見れば見るほど、おぞましい。 他の怪獣とは違って人間に似過ぎているから、気色悪さが段違いだ。今一度、巨大化したシャンブロウを見上げ、 麻里子はタバコを吐き捨てた。シャンブロウの能力については、麻里子も多少なりとも把握している。頭部から 生えた無数の触手を使って獲物を縛り上げ、獲物の粘膜から血液共々体力を吸い上げ、捕食する。地球怪獣とは 違い、輝水鉛鉱は一切口にしない。獲物は人間に限らず、場合によって怪獣からも体力を捕食出来る。自己再生 能力も高く、触手を多少切った程度では致命傷は与えられない。そして、どういう理屈かはさっぱりではあるが、 光の巨人に対抗出来る唯一無二の戦力だ。 シャンブロウ――ツブラが正気であれば、の話だが。麻里子は人払いをしてくるついでにジンフーを呼んでこいと 寺崎に命じると、思案した。今、ここでまともにシャンブロウに張り合える者がいるとすれば、麻里子とカムロに 他ならない。長年鍛えてきた甲斐あって、カムロの髪の毛のリーチは最大で一〇〇メートル。最大限に伸ばした髪を 束ねて存分に毒を注ぎ、それをツブラに突き刺せば、制止出来る。だが、問題がある。 「貫通力が足りませんね」 しゅるりと伸ばした髪を手に取り、麻里子は眉根を寄せた。 「あと、血管がどこにあるかが解らんとどうにもならんな」 リーマオは真っ赤な怪獣義肢から棘を出し、一本抜いて手にする。 「怪獣の構造は人間とは根本的に違いますからね。姿形は人間に似ていても、別の生き物なのですから」 綾繁枢はヒツギが渡してくれた濡れた手拭いで口元と顔を拭いてから、呼吸を整える。 「麻里子さん、不本意ですが、ここはあなた方にお任せいたします。効き目があるかどうかは解りませんが、祝詞 をあげてきますので。では、失礼いたします」 枢が一礼すると、ヒツギは少女を抱えて飛んでいった。 「追い払う手間が省けてよかったやないの」 リーマオは横浜上空を飛んでいったヒツギを見上げたが、先日の傷が回復しきっていないらしく、飛び方が不安定 だった。そのせいで枢はまた気分が悪くなってしまったらしく、変な呻き声が聞こえてきた。 「リーマオさん、シャンブロウに棘を飛ばせますか」 麻里子が横浜湾内に突っ立っているシャンブロウを指すと、リーマオは太く長い棘をペンのように回す。 「それは構まへんけど、届かんで? 正確な距離までは割り出せんけど、うちらのおる山下公園からシャンブロウの おる場所までは、どう見積もっても六七キロはあるやろ。うちの棘は弾丸よりも重くて速いけど、ミサイルやあらへん から、やっぱり推力が足らんねん。仮に届いたとしても、その頃には貫通力なんてなくなっとるはずや」 「シャンブロウを埠頭に追い込んだとしても、動きを封じるのは難しそうですね」 「光の巨人とは違うて、実体はあるようやけどな。ほれ、見てみ」 リーマオが棘の先端でツブラの足を指したので、麻里子は目を凝らした。カムロの助力を受けて視力を思い切り 引き上げ、波間に没している白く長い足を凝視すると、足に触れた波が消えずに砕けていた。 「横浜湾は沖合いの水深が三〇から四〇メートルもありますが、シャンブロウは脛から上が出ていますね。触手が 何本か海底に没していますから、それで体を持ち上げているのでしょうね。だから、足元を崩そうにも、足が海底 に付いていないのであれば意味がありませんね。もっとも、怪獣の足元を崩せるほどの火力があるわけでもない のですが。かといって、何もしないわけではありません」 「九頭竜の親分ならともかく、親父なんぞを呼び付けてどないすんねん」 「お父さんはともかく、私の夫には使い道はありますよ」 あなたも用事を頼まれてくれませんか、と麻里子はリーマオに命じた。 「先日、私達の結婚式を襲撃した帝国軍人が佐々本モータースに匿われているはずです。狭間さんなら、そう考える でしょうから。ですので、彼をこちらに連れてきて頂けませんか。御国のために働いてもらいます」 「えぇー? あのおっかない軍人をー? 今度こそ首を取られるんやないの?」 「御駄賃は支払いますから」 「ほな、言い値で頼むわ」 リーマオは辺りを見回し、乗り捨てられているバイクを見つけると、カーレンの棘を突き刺して強引に動力怪獣を 目覚めさせて発進させた。怪獣の悲鳴の如き排気音を轟かせながら、彼女は元町商店街へと走り去っていった。 一人、その場に残った麻里子はタバコを改めて吸おうとしたが、やめておいた。 〈麻里子。お前の考え、成功するかは怪しいぞ〉 「だとしても、何もしないよりはマシです」 〈なあ、麻里子。この街には見切りを付けてもいいんだぞ。バベルの塔が目覚めたら、遠からず、この街の地形は ぐちゃぐちゃになる。廃墟の方が綺麗だと思えるほどにな。みみっちいヤクザに縛られているなんて、お前らしく ないぜ。俺と麻里子なら、どこでだってやっていける。それとも何だ、トラの大将に絆されたか? 形だけの結婚 だったのに、いつのまにかその気にでもなっちまったのか?〉 「あなたこそ、らしくありませんよ。カムロ」 潮風に乱された髪を掻き上げ、麻里子は髪束から現れた赤い目と目を合わせる。 「このご時世ですから、どこへ行こうとも何も変わりはしません。横浜周辺は帝国陸軍に固められていますし、突破 出来なくもありませんが、無駄な戦いをして消耗すると命取りになりかねません。それに、私自身がどこまでやれる かを試してみたいんです。あなたに限界はない、けれど私には限界がある。それを知らなければならないんです」 麻里子は黒く滑らかな髪を唇で軽く挟み、舌を這わせた。自分の一部であると同時に怪獣である髪は、ぬるりと した愛撫を受け入れてくれた。首に柔らかく巻き付いて、服の下に滑り込んでくる。黒髪は夫にも許していない肌を 存分に舐め、なぞり、締め付けてきた。その感覚に、麻里子は薄く頬を染めて内股を狭める。 「……くっ」 〈お前が知りたいのはそれだけじゃない。あの男に、興味を持ったな?〉 頭皮から頭蓋骨、頭蓋骨から脳、脳から全神経に、怪獣の浅ましい感情が駆け抜ける。 「あなたが妬くなんて、初めてですね」 それだけ、愛されている証だ。麻里子は火照った首筋を押さえると、華奢な手首を髪が戒める。 〈結婚なんだ紙の上での契りだ。お前の髪の一本も、トラ野郎に渡す気はない。近付かれるだけでもおぞましい ってのにな。麻里子、お前は俺の女なんだ。俺だけのものなんだ〉 黒髪が手首に食い込んでするりと滑り、薄く皮膚を裂き、血を滲ませる。 〈遠からず、麻里子はトラ野郎と褥を共にするだろう、させられるだろう。あの野郎に穢されると考えるだけで、 俺は気が狂いそうになる。何度、お前の首から下を細切れにしてやろうと思っただろうか。トラ野郎を切り刻んで やろうと考えただろうか。だが、どうしても出来なかった。出来ないんだ、俺には〉 「私かジンフーさんを殺せば、光の巨人が現れるからですね」 〈そうだ! それさえなきゃ、とっくの昔にどっちかは肉塊に成り下がっていたんだ!〉 手首から髪の毛が外れ、鮮血を帯びた髪が麻里子の頬を掠る。白い頬に、一筋、赤が走る。 〈なんで俺は怪獣なんだ! ずっとお前の傍にいたのに、お前の心を縛り付けていられない! 身も心も繋がって いるはずなのに、お前と同じように生きていけない! 悔しいんだよ!〉 「安心なさい、カムロ。私はあの男に惚れはしません。……ただ、少し気を許してもいいかもしれない、と思っただけ なのです。私は今でこそ九頭竜会の頂点に立ち、渾沌の首根っこを押さえていますが、女の身である以上は、その 地位は長く持たせられません。けれど、私は表の世界では生きていけません。あなたと生きていくためには、強い男 を銜え込まねばならないのです。ジンフーの妻となったのも、そのためです。解って下さい」 〈解りたくねぇ、解る気もしねぇ……〉 麻里子の頬に髪束が寄り添い、赤い目が現れ、体液を滲ませた。 「あの時、私は火星に行ってしまうべきだったのかもしれません。そうすれば、しがらみから解き放たれ、あなたと 共に生きられたでしょうに。ですが、私は地球に踏み止まってしまった。愚かしいことに」 カムロの赤い目の端に細い指を添え、麻里子は彼の体液を掬い取り、舐める。 「それはたぶん、私はこの街が好きなのでしょうね」 〈……そうだな。俺も、そんなに嫌いじゃない〉 カムロの声色が落ち着くと、麻里子の手首と頬に付いた傷が塞がった。しゅるしゅると髪が縮んで本来の長さ に戻ると、麻里子は後ろ髪を体の前に出し、ポケットから櫛を出して丁寧に梳いた。普段は決して持ち歩かない、 母親の形見のツゲの櫛だった。半円形で、持ち手には小菊の彫刻が施されている。椿油が存分に染み込んだ櫛の歯 は滑らかに動き、一度も髪が引っ掛からなかった。カムロは目を閉ざし、少女の手に身を委ねていた。 彼の激情は凪ぎ、諦観に似た愛情が流れ込んできた。 程なくして、部下達が戻ってきた。 ジンフーは寺崎の運転するサバンナに乗ってやってきたが、気乗りしてはいないようだった。帝国軍人、田室正大 陸軍中佐はリーマオが運転するバイクの後ろに乗せられていたが、左腕の怪獣義肢のシニスター――否、タヂカラオ は包帯が巻かれて肩から吊られていた。そればかりか、ヴィチローク――否、ライキリを腰に帯びていなかった。 大方、狭間とやり合った末にライキリを奪われたのだろう。あの青年なら、やりかねない。 麻里子は部下達を下がらせた後、夫と軍人と対峙した。山下公園に程近い洋品店から拝借してきた、黒地の赤い バラのワンピースにカッターシューズを身に着けている。ジンフーは田室を忌々しげに睨みつつ、吸いかけのタバコ を吐き捨てた。田室は中国マフィアの頭領に臆すことなく、背筋を正していた。 「何が起きているのかは、説明するまでもありませんね?」 麻里子はワンピースの裾を翻し、横浜湾に出現した巨大なシャンブロウを仰ぎ見る。 「田室中佐にお聞きしたいのですが、なぜ帝国陸軍も海軍も手を出さないのです? 横浜近隣を封鎖しているので あれば、空爆なりなんなり出来るのではないかと思うのですが」 「そうだな……。帝国軍が何もしないのは、迂闊に怪獣に攻撃すると光の巨人が現れてしまうから、というのも あるが、バベルの塔の破片の動静を見守っているからだ。魔法使いと怪獣使いの内ゲバを煽っていたのも、結局 のところ、バベルの塔の破片に近付くためだったのさ。怪獣聖母ティアマトを操って世界を手中に収めちまおう、 っていう与太話は、怪獣使いより政府の人間が気に入っていやがるからな。それと、狭間君を誘い込むためでもある。 考えてもみろ、方法がなんであれ、狭間君とその弟はあのブリガドーンを空まで押し返した。その逆が出来ると すれば、あの重力操作能力を意のままに出来るとすれば、怪獣弾頭なんて目じゃない。世界どころか、地球を手の 上で転がせるだろうよ」 田室正大は横浜一帯を一瞥した後、麻里子を見据える。 「九頭竜麻里子。あんたはどうしたいんだ。あんたも結構な腕前の怪獣使いだが、シャンブロウまでは手に負える とは思えんな。あれを倒すつもりでいるなら、考え直した方がいい。ろくなことにならん。手に入れるつもりで いるなら、腹の底から嘲笑ってやる。そんなことが出来るのは、人の子たる狭間青年だけだ」 「あなた、意外と口が達者ですね」 麻里子が少し笑うと、田室は傷の少ない右手で左腕の外骨格を叩いた。 「色々あったからな。腹も据わる」 「御意見と御忠告、ありがとうございます。ですが、私自身はあれには手を出しません」 麻里子は夫と向き直り、微笑んだ。 「ジンフーさん。シャンブロウを仕留めて頂けませんか。それが出来たら、一晩、私はあなたのものとなりましょう」 獣じみた凶相が崩れ、目が大きく見開かれる。ジンフーの表情から余裕が失せたのは、あの結婚式の日以来だ。 田室も呆気に取られていて、リーマオと寺崎も例外ではなかった。ジンフーは迷うように視線を揺らしたが、それは ほんの一瞬だった。骨張った分厚い手が麻里子の肩を掴み、男は犬歯の目立つ歯を剥いた。 「その約束、忘れるでないぞ?」 「出来なければ、私はあなたのものにはなりません」 「よかろう。安い注文じゃのう」 ジンフーが豪快に笑いを放つと、リーマオが心配そうに父親に近付いてきた。 「親父、何を本気にしとんねや。そんなん、出来るわけないやろ。この女の魂胆、解っとるやろ?」 「解っとるわい。要は、自分の手を汚さずに儂を潰す気じゃろう。あくどいが、それがまたいい」 「アホや、ホンマモンのアホや」 勝手に死にさらせやドアホ、と毒吐き、リーマオは引き下がった。寺崎は意見する気すら失せたらしく、田室と顔を 見合わせて乾いた笑いを交わしていた。性欲のためにそこまでするのか、とでも言いたげだ。麻里子もジンフーが 受けてくれるとは思ってもみなかったが、意外だとは感じなかった。何せ、幼子の首を刎ねるような男なのだから。 ジンフーは悪趣味な黄色と黒のジャケットを脱ぐと、妻ではなく娘に投げ渡した。 ネクタイを緩めて引き抜き、好戦的に牙を剥いた。 15 6/6 |