横濱怪獣哀歌




禍ツ玉、穿ツ魂



 どろり、ずぬり、づぶり。
 闇の世界は死者に優しい。暑すぎず、寒すぎず、明るすぎない。綾繁悲は柔らかな心地良さに浸りつつ、横浜駅 の地下へ至る下水道に満たされた影を泳いでいた。頭上では地盤が揺れ動いていて、時折崩れたコンクリート片が 降ってくるが、影と一体と化した身なので、当たるどころか摺り抜けてしまう。影さえ繋がっていれば、髪の毛一本 も通り抜けられない隙間でさえも通れてしまう。それを応用して電線などのほんの僅かな陰影を伝っていけば、どこへ でも移動出来る。真夜中ともなれば、エレシュキガルの力が及ばない場所を探す方が大変なほどだ。
 狭間の手によって横浜駅構内に流された歌で精神を揺さぶられ、中枢神経である御名玉璽を取り戻したことで、 バベルの塔の破片が目覚め始めている。楼閣怪獣のように横浜の地下の至るところに根を張っていたバベルの塔の 破片は、その根を引き抜きながら浮上し始めている。横浜駅の駅舎が崩壊するのは時間の問題だ。その前に、 真琴を助けなければ。

「まこちゃん……」

 馬鹿な兄貴を止められるのは俺だけです、と言い残し、少年は去っていった。当人は平静を保っているつもりで いたようだが、その目は不安と恐怖の色に染まっていた。兄の蛮行に対するものと、場合によっては血を分けた兄と 戦わなければならないという思いからだ。そんなに辛かったら私が代わりに行く、と悲は申し出たのだが、真琴は 頑なに断った。男の意地です、と上擦り気味の声で言い張り、鳳凰仮面三号に変身していった。
 最も効果的に御名玉璽の力を発揮出来るのは、綾繁家本宅がある居住臓器だ。綾繁哀が最期を迎える場所として 選んだのも、それ故だ。狭間はそれを知らないかもしれないが、彼のことだ、本能的にそれを察知していること だろう。そして、真琴は人の子たる狭間真人の気配を察知した縫製怪獣グルムに導かれて、居住臓器に向かった に違いない。そこで対峙した兄弟は、刃と拳を交えたのだろうか。どちらが勝ったのだろうか。
 いいや、どちらが勝っても負けてもどうでもいい。五体満足でいてもらわなければ、生きていてくれなければ。 勝負で命を落とさなかったとしても、バベルの塔の破片の成長による崩落に巻き込まれたら元も子もない。悲は唇を 結び、上半身もどろりと崩して闇に溶かし、配線と配管を伝って横浜駅の真下に向かった、
 悲が目的の地点に辿り着いた時には、既に成長は始まっていた。斜めに切られたかのような形状の怪獣の肉片が 膨れ上がり、根を生やし、めきめきと駅舎を持ち上げている。下水管も水道管も地下の電話線も電線も引っ張られ、 千切れ、汚水や電流を撒き散らしていた。悲は上流に昇る魚の如く汚水の影を伝い、昇り、配管の影を捉えると、 そこから下水管の内側を這い上がっていった。狭くて汚くて粘つく配管を昇り、曲がり、捻り、滑り抜けていき、 行き着いた場所は便所だった。がぼっ、と和式便座から体を出し、上半身を人の形に整える。

「……いちいち気にしてなんかいられないわよ!」

 洗面所の鏡に映った姿は悲惨だったが、そんなもの、闇の中に引き摺りこんでしまえばいい。悲は開き直ると、 居住臓器に繋がる階段を目指し、床が砕け、柱が倒れた駅構内を駆け抜けていった。枢が作った階段は、周囲の コンクリートが割れてはいたが、階段そのものは無事だった。悲は安堵し、その中に滑り込んだ。
 上半身を差し込んだ途端、居住臓器がエレシュキガルに拒絶反応を示した。粘膜の隔壁が下り、階段に蓋を してしまったのだ。当然のことながら、悲の下半身は挟まれてしまった。エレシュキガルとの繋がりである闇を 減らすのは惜しかったが、仕方なく下半身を自切し、悲は上半身だけとなって階段を転げ落ちた。階段の内側に 溜まっていた影を絡め取り、吸い込み、下半身を作り直しながら、光が差す居住区へと進んだ。
 古びた屋敷の前にいたのは、羽生鏡護技術少尉と鮫淵仁平だった。彼らは池の傍らに屈んでいて、その足元 では鳳凰仮面三号の変身が解けた少年が倒れていた。悲はないはずの心臓が縮み上がり、体の内側がざわつき、 良からぬ欲望が生じてしまった。もしも真琴が死んでいたら食べられる、と。だが、すぐさまそれを振り払い、真琴 の傍に駆け寄った。バベルの塔の破片が動き出したことによる振動は激しく、池は荒く波打っている。

「まこちゃん!」

 悲が声を上げると、二人の男が振り返った。が、どちらも恐怖とは異なる感情で顔をひきつらせたので、悲はまず は池に飛び込んだ。池の淀んだ水で汚物を洗い流し、ニシキゴイの命を食べ、池の底に溜まった影を吸い込んだ後、 悲は改めて真琴に寄り添った。少年は気を失っているわけではなかったが、極度の疲労に見舞われていた。

「……カナさん」

 真琴は震える手でメガネを掛け直し、悲を捉えると、僅かに顔を綻ばせた。

「馬鹿なことしちゃって。らしくないわよ、そんなの」

 悲は真琴の顔に手を伸ばすが、触れる寸前で留めた。真琴はどぎまぎして、視線を彷徨わせる。

「こうでもしないと、気が済まなかったんです。カナさん、さっき池の中に入りましたけど、兄貴、いましたか? 兄貴、 池に飛び込んでから、それっきりなんです」

「狭間君? いえ、いたならいたですぐに解るはずだけど」

 悲は上半身を伸ばし、池の中を覗き込むが、揺れる水面に浮かんでいるのは死んだニシキゴイだけだった。

「あ、う、その、御名玉璽を使う者が行く玉座の間のような、そんな場所にでも引っ張られたんですかね?」

 鮫淵が躊躇いがちに発言したが、悲はそれを一蹴した。

「私が知る限り、そんなものはないわよ。御名玉璽を使った祝詞をあげるのは本家の奥の間だったわ」

「駅舎が全て崩落してしまえば、居住臓器と言えども無傷では済まない。今のうちに脱するべきだ」

 羽生は軍帽を被り直し、鍔を下げる。

「だけど、兄貴が」

 真琴は上体を起こそうとしたが、余程無理をしたのか、顔を歪めて倒れ込んだ。

「彼は怪獣の寵児たる人の子だ、怪獣が彼を必要とする限り、彼は生かされるはずだ。というわけで、悲様。 誘導をお願いします。狭間君の弟は、サメ男とこの僕が担いでいきます。あなたに触れられると、ただでさえ 消耗した体力を吸い取られてしまいかねないので」

 羽生は真琴の右側の肩を担ぎ、顎でしゃくる。鮫淵はノートをベルトの間に押し込んでから、左側の肩を担いだ。 真琴は譫言のように兄を呼ぶが、大人の腕力には逆らえず、引き摺られていった。悲も狭間の行方が気掛かりで はあったが、横浜駅が地上から離れてしまう前に真琴達を脱出させるべきだと考えた。
 羽生が持っていたヒゴノカミで粘膜の隔壁を切り裂き、更にその穴を闇で吸い込んで広げてから、三人を駅構内 へと脱させた。振動が起きるたびに落ちてくる瓦礫を闇で受け止め、折れた柱を影に没させ、活路を切り開いた。 出口に辿り着いた頃には、階段が浮き上がり始めていた。砕けた階段からは鉄骨がはみ出し、粉塵が舞い上がり、 雪に白んだ地面を汚していた。すかさず、悲は階段を下半身で吸い込んで内側で砕き、それを平たく伸ばした闇の上 に敷いて即席の道を作ってやって地面まで繋げた。三人はその上を歩いて横浜駅から脱し、地に足を付けた途端、 横浜駅が急上昇した。雪にまみれて座り込んだ男達を横目に、悲は迷った。
 狭間を手助けするためにバベルの塔の破片に乗り込むべきか、真琴を守るべきか。無論、優先すべきは前者だ。 悲のこれまでの所業は、償っても償いきれない。けれど、横浜を守り通せば、その罪はほんの少しでも償えるかも しれない。だが、そんなものは驕りだとも思ってしまう。償ったところで、誰が許してくれるものか。そんなものは ただの自己満足であり、ともすれば要らぬ怒りを買うだけだ。ならば、二度とあんな思いをしないためにも、今、目の前 の少年を守るべきだ。人間ですらなくなってしまった、女ですらないモノを好いてくれる男を見捨てられるものか。
 迷うだけ無駄だった。悲は暗い笑みを浮かべ、真琴を見下ろす。少年は悲と目を合わせ、一瞬反らしかけたが、 定めてくれた。二人の男は少年と死者を交互に窺っていたが、何かを察して身を引いた。

「カナさん……俺……」

 グルムを金色のスカーフに戻させた真琴は、それを左の上腕に巻き付けさせてから、起き上がった。

「まこちゃん、私、薄情かな」

 悲は真琴の前で下半身を縮めると、目線を合わせた。真琴は考えあぐねているのか、口籠った。震える手で雪を 握り締め、肩を怒らせ、俯いている。激情が渦巻いているのだろう、呼気も荒い。
 真琴が言葉を吐き出そうと息を吸い込んだ時、羽生が拳銃を手にした。こんな時に何を無粋な、と悲は思いつつも 羽生の視線を辿っていき、彼が捉えたものを認めた。それは、軍服とは少し形の違う制服に身を包んだ老紳士 だった。長身で骨格が骨太で、長い銀髪を獣の尻尾のように一つに束ねている。灰色の瞳に白い肌、彫りの深い 目鼻立ちは外国人である証拠だ。その男の佇まいは魔法使いの海老塚甲治とどことなく似通っているが、立ち姿 だけだ。唯一、その正体を知る者――羽生はぎこちない手つきで銃口を上げた。

「ヴォルフラム・ヴォルケンシュタイン卿」

「久し振りだね、羽生君」

 母国語の訛りのない滑らかな日本語を発し、老紳士は脱帽して一礼する。

「私の名はヴォルフラム・ヴォルケンシュタイン。かつて、羽生君に教鞭を執っていた者だ」

「それじゃ……あなたは、マスターの……」

 海老塚甲治の魔法の師匠にして恩師。悲が戸惑うと、羽生は素早く撃鉄を起こして引き金を引いた。乾いた破裂音 が轟き、硝煙の煙が舞う。その弾丸が命中したのは、老紳士の眉間だった。恐ろしく精密な射撃だ。今度は悲 だけではなく、真琴と鮫淵も動揺した。動揺していないのは、銃撃した当人である羽生と、撃たれた当人である 老紳士だった。大きく仰け反っていたが姿勢を戻し、潰れた鉛玉を額から払い落とした。年相応のシワが刻まれた 眉間には黒ずんだ硝煙が付いていたが、穴すら開いていなかった。出血もしていない。

「この硬度と擬態の巧みさからして、ダイリセキだな? マスターのマスターが英霊に成り果てているということ ぐらい、この僕が知らないわけがないだろう。この僕を騙せると思うな、怪獣めが」

 撃鉄を起こしてリボルバーを回し、二発目を装填しつつ、羽生は距離を取る。

「何、羽生君と辰沼君の学生時代の話に花を咲かせようというわけではないよ。私は――魔法使いの眷属の一つ に過ぎないのだからね。私は魔法使いの恩師を模した怪獣だという自覚もあり、この人格が魔法使いが作り出した 理想のヴォルフラム・ヴォルケンシュタインであるということも認識している。だが、羽生君が在籍していた大学 の講師として教鞭を執ったのは事実であり、羽生君が教え子の一人であるのもまた事実だ。そして、羽生君に見合い を勧めたのも私だ」

 老紳士は二発目を喉に喰らうが、臆さずに歩いてくる。

「羽生君。君はとても優れた科学者だが、自尊心が高く、それ故に視野が狭い。その視野を広げてやるには、それ 相応の動機を授ける必要があると判断した。魔法使いと政府が君に類い稀なる才能があると知ったのは、君の故郷の 村を実験で消し去った後だった。遠縁の親戚に引き取られた君は、現実逃避をするかのように勉学に没頭し、高度な 知能があると示してくれた。それからというもの、政府は君が通う学校を通じ、君の才能をこちら側に向かうように 誘導させた。光の巨人の研究ではなく、怪獣の研究にね」

 羽生は三発目を込めようとしたが、撃鉄を起こした親指はひどく震えていた。

「こちらの思惑通り、君は惜しみなく才能を発揮してくれた。怪生研での研究が下地となった技術が企業に流入して きたからこそ、真日奔の経済は発展し続けている。だが、それだけではあまりにも勿体ない。怪獣使い亡き後の世に 栄えるためには、怪獣を使役する技術と機械だけでは不充分だった。そこで、魔法使いと政府は、君にもう一度発破を 掛け、怪獣にも人間にも光の巨人にも屈さない、戦う術を生み出させようと決めた」

 羽生の目前に歩み寄った老紳士は、白い手袋を填めた手で熱い銃身を握り、朗らかに笑む。

「昔から君はそうだった。追い詰められないと真価を発揮出来ない。だが、追い詰めてしまえば、窮地から脱そうと 足掻きに足掻いてくれる。――――君の子は、娘だったそうだね?」

 だんだんだんだんっ、と四連続で銃声が轟く。それを掻き消さんばかりに、羽生は吼えた。取り澄ました表情は 消え失せ、拳銃を握る手にも力が入り切っておらず、目尻には涙さえ浮かんでいる。それなのに、微笑むかのように 頬を歪めているのは、膨大な絶望に押し潰されそうだからだ。
 老紳士は顔に貼り付いた潰れた弾丸を払い、羽生の手中から拳銃を奪うと、空薬莢を捨ててから自前の弾丸を装填 し直した。雪と泥に汚れるのも構わずに突っ伏した羽生は、吼え続けている。己の力と頭脳で切り開いてきた 人生が作られたものだと知ったから、愛した女性と成した家族は奪われるために作られたものだと解ってしまった から、気が狂いそうになっている。バベルの塔の破片が撒き散らす騒音を塗り潰すかのように、彼は叫ぶ。

「魔法使いとその師匠が作り出した魔法の中でも特に強大なものが、光の巨人を呼び出す魔法だ。その方法は 様々だが、羽生君の村を消したものは比較的シンプルなものだ。化石怪獣を地中に埋め、音と光で刺激を与えて 熱量を生み出させるという仕組みだ。戦時中はその魔法を地雷のように使うことが検討されていたが、魔法使い は陸戦に回せるほど存在していなかったため、断念してしまったのだ。そこで考え出されたのが、円を描くよう に化石怪獣を地中に埋め、その中に敵を招き入れたところで化石怪獣を発動させて光の巨人を呼び寄せる、と いう魔法だよ。しかし、それではコストも時間もあまりにも掛かり過ぎる。そこで、羽生君に新たな技術を開発 してもらおうということになったのだ。それが、ヒゴノカミだ」

 老紳士は羽生の肩を蹴って仰向けに転がし、ナイフを抜いて軍服の襟元を切り裂き、折り畳み式の小さなカッター を取り出した。老紳士は銀色の刃を出すと、それを羽生の頬に当て、薄い傷を付けた。赤い血が汚れた雪に滴り、 銀色の刃を濡らす。外気温よりも更に冷たい空気が吹き付けると、老紳士の目の前に、子供程度の大きさの光の 天使が現われた。光の天使はふらふらと飛んでいき、瓦礫にぶつかると、自身と同じ質量の瓦礫を消し去った。

「ヒゴノカミはこの大きさで生まれてきた怪獣ではない。羽生君が開発した技術によって加工された怪獣だ。故に、 発する熱量は最低限。しかし、加工される際に与えられたダメージが蓄積しているため、怪獣が人間に傷を与えた 際に発する熱が加味された際に、光の巨人はそれを鋭敏に感じ取って出現する。光の巨人は人の子に対しては特に 敏感で、あの結婚式の際は人の子自身がそれを利用したがためにイナンナを取り逃してしまった。だが、今、人の子 はこの場にいない。しかし、人の子に近しい者はいる。その血を吸えば、魔法使いが仕掛けた魔法を発動させずとも、 怪獣使いとバベルの塔の破片を亡きものに出来るだろう」

 老紳士はヒゴノカミを掲げると、刃に赤い目が見開き、ぎょろついた。その視線は真琴をはっきりと捉え、真琴と その腕に巻かれたグルムはびくついた。声を張り過ぎたのか、羽生は息を荒げた末に激しく咳き込み、胃の中身を 吐き出した。鮫淵は狼狽えてはいたが、大人の義務を果たすべきだと考えたのだろう、真琴の肩を支えてくれた。 悲も真琴を支えようとしたが、躊躇い、手を下げた。その代わりに、老紳士とその手中の怪獣を睨んだ。
 その間にも、バベルの塔の破片は上昇し続けている。





 


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