横濱怪獣哀歌




禍ツ玉、穿ツ魂



 ここは、三途の川か。
 それにしては、いやに居心地がいい。狭間は身を起こし、体の重たさに辟易しつつも目を瞬かせ、息が止まった。 茜色の夕日に染まった街が、四角い窓に収まっている。毛羽立った畳、日に焼けた壁紙、締まりの悪い蛇口から 垂れ落ちる雫、遠くから聞こえてくる車の走行音、それから――――傍らにいる彼女。
 忘れもしない、忘れられるはずのない、あの安普請だった。だが、これは夢だと解っている。きっと、狭間の肉体は 水中に没して窒息しているから、そのせいで意識を失って記憶が混濁しているのだろう。ミドラーシュの赤い砂時計 が見せ続けていた夢と同じようなものだとも認識しているのに、覚めてほしくないと願うのは己の弱さ故だ。狭間は 額に貼り付いていた前髪を掻き上げて寝転がり、彼女を抱き寄せる。

〈まひと〉

「おう」

 狭間の脳と神経と骨を震わせた声は、とろけそうなほど甘く、狂おしいほど懐かしい。

〈私は失敗した〉

「おう」

〈今、地球にいる私は、私によく似ている別物の私は、何物でもない。イナンナでもなければ、私自身でもなく、かと いってエレシュキガルでもなく、光の巨人でもない。紛い物の紛い物、私の残滓、私の淀み、私の穢れ〉

「おう」

〈真人は、今、困っている〉

「……おう」

〈私のせい。私があなたを巻き込んだから。私があなたを欲しいと願ってしまったから。私はイナンナ、イナンナに なるべき器、金星に戻らなければならない身、次世代の神話怪獣、次なる柱。けれど、私はあなたに名をもらった。 円環、輪廻、永劫回帰、転生、受胎、復活、あらゆる意味を宿した名を〉

「おう」

〈私は私、だけど私は私で在り続けることを許されない。私が私である限り、戦いは続いてしまう〉

「おう」

〈エレシュキガルは滅ぼせないし、滅びはしない。それはこの物質宇宙の理だから〉

「おう」

〈イナンナは滅ぼせないし、滅びはしない。それもこの物質宇宙の理だから〉

「おう」

〈だけど、あなたは滅びてしまう。……それもこの物質宇宙の理だから〉

「おう」

〈あなたはどうして怪獣ではないの? 私はどうして人間ではないの?〉

「おう」

〈ごめんなさい、これだけは言うべきではなかったわ。私は私でしかないのだから〉

「おう」

〈怪獣聖母とは通じ合えた?〉

「いや」

〈でしょうね、彼女は気難しいから。だから、無理に火星に来ようと思わなくてもいいのよ。あなたはあなた、人間は 人間として、人生を全うすべきだもの。体力さえ戻れば、エレシュキガルごと光の巨人の発生源であるミンガ遺跡を 封じることも出来るわ。そうすれば、あなたも、あなたの住む街も、あなたが生きる星も長らえられる〉

 するりと腕に巻き付いてきた触手が、狭間の冷え切った指に絡まる。愛おしげに、切なげに。

〈あなたの意識が肉体から乖離しているから、こうしていられるのよ〉

「死に掛けるの、これで何度目だ?」

〈そうね……一度や二度ではないわね。ごめんなさい、いつもこんな目に遭わせて〉

「いや、いいんだ。俺は、そうでもしねぇと自分が何なのかが解らなくなっちまう性分なんだ」

〈そう、なの?〉

「はっきりと自覚したってわけじゃないが、そうだろうな、とは薄々思っていたんだ。昔からだ。怪獣との距離が他の 人間よりもあまりにも近すぎるから、物事の距離感が普通の人間より鈍かったんだ。だから、千代の左目を潰した のも、俺なんだ。ムラクモに近付き過ぎなければ、ああはならなかった。ムラクモはじっとしているようでいて絶えず 身動きしている怪獣だから、ムラクモの周囲は土が削れていて木が何本も折れていたんだ。俺はムラクモや他の 怪獣から声を掛けられているから、どこに何があるかも大体解っていたし、怪獣もそれとなく俺を安全な方向に 向かわせてくれた。だけど、千代はそうじゃない。今までにも、何度もそんなことがあった。変な場所で石に躓いたり、 泥溜まりに填まったり、スカートの裾を枝に引っ掛けて破いたり、と。でも、俺はどうしてそうなるのかなんて、 考えもしなかったんだ。怪獣を鬱陶しく思っているくせに怪獣に守られているってことを自覚するのが嫌だったからだ、 なんていうのはただの言い訳だ。だから、俺は――――」

 彼女を抱き寄せて触手の束に顔を埋め、狭間は肩を震わせる。

「怪獣にはなれない、なりたくてもなれない。だけど、俺はただの人間じゃいられないし、いたくない。お前の特別で ありたい。だけど、どう足掻いても人間の括りからは抜け出せない。人間でしかないから、お前を人間のようにしか 扱えないから、こんなことしか出来ない。元から女でもなんでもないのに、女にしようとしちまった。俺は何になろうと しているのか、何になれるのか、何をすべきなのか、解ってもいねぇくせに、お前を台無しにした」

〈それは違うわ、真人〉

「違わねぇよ。俺がお前に欲情なんてしなければ、名前なんて付けなければ、お前は迷うことなんてなかった。自分 が産まれた理由も、目指す場所も、果たすべき仕事も、見失わずに済んだんだ」

 触手の束を掻き分け、白くつるりとした顔を探り、その柔らかな頬を両手で包む。

〈ああ……〉

 吐息に似たものを零した唇に指を添え、なぞると、新たな触手が狭間の指を求めてくる。

「それなのに、お前は俺を憎むどころか愛してくる。どうしてそうなっちまうんだ」

〈私は私。イナンナであり、イナンナではない。イナンナには、なりたくなかった〉

 ざわりと触手が割れ、彼女が顔を露わにする。少しだけ大人びた、十代前半とでも言うべき面差しだった。

〈私は私、だからイナンナにはなれない。神話時代は終わっているから。けれど、エレシュキガルは、怪獣聖母は、 エ・テメン・アン・キは神話時代を欲している。穏健派と呼ばれる怪獣達の思想の根底にあるのは、神話怪獣達の 回顧の念。ミンガ遺跡から光の巨人を生み出す動力源として使われているのが、郷里を懐かしむ人間の念なのも、 神話怪獣達は過ぎ去った時代に縛られているから。だけど、私はそうはなれなかった。なりたくなかった〉

「ならなくていい。なれないなら、なろうとするな」

 彼女の顔を何度も撫で、触れ、顔を寄せる。狭間は彼女と目を合わせ、破顔する。

「俺も、何者にもなろうとしない。なれないからだ。けど、俺はお前のものになりたい」

 華奢な指が狭間の肌を探り、髪を梳き、縋り付いてくる。

〈私をお嫁さんにしてくれるんじゃなかったの?〉

「ヒエロス・ガモスってやつだ。嫁に取るんじゃなくて、俺が婿入りしてやる」

〈ダメよ、いけないわ。そんなことをしたら、私は今度こそあなたを縛ってしまう。それだけは認められないわ〉

「俺を他の誰にも取られたくないなら、それぐらいのことをしやがれ」

 彼女の額から頬、頬から唇、それから首筋へと唇を当て、滑らかな肌を吸う。

〈いけない〉

 彼女は抗うように身を捩るが、振り解こうとはしなかった。それどころか、触手で狭間を繋ぎ止めてきた。

「会いたいんだ。会いたくて、こうしたくて、あの時の続きがしたくて、気が狂いそうなんだ」 

 彼女と世界を天秤に掛けることすら煩わしく思えるほど、彼女が――ツブラが愛おしい。

「ツブラ」

〈真人。私の、私だけの真の人の子〉

 重ねた唇からずるりと触手が滑り込み、喉の奥で粘膜と粘膜が接する。この息苦しさすらも懐かしく、狭間は夢中 で彼女の触手を貪った。けれど、これはただの夢だ。意識がクル・ヌ・ギアへと近付いているから、彼女が存在する 世界に引き寄せられているから、彼女の意識と通じ合えているだけだ。どうしようもなく空しく、馬鹿馬鹿しい、行為 とも呼べないじゃれ合いだ。息をする必要などないのに、呼吸が弾み、冷えた手足に熱が入る。

「会いに行く、必ずだ。その時まで、火星で待っていてくれ」

〈迎えに行くわ、必ず。その時まで、火星にいるわ〉

 指が、触手が、腕が、足が、体が離れていく。彼女が狭間を繋ぎ止めていられなくなったのは、狭間の肉体が息を 吹き返したからなのだろう。思わずそれを悔やんでしまいそうになり、自分の愚かしさに少し笑ってしまう。背中に 触れていた畳も崩れ、窓から見える風景も消え、懐かしい匂いが潮の香りに変わり果てた。喉に貼り付いているのは、 優しい触手の感触ではなく海水の辛さになった。氷の如き海中に投げ出され、水を含んだ服が手足を戒め、肺の中から 空気が逃げていく。その代わりに侵入してきた海水が臓器を犯し、淡く煌めく海面が遠ざかった。
 海底では、彼女の紛い物が緩やかに解けていた。




 息を吸い、咳き込み、海水を吐き出した。
 生きている。がくがくと震える体と軋む関節と、焼けるほど熱い涙がその証拠だった。海底に沈んだはずでは、と 狭間が虚ろな頭で考えていると、背中に触れている硬いものに気付いた。恐る恐る目を動かし、確かめると、船より も遥かに小さいが確かな浮力を備えた楕円形の板が狭間を載せていた。ウハウハザブーンである。
 なんでお前がこんなところに、と言いかけたが喉が枯れて声が出せない。狭間は苦労して身を起こし、背を丸め、 海面に海水を吐き戻してから、呼吸を整えた。改めて話そうとしても、やはり声が出ない。喉が腫れぼったく、異物 が詰まっているかのように狭まっているからだ。狭間は喉を押さえ、こりゃ扁桃腺をやっちまったな、と妙に冷静に 判断した。びしょ濡れになったのに着替えもせずにいたから、体が冷え切って風邪を引いたらしい。

〈人の子、生きているか?〉

〈なんとかな〉

 声を出せないので怪獣電波を放ち、狭間はウハウハザブーンに触れた。つるりとした体は、少しだけ暖かい。

〈横浜がえらいことになっていると知ってからは東京湾でうろうろしていたんだが、まさかこんなことになっていたと はな……。なんとか間に合ったからよかったが、そうでなければ人の子は今頃土左衛門だ。前から無茶をするとは思って いたが、いくらなんでもやりすぎだ。波に流されず、乗ればいい。そうすれば、無茶をせずに済む〉

〈ああ、そうだな〉

 そう返すだけで精一杯で、狭間は声を殺して必死に涙を堪えた。立ち上がり、踏ん張って、神話怪獣と戦わなければ ならないのに、ツブラの気持ちを確かめられたという嬉しさがそうさせてくれない。涙を拭おうとすると、右手に重み を感じた。あの刀は捨てたはずなんだが、と訝りつつ右手を上げると、そこには瑠璃色の柄の金色の剣が収まっていた。 刃に鋭さはなく、装飾が多いため、儀式用のものだった。それが何で出来ているのかは本能的に悟っていた。鍔に 埋め込まれているマガタマに触れると、温もりが返ってきた。彼女を抱き締めた時と同じ温度だった。
 その温もりは、狭間の魂を奮い立ててくれた。





 


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