愛すべき、小生意気な弟。
　こんなにも思われていた、こんなにも愛されていた、こんなにも惜しまれていた、と死ってしまった。だが、それは 躊躇いを呼び起こしてしまう。刃が鈍ってしまえば、不用意な傷を付けてしまいかねない。狭間とは違って、真琴は どこもかしこも綺麗なものだ。いずれ、どこかの誰かと結婚して家庭を築き、血を連ねていくだろう。だから、下手に 斬り付けるわけにはいかない。――――となれば。
　グルムを斬る。あの御節介で傍迷惑な怪獣さえ引き剥がしてしまえば、真琴は戦意を失うはずだ。そう判断した狭間 は、ライキリを構えた。重心も怪しければ姿勢も半端な、素人丸出しの構えではあったが、そんなものでも最大限に力を 引き出してくれるのだから、ライキリは実に有能な怪獣だ。
　鳳凰仮面三号は石畳を蹴り付け、飛び出した。その拍子に石畳は粉々に砕け散り、砂利が敷かれた歩道には大きな穴が 開く。脅しか、と思いかけたが、すぐにそうではないと気付く。真琴はグルムが与えてくれる超人的な怪力を持て余して いて、上手く操作しきれていないからだ。だが、こちらは違う。

「ぐっ！」

　呻きを漏らしたのは、鳳凰仮面三号だった。突進を避けると同時に、その腰の飾りに刃を突き立てたからだ。素材が布 であれば呆気なく切り裂かれ、すぐに自由を取り戻せただろうが、生憎、グルムは怪獣だ。刃が刺さった羽根飾りに穴が 開き、赤い体液が噴き出す。頑丈で柔軟な皮膚はゴムのように伸びて傷口が大きく広がり、それに従って鳳凰仮面三号の 体は腰を引っ張られ、仰け反った。鳳凰仮面三号が完全に姿勢を崩したところで、狭間はライキリを引き抜き、無防備な 弟の背に峰で斬り付けた。物理的にではなく、衝撃波のみで。
　これで勝負が付く、と思った。だが、鳳凰仮面三号はそうは思っていなかった。故に、衝撃波を浴びる寸前で俯せに なって直撃を避け、そればかりか狭間の足を払ってきた。思いがけない反撃に狭間は戸惑うも、ライキリの重さを使って 姿勢を立て直そうとした。が、鳳凰仮面三号はライキリを掴んでいる両手を捉え、手首を握ってきた。

「その刀があるから、兄貴は戦えている。だから、これさえなくなれば！」

「いっ、だっ、あっ」

　鳳凰仮面三号は、本気で握ってきている。両手首の骨が軋み、充血し、指に力が入らなくなる。狭間はじっとりと した脂汗が滲み出したが、意地でライキリを握り続けた。その様に、弟はサングラスの奥で目元を歪める。

「強情張るなよ」

　鳳凰仮面三号の指が狭間の指と柄の間にねじ込まれ、一本一本引き剥がされていく。抗おうとするが、今の真琴の 腕力に敵うはずもない。狭間は悔しさと痛みに苛まれ、喉の奥で声を潰す。

「俺を大学に行かせてくれるんだろ？」

　最後に小指を開かせてから、弟は兄の手から刀を奪う。

「一人にしないでくれよ」

　鳳凰仮面三号はライキリを一瞥したが、あらぬ方向に放り投げる。

「あんたがいない間、俺がどれだけ寂しかったか。どんなに心配だったか。どんなに悔しかったか」

　冷静な物言いの合間に、鳳凰仮面三号は滑らかな動作で拳と蹴りを放ってきた。肩を突かれ、腹を抉られ、最後に 胸を強かに蹴り付けられた。両手にこびり付いた痛みのせいで避けることすら出来ず、まともに蹴りを受け止めた 狭間は、無様に倒れ込んだ。息を荒げる兄の上に、弟の影が重なる。

「またあんたがいなくなったら、俺はどうすればいいんだよ？」

　兄の襟首を掴んで上体を起こさせ、弟は穏やかに激情をぶつける。

「俺は怪獣じゃない。だから、こうやって話さないとあんたには何も伝わらない。だから、あんたが話してくれないと 俺にも何も伝わらないんだ。それなのに、あんたは全部自分でなんとかしようとする。ブリガドーンの時だってそうだ、 俺がやいやい言わなきゃ連れていきもしなかっただろう。昔からそうだった。俺だって、あんたや千代姉と一緒に 外で遊びたかった。家で大人しく本を読んでいるからって、一人が好きだってわけじゃない。嫌いじゃないけど、 だけど、もっと俺に興味を持ってほしかったんだ。だけど、あんたはいつもうるさそうにしていて、怪獣の声から 逃れようとしていたから、俺の声を聞かせるともっとうるさいだろうって思って、俺は……」

　鳳凰仮面三号の手は震えるほど力が籠っていて、スカジャンの襟を千切りかねなかった。

「逃げ出そうとしてんじゃねぇよ！　俺からも、この世からも！」

　不意に声を荒げた鳳凰仮面三号は、兄の頬を殴り飛ばす。但し、力の抜け切った、真琴本来の拳で。

「昔からそうなんだよ！　半端で、いい加減で、適当で、その場凌ぎで！　そんなんだから、いつまでたってもまとも になれなかったんだよ！　火星に行けるはずがないじゃないか！　シャンブロウと結婚出来るわけないだろ！」

　全く、その通りだ。――――だが、しかし。

「なぁにが悪いっ！」

　狭間は身を起こして弟の襟首を掴み返し、額を突き合わせる。

「俺が俺の人生をどうしようと、俺の勝手だろうが！」

「言うに事欠いてそれかよ、語彙が貧困すぎる！」

　額を突き返し、鳳凰仮面三号は怒鳴り返す。だが、狭間も怯まない。

「大学には好きに行けばいい！　俺の貯金は大したことねぇが、国からの補償金があるだろうが！」

「だぁっから、一人でやったってどうしようもねぇんだよ！　解らねぇなあもう！」

「真琴は俺なんかよりもずっとしっかりしているんだ、一人でどうにでも出来るだろうが！」

「受験も手続きもどうってことはないが、それとこれとは別なんだよ！」

「ガキじゃないんだ、甘ったれてんじゃねぇ！」

「ガキだよ、俺は子供なんだよ！　十七だ！　未成年だ！　高校生だ！」

　兄の頭を掴んで地面に叩き付け、弟は叫ぶ。これまで溜まりに溜まった鬱憤を、言葉にする。

「俺だってな、好きでこんなことしているわけじゃない！　このド派手な格好だって、俺の趣味じゃない！　だけど、 グルムがこれ以外の形になろうとしないんだよ！　俺の言葉はこいつには通じないからだ！　兄貴には言葉は通じる のに、俺の言いたいことは毛の先ほども伝わらない！　なんでだよ！　俺といるのが、そんなに嫌かよ！」

　覆面の下で息を荒げ、鳳凰仮面三号は肩を怒らせる。

「馬鹿野郎」

　弱々しく呟いた後、弟は狭間の上から身を引いた。後頭部には痛みが残り、ずきずきと疼いたが、大した傷には なっていないようだ。殴られたはずの頬も穏やかなものだ。痛むのは、強く握り締められた両手首と胸の内だけだ。 狭間は背を丸めて俯いている弟の肩に手を添えたが、力一杯振り払われた。

「うるさい、触るな、俺に構うな！」

「散々あんなこと言ったくせに、なんだよそれ」

　思い切り引っぱたかれた手を振り、狭間は変な顔をする。弟の気持ちがいよいよ解らなくなってきた。

「もう一度、仕切り直しだ。こんなのじゃ納得出来ない、立てよ、今度はライキリを使え！」

　サングラスを上げて目元を擦ってから、鳳凰仮面三号は立ち上がる。

「は？」

　喚き散らして気が済んだのでは、と狭間が面食らうと、鳳凰仮面三号は軽く跳ねた。離れた立木の幹に刺さって いたライキリを回収してくると、押し付けてきた。

「あ、あの」

　狭間は羽部と鮫淵を窺うと、二人はなんともいえない顔になったが、気の済むようにしたらいい、と言ってくれた。 ライキリも呆れているらしく、怪獣電波は弱っていた。しかし、それとは逆に真琴とグルムはやる気が漲っていて、 首に巻かれた七色のスカーフには赤い目が現われている。

「仕方ねぇなぁ、もう」

　ならば、気が済むようにやるしかない。狭間はライキリを軽く叩いてから、今一度構えた。鳳凰仮面三号は言うだけ 言って気が晴れているからか、先程よりも背筋が伸びている。それどころか、怪獣の力を借りて得た超人的な力を 行使出来る幸福感に浸っているのか、サングラスの奥でうっすらとにやついていた。この分では、野々村不二三の ようなヒーローにはなれない。だが、真琴はそれでいい。それでこそ、我が弟だ。
　殴り合い、斬り合い、蹴り合い、怒鳴り合い、罵倒し合い、互いに己を剥き出しにした。戦いと言えるほど洗練された ものではなく、ケンカと言えるほど力強くもない、兄弟の醜態だった。だが、こんなことは二度と出来ないのだと、 口にするまでもなくどちらも悟っていた。躊躇いを捨て、恥じらいを投げ打ち、叫んで叫んで叫び散らした。最後には ライキリもグルムも放り出して、素手と素顔で掴み合っては殴り合い、感情と感情を交わらせた。
　汗と泥と、それ以外の何かにべっとりと汚れた顔を乱暴に拭い、狭間は呼吸を整えた。向かい合って立っている 真琴も似たようなもので、髪は乱れ放題でメガネも汚れでくすんでいる。羽生と鮫淵は、青春の一ページを見守って いた。どちらも自分の若い頃を思い出しているのか、なんだか気恥ずかしそうでもあった。

「いい加減、諦めろよ！」

　口の端が切れたために滲み出した血を手の甲で拭い、真琴は声を嗄らす。

「諦められるか、ツブラみたいな女には二度と出会えないんだぞ！」

　狭間は額の端に出来た切り傷を拭い、血を散らす。

「だから、あれは怪獣だって言ってんだろうが！　この変態、ド変態！」

「カナさんも怪獣みたいなもんだろうが！」

「カナさんは元は人間だったんだ、元から怪獣のツブラとは根本的に違うんだよ！」

　このやりとりも、もう何度目になるだろう。腕も足も鉛の如く重たく、殴り続けた拳は指の付け根が赤く腫れ、汗を 吸い込んだ服が煩わしい。だが、女々しく涙を流すよりは余程清々しい。狭間は緩んでしまいかけた口元を引き締め、 駆け出した。脱ぎ捨てられたグルムと投げ捨てられたライキリが視界の端を掠めるが、すぐに視線を真正面に据えて、 同じ瞬間に駆け出してきた真琴と目を合わせる。真琴は拳を固めて上体を捻り、踏み込んだ時の勢いを用いて右の拳 を放とうとした。狭間も左の拳を固め、上体を捻る。が、殴りにはいかず、真横に腕を伸ばした。

「ぐぇっ！？」

　勢いを止め切れず、真琴の喉が狭間の腕にめり込んだ。腕を軸にぐるりと回転し、仰向けに地面に倒れ込んだ。 ラリアットである。今の今まで敢えてプロレス技を出さなかったのだが、それが功を奏した。プロレスを知らない 真琴は技の予想が付かないだろう、と判断して使ってみたのだが、まさかここまで綺麗に入るとは。

「起き上がれるなら起きやがれ、３カウント取ってや」

　る、と言いかけた時、狭間の足の間をするりと布地が滑っていき、真琴の腕に絡み付いて金色のグローブに姿を 変えた。真琴はその右腕で狭間の足を掬い、持ち上げ、鮮やかに投げ飛ばした。予想外の反撃に面食らい、狭間は 対処が遅れた。庭木を突き破り、芝生に転げ、最後には池に落ちた。生臭く冷たい水に没した狭間は、薄く光る 水面を見上げながら、自分の負けを認めた。けれど、火星には行かせてもらう。
　御名玉璽を握り締めた拳を、浅い池の底に埋めた。




　かすかな揺れが、窓を震わせた。
　思っていたよりも、事は早く進んでいるようだ。田室正大陸軍中佐は、血の染みが抜け切らなかった軍服に袖を 通した。左腕の怪獣義肢はまだ万全とは言い難いが、神経も筋肉も外骨格も眼球も回復した。赤く鋭利な指を一つ 一つ曲げては伸ばし、握り締める。田室はタヂカラオの目を窓の外に向けて、横浜駅を視てみると、熱量が急激に 上昇していた。光の巨人が現れるのが早いか、帝国陸軍が踏み込むのが早いか、それとも。

「この戦い、誰が勝つと思います？」

　田室は、倉庫の一角で毛布にくるまっている少女を見やる。綾繁枢は石油ストーブの前に翳していた手を握り、 暖めてから、田室を見上げてきた。顔色こそ悪かったが、その眼差しには芯がある。

「勝ちも負けもありません。生き残った者こそが正しく、滅びた者は悪となる。それだけです」

「さすがは枢様、含蓄深いお答えです」

　田室は尤もらしく頷いてから、痩せぎすな双肩に計り知れぬ重荷を担いでいる少女を見下ろす。

「バベルの塔の破片から離れる前に、祝詞をあげられましたね？　御名玉璽の在り処も御存知だったのですね？」

「ええ」

　枢は小さく応えてから、二の腕をさする。

「エレシュキガル、火星怪獣、そしてイナンナ。私などの力では、どうすることも出来ないことばかりなのです。口では 反対しましたが、そうすることで狭間さんの背を後押ししたのです。いえ、そうするしかないのです。光の巨人が出現 する頻度と個体数は上がる一方です。今でこそ被害は地表だけで済んでいますが、更なる熱量を求めて火山やマントル までをも消し去ってしまったら、怪獣聖母が怒らずともこの星は壊れてしまうでしょう」

　枢はヒツギの膝の上に昇り、その体温で暖を取り、手足を縮めた。

「今でこそ、私の歌は怪獣達に通じますが、バベルの塔の破片が息を吹き返したらどうなるか解りません。それもまた、 懸念の一つです。バベルの塔の破片が人と怪獣の言葉の壁を取り払ってしまったら、その影響で私はただの世間知らずの 小娘に成り下がってしまったら、その時はどうか引導を渡して下さい。私がいなくなれば、あなた方に降りかかる危険は 一つは減りますから。ヒツギは、上手く逃がしてあげて下さい」

「その命令は聞き入れられませんよ、枢様」

　田室は枢の前で膝を付き、怪獣の膝に収まる少女を見上げる。

「我らは玉璽近衛隊。御璽ではなく、玉璽たる怪獣使いを守る剣にして盾。戦争の時は宮様から武器を賜り、御国 のために戦いましたが、今は違います。宮様はその血筋故に国政にも国防にも携われぬ身ですが、枢様を始めと した怪獣使いはその御身を御国に捧げることが出来る立場にあります。そして、我らは怪獣使いを守らんがため、 怪獣人間となった帝国軍人です。我らもまた、怪獣使いに使われる怪獣。バベルの塔の破片が蘇り、怪獣行列も ヒツギもあなたの御声を聞かなくなってしまっても、我らは元は人間です。あなたの声は、聞こえます」

「ですが」

「ですので、この星が平穏を取り戻した暁には、今度は我らの話を聞いて頂けませんか」

　戦中戦後の話なんていくらでもありますからね、と田室は口角を上げた。困った人、と枢は内心で呟いてから、 佐々本モータースの倉庫を見回した。玉璽近衛隊特務小隊の一員である氏家武大尉は、枢とヒツギの様子が気に なるようだが近付くほどの度胸はないのか、物陰からこちらを窺っては引っ込んで、を繰り返している。家主で ある佐々本うららと、その娘の佐々本つぐみ、従業員の小暮小次郎は、枢の正体を知ってか知らずか事務室にて 待機している。うららが差し入れてくれた白湯に口を付け、一口飲んでから、枢は感覚を研ぎ澄ました。
　バベルの塔の破片が、目覚めた。





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