横濱怪獣哀歌




禍ツ玉、穿ツ魂



 熱が生じた。
 二度と血の巡ることのない体に、温もりが戻ることのない手に、子を孕むことのない下半身の奥底に。その熱の 根源は怒りか、憤りか、或いは嫉妬か。悲はぬるりと不定形の闇で出来た下半身を波打たせ、魔法使いの模造品 と羽生の間に割って入った。声を放つための空気を肺から絞り出し切ったせいで、羽生は背を丸めてうずくまって いる。老紳士の魔法使い、否、ヴォルフラム・ヴォルケンシュタイン卿は、慈愛に満ちた柔らかな眼差しを闇の女 に注いできた。愛する人の死を認めたくない人間がダイリセキで死者を複製し、生前と同じように振舞わせることは 決して珍しくない。大石理子と、彼女と共に在ったダイリセキもそうだった。彼らは人間に酷似した外見となり、当人 の記憶と知識を仔細に再現するが、鏡に映った虚像でしかない。決まりきった言葉しか言えないので、会話し続けると トンチンカンなやり取りになる。だが、ヴォルケンシュタインはどうだ。事前に海老塚がセリフを言い含めていたとは 思い難いほど、複雑な言葉を口にしている。そればかりか、微妙な感情も仕草や表情で表現している。
 ならば、これは人間なのか。いや違う、怪獣なのだ。だが、それにしては出来が良すぎる。戦慄を禁じ得ず、悲は ヴォルケンシュタインとの距離を取った。羽生に逃げるように促したが、彼は硬直していた。他者に触れられる 体であれば、抱えて運んでやったのだが。となれば、なんとかして羽生を庇わなければ。

「私は何者か、見定められずにいるね? よろしい、ならば授業を始めよう」

 ヴォルケンシュタインは悲と向き合い、親しげな笑みを浮かべた。

「この私は、ヴォルフラム・ヴォルケンシュタインという男の生前の記憶を写し取ったマガタマを核として作られた、 ダイリセキの亜種ともいえる怪獣だ。といっても、一から魔法使いが作り上げたわけではないよ。そもそも、怪獣は 人工的に作れるものではないからね。ダイリセキを解剖してマガタマを摘出し、複数の怪獣の体液を混ぜ合わせた 体液をダイリセキの肉体に浸透させて体液を置き換え、そこに記憶を写したマガタマを埋め込み、魔法を掛けたと いうわけだよ。すなわち、私は人間の記憶と倫理観と感覚を持ち合わせながらも、怪獣としての自分を損なっては いない、人間でも怪獣でもないモノなのだ。自分を見失うこともないのさ。私は私という唯一の存在だという自覚が あるからね。人間のように群れていなくとも心は揺らがないし、怪獣のように繋がっていなくとも不安は感じない。 君のように、人間の姿を保ち続けなければ自我を保てないということもないのだよ」

 襟元を緩めたヴォルケンシュタインは、石で出来た素肌を覗かせた。白い手袋も外すと、化石のそれによく似た色と 硬さの素肌が現れた。泥と雪が乱れた地面から薬莢を拾い、これ見よがしに握り潰し、小さな金属片に変えた。

「故に、私は魔法使いの理想の集大成であり、魔法使いの欲望の権化であり、魔法使いの醜悪な執着心の凝固物 であることを自覚していながらも、魔法使いが望むままに振舞い続けた。それはなぜか? 答えは至って簡単、私は ヴォルフラム・ヴォルケンシュタインであったからだよ。第三帝国軍人の父と真日奔の令嬢であった両親を失い、 みなしごとなった少年を哀れみ、慈しみ、育て上げてきた男の感情があるからだ。魔法使いは己の禍々しい愛情を 理解していながらも、私を愛さずにはいられなかった。私もまた、魔法使いから情を注がれる限りは、応えて やらねばならなかった。なぜなら、私はヴォルケンシュタインだからだ。大旦那様だからだ。それが私の務めで あり、魔法使いに熱を与える術だったからだ」

 ヴォルケンシュタインは軍靴で雪を踏み躙りながら歩み寄り、悲と対峙する。

「怪獣使いになれなかった娘よ、血に疎まれた子よ、死して尚も現世に縋り付く女よ。お前は誰のためにその命を 燃やした? お前の命を費やした相手は、お前に応えてくれたか? 人として在るべきものを捨てただけの価値が あっただろうか? いずれもなかっただろうよ。そうとも、私は知っている。ヴォルケンシュタイン卿の記憶を通じて、 シュヴェルト・ヴォルケンシュタインがお前に近付いた理由も、シュヴェルト・ヴォルケンシュタインが将来を約束 していた女性のことも、シュヴェルト・ヴォルケンシュタインの末路も」

「――――だが、お前はこの僕については、呆れるほど知らなさすぎる」
 
 掠れ気味ではあったが、きっぱりと述べた。羽生は立ち上がると、手の甲で頬に付いた泥を拭った。

「この僕としたことが取り乱してしまったよ。情けないね」

「怪獣に通じてはいても怪獣使いにも魔法使いにもなれぬ者よ、悲しむことはない。その命と頭脳、決して無駄には しないと約束しよう。君の記憶と知能と思考パターンを複製し、保存してやろうではないか」

 ヴォルケンシュタインは羽生に振り返り、薄く笑う。

「この僕をかい? 冗談にしてもつまらないね、この素晴らしくも誉れ高く鋭敏にして高潔なる頭脳を備えた僕を、 お前のような怪獣如きが保存出来るとでも? それが出来たとしても、そこに出来上がるのはこの麗しき僕ではなく、 紛い物のつまらない僕だ。そんなことをされるだなんて、考えただけで脳の血管が切れてしまいそうだよ」

 羽生は切り裂かれた軍服の襟元を緩め、ネクタイを抜いて放り捨てる。

「この僕の人生が、お前と魔法使いによって出来上がっていたものだって? 馬鹿馬鹿しいね、バラストを撒いて 固めて線路を引いたのはお前たちかもしれないが、その上を走ることを選んだのはこの優秀なる僕だ。外堀を埋めて 誘導したとでも言うんだろうが、そんなものは詭弁だ。この気高き僕は、自分の意思で満月を選んだ。進学する大学も、 就職先も、職業も、今、こうして帝国陸軍の兵士になっていることでさえもだ。怪獣風情が思い上がるのも大概 にしてもらいたいものだな」

 いつも以上に早口でまくし立てて、羽生はヴォルケンシュタインに詰め寄る。ヴォルケンシュタインはそれもまた 想定の範囲内だと言わんばかりに、笑みを保っていた。羽生が更に距離を詰めると、ヴォルケンシュタインはすかさず ヒゴノカミを構える。だが、羽生は臆すころか、歩調を早めていく。

「お前の言う通り、この世界の財産たる僕はヒゴノカミを作り出したが、それがなんだというんだ。一つ作れたので あれば、なぜ、複数作っていると考えないんだい?」

 そう言いながら羽生は右腕を振り下ろすと、右手首のカーラーから細長く鋭い一本の針が飛び出す。ネクタイの 裏に仕込んであったのか、と悲は気付いた。だが、それはただの針ではない。しなやかに曲がり、自在に伸び、鞭の 如く空気を唸らせた。ヴォルケンシュタインは一歩身を引いたが、羽生が放った伸びる針は呆気なく間合いを詰め、 ヴォルケンシュタインの手中からヒゴノカミを弾き飛ばした。きぃんっ、と甲高い金属音が弾け、鉛色の空に銀色の 小さな刃が飛んでいった。羽生は細長い針金を空へと振り上げると、ヒゴノカミを絡め取り、取り戻した。

「なぜ、それを改良していると思わないんだい?」

 ヒゴノカミと針金を両手に携え、羽生は目を据わらせる。

「なぜ、この優秀の権化たる僕が己の技術を磨いていないとでも思うんだい?」

 君の名はジャコツだ、いいね、と針金に命じてから、羽生は狙いを定める。

「なぜ、この完璧という言葉を体現するために生まれてきた僕が射撃の腕を上げていたと思うんだい?」

 羽生の研ぎ澄まされた視線の先には、ヴォルケンシュタインが立っていた。棒立ちというわけではない、羽生から 奪った拳銃を構えている。怪獣電波を用いる怪獣使いならまだしも、口頭で意思を伝えるしかない羽生では、まず 勝ち目はない。ヴォルケンシュタインが引き金を絞る方が早いに決まっている。羽生の間に割って入るべく、悲は 下半身を広げようとするが、鮫淵が制してきた。ただ死ぬのを見届けろというの、と悲が言い返そうとすると、一瞬、 空気が熱した。振り返ると、羽生の右腕を緩く戒めている針金状の怪獣――ジャコツがヴォルケンシュタインの腹部 を貫いていた。先端は軍服の背を貫き、体液が薄く絡んでいる。だが、この程度の傷は怪獣からしてみれば掠り傷 程度でしかない。実際、ヴォルケンシュタインの表情は変わっておらず、余裕を保っていた。

「なぜ、この誇らしき僕がマガタマを生み出す器官の位置を知らないとでも思っていたのかい?」

 くにゃりとジャコウが身を捩ると、ヴォルケンシュタインの表情が一変した。目を見開き、口を歪め、喉の奥から人間 のそれとは懸け離れた声を漏らした。怪獣の言葉だ。羽生はジャコウを指でこするとむず痒そうに曲がり、うねうね と波打った。その度にヴォルケンシュタインの体は痙攣し、手足が弛緩する。

「では先生、不肖な生徒がお教えいたしましょう。この僕はあなたの教えには付いていけなかった。あなたはとても 優秀な学者であり、怪獣と人間の結合手術に関する理論と技術と発想は素晴らしかった。あれがなければ、トカゲ 男こと辰沼京滋は腐った闇医者にしかなれなかったことでしょう。ですが、あなたの理論の根底にあるのは、怪獣の 目線であり価値観だとこの僕は気付いていました。だからこそ、あなたの技術は画期的であり革新的だったのです。 しかし、あなたは怪獣を制御するために不可欠な中枢神経の位置と機能については、曖昧にしか教えてくれなかった。 それはそうでしょう、怪獣が人間の道具に成り下がってしまうマガタマが埋もれている場所なのだから。それを 人間に掌握されては、文字通り死活問題です。特務小隊に入り、トカゲ男が処置した怪獣人間と接し、彼らの肉体と 怪獣の結合を見させてもらいましたが、トカゲ男の場合は中枢神経を敢えて生かして、見事に人間の肉体と怪獣の 肉体を繋ぎ合わせていました。彼の本職は医者だからです。ですが、この僕は違います」

 羽生がジャコウを指に絡め、曲げると、ヴォルケンシュタインが奇妙な格好で仰け反った。

「この僕は科学者だ。怪生研に勤める怪獣生態学の研究者だ。故に、怪獣を解剖し、分析し、調べるのが仕事だ」

 故に、と羽生は語気を強め、ジャコウを銜えて噛み締めた。

「お前を解体し、今後の研究の糧にする」

 手と足が不規則に暴れ、頭を激しく回し、老紳士だったものは崩壊していく。手首がぼろりと崩れ、中身入りの 手袋が落ちるが、零れたのは灰色の砂だった。膝が折れると、スラックスの裾から溢れた砂が軍靴の中で山となる。 ざざざざざざ、と乾いた粉塵を上げながら崩れていき、平たくなった軍服が地面に舞い降りた。最後に残ったのは、 羽生が操るジャコウと、その先端が貫いている赤い鉱石だった。
 ヴォルケンシュタインであったダイリセキのマガタマには、一粒の雪が載った。だが、一瞬にして蒸発しなかった ことからして、熱はほとんど生じていないようだった。有り得ない、そんなことが出来るはずがない、人間が怪獣に 勝てるはずがない、と悲は言いたかったが、目の前で起きた出来事は疑いようがなかった。ヴォルケンシュタイン だったもののマガタマはどくんどくんと脈打っていたが、貫かれた部分からひび割れ、砕け散った。

「思った通りの結果が出た。さすがはこの僕だ」

 羽生はジャコウを口から出し、懐からハンカチを出して唾液に濡れた部分を拭った。

「行儀が悪いのは百も承知だけど、こうもしないとこの僕の生体電流がジャコウに伝わらないだろう?」

「で……でも、どうして、熱が起きないの?」

 悲が狼狽すると、羽生はヴォルケンシュタインだったものの砂山を一瞥する。

「簡単な話だ。熱というものは、分子が振動することによって発生する。それはこの宇宙の物理法則であって、何者 であろうとも捻じ曲げることが出来ない。だから、振動を与えずに急所だけを貫いてやったのさ。それだけのこと ではあるんだが、それだけのことだからこそ、ここに至るまでは散々苦労したよ。だが、その甲斐はあった。最初に 作った試作品はトカゲ男に奪われてしまったけど、あいつのことだ、無駄にはしていないはずだ」

 集中力の糸が途切れかけたのか、羽生はふらついたが、踏み止まる。

「離脱しよう、今度こそ」

「……え、あ、う、うん、そうだね」

 鮫淵は我に返ると、腰が抜けている真琴を抱え上げた。

「えと、その、真琴君、歩ける?」

「え、あ、まあ、はい、なんとか」

 羽生の所業に困惑しているのか、真琴も鮫淵のようにしどろもどろになった。

「だが、この方法には難点がある。一つは、過去に一度でも解体した経験がある怪獣でなければ中枢神経の位置を 見定められないこと。もう一つは、この僕の集中力にも限度があるということだ。更にもう一つは、こんなもの では怪獣聖母にはケンカは売れないということだ。ああ馬鹿だね、この僕としたことが馬鹿だよね、狭間君の話を 真に受けているのだから。……そうだろう、満月」

 羽生は自嘲気味に笑みを零していたが、空を仰いだ。悲はその方向を見上げ、気付いた。正確無比に火星の方角 を見定めていた。羽生は、ありもしない妻の幻影に話しかけていたわけではないのだ。火星にいるであろう、妻と 子に目を向けて語り掛けていたのだ。悲は今更ながら知った事実に、胸が締め付けられた。

「羽生さん、あなたは」

「みじめったらしい言葉を言わせようとしないでくれ、この僕に」

 羽生は一度深呼吸してから、悲の傍を通りすぎ、鮫淵と共に真琴を担いだ。

「この僕はね、満月ともう一度会うまでは死ねないんだよ。それだけのことだ」

 さあ行こうか、と羽生は千鳥足の真琴の腰を支え、歩かせてやる。鮫淵は真琴の顔色を窺い、血の気が少しずつ 戻ってきていることを確かめた後、歩調を早めた。その言葉は飾り気がなく、故に確かな重みを宿していた。
 悲の心中に鈍い痛みが広がる。どうして自分は死んだのか、なぜ命を捨てたのか、死ぬ必要があったのか。死してから 二十年以上も過ぎているのに、今になって後悔したところで何になる。初恋が報われなかったというだけで、短い 人生を終えることなんてなかっただろうに。子供の力ではどうにもならない理不尽な目に何度遭おうとも、安易に 絶望せず、生き延びたことを誇らしく思えばよかったのに。そうしていれば、今、真琴を支えてやれただろうに。

「……あ」

 頬を伝うものに触れたが、それは下半身と同じくどす黒かった。これは涙などではない、墨だ、泥水だ。悲はそれを 拭ったが、止まらなかった。次から次へと溢れてきて、止めようがなかった。真琴の頼りない背が黒く歪み、喉の奥 からは見苦しい嗚咽が漏れる。カナさん、どうしたんですか、と真琴が案じてくれたが、彼に気を遣わせてしまった 情けなさで余計に溢れ出してくる。シュヴェルト・ヴォルケンシュタインと心中したつもりでいたのに、そうでは なかったのだ。そもそも、シュヴェルト・ヴォルケンシュタインとは通じ合ってもいなかったのに。だから、見苦しく 現世に縋り付いている。そればかりか、血が通い、肉を備え、生を謳歌する少年を欲してしまう。
 綾繁悲という女は、怖気立つほど醜悪だ。





 


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