懐かしくもおぞましく、暖かくも恐ろしい。 気付けば、空の下で寝転がっていた。真琴と戦って、負けて、池に投げ込まれて、御名玉璽を握った拳を池の底に 埋めて、それから。狭間は生臭い水に濡れた髪を掻き上げ、目を瞬かせる。水をたっぷりと含んだ服は重たく、硬く 絞まった布地が手足を締め付けるばかりか、容赦なく体温を奪っていく。けれど、不思議と寒気は覚えず、腹の内は じわりと熱を持っていた。風邪を引く前触れか、或いは既に発熱しているのか。 狭間は深く息を吐き、身を起こした。御名玉璽は、と右手の拳を開くと、小さな赤い結晶体は手中に収まっていた。 それから、辺りを見回した。居住臓器とも、横浜市内とも違う景色が広がっていた。かといって、ブリガドーンのよう に地球を見下ろしているわけではない。スニーカーを脱いで中の水を出し、せめてもの慰めになれば、と着ている服を 全て脱いで水を絞れるだけ絞り、髪も縛り直した。節々が痛むのは、ケンカで疲れたからというわけではないだろう。 心細くなったせいで無性に口が寂しくなったが、生憎、タバコもなければ爪楊枝もなかった。 石とレンガで組み上げられた建物が連なる、古い街。住民は一人もおらず、ネズミ一匹どころか怪獣の気配すら ない、空っぽの箱庭だった。埃っぽく黴臭い空気が淀んでいるが、街を彩る花々は瑞々しかった。恐らく、これは バベルの塔の破片が居住臓器に過去を封じ込めているのだろう。神話時代に栄華を誇った、古代バビロニアの都市 を再現しているのだ。狭間は物悲しさに駆られながら、平坦ではない石畳を歩いていくと、一際目を引く鮮やかな 色彩の門が待ち構えていた。冴え冴えとした瑠璃色で、陶器のように釉薬が塗られているのか、つるりとした光沢を 帯びている。様々な動物を形作っているレリーフは、美しい建造物を守護しているかのようだ。中でも特に目を引く のは、中央のアーチの上にあるレリーフだった。その姿は、彼女にとてもよく似ている。 〈それはイシュタル門だよ〉 穏やかな怪獣の声が、狭間の頭に響いた。 〈イシュタルとはイナンナの別名だ。バビロンの北にあった八番目の門なんだが、イナンナとエレシュキガルの戦い で壊されてしまってね。だから、今は私が複製したものしか残っていないんだ〉 「あんた、バベルの塔の破片だな?」 古代バビロニア人が描いたイナンナを見上げながら、狭間は声に応じた。 〈そうだね。なんとでも呼ぶといい。太古の昔には、エ・テメン・アン・キと呼ばれていたが〉 「天と地の基礎となる建物」 訳されるまでもなく意味を理解し、狭間は自分のことながら驚いた。怪獣の声が聞こえる体質は、怪獣の意思も 感じ取れるものだとは自覚していたが、異国の言葉までは理解出来なかった。シュメール語なんて知らんぞ俺は、 と狭間が困惑していると、エ・テメン・アン・キは少し笑う。 〈私の居住臓器の内側は、バベルの塔の力がまだほんの少し残っているからね。元より怪獣と通じ合える人の子で あれば尚更だ。私と共に在れば、人の子はベル・マルドゥクの加護がなくとも王となれるだろう〉 エ・テメン・アン・キが話すにつれて、旧い記憶が流れ込んでくる。黄金時代の残滓が砂に埋もれ、時の流れが 人類を原初に戻し、次なる時代が始まった頃。彼らが神であった頃、膨大な熱量を用いてバビロニアの営みを育んで いた頃、イナンナはエレシュキガルのクル・ヌ・ギアに光をもたらそうとした。金星のミンガ遺跡の力を使い、現世と 常世を交わらせ、生と死の隔たりを揺らがそうというのだ。いつ終わるともしれぬ戦いに疲れ果て、日に日に増える 死者に心を痛め、豊穣とは程遠い有様になってしまったバビロニアを憂いたが故の愚行だった。だが、クル・ヌ・ギア でエレシュキガルに敵うはずもなく、イナンナはそこで一度死した。イナンナは他の神話怪獣に助けを求めたが、それに 応じたのは賢神怪獣エンキだけだった。エンキは己の分身をクル・ヌ・ギアに送り込み、イナンナに接触し、復活する 方法があると言った。だが、この世の理までは曲げられないため、一度死した者は蘇ることは出来ない。故に、イナンナ の身代わりとなる者をクル・ヌ・ギアに連れ込まなければならない、と。他の神話怪獣は犠牲に出来ない、とイナンナ は思い悩んでいたが、イナンナ亡き後、神話怪獣タンムズがイナンナの後釜に収まろうとしていた。信仰心だけでなく、 守り育ててきた国までもを奪おうとしていた。そこで、イナンナはタンムズをクル・ヌ・ギアへと送り、死を肩代わり させた、というわけだ。 クル・ヌ・ギアにて七つの門をくぐったイナンナが、大地の甘い水の下たる現世に戻ってきた際にくぐるために 用意されたのが、八番目の門であるイシュタル門だ。旧い記憶が途切れると、狭間はいつのまにか詰めていた呼吸を 戻し、ずるりと座り込んだ。神話時代の荘厳な情景は、照和の人間の感覚には重すぎたからだ。 〈イナンナの子たる娘に焦がれるならば、人の子はヒエロス・ガモスとなるべきだ〉 聖体婚姻。神の伴侶となる人間。 〈人の子がヒエロス・ガモスとなるならば、私はクル・ヌ・ギアへの道を開こう〉 「……火星だ。俺が行きたいのは、帰還することのない土地じゃない」 〈だが、人の子。イナンナはそこにいるんだ。今、この世にいるのはイナンナの残滓だ。紛い物だ〉 「違う。俺が惚れたのは、俺が会いたいのは、イナンナじゃなくてツブラなんだよ」 狭間は濡れた前髪を握り、頭痛を堪える。エ・テメン・アン・キが発する怪獣電波が強すぎるからだ。 〈無数の死を喰らい、怪獣使いなどと呼ばれる者達も喰らってきたエレシュキガルは、紛い物とすら呼べないほど 乱れている。イナンナもまた、今の姿を得るために人の営みを喰らい、人の血を喰らい、人の命を舐めたがため、 俗な怪獣に成り下がってしまったのさ。だが、クル・ヌ・ギアで朽ち果ててしまったイナンナの骸に人の子の力で 命を吹き込めば、イナンナは再び現世に蘇る。イナンナの分身を通じて人の子と通じているイナンナは、人の子を 愛で、エレシュキガルをクル・ヌ・ギアへと封じるだろう。人の子、人々がブリガドーンに築いたものを見てきた だろう? 皆が皆、怪獣と通じ、怪獣に準じる力を欲し、怪獣と等しい命を求めていたのさ。人の子はイナンナと 契りを交わせば、人を超越したものになれる。それなのに、なぜ紛い物を欲するんだい?〉 「だから、イナンナじゃなくてツブラだ。俺が好きなのは、ツブラなんだよ」 〈強情だね、人の子。紛い物の神は人心を乱し、世を狂わせるものだよ。それが解らないのかい?〉 「ツブラは神なんかにさせやしねぇし、俺も神になんかならない。なりたくない!」 力任せにイシュタル門を殴るが、右腕が痺れただけだった。狭間は低く呻き、痛む拳を押さえる。 「それとも何か、神にならないとティアマトには会えないとでも?」 〈それは否めないね。怪獣聖母は怪獣の母にして長、大地にして空、万物を統べるものだ〉 「生き物を選り好みしやがって。それでも神様かよ」 〈神であるが故だよ、人の子。美しい庭を保つためには、木の枝葉を切り落とさなければならない。花々を剪定し、 雑草を抜き、枯れた葉を毟らなければ、秩序は保てない。考えてもみてごらん、この星が産まれて間もない頃から 息づいているのは我々怪獣なんだ。人間は己を霊長類の長と称してはいるが、我々からしてみれば、まだまだ幼い 種族だ。神話怪獣達が人間を守り、育ててきたのは、庭の出来栄えを競い合うようなものだ〉 エ・テメン・アン・キの静謐な声が、イシュタル門を軽く震わせる。 「庭……」 ブリガドーンに上り詰めた人間が、彼の上で理想郷を築こうとしたかのように。この星は、怪獣聖母の理想郷と なるべく幾度となく作り変えられているのだろうか。狭間の不安を察知し、エ・テメン・アン・キは言う。 〈そうだね。何度となく滅びが訪れ、何度となく再生が訪れた。黄金時代、神話時代、更にその前の時代、そのまた 前の時代、とあった。けれど、いずれも長らえる前に終局を迎えている。怪獣聖母が望んだことで時代が終わった こともあれば、怪獣聖母が望まずとも時代が終わったこともあった。終わらずに続いたこともあれば、また別の星で 続きをしようという結論が出たこともある。怪獣聖母がその重たき瞼を開き、麗しき眼で星を見つめれば、大地は 畏怖に竦み、海は感慨に打ち震え、万物は戦慄する。人の子は私を育て、伸ばし、怪獣聖母とその眷属が滅ぼした バベルの塔を再現しようとしているのだね。それは不可能ではないし、私も永い眠りには飽き飽きしていたところ ではあるけど、いかに私であろうと怪獣聖母の逆鱗に触れたくはないんだ。この土地は猥雑としているが、それ故に 居心地がいいんだ。人の営みは尊いものだからね〉 エ・テメン・アン・キであろうとも、ダメなのか。ここまで来たというのに、やっと火星に至る道を拓けると信じていた のに。狭間は無力感に苛まれ、冷たくも硬い門に背を預けて座り込んだ。紛い物の神話怪獣であろうと、イナンナ の残滓から生まれた複製品であろうと、劣化した神であろうと、狭間にとってのイナンナはツブラなのだ。ツブラ こそがイナンナであり、イナンナこそがツブラなのだ。怪獣聖母がいかなる試練を与えようと、乗り越える覚悟は 出来ていた。もう一度、愛おしい彼女に触れるためなら、どんなこともすると腹を括っていた。それなのに。 〈狂信、妄信、執心、いや……どれも違うね。人の子を狂わせているものに名を与えるだけ、無粋というものだね。 人の子はそれを愛だと思っているようだし、イナンナの紛い物もそう思っているようだけど、そう思うこと自体が慢心 なんだよ。なんて浅はかで愚かなことだろうか。けれど、何物にも割り切れない感情を括るためには、やはり名が 不可欠だからね。それもまた人類の文化であり、歴史であり、知恵だ〉 エ・テメン・アン・キの放つ怪獣電波が強まり、狭間の脳内にずるりと侵入してくる。思いがけないことに、狭間は ひどく動揺した。弾き飛ばそうにも、相手の出力が強すぎて出来なかった。急激に血流が良くなったからか、脳が 膨張して内側から破裂してしまいそうだ。吐き気にも襲われてしまい、背を丸めて咳き込むと、エ・テメン・アン・キ の声は脳と言わず骨全体を揺さぶってくる。 〈クル・ヌ・ギアを疎みながらも、死を恐れない。死に怯えながらも、生を蔑んでいる。人であることを憂いながらも、 怪獣でないことを恥じている。人の子、君の中を覗けば覗くほど、私は愉悦を感じざるを得ない。複雑にして単純、 簡素にして難解、直情にして劣情。もっと、もっと見せておくれ。怪獣聖母が人の子を欲したくなるほどに、この私 に熱を与えておくれ。人の子よ、その熱を分けておくれ。生殖本能から逸脱した、猟奇的ですらある性欲の根源が どこにあるのかも教えておくれ。怪獣聖母の古びた魂が冴え渡るような、狂気を感じさせておくれ〉 馬鹿を言うな、俺は純粋にツブラに惚れただけだ、と言い返そうとしても、喉が動かなかった。狭間はげえげえと えづくが、胃の中からは何も出てこなかった。それが更なる苦しさを招き、胸を押さえるが、沸騰したかのように 熱い血は全身を暴れ回り、細胞を一つ残らず高ぶらせた。無論、下半身もだ。 苦しさと快楽の板挟みになった狭間は頭に血が昇り、顔が熱く火照った。エ・テメン・アン・キが放つ怪獣電波 は強引に狭間の感情を揺り起し、神経を逆立ててくる。押さえようとしても無理だった。中でも特に強く刺激された のは、羞恥心だった。ツブラ、ツブラ、俺のツブラ。酔った勢いで情欲をぶつけようとしたが、寸でのところで我に 返った時の記憶が鮮明に呼び起され、それと共に生臭い性欲までもが剥き出しにされた。エ・テメン・アン・キとは 異なる波長の怪獣電波が滑り込んできて、狭間は拒絶しようとするが、精神の防護壁たる自制心を容易く剥がされた 状態では出来るはずもなかった。怪獣達に人生を蹂躙されながら、狭間は網膜の奥である景色を捉えた。 氷に閉ざされた大地だった。 正義とは何か。そもそも悪とは何か。 その答えを見いだせないまま、己の正義はどういう形をしているのかを見極められないまま、今、彼女の前に いる。吹き付ける潮風は皮膚を切り刻みかねないほど厳しく、鉛色の分厚い雲から零れる雪は重たく、火照った 体に触れては溶けて消えていく。緩やかな落下の後に両足で踏み締めたものは、ぐにゃりとしていた。 そこは、白みながら荒く波打つ海面だった。背後には横浜があり、目の前には――彼女がいる。藍色の海の底に、 冷え切った肉塊が静かに横たわっている。右手に重みを感じ、狭間は己の手を見下ろすと、そこには一振りの 刀が収まっていた。だが、それはライキリではない。鮮血を煮詰めたかのような、凶悪な赤が凝っている刀だった。 刃だけではなく、柄も鍔も鞘も下げ緒でさえも赤かった。柄を握り締めていると、ほのかな温かさが柄から手のひら に染み込み、エ・テメン・アン・キに蹂躙された骨と神経を癒してくれた。 刀が成すべきことはただ一つ、敵を斬り伏せることだ。短い間ではあったが、ライキリと共に過ごし、ライキリ を振るって戦っていたから、身を持って知っている。刃の切れ味の鋭さも、肉だけでなく骨さえも容易く断ち切れる 武器の恐ろしさも、その武器を腰に提げている重みも。 「俺に、ツブラを殺せというんだな?」 左手で柄を押さえ、刃の真上から右にずらした親指でぱちんと鯉口を切り、赤い刃を露わにする。 〈殺せ、というのは穏やかではないね。人の子がこの街に戻ってくる前に、獣の如き男が紛い物の紛い物に槍と毒 を撃ち込んで倒してしまったんだが、死んではいないよ。そもそも、我々には死はない。死に似ている、静かな終り があるだけだ。怪獣は火であり土、土であり水だ。肉体を変えて魂と記憶を保ち、この星を巡り続ける〉 「死にたくなるほど退屈だな、それは」 エ・テメン・アン・キの力なのだろうか、狭間は海面に直に立っていた。脱ぎ捨てたはずの服もいつのまにか身 に付けていて、履き潰したスニーカーの靴底がゆらゆらと不安定に揺れる波に触れていた。海面に薄膜が張られて いるかのような感覚は、さながら水を詰めたビニール袋を踏んでいるかのようだった。 〈イナンナはイナンナへ、エレシュキガルはエレシュキガルへ。穢れを断ち切り、神話へと戻すのだよ〉 狭間の視界の端では、横浜駅が隆起していく。そればかりか浮かび上がり、破片を散らしながら成長していた。 アスファルトを砕き、配管と配線を引き千切り、電流と汚水と砂と粉塵を撒き散らしながら、体積を膨張させていく。 これまで散々超現実的な出来事に遭遇してきたが、今度はどちらかと言えば非現実的な光景だった。これが事実で あってほしくない、と願っているから、そう感じてしまうのだ。 人の身でありながら海を渡る者がいるとするならば、それは神託を得た神の息子か、神話の中の住人だ。だが、 自分はそのどちらでもない。どちらでもありたくない。さっさと帰って熱いコーヒーでも飲みたい、いやむしろ ラーメンが喰いたい、と内心で呟きながら、スカジャンの襟を掻き合わせて首を縮めた。 巨大化したシャンブロウの顔の真上に歩いていき、狭間は白い息を吐いた。赤い目は白い瞼に閉ざされ、弛緩して 伸び切っている触手が海底に沿って沈んでいる。山のように大きな乳房は海面から出そうで出ない。乳房の間、 人間で言うところの心臓の位置には、黒髪を束ねて赤い棘を芯に用いた奇妙な槍が何本も刺さっている。カムロの 髪とリーマオの棘だ。古代中国史にでも出てきそうな形状の槍だったので、恐らく、ジンフーが幼妻と娘の怪獣 義肢を武器にして彼女を圧倒したのだ。何のために、とは考えてはいけない。暴力こそが正義である世界に生きる 彼らの倫理観は、狭間のそれとは根底から違うのだから、理解出来なくて当然なのだ。 だから、怪獣には狭間の思いなど理解出来るわけがない。理解などさせてやるものか。誰かに解ってもらおうと 思うような、薄っぺらい恋はしていない。海面に片膝を付けて身を屈め、水の上からツブラに触れる。凍えるほど 冷たいはずなのに、指先はひどく熱い。こんなにも美しく愛おしいものを斬れるわけがない。だから。 迷わず、刀を捨てた。途端に足場は崩れ、狭間は海中に没した。 15 6/26 |