童の身に余る思いだとは、知っていたとも。大旦那様には奥方もいらっしゃる、実子である 旦那様も二人の孫もいらっしゃる。私がその心を奪えるなどと、考えたこともなかった。だが、どうしても、大旦那様 以外には惹かれない。若い頃には何人かの女性と見合いはしたが、こんな私がまともな家庭を築けるとは思えぬが 故、皆、お断りさせて頂いた。ただ一人、どうしても私でなければならない、と食い下がってきた女性がいらした。 聞けば、兄弟が揃いも揃って従軍してしまったから世継ぎが必要なのだという。彼女は他に愛する男性がいたが、 形だけでも結婚すれば病に伏せっている父親は安心する、と言ってきたので、私はその通りにした。それから間も なく、彼女の父親は亡くなり、彼女は男性とともに姿を消した。そうして、私は光永の名を手に入れた。戸籍謄本 を見てみるといい、私の本当のの名は光永甲治といってね。海老塚というのは旧姓なのだよ」 彼女は元気でいるだろうか、と海老塚は低く呟いてから、日本刀を携えた青年を捉える。 「若い頃、私は覚えたばかりの魔法を使ってみたくてたまらなかった。自分はなんでも出来るのだと、大旦那様さえ 思い通りに出来るのだと思い上がって、大旦那様の紛い物を作ってしまったこともある。その時は舞い上がるほど 嬉しかったのだが、すぐに過ちに気付いて、大旦那様の紛い物は破壊しようとした。だが、そんなことは出来るはずも なく、生前の大旦那様がしたかったであろうことをさせてやった。それが、大学の講師だ」 その愛弟子が羽生さんと辰沼さんでね、と海老塚は付け加えた。その口振りは、妙に自慢げだった。 「ああ……自分のことを誰かに話すのは初めてだ。話したくなったのも、初めてだ」 「こんなことで大旦那様に振り向いてもらえると思ってんのか、あんたは」 狭間がライキリの切っ先で氷川丸の大穴を指すと、海老塚は首を横に振る。 「大旦那様は、氷川丸が運航中に何度もお乗りになった。ステイツのボストンからお帰りになった大旦那様は、横浜にも ボストンのケーキを出す店があるのだと仰って連れていって下さった。氷川丸の一等船室に乗るのがお好きで、奥様と共に 何度となく船旅を楽しまれておられた。その、氷川丸を、わたしは」 ぐ、と海老塚の喉の奥で声が詰まる。それが演技なのか真実なのか、見極められるだけの経験は狭間にはない。だが、 この時を待ち侘びていたのは確かだった。狭間は辺りを見回して窓ガラスを見つけると、呼び掛けた。 「ミドラーシュ! お前の砂時計を寄越してくれ!」 〈ならば、あの時の私の約束を果たしてくれるのだね? ん?〉 好奇心と興味がはち切れそうなほど漲った、探究怪獣ミドラーシュの声が狭間の脳内に響く。ガラスそのものである ミドラーシュは、地球上のどこにでも存在している。そう、氷川丸とて例外ではない。 「……約束だ。俺とツブラの初夜の一部始終、うんざりするほど観察させてやらぁ!」 狭間は羞恥心を堪え、力一杯宣言する。円形の窓ガラスの分厚い破片が更に砕け、砕け、砕け、赤い砂となって 海老塚へと降り注いでいった。海老塚は身を起こしかけたが、その頭上で赤い砂は凝固し、砂時計へ形を変えた。 それは海老塚の脳天へと落下し、直撃した。頭蓋骨とガラスがぶつかり合う硬い音が盛大に響き、狭間は思わず 頭を押さえた。海老塚は大きく仰け反ると、受け身も取らずに体液の海へと倒れ込み、水柱を立てた。 〈氷川丸に使われていたガラスから私のマガタマを掻き集めてみたのだが、量が足りなくてね。魔法使いの精神は 人の子よりも遥かにタフだ、あまり長く時間の檻に捉えておくことは出来まい。よって、体感時間の圧縮と記憶の再生 は一週間が精一杯だ。指定があれば、言ってくれたまえ。砂時計を動かし始めたら、調整が効かないからな〉 「マスターが一番幸せだった頃と、マスターが一番辛かった頃の記憶を交互に繰り返すようにしてくれ。一週間ずつ を交互に、でもいいが、前半が幸福で後半がどん底、というふうにしてもいい。マスターの心が完全に折れて魔法を 捨てようと決意するまで、何度でも何度でもやってくれ。本当にその気になるまでは、絶対に目を覚まさせるな」 〈承った。だが、人の子よ、お前は鬼か〉 「人間だから、鬼にも仏にもなれるんだよ」 〈ふむ、それは道理かもしれんな〉 では、事を始めるとしよう。そう言って、ミドラーシュは海老塚の頭部に乗った砂時計を逆さまにした。その瞬間、 海老塚の体はびくついたが、収まった。岩の如き忠義を穿つ一滴の水は、海老塚自身に滴らせよう。誰の言葉も彼の 内に届かないのであれば、彼自身に己を砕かせるしかない。狭間は海老塚の元に降り、彼の懐にミドラーシュの 赤い砂時計を入れてから、魔法使いを担いだ。上背は狭間よりも高いのに、体重はやたらと軽かった。この分では、 ろくに食べていないようだ。その痛々しさに、狭間は複雑な気持ちに駆られた。 怪獣聖母を怒らせる方法は、聞きそびれてしまった。 15 5/27 |