横濱怪獣哀歌




雪ノ降ル港町ヲ



 火山を真上から見下ろすのは、生まれて初めてだった。
 鳳凰仮面二号と化した狭間真人はクル・ヌ・ギアの闇からぬるりと這い出し、その主である綾繁悲を一瞥した後、 空中に足を踏み出した。冷え切った潮風を踏み抜いて真っ逆さまに落下する、かと思いきや、縫製怪獣グルムが靴 の底から熱を噴出したおかげで高度を保った。七色のスカーフと腰に巻いた羽根飾りが翻り、ベルトに提げた鞘が 風を受けてかたかたと震える。だが、鳳凰仮面二号がライキリを握る手は微塵も臆していなかった。
 本当にやるのか、と何度となく聞かれた。真下に見える火山島、印部島にて長らえていた玉璽近衛隊の面々にも、 彼らを受け入れてくれた狗奴国の搭乗員達にも、光永愛歌の上司であった男、高盛信克にも。その気持ちは ありがたかったが、内心では煩わしかった。今の今まであらゆる怪獣が忌避していた行為に及ぼうというのだから、 正直言って狭間も多少なりとも躊躇いがある。だから、その決意を揺らがせないように気を張っていた。
 ――――怪獣供養。役割を終えて熱量が低下した怪獣達を火山の火口に投下し、再び地球の輪廻に戻し、長い 年月を経て卵に還すための儀式だ。だが、思っていたほど捗ってはいないらしく、印部島の火山の奥底で燻る灼熱 のマグマには怪獣の肉片が散らばっていた。外気温が下がり過ぎたからか、怪獣聖母ティアマトが光の巨人を恐れる があまりにマグマの温度を下げてしまったからか。いずれにせよ、好都合だ。

「本当にやるのね?」

「ええ、まあ」

 この期に及んで引き下がるわけがない。鳳凰仮面二号はライキリを横たえると、刀が赤い目を開けた。

〈……強硬派が願って止まなかったことをやってくれるたぁ、さすがは我らが人の子だ〉

「褒めてくれてどうも」

 覆面の下で狭間が一笑すると、ライキリの刀身は僅かに波打った。怯えではない、歓喜に震えているのだ。

「何かあったら拾ってあげるけど、私の闇が届かないほど遠くに行っちゃったり、火山に突っ込んじゃったり したら、いくら私でも拾い上げようがないからね」

 全く男って馬鹿なんだから、と悲が嘆くのを横目に、鳳凰仮面二号は火山を目指した。風を捉え、空気を蹴り、 宙を進む。海面からは一千メートル近く離れているのに体が浮いていて、おまけに何もないところを足場にして 進むのは不思議な感覚だが、慣れてくるとこれはこれで楽しかった。吹雪で白んだ水平線の果てには本州がうっすら と見えるが、時折、その間に光の柱が立っては消える。大小様々だが、全て光の巨人だ。
 ツブラが何を糧にして巨大化していたのか、ということを忘れていたわけではない。熱の根源はいかなるもの であるかということも、失念していたわけではない。だが、直視するのを怖れていたのだ。怪獣達と繋がり合って いるから、彼らの真意を知っているつもりになっていたが、その実、ほとんど理解していなかった。そもそも、彼ら は人間とは根底から異なる価値観の持ち主であるということも。
 火山灰が混じった熱風が吹き付け、硫黄の匂いに襲われるが、グルムが守ってくれているおかげで狭間の気管支 は微塵も痛まなかった。ほんの少し、粘膜にざらつきを感じた程度だった。グルムに意志を送ると、体を浮かばせて いる熱が徐々に緩み、自由落下を始めた。腰に巻いた七色のスカーフが背中に回り、強張り、翼と化して風を 捉える。短い滑空の後、見えてきたのは火口の底で蠢く死にぞこないの怪獣達だった。

〈我らにとって、死は祝福だ〉

 ライキリでもグルムでもない怪獣の声が、狭間の脳に突き刺さる。

〈死は解放〉

〈解放は死〉

〈怪獣聖母が在る限り、我らは輪廻し続ける〉

〈溶けては固まり、卵と成り、孵化し、そしてまた朽ちて溶ける〉

〈だが、意識と記憶は解けず、苦しみは途切れない〉

〈そして、我らは全であり個、個であり全。故に、怪獣として生まれた限りは苦しみの枷に囚われる〉

〈何万年もの間、我らは我らでしかなかった〉

〈神話怪獣は誰にとっての神話なのか〉

〈そう、我ら地球怪獣にとっての神話だ〉

〈外なる星から舞い降りたイナンナとエレシュキガルは、我らの閉じた世界を切り開いてくれた〉

〈赤き星への道、金色の星への道をも〉

〈光の巨人〉

〈光の扉〉

〈それもまた、我らを外へと導く光〉

〈あれは我らにもたらされた光〉

〈ひかり〉

〈だが、あの光は強すぎた〉

〈エレシュキガルが手を加えたからだ〉

〈故に、天の子を招き寄せた〉

〈故に、人の子を産み出させた〉

〈ソロモン王!〉

〈次なる王! 怪獣の王! 鉄の時代の王!〉

〈人の子よ!〉

〈人であるが故に鬼となれる子よ!〉

〈どうか、我らに刃を!〉

〈どうか、我らの声を!〉

〈どうか、我らの言葉を!〉

 どうか、と無数の怪獣が懇願してくる。目視出来ている範囲だけでなく、印部島の周辺海域からも聞こえてくる。 そればかりか、地中深くからも込み上がってくる。怪獣達が死を羨むようになった切っ掛けは、バビロニアの一件だけ ではないだろう。神話時代よりも遥か昔、黄金時代、いや、それよりも旧い時代からかもしれない。
 いつしか、狭間は鼻歌を零していた。地球の緑の丘のメロディーに載せて、ツブラが歌っていた怪獣言語の歌 を真似て口ずさむ。怪獣達の狂気に当てられないように、引き摺られないようにするためであり、狭間なりの魔法でも あった。かつて、地球を追放されたノースウェスト・スミスが地球を恋焦がれるがあまりに口にしていた歌ではある が、狭間は彼とは正反対の思いで歌っていた。言うならば、火星の赤き丘だ。
 懐かしい旋律と共に、白刃と刃のない剣が翻り――――火山の底が切られた。




 地震の後、黒煙が上がった。
 噴火には満たないが、強烈な刺激を受けた火山から生じたエネルギーは容赦なく海水を揺さぶり、高波が立ち、 幾重にも襲い掛かってきたものが狗奴国の巨大な船体を木の葉のように弄んだ。当然ながら、船員と搭乗員達も 被害を被り、玉璽近衛隊の面々も例外ではなかった。
 揺れが収まると、狭い船室の中では怪獣人間の軍人達がひっくり返っていた。一番大柄な藪木は特に悲惨な状況 に陥っていて、部屋の隅に頭を突っ込んで上下逆さになっている。衝撃で能力が暴発したのか、秋奈は両目を押さえて 訳の解らないことを口走っている。赤木と辰沼は床に固定されたテーブルを掴んでいたので姿勢を保てたが、もう一人 がどうなったのかと案じ、恐る恐る振り返った。

「……御無事でしたか」

 赤木は呆れるやら感心するやらで、半笑いになる。

「ですけど、魔法はもう使えないはずでは?」

 テーブルに寄り掛かった辰沼が言うと、壁と一体の長椅子に腰掛けていた老紳士、海老塚は薄く笑う。

「魔法は使えなくとも、体に染みついたものは消えません。風や熱を操って体を浮かばせる魔法を使うには、それ 相応の訓練が必要でしたからね。その甲斐あって、いかに足場が悪かろうと、コーヒーを一滴も零さずに御客様に お出し出来るようになりましたがね」

 探究怪獣ミドラーシュによってもたらされた長い眠りから目を覚ましてから間もないからか、海老塚はいやに 晴れやかな顔をしていて、顔色も良くなっていた。藪木は上下を元に戻し、首の骨が折れていないかどうかを 確かめてから起き上がると、乱れた軍服を直した。

「んで、狭間君は本当にやっちまったんすか?」

「……遂行」

 透視能力を備えた秋奈は両手を下げ、赤い瞳を上げて印部島に据えた。

「印部島の火山に投下された怪獣、全てが損壊」

「たった一太刀でか? そんなまさか」

 赤木が面食らうと、辰沼は丸い窓から荒れ狂う海面と印部島を見やる。

「そのまさかだよ。衝撃波は一度だけ、ということは、狭間君は物理的な攻撃で吹き飛ばしたわけではないんだね。 魔法というか祝詞というか、まあとにかく、その系統の手段を使って廃棄された怪獣達の精神を繋ぎ合わせて一度に 炸裂させたんだ。……うわ、あ、やば、ちょっと」

 吹き飛んだ怪獣が死に間際にぶちまけた怪獣電波が、と言った辰沼は血の気が引いていて、よろけながら船室 から出ていったが、すぐ傍で力尽きたのか、廊下から情けない呻き声が聞こえてきた。ひどい船酔いにも見舞われて いるらしく、苦しげな唸りと胃液の匂いがドアの隙間から流れてきた。

「助けるべきか否か」

 もらっちゃうと悲惨だしなぁ、とぼやいた赤木に、藪木は牙の生えた口を歪める。

「そりゃまあそうっすけど……」

 地震と波が落ち着くと、今度は上空が白んだ。雲が晴れたのかと思いきや、そうではなく、光の巨人が印部島 の火山に引き寄せられているからだった。退避、退避、との掛け声が上がり、甲板に出ていた人々が船室へと 雪崩れ込んできた。そのせいで通路にいられなくなったらしく、青い顔をした辰沼が軍服の胸元をべっとりと汚して 戻ってきた。せめて上は脱げ、と赤木が強く言うと、辰沼は渋りながらも軍服を脱いで丸めた。
 それから数分後、上空は重苦しい鉛色に戻った。呆気なく事が終わってしまい、皆、拍子抜けしたが、海老塚は そうではなかった。赤木の制止も振り払って船室を出ていったので、比較的身動きが取りやすい秋奈に追いかけて もらった。海兵達の間をするすると摺り抜けていく海老塚を追うのは容易ではなく、こういった場合は透視能力 は逆に厄介で、見えているはずのものを見過ごしてしまうので、何度も人にぶつかってしまった。どうにかこうにか 甲板に出ると、ようやく海老塚を見つけられた。逃がしてなるものか、と秋奈は老紳士の着ているコートの裾を 掴んだところで、目元をしかめた。――――空の一点だけが、夜を迎えていたからだ。

「お帰りなさいませ」

 海老塚は秋奈を気にしつつも、うやうやしく頭を下げた。闇の球体とでも称すべき物体は緩やかに降下し、甲板 に接すると、孵化する卵のように砕けた。その内から現れたのは、金色の衣装と覆面を身に着けた男、鳳凰仮面二号 と怪獣使いの出来損ないの女、綾繁悲だった。悲は闇で出来た下半身をまとめ、形を整える。

「おはようございます、マスター」

 鳳凰仮面二号は変身を解き、グルムをスカーフに変えて左上腕に巻き付け、ライキリを鞘に戻した。

「お久し振りです、狭間君」

 海老塚は狭間と向き合い、喫茶店でアルバイトの青年を出迎えた時と全く同じ表情で微笑みかけた。

「御元気そうで何よりです、マスター」

「それはお互い様ですよ、狭間君。それにしても、随分と過激な手段を選びましたね」

「他に選べるものなんてありませんよ。目が覚めたということは、あなたは魔法を捨てたんですね」

「捨てたと言いますか、なんと言いますか……。そうですね、俗な言葉で言えば失恋したのです。失恋していた という事実を理解した、理解することを受け止められるようになった、とも言えますね」

 横浜に戻ったら熱いコーヒーを頂きましょう、と述べた海老塚に、狭間は少し間を置いてから頷いた。

「そうしましょう。寒いですもんね」

 複雑な感情は多々あれども、それをぶつけ合ったところで何の利益ももたらさないのだと、どちらも解っていた。 だから、狭間も海老塚も大人同士の対応をしたのだ。ではこちらにどうぞ、と海老塚が促したので、その背中に へばりついている秋奈も艦内に戻っていった。

「コーヒーかあ」

 もう飲めないんだよなぁ、と悲は呟いたので、狭間はタバコを銜えた。

「香りだけでも楽しめると思いますよ。だって、マスターが淹れるコーヒーなんですから」

 火を着けるか着けまいかと散々迷った末、狭間はタバコを箱に戻した。マッチは手近なところにいた海兵の手に 捻じ込んでから、悲を甲板に残し、狗奴国の艦内に踏み入った。針路は横浜に向けているが、無事に辿り着ける 保証はない。故に、狭間が先程の手段で光の巨人を退け、狗奴国と海兵達を守りながら進むしかない。闇の中を 通り抜ける方法は、あまりにも危険すぎるからだ。今頃真琴はどうしているのやら、と狭間は弟を案じた。
 曇り空が綻び、一条の光が差し込んできた。





 


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