横濱怪獣哀歌




雪ノ降ル港町ヲ



 印部島から横浜湾へと向かう道中、それが出現した。
 護国怪獣。古の獣、恐竜に似た外見のものと、豊穣と長寿の象徴、亀に似たものだった。一対の怪獣は、あの夏の日に 光線の応酬を行っていた時となんら変わらない姿だった。狗奴国の進路に寄り添うように、海中から立ち上がった一対 の怪獣は、波を荒立てないように静かに歩んでいく。国を支える民を守るかの如く。
 護国怪獣には、はっきりとした名前は付いていない。名付けるということは、縛りを与えてしまうことになるからだ、 とどこぞの怪獣が狭間に教えてくれた。左舷には恐竜に似たものが、右舷には亀に似たものがおり、時折雷鳴じみた 鈍い唸りが聞こえてきた。空気がびりびりと震えるほどの音量なのに、不思議と穏やかな気持ちにさせてくれる、 原初の歌だった。甲板に出た狭間は、護国怪獣達を仰ぎ見た。

「……どうも」

 国を守る宮様の本体とあっては、ソロモン王と言えども無礼は働けない。狭間が臆しながら声を掛けると、一対の 怪獣は同時に喉を反らし、吼えた。左舷と右舷の双方の波が湧き立ち、両者の尾が海面を切り裂いた。

〈人の子よ〉

〈人の子よ〉

 遥か彼方に見える本土を見つめ、一対の護国怪獣は静謐に語り掛けてくる。

〈見えるか、我が祖国が〉

〈聞こえるか、我が祖国の民の声が〉

「そりゃあ、もちろん」

〈滅びなくして生はなく、生なくして熱はなく、熱なくして文明はなく〉

〈しかし、潰えた文明は二度と戻らぬ〉

〈故に、イナンナは黄金時代に文明が潰えた金色の星を思うがあまり、バビロニアに熱を含ませた〉

〈故に、エレシュキガルは黄金時代に文明が芽吹いた赤き星を思うがあまり、バビロニアを奪おうとした〉

〈故に、怪獣聖母は神話時代に終焉をもたらした〉

〈故に、怪獣聖母は神話時代の再来を恐れた〉

〈故に、エ・テメン・アン・キは神話時代の記憶を持つ怪獣達を惑わし、人の子を陥れようとした〉

〈故に、怪獣使いはエ・テメン・アン・キの意図に従い、怪獣でも人でもない子を作り出した〉

〈故に、魔法使いは怪獣でも人でもない怪獣使いを怖れ、人を操り、我が祖国を傾けようとした〉

〈故に、人の子は人の子であり〉

〈故に、天の子は天の子であり〉

〈我らが子よ〉

〈我らの子よ〉

〈否、人の血より生まれた人の子よ〉

〈暖かき湯を生む谷の子よ〉

〈生まれながらにして天の子の毒を含み、それ故に我らと通じる骨と魂を得た子よ〉

〈その骨が〉

〈その血が〉

〈その肉が〉

〈その脳が〉

〈そのハラワタが〉

〈その精が〉

〈その心が〉

〈その知が〉

〈その魂が〉

〈天の子を欲するというのならば〉

〈天の子が人の子を欲するというのならば〉

〈その熱を〉

〈その情を〉

〈その欲を〉

〈その念を〉

〈解き放ち〉

〈赤き星に熱を〉

〈金色の星に熱を〉

〈エレシュキガルに熱を〉

〈イナンナに熱を〉

 黙って聞いておけば、随分と無茶を言ってくれる。狭間は一笑し、答えた。

「生憎ですが、宮様。俺が出来ることは一つだけです」

〈それは〉

〈いかなるものか〉

「ツブラを嫁にする。それだけです」

〈さすれば〉

〈イナンナは熱を得る〉

「イナンナじゃなくて、ツブラですよ。心の底から喰われたい、喰われてもいいと思った女です」

 名が呪縛を与えるのならば、何度でもその名を呼ぼう。イナンナではなく、ツブラと呼ぼう。その名を口にするだけ で、腹の底がじわりと熱くなる。照れ臭くてむず痒くてやりづらくて、そのくせ妙に誇らしい気持ちになる。ツブラ、 今、お前はどこにいる。もうすぐ迎えに行く、いや、会いに行く。話したいことが山ほどあるが、まず最初に言うべき 言葉は決まり切っている。再び海に没した護国怪獣を見送ってから、狭間は行く先を見据えた。
 明日の朝には、横浜港に着くだろう。




 横浜に帰ると、帝国陸軍は綺麗さっぱり引き上げていた。
 怪獣使いを狙って発射される怪獣弾頭の巻き添えを喰いたくない、とでも考えて早々に撤退したのだろう。戻ってくる 気配はなさそうだった。至るところに放置された戦車やら何やらの動力怪獣達が、兵士達の薄情さを嘆いている。 ドヤ街の住人達は横浜港に接岸した巨大な戦艦に驚いていたようだったが、狗奴国に乗っていた海兵達が物資を ばらまいてやると、それに群がった。航海する日数が短かったので、食糧が余ってしまったのである。
 雪がたっぷりと積もった港に下りた狭間を、防寒着をしっかりと着込んだ真琴が出迎えてくれた。いくらなんでも コート二枚はやりすぎではないか、と狭間が半笑いになると、弟はもそもそとコートを一枚脱いで渡してくれた。荷物 を増やすのが癪だから着ていたようだった。変なところで横着だ。

「あ」

 真琴はタラップを見上げ、雪の粒が付いたメガネの奥で目を丸めた。その視線の先には、玉璽近衛隊の面々と共 に下船してきた老紳士がいた。帝国陸軍の軍服を上着にしていた海老塚は、脱帽して一礼する。

「お久し振りです、真琴さん。御元気でしたか」

「あ……その……」

 真琴もまた、狭間と同じく複雑な感情に見舞われて口籠った。無事でいてくれて嬉しい、だけどあなたのしたこと は決して許されることではないし、罰されるべきだ。けれど、また会いたかった。とでも言いたげに、笑みと泣き顔の 中間のような顔になった。タラップを降りてきた海老塚は、真琴と対峙する。

「私が仕込んだ魔法のせいで横浜は滅茶苦茶になってしまいましたが、ヲルドビスは健在ですか?」

「……はい。鍵、持っているんで、たまに行って、水道出したり、掃除したりしていて」

 真琴は海老塚と向き合うか否かを迷い、目線を彷徨わせる。

「では、ガラスの一枚も割られていないと?」

「はい。マスターが一つ残らず持ち出したんで、化石はありませんけど」

「おや、それは残念ですね。どこぞの誰かが一思いに燃やして下さればよかったのに」

 海老塚は笑みを保ちつつ、ヲルドビスのある方角を見やる。

「あの店もまた、私が大旦那様に叶わぬ恋をしていた証なのですから。九頭竜会と渾沌に、少し睨みを利かせすぎて しまいましたかね。ですが、それならば、そういうことなのでしょう」

「あの、これ、店の鍵です」

 真琴は厚手のコートの裏ポケットを探り、小さく古びた鍵を取り出した。海老塚は僅かに躊躇ったが、古代喫茶・ ヲルドビスの鍵を受け取り、柔らかく握り締めた。

「それでは、久し振りに店を開けるといたしましょうか」

「手伝いますよ、マスター」

「もちろん、俺もです」

 狭間が海老塚に声を掛けると、真琴も進言した。その様を眺めていた悲は、闇をうねらせて近寄ってきた。

「私は手伝えないし、コーヒーの味も解らなくなっちゃったけど、御邪魔させて頂いていいかしら?」

「それはもちろん。歓迎いたしますよ、愛歌さん」

 海老塚がかつての名を口にすると、悲は切なげに眉を下げる。

「シュヴェルト様にもあなたにも利用されていたと知っていたけど、光永の名と人間らしい日々を与えてくれたことは 心から感謝しますわ。鎬姉様はともかく、哀姉様はそうは思っていないかもしれないけど」

「腹の底から憎まれていた方が、まだ気が楽になるのですがね」

 海老塚は口角を上げたが、引き締め、前を向いた。

「さあ、帰りましょうか」

 横浜湾から、一陣の風が吹き付ける。海老塚の背を追い、狭間と真琴と悲は海兵達とならず者達が入り混じった 雑踏を摺り抜け、帰るべき場所へと向かった。フォートレス大神が健在であればいいような、粉微塵に砕けていて ほしいような、二つの期待が入り混じる。ざくざくと積雪を踏みしめて歩きながら、狭間は空虚な右手を開き、それを きつく握り締めた。その手をスカジャンのポケットに入れ、タバコを握り潰した。
 俄然、熱いコーヒーが飲みたくなった。





 


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