横濱怪獣哀歌




雪ノ降ル港町ヲ



 古代喫茶・ヲルドビスに、久し振りに明かりが灯った。
 停電して久しいので、動力怪獣を内蔵した発動機から電気を得た。ガス玉怪獣にはそれなりにガスが残っていた のと、真琴が頻繁に手入れをしてくれていたおかげで、厨房は問題なく使えた。冷蔵庫の中身は傷みやすいものは 片付けられていたが、冷凍庫に入れられていた食材や保存の効く食材は残っていたので、それを使えばそれなりの ものは振舞えそうだった。それを知ると、海老塚の面差しが綻んだ。
 軍服を脱ぎ、喫茶店のマスターに相応しい服装となり、エプロンを付けた海老塚は、コーヒー豆の焙煎を始めた。 その間、久し振りにウェイターの制服に着替えた狭間と真琴は店を開く準備に忙しく働いた。テーブルを拭き清め、 水差しとコップを用意し、うっすらと埃を被った食器を綺麗に洗い、メニュー表を玄関に出し、カーテンを開け、来る はずのない客を出迎える用意をした。悲も床の掃除などを手伝ったが、一通り仕事を終えると、いつも座っていた席 に腰掛けて、否、下半身を収めて窓の外を眺めた。だが、雪が積もり過ぎて、窓を塞いでいる。

「ちょっと雪掻きしてくるわ」

 これじゃ気分が台無し、と悲は腰を上げた。

「雪掻きのやり方なんて知らないでしょう、カナさんは。俺がやった方が確実です」

 狭間はエプロンを外して革靴から長靴に履き替えると、外に出た悲を追いかけた。軍手を填めてからスコップを手に 取り、悲にやり方を教えるために雪にスコップを突き刺した。腰にライキリを下げていないので、下半身が軽い。

「いいですか、カナさん。雪掻きってのは単純に見えて結構大変なんです」

「おはようございます」

 不意に声を掛けられ、狭間が顔を上げると、傘を差し掛けて厚いコートを着込んだ九頭竜麻里子がいた。その傍らには、 傘を差さずに雪に降られるがままになっているジンフーがいた。

「……あ」

 狭間が面食らうと、麻里子はマフラーに覆われた首に触れる。その後ろ髪は綺麗に切り揃えられている。

「あなた方が帰ってきたことを聞き付けたのです、カムロが。太平洋上で何をなさったのかも、存じております」

〈ボニー&クライドをぶった切ったライキリは、強硬派の誉れだ。人の子、よくぞやってくれた〉

 麻里子の短い髪がうねり、カムロが赤い目を見開いた。

「怪獣殺しの怪獣使われに何の御用で?」

 狭間がスコップの柄を握り直すと、麻里子はヲルドビスを示した。

「いえ、狭間さんにではありません。店が開いたのでしたら、仕事をしませんと。私はアルバイトですから」

「いや、別にいいですよ。マスターが自分のために開けたようなものですから」

「私だって、マスターにお会いしたいのです。ジンフーさんもそうお思いだから、私に付いてきたのでしょう?」

 麻里子が上目に夫を窺うと、黄色と黒の派手なスーツの上にコートを羽織った壮年の男は頬を歪める。 

「そりゃあのう。儂らを散々弄んでくれおった魔法使いの御帰還とあらば、出迎えてやらにゃあならんのう」

「マスターに手を出すつもりですか」

 狭間が柄を握る手に力を込めると、ジンフーはにたりと牙を剥く。

「なあに。あの男が淹れるコーヒーを、一杯もらおうと思うただけじゃ。あまり気張るでないわい、人の子」

「そういうわけですので、着替えてまいります」

 麻里子は肩から下げていたカバンを掲げると、一礼し、店の中に入っていった。儂ぁ麻里子を待っとる、と言い、 ジンフーもまた店内に入った。狭間はちょっと拍子抜けしたが、スコップの柄から手を外す。

「うぃーっす」

 元町商店街に通じる道からやってきたのは、真冬であろうとも禿頭を曝している寺崎善行だった。雪が膝近くまで 積もってしまっては、さすがの彼もサバンナを乗り回せないので、徒歩だった。彼に伴われているのは、不愉快さを 隠そうともしない顔の九頭竜総司郎と数人の若衆、そして九頭竜らから距離を置いている佐々本つぐみとその母親の うらら、作業着の上に古臭いマントを羽織った小暮小次郎だった。

「情報早いですね」

 麻里子さんとジンフーさんが来ましたよ、と狭間が店内を示すと、寺崎は横浜港に横たわる狗奴国を指す。

「あーんな馬鹿でかい軍艦で乗り付けたとあっちゃなあ。帝国海軍まで顎で使うたぁ、おっかねぇなあ」

「不可抗力です。狗奴国を使わないと、帰るに帰れない状況だったんですから」

「須藤と御名斗は一緒じゃないのか?」

「……お二人は、遠くに行きましたよ」

「死んだのか」

 寺崎の声色が強張り、サングラスの奥で眼差しが陰る。

「厳密に言うと、死の世界に旅立ったんです。クル・ヌ・ギアの中へ」

 狭間は悲を気にしつつも、寺崎に言う。

「けれど、俺はお二人が不幸になったとは思いませんし、思えません。だから、あれでよかったんでしょう」

「そんなことはバイト坊主が決めることじゃねぇし、俺にもそれを決める権利はねぇよ」

 寺崎はタバコを銜えると、すかさず若衆が火を着けようとしたが、寺崎はそれを制して自分で火を着けた。

「けど、あいつらがいないと寂しくなるなぁ。ねえ、親分」

「九頭竜会を背負って立てるのは須藤だと思っちゃいたんだが、当てが外れたな。色狂い共めが」

 九頭竜は心底忌々しげに吐き捨て、ヲルドビスに入っていった。寺崎は肩を竦めたが、九頭竜の後を追って店内 に入った。若衆達は悲の姿の異様さに臆しつつも、舎弟頭に続いた。早速、九頭竜はジンフーに絡んでいったが、 着替えて下りてきた麻里子に止められていた。あれが彼らなりの強さなのだ、と狭間は感じ入る。裏社会の悪路を 突き進みながら生きていくには、気持ちをすぐに切り替えなければならない。内心でどれほど動揺していたとして も、部下の手前、態度を変えるわけにはいかない。だから、これが九頭竜総司郎の惜しみ方なのだ。

「まーさん、これ」

 白い息を吐きながら、小次郎が差し出してきたのはカセットテープだった。ツブラの歌が録音されたものだ。

「預かっておいてくれてありがとう、コジ」

 狭間はカセットテープを受け取ると、コートのポケットに入れた。

「シビックは出来るだけ整備しておきました。羽生さんが借りていってしまいましたけど、ドリームもです。請求書 は、後日お渡しします」

「おう。御代は払えたら払う。もしも払えなかったら、その時は真琴にでも請求しておいてくれ」

「ひどいですね、それ」

「ああ、ひっでぇ兄貴だよ」

 狭間が苦笑すると、小次郎の影から店内を窺っていたつぐみが怖々と呟いた。

「ヤクザとマフィアの巣窟だ……」

「マスターの傍にいる限りは安全よ」

 何かやらかしたら私が食べてあげるし、と悲が笑うと、つぐみは悲の上半身と下半身を見比べた。

「えと、もしかして愛歌さんですか?」

「怪獣Gメン、光永愛歌は仮の姿! 私の本当の名は綾繁悲、死にながら生きる謎の女よ!」

 と、悲が口上を述べながら変なポーズを付けると、つぐみは背後を見やった。ヒツギに寄り添われ、積雪に 足を取られながらも、懸命に歩いてくる綾繁枢の姿があった。その少し後ろには、マント姿の田室正大陸軍中佐 が控えていて、枢の身を守っていた。その後ろには、玉璽近衛隊特務小隊の面々が列を成している。狗奴国から 下船した後、田室と合流して指示を仰いだのだろう。

「狭間さんのことと愛歌さんのこと、くーちゃんから聞きました」

「あらまあ」

 格好付けて損した、と悲が恥じらうと、つぐみは毛糸の手袋を填めた手で傘の柄を握る。

「もしかして、狭間さんと一緒に火星に行っちゃうんですか?」

「まあ、ねえ。狭間君がそれを許してくれたら、だけど。横浜にも地球にも、いるにいられないもの」

「光の巨人はトンネルみたいなもので、出口は火星だっていうのは、本当ですか」

「その辺については、私よりも狭間君の方が詳しいんじゃないかしら」

「……火星には、うちのお父さんがいるかもしれません。生きているなんて思わないけど、でも、どこかに いるかもしれないから、もしもうちのお父さんを見つけたら、その時はどうかよろしくお願いします!」

 つぐみは傘を放り出し、深々と頭を下げる。二つに結われた髪が垂れ下がり、少女の横顔を隠す。

「ええ、それはもちろん。佐々本さんには、随分と御世話になったもの」

 悲は下半身の闇を縮め、つぐみと目線を合わせた。うららも傘を閉じ、一礼する。

「私からも、お願いします。タカさんにもう一度会いたいけど、きっと会えないから」

「――――それ、この僕も便乗してもいいかい?」

 脇道から現れたのは、軍帽も外套も雪まみれの羽生鏡護技術少尉だった。

「ああ、やれやれ。君のバイクで東京まで行ったまではよかったけど、戻ってくるまでに検問やら何やらで時間が掛かって しまってね。玉璽近衛隊の名と帝国陸軍の階級章のありがたみを、いやというほど思い知らされたよ。ああ、君のバイク はもちろん無事だけど、この坂道を上ってこられるほどの馬力が残っていなかったんだ。だから、別の場所に停めて おいてある。安心してくれたまえ、狭間君」

 羽生は外套の雪を払い、手袋を外してから、軍服の内ポケットを探って封筒を取り出した。宛名は、満月へ。

「それと、これを書くのに馬鹿みたいに時間が掛かったんだ。この僕がだよ? 立て板に水という言葉を体現する ためにあらゆる語彙を身に付けている素晴らしき僕がだ、便箋を三枚埋めるために三日も掛かってしまったんだよ。 大したことを書くわけじゃないのに、論文を五十枚書くよりも余程辛かったんだ。不思議だよ、満月に言いたいことは 履いて捨てるほどあったはずなのにね。だけど、思い返してみれば、満月と面と向かって話した時もそうだったよ。 下らないことはべらべら喋れるのに、肝心なことはちっとも言えなかった。ああ、この僕としたことが」

 雪雲に覆われた空であろうとも、羽生は火星の方角を正確に見定め、仰ぎ見た。

「ねえ、満月」

 羽生は封筒を狭間の懐にねじ込むと、確かに預けたからね、と言って足早にヲルドビスに入った。余程寒かった ようだった。それに続き、佐々本親子と小次郎も店に入ると、一気に客の人数が増えた。そのせいで真琴と麻里子 の仕事が増え、忙しく動き回っていた。狭間もそれを手伝うべきだと判断し、悲にスコップを預けた。

「雪掻き、頼みます」

「そりゃまあ、私は寒さなんて感じないけど」

 悲はちょっと不満げではあったが、店の窓を塞いでいる雪にスコップを入れ、雪を四角く切り分けてから道端へと 投げ捨てた。狭間は店内に戻り、客に御冷を出したり、形式だけではあるが注文を取りつつも悲の雪掻きの様子を 窺っていた。窓を埋めていた雪が半分ほど取り除かれた頃、綾繁枢とヒツギ、田室正大陸軍中佐とその部下達が 到着した。枢はすっかり息が上がっていて、寒さで頬も耳も真っ赤になっていた。

「いらっしゃい」

 狭間が枢を出迎えると、枢は暖房で温められた店内の空気を吸い、雪まみれの外套を脱いだ。

「……寒かったです」

「俺達はまだいい、怪獣義肢が暖めてくれるからな。だが、枢様はそうはいかん」

 なあタヂカラオ、と田室は赤い外骨格に覆われた左手を挙げ、ほのかに熱を発して体を撫でた。あっという間に 雪が解けて消え、蒸発してしまった。ヒツギは藪木らの手を借りて、全身に付いた雪を払った。

〈人の子よ。枢様は、ここに至るまでの道中、一度も私の足を借りようともしなかった。……寂しいものだ〉

「いいじゃないか。運動した分だけ体力が付くんだから」

 狭間は冷えた頬を手で包んで暖めている枢に笑いかけてから、一旦裏に戻り、一振りの日本刀を手にしてきた。

「田室中佐。ライキリをお返しします。今まで、本当に役に立ってくれました」

「本当にいいのか、ライキリを俺の手に帰してしまって」

 田室は狭間と愛刀を見比べていたが、ぱちんと独りでに鍔が上がり、白刃に赤い瞳が現れる。

〈俺としては、人の子はまだまだ危なっかしい。俺がいなきゃ、何度死んでいたか解らん。なのに、今、俺を手放す というのか? 火星に骨を埋める気だな?〉

「それは間違っちゃいないが、そう簡単に死んでやるつもりはない」

 狭間はライキリを鞘に戻してから、今一度、田室の左手にライキリを載せた。

「俺がライキリで出来たことは、田室中佐にも出来るはずです。あなたの手で、強硬派の怪獣達に引導を渡して やって下さい。そうすれば、横浜も東京も、引いては真日奔も守れるでしょう」

「傷痍軍人の肩に、またえらいものを担がせてきやがったな。事が終わったら退役するつもりだったんだがな」

 田室は一笑してから、ライキリを握り締め、肩に担ぐ。

「いいだろう。一国民に過ぎぬ貴様に出来たこと、帝国軍人たる私に出来ぬはずがない」

「御武運をお祈りいたします」

 深々と頭を下げてから、狭間は特務小隊の面々を奥の席へ促した。九頭竜会の若衆がざわついたが、麻里子が制すると 彼らは腰を落ち着けた。海老塚が焙煎しているコーヒー豆が香ばしい香りを立て、穏やかな気持ちにさせてくれた。 材料が乏しいので、出せるのはブレンドコーヒーと卵抜きのパンケーキしかないが、全員から注文を取り付けた。その 注文票を厨房に渡していると、リーマオが駆け込んできた。

「な、なんや、ホンマやったんや。マスターが帰ってきたっちゅうんは」

「出遅れましたね。リーマオさん、早く着替えて仕事を始めて下さい。今日は忙しいんですから」

 さあお早く、と麻里子が促すと、リーマオは息を整えつつ裾の長いコートを脱いだ。スリットが深く入った チャイナドレスから伸びた両足の怪獣義肢は、雪が触れた時点で溶かしていたのか、水滴も付いていない。

「せやったら、働いた分だけ御給金もらうで」

 それから程なくして、リーマオもウェイトレスの制服に着替えて戻ってきた。厨房に立つ海老塚は、こんがりと焙煎 したコーヒー豆を挽いてサイフォン式ドリッパーに掛け、コーヒーが出来上がったら、丁寧にカップに注いだ。バターを 溶かしたフライパンでパンケーキを焼き、メープルシロップとバターを添えて皿に盛る。そつのない動きで、以前と なんら変わらぬ味を作り出していく。その横顔は穏やかではあったが、かすかに切なさが滲んでいた。
 焙煎したコーヒー豆が尽き、材料も尽きた頃、古代喫茶・ヲルドビスは店を閉めた。後片付けを一通り終えてから、 狭間は弟と店主と共にコーヒーを飲んだが、それを淹れたのは真琴だった。以前飲んだ時よりも良くなっていたが、 海老塚のコーヒーにはまだまだ程遠かった。と、狭間が感想を述べると、だったら兄貴が淹れてみろ、と真琴が反論 してきたので狭間はその通りにした。だが、真琴と五十歩百歩だったので、笑うしかなかった。その様を悲は眩しげに 眺めていたが、海老塚に勧められてコーヒーを口にした。匂いを覚えているから舌が味を思い出した、と言って、悲は ほんの少しだけ泣いた。化石が一つもなくなった古代喫茶は、一晩中明かりが灯っていた。
 それが、横浜で過ごした最後の夜だった。





 


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