横濱怪獣哀歌




南極物別レ



 二度目の空の旅は、長いようで短かった。
 空気抵抗の少ない高度まで上昇して飛行したのだが、生身の人間である狭間に気を遣ったため、重力操作能力 で加速に伴うGを軽減していたために丸一日時間が掛かってしまった。その最中、狭間は特に何をするでもなく、 高台から地球の曲線を見下ろしていた。前回は傍らに弟がいたが、今は悲とグルムだけだ。タバコは、結局口には しなかった。一度でも吸ってしまうと、決意やら何やらが煙と共に霧散してしまいそうだからだ。
 太平洋上空を過ぎ、オセアニア大陸も過ぎると、ついに目的地が見えてきた。教室の掲示板に貼り出されていた 世界地図や、体育館の古びたスクリーンに上映されるピンボケ気味の記録映画や、南極観測隊が撮影した写真など でしか目にすることがなかった白い大地があった。溶けることのない氷河に囲まれ、隙間なく雪が降り積もった、太古 の息吹が氷の下に封じ込められている地、南極だった。そして、怪獣聖母の住まう地でもある。
 だが、ここでまた新たな問題に直面した。どうやってブリガドーンから南極に降りればいいのか、ということである。 横浜から旅立った時は、物凄い力技でブリガドーンに上陸したが、次もそんな方法が通用するとは限らない。南極には 世界各国の観測基地があり、当然ながら観測員が駐在しているので、迂闊なことをして彼らに迷惑は掛けられない。 さてどうする、と狭間は考え込んでいたが、ふと気付いた。

「なあグルム、お前ってどのぐらい広がるんだ?」

〈人の子が考えていることが読めたが、それはちょっとさすがに勘弁してほしいんだが〉

 狭間の手首に巻き付いていた金色のスカーフが外れ、するすると逃げ出した。が、悲がそれを捕まえる。

「あ、私も解っちゃったかも。落下傘降下ね!」

「そうです、それが一番確実かなぁと。着陸するために着水していたんじゃ、ブリガドーンも再浮上するのが大変だろう し、色々と面倒なことになっちゃいそうなんで。といっても、そんなことしたことがないんで、グルムに任せるしかない んですがね。出来るだろう、出来ないとは言わせんぞ」

 なあグルム、と狭間がスカーフを取り戻すと、グルムは赤い目を瞬かせる。

〈ま、まあ、この俺にとっては落下傘降下なんてどうってこたぁない! 正義の味方は空から飛んでくるものだと相場は 決まっているしな! シビックの一台や二台、支えられないわけがない!〉 

「だ、そうだ。ブリガドーン、俺達を射出出来るようにしておいてくれ」

 狭間が命じると、ブリガドーンは緩やかに高度を下げ始めた。

〈解った。私もそんなことをするのは生まれて初めてだが、なるべく怪獣聖母に近い位置に落ちるようにしよう〉

「カナさんは落下傘降下って見たことあります?」

 狭間が尋ねると、悲は手を横に振る。

「あるけど、当てにしないでね。あれは陸軍がやることであって、海軍がやることじゃないもん。そりゃ、海上で撃墜された戦闘機から 脱出してパラシュートを開く兵士は何人も見てきたけど、友軍の戦艦が沈んじゃったり、助けが来る前に溺れたりで。 運良く地上に着地出来ることもあるけど、ジャングルに落ちちゃうともうダメね。通信機の類いも持っていないから、 見つけ出しようがなくなるの。戦闘の真っ只中だから探しに行く時間もないし、人員も少ないから、泣く泣く救出を 諦めるしかなかったのよ」

「それじゃ、その辺の怪獣から聞いてみますよ。落下傘降下をする兵士を乗せているのは輸送機でしたっけ」

「便利だけど厭味ったらしいわね、それ」

 怪獣電波を探り始めた狭間に、悲はちょっとむくれた。

「そりゃどうも」

 狭間は悲を一瞥し、メーを銜えた。今し方オセアニア大陸付近を飛んでいる輸送機の動力怪獣の存在を捉える と、早速聞いてみた。戦時中に落下傘降下をしたことはないか、と。だが、その輸送機はしたことがないと答えた ので、別のルートを飛んでいる輸送機にも同じことを聞いてみた。今度は経験があると答えたので、動力怪獣の 記憶を含んだ怪獣電波を飛ばしてもらい、ついでにそれをブリガドーンにも転送した。
 南極大陸に巨大で平たい影が掛かり、日光が遮られて雪が陰った。ブリガドーンの接近によって空気の流れ が変わったのか、穏やかだった海面に白波が立っている。ペンギンと思しき白と黒の生き物が大陸の端で一塊に なっていて、じっと寒さに耐えている。でっぷりと脂肪を蓄えたトドが這いずり、飛べない鳥を追いかけ回している。 周囲の景色に同化していたので見つけづらかったが、シロクマも何頭もいた。図鑑や動物園でしか目にしたことの ない生き物達の群れが真下にいるのだと思うと、なんだか感慨深い。
 ブリガドーンが局地的に空気の繭を緩めたのだろう、突如、冷気がどっと入り込んできた。悲は再びボンネットの 中に戻ってカナシビックとなり、狭間は手当たり次第に防寒着を着込んでからシビックに乗り込んだ。グルムは屋根に 貼り付き、四隅を車内に滑り込ませてきた。かすかな唸りと共に、次第に車体が傾いていく。フロントガラスの先に 見えるのは白い大地であることに変わりはなかったが、あまりにも色彩がなさすぎて遠近感が乏しくなる。狭間は口元 と鼻をマフラーで覆ってから、シートベルトを締めてハンドルを握った。
 カナシビックの両脇を、小石が、草の切れ端が、遠い昔に朽ち果てた屋敷の残骸が転げ落ちていく。それらは空中 庭園怪獣の敷地から脱すると、一直線に雪に吸い込まれていき、数秒後、音もなく没した。どう見積もっても、高度 五〇〇メートルは下らないのでは。もう少し地上に近付いてからにしてくれ、とブリガドーンに注文すべきだったと 気付いた時には、既に手遅れだった。カナシビックはエンジンを強めに蒸かし、アクセルをベタ踏みした。
 急激な加速によって発生したGが圧し掛かり、ぐ、と狭間は息を詰めた。上着を重ね着していても、肩から腹部に 掛けてシートベルトが食い込んでくる。タイヤが急速に回転するとオレンジ色の車体は矢のように放たれ、後輪が 空中庭園の端を踏み切ると、空中に躍り出た。フロントガラスが空で占められるが、直後、車体は大きく仰け反る。 考えるまでもない、荷物をトランクと後部座席に積み込んでいるからだ。しかし、それが思わぬ作用を生み、車体 はトランクを軸にして一回転した。ぎゃあ、と悲の悲鳴が上がった。聞きたくなかった。
 声を出せば舌を噛む、だが怖い、と狭間は懸命に激情を殺し、屋根に貼り付いているグルムに怪獣電波を放った。 悲の動揺に引き摺られたのか、グルムも僅かに呆然としていたが、怪獣電波を受け取って我に返った。カナシビック が見事なムーンサルトを決めた直後、グルムは平べったい体を思い切り広げて風を孕んだ。
 落下の勢いが緩み、上下が元に戻ると、狭間は運転席にへたり込んだ。心臓が痛むほど激しく暴れ狂い、左脇腹 の傷もずきずきと疼いている。ハンドルを握っていた手を放そうとしたが、指が固まっていて外れなかったので、 そのままにしておいた。何度となく死に掛けてきたが、これはまた特に強烈だった。

「狭間君、息出来る?」

 悲にカーステレオ越しに問われ、狭間はハンドルに突っ伏した。

「まあ、なんとか。……縮こまっちまいましたけど」

 落下傘降下をする直前に、出すものは出しておいてよかった。そうでなければ、思わぬところで失態を曝すところ だった。次第に近付いてくる地平線を眺めつつ、狭間は息を吸い、吐き、脳に酸素を回した。数十秒間の空中散歩の 後、四つのタイヤが雪を掴んで雪煙が上がった。フロントガラスに金色の布が貼り付き、赤い目がぎらつく。

〈どおだっ! やってやったぞ! ふ、へ、はははははははは!〉

「おー、偉い偉い」

 グルムをぞんざいに褒めてやってから、狭間はシートベルトを外して一旦外に出た。

「う」

 おお、すげぇ、と言いかけたが声が出なくなった。空気があまりにも冷たすぎて、一瞬にして口の中の粘膜が乾燥 して舌が上顎に貼り付いたからだ。踏み締める雪の感触は故郷のそれとは異なり、柔らかかったが、すぐ下にある 雪は硬く締まり切っていた。真冬の良く晴れた朝、雪面が凍り付いていることがあり、体重が軽い子供の頃はその上を 歩けていた。凍み渡りというやつだ。だが、大人になって体重が増えてしまうと、薄氷よりも儚い凍みた雪に呆気なく 足が埋まってしまうので楽しめなくなった。しかし、ここは違う。締まり切った雪は車さえも物ともしていない。
 猛烈なブリザードの彼方に、山がそびえていた。




 その山の名はエレバス山といった。
 地下世界を意味する神話怪獣の名を授けられた山だが、その地下深くには全ての怪獣を司る怪獣聖母ティアマトが 眠っている。順番がおかしくないか、とは思ったが、山に名を付けたのは人間なのだから仕方ない。そこに至るまで の道は平坦なようでいて、そうではない。雪の下にはごつごつとした岩の大地があり、恐ろしく底の深いクレヴァスも いくつもあり、ブリザードも吹き荒れ、思うように進めなかった。なので、南極大陸に上陸してから三日が過ぎたが、 マクマード海峡にすら到達出来ていなかった。
 南極大陸に隣接した火山島、ロス島の西側にあるエレバス山は白い蒸気を吹き上げている。標高は富士山よりも 高い3.794メートルだ、と事前に読んだ南極冒険記に書いてあった。道理でどこからでも見えるわけだ。南極大陸 からロス島に渡るための手段も考えなければ、と思い悩みつつ、狭間は拳大の雪の固まりをコッヘルに入れ、薄い鉄板 を四角く組んだかまどの上に載せると、かまどの下にグルムを丸めて突っ込んだ。グルムが赤い目を見開いてから しばらくすると、雪が解けて水になり、ふつふつと煮立ち始めた。

〈雑な使い方をしやがって〉

 湯沸かし器代わりに使われるのが不満なのか、グルムは丸まる。

「お前の余熱を有効活用してやったんだ、文句を言われる筋合いはない」

 狭間は四角いコッヘルを傾け、ステンレス製のマグカップに注ぎ入れると、インスタントコーヒーを溶かした。そこ に角砂糖を二つ入れ、スプーンでよく混ぜて溶かした。肝心の味は、苦いだけで風味もへったくれもない。しかし、 まともに味が付いているものを口にしないと気力が衰える、と印部島での生活でいやというほど思い知らされたので、 狭間はあっという間に冷めていくコーヒーを飲んだ。今なら、熱を欲して止まない光の巨人の気持ちが解る。

「あと何日ぐらいでエレバス山に着きますかね」

 狭間は再度湯を沸かし、それを魔法瓶に入れた。こうしておけば、道中でも暖かいものが口に出来る。

「そうねぇ……。順調に進めばあと二三日で到着出来そうなんだけど、ブリザード次第ね」

 雪中行軍って難しいわ、とボンネットから上半身を出している悲が渋い顔をする。

「白虎隊にはなりたくありませんから、頑張るしかないですね」

 狭間はまた新たに湯を沸かし、インスタントラーメンを入れて煮込んだ。麺が煮えてから、切り餅を入れ、最後 に粉末スープを入れて味を付けた。味噌と香辛料が混じった匂いが湯気と共に漂ったが、風に散らかされた。

「なんなの、その炭水化物の固まりは」

 怪訝そうな悲に、狭間はラーメンと餅が混ざったものをもちゃもちゃと喰いつつ返した。

「鮫淵さんに教えてもらったんですよ、登山中に最適な食事の作り方を」

「あら、意外。鮫淵さんって、あの性格からして登山なんて無縁だと思っていたんだけど」

「性格と行動力は別物ってことですよ。考えてみれば、あの人、サーフィンも出来るんですよね」

「そういえばそうだったわね。ちょっと忘れていたわ」

「んで、怪獣の研究には足を使ったフィールドワークが基本だ、とかなんとか言ってましたよ。だから、野営と登山 も慣れたものなんだそうです」

「なるほどねぇ」

 悲は感心しつつ、下半身の闇を伸ばして近付いてきたが、狭間はすかさずコッヘルを遠ざける。

「カナさん、メシ食ってる間はこっちに来ないで下さい。冷めるんです!」

「何もしなくても冷める状況じゃないの」

「クル・ヌ・ギアが相手だと熱が奪われる速度が段違いなんですよ! あっ、もう硬くなってきやがった!」

 狭間はフォークでラーメン餅を引っ張るが、冷えた部分から餅が固まり始めていて、麺と餅が一体化してしまっていた。 見るからに食べづらそうだったが、食べなければ勿体ないので、狭間は湯を足して伸ばしたりしながら、時間を掛けて 完食した。それから、湯を足して薄味の煮汁を作り、そこに輪切りにしたニンジンを入れて柔らかくなるまで煮込み、 食べた。野菜は食べておくに越したことはない。最後にもう一度白湯を沸かし、それを何杯も飲んだ。

「人間って面倒臭いわよねぇ」

 狭間の食事をまじまじと観察していた悲の呟きに、狭間は苦笑するが、頬が乾き切っていて皮膚が突っ張った。

「俺もそう思いますがね。でも、カナさんだってついこの前までは普通に食べていたじゃないですか」

「あれは食べていたって言うか、味だけ楽しんでいたの。口にした傍からクル・ヌ・ギアに入れていたから」

「そういうカラクリでしたか。あ、でも、酒には酔っ払えていたじゃないですか。口から摂取したものをクル・ヌ・ギアに 捨てていたとしたら、酔っ払えるものも酔っ払えないような」

「あぁー、あれは気持ちよかったわあー。生きているって感じがしたから。お酒ってそれ自体が神性があるから、神話怪獣 にも作用するのよ。お酒を司る神話怪獣もいたほどだし。確か、ディオニュソスだったかバッカスだったか。それに、世に 出回っているお酒の材料に怪獣の体液が大なり小なり使われているから、ってのもあるわね」

「酒かぁ……」

 神話怪獣も酒に酔うのであれば、ヤマタノオロチのように酔わせてしまえば怪獣聖母も大人しくさせられるの では、とは思ったが、土台無理だとすぐに気付いた。第一、酒はほとんど持ってきていないのだ。狭間は自分の考えの浅さ にげんなりしながらも、雪を擦り付けてコッヘルと食器を洗い、熱が引いたグルムとかまども回収した。

「で、怪獣聖母にケンカを吹っかけて買ってもらったとして、狭間君に勝算はあるの?」

「つまらないことを聞かないで下さい」

「そうよね、そんなものがある方がおかしいわ」

「解っているなら、聞かないで下さい」

「だって暇なんだもの」

「それはお互い様です」

 話し相手がいるだけ、まだマシだと思うべきだ。狭間は車内に戻ったが、防寒着を上から下まで着込んでいるので、 運転席に収まるだけでも一苦労だった。あっという間に皮膚が乾燥してひび割れてしまうので、白色ワセリンを たっぷりと塗り込み、馴染ませる。べとつく手を手袋に収め、ハンドルを握ると、悲がエンジンを震わせた。
 まだまだ先は長い。





 


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