横濱怪獣哀歌




曇天



 連れ込まれた先は、見覚えのある屋台だった。
 野々村不二三と何度となく訪れた、あのラーメン屋だった。壮年の店主は以前とまるで変わっておらず、スープを 煮込んでいる寸胴鍋を掻き回していた。豚骨と鶏ガラの獣臭さが湯気に混じって漂い、路地裏に立ち込める饐えた 匂いに生臭さを与えていた。醤油とゴマ油とネギの香りも含まれているが、鼻が慣れないと上手く感じ取れない。 寺崎は馴れ馴れしく声を掛けながら暖簾を上げ、手招いたので、狭間も暖簾をくぐった。
 材料が足りないから醤油のしか出せねぇんだが、と言いつつ、店主は年季が入り過ぎて端が欠けている丼を取り、 醤油のタレを入れてからスープを注ぎ、湯掻いた麺を滑り込ませた。艶々とした薄黄色の麺が琥珀色の浅い海に 浸り、油の雫が浮く水面に小口切りのネギが散らばり、薄めに切られた煮豚が添えられた。

「須藤を連れて帰ってきてくれた礼だ、今回だけは奢ってやる」

 寺崎は狭間の手に割り箸を押し付けてから、サングラスを外し、ラーメンを啜った。

「……あ、はい、どうも」

 狭間はレンゲでスープを掬うと、一口飲み、呆気なく舌を通り過ぎていった熱い滴の味の濃さに打ち震えた。油の味だ、 醤油の味だ、豚と鶏の味だ。生きて帰ってきたという実感が沸き、狭間は心中から熱いものが込み上がって きた。込み上がり過ぎて、目からも少し出た。五臓六腑に染み渡る、とは正にこのことだ。

「泣くほど旨いか、これ?」

 寺崎は苦笑しつつ、盛大に音を立てて麺を啜った。

「真日奔一旨いですよ!」

 今度、真琴も連れてきてやろう。狭間はいつになくぼやける視界の中、ひたすら麺を啜って、胃袋を膨らませた。 無論、スープも一滴残さず飲み干した。全身の隅々まで活力が行き渡ったかのような充足感に満たされながら、狭間は 嘆息した。無意識に食後の一服のタバコを探っていると、寺崎は自前のタバコを寄越してきた。

「やろうか」

「いえ、お構いなく」

 気遣いは嬉しいのだが、今、タバコを吸えば、決心が揺らいでしまいかねない。

「田室の野郎は軍人だが、どちらかってぇとこっち寄りの人間だ」

 寺崎は実に旨そうに煙草の煙を吸い込み、口角を上げる。

「あー、そんな感じはしますね」

 田室正大陸軍中佐は職務を果たすために、軍人然とした態度を取っていただけだったのだから。狭間は寺崎が 無遠慮にふりまく煙の匂いで、ニコチンの心地良さを思い出しかけたが、ひたすら堪えた。

「だが、軍人としては最悪だなぁ。帝国陸軍の包囲網の穴を俺達にバラしてくれただけじゃなく、補給ルートまで を教えやがるんだから。そのおかげで、兵隊上がりの屑共が補給部隊を襲っては食糧だけじゃなく武器弾薬も奪い 取ってくるようになっちまいやがった。帝国陸軍の官給品とあっちゃ、大陸から密輸してきた武器なんかとは比べ物 にならないほど上等だ。調子に乗って殺し合いをおっぱじめる連中も少なくない。あの野郎、帝国陸軍を動かさずに 俺達を片付けるつもりだな? 元より、極道ってのは内輪揉めで殺し合うのが仕事みたいなもんだが、文字通りの火種 を放り込まれればドンパチしまくるのは当たり前だ。胸糞悪いが、実に効率的だ」

「そこまで解っているのに、田室中佐を放っておくんですか」

「解っているから、手を出さねぇんだよ。御嬢様もジンフーの旦那もだ。伊達に硫黄島の生き残りじゃねぇ」

「しかし、帝国陸軍も無茶苦茶なことをしますね。自国民に銃を向けるんですから」

「新聞も届かねぇ、ラジオもテレビも受信出来ねぇから、外の世論がどうなっているかは解らんが、大方怪獣使いに しわ寄せをしまくって世論を操作しているんだろうさ。んで、魔法使いの加護がなくなって丸裸になった怪獣使いを 物量と火力に任せて襲撃して、横浜駅の地下にあるものを利用して、新しい時代を始めようって腹だろう」

「そのついでにゴミ掃除、ってとこですかね」

「そのくせ、大規模な爆撃を仕掛けてこねぇのは、宮様に感付かれないためだろうな。もっとも、宮様ともあろう御方 は当の昔に気付いておられるだろうがな。大政奉還さえしてなきゃ、今頃はとっくにどうにかなっているだろうよ」

「いやに詳しいですね、寺崎さん。そういえば、なんで玉璽近衛隊について知っていたんです?」

「親分が、鎬さんから教えてもらったんだよ。で、俺はそいつを教えてもらった。運転手なんざするからには、どんな 相手がヤバいのかを知っておく必要があるからってな。実際、役に立ったが」

「逃げようとは思わないんですか」

「どこに行こうと変わらねぇよ、こうなっちまうと」

 寺崎は二本目のタバコを吸い終えてから、猥雑とした露店街を見やった。

「だから、どいつもこいつも足掻いてんだよ。どうにもならねぇから、開き直るしかないんだ」

 ごっそさん、と寺崎はラーメン二杯分の代金を店主に渡し、席を立った。狭間もそれに続き、裏通りを歩いた。降雪 量は少し増していて、寺崎はスカジャンを被って禿頭を覆った。怪獣の肉片が当たり前のように売られている露店 街を通り過ぎると、腰に提げたライキリに目を付けられ、何度も声を掛けられたが無視した。寺崎の足取りが重い のは、足場が悪いからというだけではないだろう。
 しばらく歩いて辿り着いたのは、九頭竜会幹部の溜まり場でもある地下室のパブだった。だが、そこにいたのは、 店主の須磨だけだった。以前、須藤と御名斗が座っていた席を一瞥した後、寺崎はカミカゼを作ってくれと頼んだ。 程なくして、ウォッカとコアントローとライムジュースを混ぜた酒が寺崎の前に出された。

「お前だけは変わってくれるなよ、狭間」

 昼間から飲むにはきつい酒を口にし、寺崎は頬を歪める。

「他の連中にはまず言えねぇが、もう俺にはついていけねぇことばっかりだ。御嬢様とジンフーの旦那のこともそう だが、須藤と御名斗がどういう人間なのかが解らなくなっちまった。俺はあいつらと上手くやっていたつもりだった んだが、あいつらはそうじゃなかったんだ。須藤はマッポ崩れの異常性癖野郎だが、惚れた相手のために左腕捨てる だなんて、俺には理解出来ねぇ。理解しようとしたんだ、出来るかもしれねぇって思ったんだ。だけど、考えれば 考えるほどきつくなっちまってよ。だが、それだけのことで九頭竜会の輪を乱すわけにはいかねぇし、怪獣義肢持ちを 相手に俺なんかが勝てるはずもねぇから、考えないようにしていたんだ。だが、須藤がいなくなってから、御名斗は どんどんおかしくなっていって、姿を消しちまったんだ。いや、元から頭はおかしかったんだがな」

 寺崎は荒っぽくグラスを揺すり、酒を波打たせる。

「俺は車にしか興味がねぇから、世界がどうなろうと、怪獣がどうなろうと知ったこっちゃねぇ。そもそも、俺が知れる ことは限られている。狭間はサバンナと話が出来るようだが、俺はあいつの運転席に座って、尻でエンジンの震えと タイヤの弾力を感じるのが精一杯なんだよ。だから、須藤も御名斗もお前も、なんでそこまで出来るのか、しなきゃ ならねぇのか、解ろうとしても解らねぇ。解らない方がいいのかもしれねぇが」

 狭間は寺崎の横顔を窺うが、言葉が出てこなかった。それが普通なのだ。寺崎はどうしようもない屑のヤクザでは あるが、狭間達とは違って地に足を付けている。人間らしい生き様を貫いている。だから、人知を外れた者達の思想 が理解出来なくて当然だ。むしろ、理解出来ない方がいい。
 今更ながら、狭間は自分の愚かさを思い知る。ツブラへの愛のためなら、地球と全人類と全怪獣を犠牲にしても いいというのか。怪獣達でさえも、今度ばかりは狭間の蛮行を見逃してはくれない。寺崎のように戸惑う人間も多い だろうし、彼らは狭間の事情を知ったところで受け入れてくれるはずもない。むしろ、疎まれ、蔑まれ、憎まれるだけ だろう。けれど、ツブラを見捨てられるものか。忘れられるものか。愛さずにはいられるか。

「ひでぇツラしてんなぁ」

 寺崎は狭間の後ろ髪を掴むと、引っ張り、強引に顔を上げさせた。

「あの触手の化け物が狭間のイロだってのは、本当か?」

「だ……誰から聞いたんです?」

 サングラスの奥でぎらつく目に臆しつつも、狭間は聞き返す。

「御嬢様からだよ。狭間が死にそうな目に遭いたがる理由はなんだって聞いたら、怪獣に惚れたからだって教えて くれたんだよ。お前だけは普通で、まともで、堅気だと思っていたんだが、怪獣に欲情するド変態だったとはな」

 ストレートな侮蔑に、狭間は言い返す気も失せた。その通りだからだ。噛み付いてこないのが面白くなかったのか、 寺崎は狭間の髪を離して肩を突き飛ばしてきた。よろめくも、カウンターを掴んで踏み止まる。

「どいつもこいつも、怪獣中毒になりやがって」

 キメてないのは俺ぐらいしかいねぇじゃねぇか、とぼやきながら、寺崎は二杯目の酒を注文した。

「だが……もしかすっと、それが自然なのかもしれねぇな。この世は怪獣を中心に回っている。怪獣がいるから人間 が栄えているんじゃなくて、怪獣が人間を育てているとしたら、変なことでもなんでもねぇのかもしれねぇ。けど、 そうなると、ますます訳が解らなくなってくる。その理屈で行くと、この世は怪獣だけで成り立っていてもおかしく ねぇし、その方が真っ当かもしれねぇ。だが、俺達は存在している。人間がいる。なんか、噛み合ってねぇよ」

「そんなこと、考えたこともありませんでしたよ」

「俺だって、暇を持て余してなきゃ考えたりはしねぇよ。こんな、くっだらねぇこと」

 先程よりも時間を掛けて強い酒を飲み、寺崎は冷え切った禿頭を押さえる。

「で、誰が勝つと思う?」

「誰って」

「怪獣か、光の巨人か、でなきゃ俺達か」

「どれも同じ土俵に立っていないんですけど」

「表立ってドンパチするだけが戦いってわけじゃねぇよ」

 寺崎はサングラスを上げ、目元を押さえる。

「暴走族の若造共と埠頭を走り回っていた頃が、随分昔に思えらぁ。正気でいるのも楽じゃねぇや」

「寺崎さんがそんなこと言うなんて、ちょっと信じられませんね」

 狭間が半笑いになると、寺崎は肩を竦めた、

「俺だって、自分の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったぜ」

 もうちょっと付き合え、と寺崎は狭間の肩に腕を回してきた。非常識極まりない状況下だから、心中のもどかしさ をぶつける相手が欲しくてたまらなかったのだろう。狭間もそんなものだが、言えることは限られているし、地球の 命運と恋を天秤に掛けているとは告白したくても出来ないので堪えるしかなかった。
 それから、寺崎はしこたま酒を飲んだが、潰れはしなかった。何度か飲まされかけたが、あらゆる手を尽くして 酒から逃れ、狭間はどうにかこうにか地下のパブから脱出した。酔いに酔った寺崎を須磨に任せてから、狭間は狭い 階段を上って外に出ると、一際冷たい風が吹き付けてきた。気温もぐっと下がり、雪も細かくなり、さらさらとした 軽いものに変わっていた。その雪を手中に収め、握り締めてから、狭間は襟を立てて首を窄めた。
 鉛色の空から注ぐ雪が、世界から色を奪い去っていく。




 何十着も試着した末、綾繁悲は紫色のコートに袖を通した。
 ブティックの一角には、脱ぎ捨てられた服が山積みになっている。その一部は、悲の下半身のクル・ヌ・ギアの中 に引き摺り込まれているので、着替えを確保しておくつもりだろう。派手すぎない、落ち着きのある色合いなので、 悲の白すぎる肌と黒い下半身に似合っていた。真琴は店員がいないのをいいことに、レジカウンターに腰掛けて、 悲のファッションショーを眺めていた。不意に鏡越しに目が合い、気恥ずかしくなって目を反らす。

「狭間君のこと、放っておいてよかったの?」

「兄貴のことを考え込むには、離れていた方がいいと思ったんです」

 真琴は左の二の腕に巻き付いている金色のスカーフに触れると、赤い目が現れ、指に絡んできた。

「そう。で、答えは出たの?」

 下半身を緩く波打たせながら近付いてきた悲は、真琴の隣に腰掛けた。

「兄貴が本気でシャンブロウに惚れているってこと、嫌ってほど解りました。だけど、シャンブロウに会いに行く ためだけに怪獣聖母にケンカを売ろうとしたら、その時、誰も兄貴を止められなかったとしたら、俺が止めます。 もちろん、グルムの力を借りてではありますけど」

「まこちゃんに出来るかしら、そんなこと」

「出来なくても、やります。俺だって男ですから」

 真琴は膝の間で指を組み、ぐっと力を込める。初めての恋に浮かれる気持ちは、真琴も嫌というほど思い知って いる。今も、悲が傍にいるというだけで心臓が高鳴り、体温が上がっていった。存在しているだけで熱を奪っていく 彼女が纏う空気は、外気よりも冷たいはずなのに、肋骨の内側だけは妙に熱い。きっと、兄もこの熱に浮かされて いるのだろう。そうでなければ、地球と引き換えに火星に行こうなどとは思わないだろう。
 その熱だけは、たとえ光の巨人であろうと、クル・ヌ・ギアであろうとも奪えはしない。真琴は左の二の腕を浅めに 絞め付けてきたグルムに笑みを向けたが、表情が硬いことは自分でもよく解った。悲はほんの少し躊躇ったが、真琴の 手に自分の手を重ねてきた。その手の冷たさに、真琴は思わず肩が跳ねたが、振り解きはしなかった。
 雪は、止みそうにない。





 


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