横濱怪獣哀歌




南極物別レ



 写真を一枚撮ってもらった。
 古代喫茶・ヲルドビスを背にして、狭間は弟と悲と並んだところを鮫淵仁平に撮影してもらった。彼の私物である 立派なレンズが付いた一眼レフカメラに収めてもらったのだから、被写体はともかくとして映りは良いだろう。鮫淵は フィルムを一枚分巻き取ってから、大柄な体を縮め、分厚いメガネの下で目線を彷徨わせた。どんな言葉を掛けた ものか、と悩んでいるらしい。昨夜、ヲルドビスに来ようと思ったけどどうしても来られなかった、だから今頃に なって来てしまった、と何度となく呟いていた。

「どうもありがとうございました、鮫淵さん」

 狭間は鮫淵に礼を述べ、店の玄関からこちらを窺っていた海老塚に一礼した後、コートの下に手を入れてベルトに 差し込んでいた鞘に手を掛けた。メーは既に熱を帯びている。降りしきる雪の密度も、雪雲の重苦しさも代わりは なかったが、エ・テメン・アン・キは空を貫かんばかりに伸び続けていた。
 ヲルドビスに通じる坂道に立っていた羽生鏡護技術少尉は、目を凝らして元横浜駅のバベルの塔の破片をじっと 見上げていたが、手元の手帳に数字と図形を書き込んでは計算を繰り返していた。彼の手首からは、細い針金状 の怪獣、ジャコツがしゅるしゅると伸びてきて、興味深げに計算式を覗いている。

「三角測量なんてするの、何年振りかな。もっとも、この素晴らしき計算能力を備えた僕には簡単すぎるんだが」

 羽生は手帳を閉じて軍服の胸ポケットに入れると、雪が踏み固められた道を歩いてきた。

「この場所の海抜と横浜駅までの距離と見上げた角度を元にして計算したんだけどね、エ・テメン・アン・キの全長 は現在八〇メートルと少々、高度は二〇〇メートル前後。それから、エ・テメン・アン・キに狭間君が熱を照射した のが五十六時間前で、それ以前は全長五〇メートル弱で高度一〇〇メートルを維持していたんだが、二日と少しで 三〇メートル以上も成長するだなんて面白すぎてどうにかなってしまいそうだよ。伊達にバベルの塔ではないね」

「え、あと、その、膨張に伴ってエ・テメン・アン・キの周囲の気温が急激に上昇しているらしくて、元横浜駅付近 に行くと雪が降ってこなくなっているんだよ。場合によっては、雨粒さえ途中で蒸発してしまう。それほどの熱量を 帯びていても光の巨人が現れないのは不思議ではあるけど、その、僕はこういう仮説を立てた。神話怪獣、或いはそれ に準じた怪獣が発する熱の波長は光の巨人の放つ波長と全く同一だから、認識されていないんじゃないか、って。 だけど、そういうことだとすると、光の巨人を視認出来るのが疑問に思えてくるんだ。世界を飛び交っている光線の 波長は人間の網膜では捉えられないものが多いから、光の巨人はそういった波長の光線を使えば人間にも怪獣にも 気付かれにくくなるはずなのに、敢えて自分の姿を曝す波長の光を使っているんだ。それが気になるというか」

 鮫淵はメガネを掛け直し、独り言のように持論を並べ立てた。

「ええと、差し出がましいのは承知の上ですが、俺はこう考えました。光の巨人は、人間なり怪獣なりに存在を認識 されることによって事象が確定し、物質宇宙に出現するのではないか、と。兄貴から神話怪獣の色んな話を聞いて みたんですけど、神話怪獣は人間に神性を認めてもらうことで神格を得ている怪獣なので、光の巨人もそういった 仕組みで成り立っているのではないか、と。エレシュキガルのクル・ヌ・ギアにしても、エレシュキガルという神話 怪獣が存在しているからこそ認識出来るあって、エレシュキガルが存在していない世界ではエレシュキガルという 概念すらないのだから、ただの影でしかないのではないか、と。……ええと、その、すみません。浅学なもので。 宗教と物理がごちゃ混ぜになってしまって」

 真琴は科学者達の前で持論を展開したが、言い終えてから気後れして赤面した。

「いや、それが正解に最も近い理論だと思うよ」

 羽生は手袋を脱ぎ、左手の親指に残る薄い切り傷を見下ろした。

「この僕を含めた地球上の全生物は、いつの頃からか光の巨人に怯えていた。神話時代以前はそうではなかったと いうのに、そういうモノが現れてからは本能に刻み込まれてしまった。この僕は怪獣研究には不可欠な世界各地の 民間伝承にも通じていてね、光の巨人に関する民話やら何やらも調べられる限り調べたんだが、神話時代以降、 極冠近くの狩猟民族から密林の山奥の部族から離島の少数民族まで、ありとあらゆる民族に光の巨人絡みの神話 が生まれていた。それこそ、我らが真日奔にもね。オオクニヌシノミコトが中つ国より降臨し、国生みを終えた 後ではあったけどね。世界中の神話の類似性を研究する比較神話学という学問があるんだけど、その研究が大いに 捗りそうな話ばかりだよ。この僕達は怪獣達と遠いようでいて、その実は限りなく近いのかもしれないね」

「その辺のことは、俺が火星に行った後にでも調べて下さい」

「そうさせてもらうよ。ああ面白いね、面白いね。考えることがありすぎて、楽しくて困ってしまう」 

 狭間の言葉に、羽生は手袋を填め直しながらにたりと口角を上げた。

「ところで、その、狭間君は南極へはどうやって行くつもりなんだい」

 まさか船じゃないよね、と鮫淵が案じてきたので、狭間は上空を示した。

「ブリガドーンに話を付けてきたんで、これから港まで行って拾ってもらいます」

 突如、暴風が吹き荒れて雪が途切れ、鉛色の雲が切り裂かれた。そこから現れたのは、土色の巨大な円盤―― 否、空中庭園怪獣ブリガドーンに他ならなかった。反重力能力の余波を受けたからか、横浜のそこかしこから 壊れた車や雪の固まりが浮かび上がっては落下し、民家の屋根に大穴を開けていた。無駄に被害が増えたじゃないか、 これでまた税金が使われてしまう、と羽生が苦い顔をした。

「で、ブリガドーンに運んでもらって南極に着いたら、今度は私の出番ってわけ」

 悲はしゅるりと雪道を滑ると、愛車のオレンジ色のシビックに近寄った。小次郎がレッカー車を操り、ヲルドビス の駐車場まで運んできてくれたのである。何せ、動力怪獣がいないのだから。悲は運転席の窓の隙間に にゅるりと闇を差し込み、ドアのロックを外してから、ボンネットのロックも外した。肝心要の動力怪獣が いないエンジンルームの中に収まった悲は、内側からボンネットの蓋を閉めた。

「ほうら!」

 そして、どるん、とこれ見よがしにエンジンを蒸かしてみせたばかりか、ハンドルを回してタイヤも捻る。

「うわあ、小次郎君ってば上手ねえ! 前輪の動きがちょっと悪いかなーって思っていたんだけど、気持ちよく 動くわ! おまけにチェーンも履かせてもらって! これなら南極だってどこだって行けるわ!」

 悲ならぬカナシビックである。真琴は呆気に捉えていたが、ああ、哀さんと同じことをしたのか、と納得した。狭間が 思い出したのは、大型の外車のボンネットに収まった藪木の姿である。動力怪獣になるのはどんな気持ちがする んだろうか、と思いかけたが、どう考えても理解出来そうにないので考えないことにした。

「真琴、手伝え。必要物資をカナシビックに詰め込むんだ。後部座席にもだ」

 狭間が弟を促すと、真琴はヲルドビスの裏口に回った。

「その名前、どうにかならないの? いくらなんでも安っぽすぎない?」

「ならん。というか、それ以外思い付かなかった」

 狭間は自分の語彙の乏しさに苦笑しつつも、食糧を始めとした物資を入れた箱を積み込んだ。図書館にあった 冒険記を元にして、保存の効く食糧、燃料、防寒着、衣服、水、方位磁石、いくらかの嗜好品が入った木箱を後部座席 とトランクと助手席に詰めた。

「そういえば、羽生さん。俺達が怪獣聖母にケンカを売りに行くこと、照和基地には連絡しました?」

 狭間は紐を使って木箱を床に縛り付けてから言うと、羽生はへらっとした。

「一応、国立極地研究所に電話を掛けてから照和基地とも連絡を取ろうとしたんだけど、どっちも繋がらなくてね」

「本当に電話したんですか」

「したけど、繋がらなかった。電電公社の交換局に問い合わせてみるといい、掛けたという記録はあるんだから」

 それはどうだか。羽生の胡散臭い笑みを見ているうちに、狭間は半笑いになった。どうせ、許可を求めたところで 突っぱねられるのが関の山だし、そもそも相手にしてくれるはずがない。だから、世の中が混乱しているうちに事を 進めてしまおう、という腹なのだ。後でどうなっても知らんぞ俺は、と狭間は笑いを収めた。

「兄貴、これ」

 真琴が躊躇いがちに差し出してきたのは、封を切られていないゴールデンバットだった。

「ん、あ、おう」

 狭間がそれを受け取ると、真琴は苦笑する。

「吸ってみようかと思って買ったんだけど、吸う機会を逃したんだ。それに、俺は上手く吸えないだろうから」

「良い機会だから、タバコはやめちまおうって思ってたんだがなぁ」

「いらないんなら返せよ、俺の小遣いで買ったやつだし」

「いや、いる」

 狭間はコートのポケットに弟のタバコを押し込んでから、真琴を小突いた。

「火星で父さんと母さんに会ったとしても、このことは内緒にしておいてやる」

「いいよ、別に。言ってくれたって」

 真琴はやりづらそうだったが、兄を窺ってきた。

「帰ってこられる?」

「何度も言うようだが、その気はねぇよ。地球から勘当されに行くんだからな」

「デタラメにも程がある」

「どうとでも言え。俺とカナさんの部屋のモノは、適当にどうにかしておいてくれ」

「なんだよそれ。曖昧な言い方をされると困るんだけど」

「まあ、お前のやりたいようにやれってことだ。で、グルムは俺が連れていっていいんだな?」

「うん。俺には使いこなせそうにないし」

「枢さんのこと、頼むな」

「ヒツギがいるじゃないか」

「あいつは怪獣だ。それと、あの子と面識がある一般人は真琴ぐらいなもんだろ。あと、つぐみちゃんとコジ」

「……あと、なんだっけ。なんか、言いたいことがあったはずなんだけど」

「俺もだ。今のうちに言っておかないとならないことがあった気がしたんだが、思い出せねぇや」

 真琴と向き合い、狭間は肩を竦める。真琴は薄く笑ったが、メガネを外して雪の粒を拭った。

「うん。あ、そうだ。あれがあったんだ」

 ちょっと待っていて、と言い残し、真琴はヲルドビスに飛び込んで階段を駆け上がっていった。程なくして 下りてきた真琴の手には分厚く膨らんだ百貨店の紙袋が提げられ、店名の上には『ホウオウカメン 十三部』との 厳つい字が書かれていた。真琴は軽く息を弾ませながら、紙芝居が詰まった袋を掲げる。 

「これ、野々村さんの奥さんが兄貴にって。俺が留守番している時に店に来て、渡していったんだよ。鳳凰仮面 の結末を書けるのは野々村さんだけだけど、もしかしたら兄貴だったら続きが書けるかもしれないって言って」

「畏れ多いな」

「これ、持っていってくれないかな。俺はちょっとだけ鳳凰仮面になったけど、やっぱり俺じゃないんだ。兄貴の 鳳凰仮面も、本物の鳳凰仮面とは違う。俺が知っているのは本当に少しだけだけど、でも、ああ……なんだろう、 上手く言えない。言えない。怪獣電波が少しでも使えれば、このぐちゃぐちゃしたやつが伝わるのにな」

 兄の胸に紙芝居の束を押し付け、弟は一度深呼吸する。

「兄貴のバイク、俺が使ってもいいかな」

「永久に貸しておいてやらぁ」

 上手く言えないのは、狭間も同じだ。今にも泣きそうだが、泣くわけにはいかないと懸命に激情の嵐を堪える真琴 がいじらしく、狭間は弟の肩を軽く叩いた。それから、その手の中にホンダ・ドリームの鍵を捻じ込んでやると、 鳳凰仮面の紙芝居を積み込んだ。羽生の手紙も、佐々木母娘の願いもだ。
 荷造りをしている間にも、ブリガドーンは降下し続けていた。緩やかに旋回して横浜湾を目指しているが、大和型 戦艦である狗奴国を邪魔に思ったらしく、反重力能力で無作法に浮かび上がらせていた。荷物の積み込みと固定を 終えると、狭間は運転席に乗り込んだ。

「どうぞ、いってらっしゃいませ」

 海老塚がうやうやしく頭を下げたので、狭間は返礼した。

「いってきます、マスター」

 シートベルトを締めてイグニッションキーを回すと、エンジンが高鳴る。暖気を行うためにしばらく蒸かしている と、怪獣達のざわめきが狭間の脳をくすぐってきた。応援、激励、非難、罵倒、文句、嘲り、なんでもありだ。穏健派 と強硬派が競い合っているが、どちらも拮抗していた。その騒がしさは煩わしかったが、それも当分は聞けなくなる のだと思うと、心の底からせいせいした。バックミラーに映る弟から目を逸らし、ハンドルを握る。
 ギアを切り替え、アクセルを踏み込んだ。



 がたつく雪道を通り、横浜港に至った。
 あの日、横浜駅目掛けて落下してきた空中庭園怪獣は、海面に触れるか触れまいかという微妙な高さに浮遊して いた。ワニを並べて陸に通じる道を作った因幡の白兎の如く、ブリガドーンと港の間には板を渡したボートが一列 に並んでいた。ボート同士が離れないようにするためか、鎖で繋げてある。三国志の赤壁の戦いみたいね、とカナ シビックは呟いた。ボートの動力怪獣達と鎖に練り込まれている怪獣の肉片が独りでに動き出し、このような形を 作ったのだろう、港で作業をしていた人々は呆然としていた。
 そんな人々を横目に、カナシビックは一気にアクセルをベタ踏みした。最初のボートに飛び移るためには、桟橋 から飛び降りなければならないからだ。急激に発生したGによって運転席に体を押し付けられ、狭間は息が詰まり そうになったが、次の瞬間には息を呑んでいた。海面が真下に見えたからだ。

「ひゃっほおおおおおっ!」

 歓声を上げながら宙に躍り出たカナシビックは、車体の隙間から出した闇の触手でボートを掴み、触手を縮め ながらボートに着地した。すぐさま加速し、ボートとボートを繋いでいる板の上を駆け抜けていく。路面という には頼りない道を邁進していくが、波が荒くなり、二つ先のボートが傾いて板がずり落ちそうになった。だが、 カナシビックは原則などせずに突っ込み、傾いた板をものともせずに走り抜けた。次のボートに辿り着いた途端 に、背後では板が滑り落ちて水柱を立てた。
 肝が冷える瞬間が何度も訪れたが、どうにかこうにかブリガドーンまで辿り着いた。土が剥き出しの側面を がたがたと昇っていき、柔らかな草が生えたブリガドーンの上で停車すると、狭間は震える手でシートベルトを 外して転げ出た。生きた心地がしなかった。

「……カナさん、外道」

「落ちたら落ちたで、私のクル・ヌ・ギアで引っ張り上げてやるから問題ないじゃない」

 ボンネットが開き、悲が上半身をぬるりと出してきたが、狭間は気力を振り絞って言い返した。

「そっちの方が問題です! 即死します!」

〈人の子、久し振りだな。だけど、大丈夫か? 顔色悪いが〉

 ブリガドーンが案じてきてくれたが、狭間は片手を上げて制する。

「大丈夫だ。だから、さっさと行ってくれ」

 ぐずぐずしている暇などないのだから。狭間が再度命じると、ブリガドーンは狭間を気にしつつも浮上した。悲は ボンネットの中に戻ると蓋をして、ちょっと寝る、と言った。ブリガドーンが纏っている空気の繭の内側は常春で、 コートを着ていては暑苦しい。狭間はコートを脱いでから地面に寝転がり、次第に近づいてくる空と、時折視界の 隅を駆け抜けていく熱線を捉えながら、南極に思いを馳せた。
 タバコを銜えようとしたが、やめておいた。





 


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