横濱怪獣哀歌




神話ノ中ノ神話



 薄い空、乾いた大地、浅い空気。
 ここはどこかは定かではないが、地球ではないことは確かだ。体に突き刺さる怪獣電波の質がまるで違う。悲は今し方 起きたことを認識しようと努めたが、頭の整理が上手く付けられなかった。記憶は確かにあるのだが、物事を 考える順序が自分のそれではない。言うならば、見知らぬ人間が使い込んでクセが付いた車を借りて乗っているか のような、据わりの悪さがある。悲は違和感に苛まれながらも、崩れているであろう闇の下半身をまとめようとして、 気付いた。闇の代わりに赤い触手が波打ち、ざらりと地面をなぞった。
 手を見る。長年見慣れた自分自身のそれではなく、肌の色が違う。顔をなぞる。目鼻立ちの作りが違う。体の重み も、内臓の配置も、吸い込んだ空気の味も、口の中に収まる舌の太さも、否、触手の厚みも何もかも。姿を映せる ものがないかどうかと探し回ったが、水鏡になりそうな水溜りすらなく、悲は不安と混乱を抱えて触手を波打たせて 駆け抜けた。息が切れる、かと思いきやそんなことはなく、視界の色味も違う。怪獣と化しても人間の感覚に基づいた 感覚を持ち続けていた悲は、今、本物の怪獣の世界を目の当たりにしていた。
 雑音と不定形の闇、騒音と不定形の意識、常に意識の底に響いてくる何者かの声、声、声、声、声。その声の中 には聞き覚えのあるものがいくつかあり、トライポッドと同じ波長の怪獣電波を放っていた。つまり、ここは火星だ。 だとすれば、もしかして。悲は辺りを見渡そうとしたが――――目よりも確かなものに頼るべきだと思い直し、触手を 円状に広げ、絶え間なく行き交う怪獣電波を絡み取った。そこから得た情報が脳に染み、映像と成る。

「これって……」

 大陸怪獣アトランティスの意識。そして、その胎内に住まう人々と、彼らと共存している怪獣達が目にしている 景色が、数秒遅れで悲に伝わってくる。その中には、見覚えのある顔触れもいた。狭間家の両親、船島集落の温泉郷 で働いていた人々、正義の味方の紙芝居屋、写真でしか顔を知らない自動車整備工場の社長、そして、彼だ。

「――――っ」

 ああ、ああ、ああ。言葉にするのが億劫で、喜ぶのが苦痛で、ないはずの心臓が潰れる。

「にい、さま」

 シュヴェルト・ヴォルケンシュタイン魔術少尉その人に他ならなかった。年月に応じた年齢を重ねているからか、 その面差しは父親と祖父によく似ている。すぐに飛んでいって抱き付いて、にいさまにいさまにいさま、とあの日の ように甘えてしまいたくなる。にいさまを今度こそクル・ヌ・ギアに捉え、終わりのない死に閉じ込めてしまいたい。 今なら、悲だけのものに出来る。狭間もいない、他の人間達は相手にならない、だから、だから、だから。

「……未練がましい」

 なんて馬鹿馬鹿しい。そんなことをして何になる、何にもならない、なるわけがない。

「今、私がやれることはいくらでもある」

 エレシュキガルの肉体を間借りしているのであれば、エレシュキガルの力を使えるということだ。クル・ヌ・ギア の中でも異変が起きているようだが、それが収まればエレシュキガルから追い出されてしまうだろう。その前に、今、 動きださなければ。光の巨人を統括しているエレシュキガルが機能を失っているからだろう、光の巨人とその眷属達 はふらついていて、光の巨人同士で衝突しては互いを対消滅させていた。空間に開けた穴と穴を繋ぐと、出口も 入り口もなくなってしまうから、存在自体を保てなくなるのだろう。となれば、やることは一つだ。
 死の女主人への供物を途絶えさせてやる。



 
 マリネリス大峡谷。
 巨大な大地の裂け目には、地球の物質が無造作に詰め込まれていた。秩序もなければ倫理もなく、怪獣の肉片と 人間の死体とその他諸々が混ざり合っていた。エレシュキガルの複雑にして混沌とした内面が剥き出しになっている かのようで、悲は顔をしかめた。また、どこぞの海に光の巨人が現れたらしく、三対の羽根が生えた人型の海水が 空中に突如として浮かび上がり、一秒も立たずに崩れ落ちた。どおどおと瀑布が散り、乾いた砂を潤したが、 それも束の間でしかなかった。光の巨人一体分の水では、火星の渇きなど癒せはしない。
 触手を束ねて渦巻かせ、それを伸び切らせた勢いで空中に飛び出した悲は、触手を広げて滑空しながら、不安定な 光の巨人達とマリネリス大峡谷を見下ろした。よろよろと歩いている光の巨人達の足取りを辿っていくと、大峡谷の 奥に火星の地質とは異なる色味の岩石で組み上げられた建造物がそびえていた。となれば、あれを壊せば光の巨人は 生み出されなくなるということか。
 大きく弧を描きながら高度を下げ、渓谷の隙間へと滑り込み、光の巨人達と擦れ違いながら、古代遺跡であろう 建造物へと進んでいく。悲が察するまでもなくエレシュキガルの脳が、あれはミンガ遺跡だと教えてくれた。元々、 黄金時代に金星の都市に造られたもので、光の扉という名の空間超越装置で、イナンナの所有物だった。しかし、 エレシュキガルがイナンナからそれを奪い去って支配下に置き、火星へと据え付けて悪用していたというわけだ。 その支配権を本来の所有者に戻し、ミンガ遺跡を在るべき場所に返せば、光の巨人が地球に害を成すことはなくなる のではないだろうか。いや、きっとそうだ。そうならないわけがない。根拠はある、悲の思考を敏感に感じ取った エレシュキガルの肉体が縮み上がっているからだ。自分の感情ではない動揺が起き、触手が乱れる。

「でも」

 ミンガ遺跡を金星の古代都市に戻せば、悲はどうなるのだろう。エレシュキガルは火星に根付いている神話怪獣 なので金星には飛ばされないだろうが、悲はそうではない。死に損ないの人間で出来損ないの怪獣だ。エレシュキガル がいるから、クル・ヌ・ギアとも繋がれていて、自我を保てていたのだが、ミンガ遺跡を封じる際に消耗したら悲の 意識は薄らいでしまう。もしかしたら、ミンガ遺跡に満ちているイナンナの力が、エレシュキガルと通じている悲を 弾き飛ばしてしまうかもしれない。ツブラがこの場にいない以上、イナンナの力を防ぐ手立てはない。

「望郷の念」

 エ・テメン・アン・キを始めとした神話怪獣が欲していたのも、光の巨人達が原動力としていたのも、故郷を懐かしむ 心だ。だが、エレシュキガルにはそんなものはあるのだろうか。地球と火星には執着しているが、憎い姉の本体 と言っても過言ではない金星を懐かしむとは思い難い。かといって、悲も金星に大して思い入れがない。そもそも、 硫酸の雨が降る金星に足を踏み入れられるはずが――――いや、そうでもないか。今は怪獣だからだ。

「見せてちょうだい、金星を」

 悲はミンガ遺跡に舞い降りると、冷たい石組みの壁に触れた。ぶるりとかすかな震えが起き、ミンガ遺跡を成して いる岩石、否、古代怪獣の肉片が弱々しく怪獣電波を発してくる。多種多様な異星人達が行き交い、過去とも未来 ともつかない文明が息づき、神と人との境界が薄く、硫酸の雨が降る、美しくも凄惨な都が見える。
 金星に息づく怪獣達の声が、かすかに聞こえてくる。光の巨人がこじ開けた扉を通じて、星々の間を行き交う怪獣 電波を通じて、かつて金星を統べていた神話怪獣に祈りを捧げている。ミンガ遺跡が奪われたことで彼らは均衡を 失い、不安に苛まれている。金星で細々と長らえていた金星人達もまた怪獣に怯えているため、人と怪獣のバランス が歪みつつあった。このままでは、いずれ金星も火星や地球と同じ道を辿ってしまうだろう。
 全ての物事の軸はミンガ遺跡だ。ミンガ遺跡もまた黄金時代に生まれた怪獣であり、イナンナとは穏やかな関係を 築いていたが、エレシュキガルの蛮行によって心を閉ざし、されるがままになってしまった。だが、心のどこかでは イナンナを求めている。いつか彼女が戻ってきてくれるのではないか、と糸のように細い願望を意識の奥底に宿して いるのが感じられた。ただの怪獣使いでしかなかったら、死にぞこないの女でしかなかったら、悲には理解出来なかった だろう。体を貸してくれたエレシュキガルには礼を言わねばなるまい。
 その願望の糸を手繰り寄せ、闇を広げ、ミンガ遺跡を飲み込んだ。




 イナンナがどこにいるかは、考えるまでもない。
 エレシュキガルが教えてくれる。神話時代が終わった空しさを埋めるために、姉に執着し続けているが故に彼女は 常にイナンナの存在を感じ取っているからだ。そして、悲もまた双子の姉の存在を感じ取っていた。あれで死んだ とは思っていなかったが、まさかこんなところで再会することになろうとは。
 ミンガ遺跡と共にクル・ヌ・ギアに戻ってきた悲は、闇を泳いだ。死者達の気配が触手の先を掠めていくが、皆、 動揺していた。怪獣達だけでなく、死したことで怪獣達と通じ合えるようになった人々もだ。彼らの意識が向かう先を 辿っていくと、それは在った。闇に飲み込まれかけているオレンジ色のシビックと人の子たる青年、そして悲の肉体 を間借りしているイナンナ、否、ツブラ。そして、綾繁哀。

「お久し振りね、ねえさま」

 ゆらりと赤黒い触手を波打たせ、闇を作り変えて体に纏わせ、ついでに顔と体形も自分のそれに近付けてから、 悲は綾繁家前当主を見据えた。触手の如き髪でツブラを締め上げていた哀は、妹を見、眉根を寄せる。

「……悲?」

「あなたが引き受けるべき毒と泥を全て被って、あなたの代わりに手を汚しに汚して、あなたの代わりに戦艦に 乗って最前線に出た、当主様の片割れよ。同じ顔なんだから、忘れるはずがないじゃないの。よくも私が少ない給料を 貯めてやっとのことで買ったシビックをいいようにしてくれたわね。ねえさまに言いたいことは山ほどあるけど、まず 最初に怒るべき点はそれだわ」

 悲が姉を睨むと、哀はへらっとする。

「車の一台や二台、どうってことないじゃない」

「ねえさまはいつだってそうね。怪獣使いの世界しか知らないから、それ以外の価値観なんて知ろうとすらしない。 その点、枢は違うわ。あの子はいつでも一生懸命で、自分の役割を果たそうとするだけじゃなくて、怪獣使いがより 良い方向に進むように考えている。出会ったばかりの頃はねえさまみたいだったけど、あの子は怪獣使い以外の 世界に触れることも、変わっていくことも恐れたりしなかった。胃腸がびっくりするほど弱くて、ちょっとしたことで ゲロゲロ吐き戻すのも仕方ないわ。まだ十歳なのに、政府や世間や怪獣達とも立ち向かっているんだから、無理が 祟って当然よ。でも、決して逃げないのよ。……でも、ねえさまはそうはならなかった。私でさえも、シュヴェルト様に 二度と近付けないってことを理解出来たのに、ねえさまはずっとねえさまのまま」

「それの何が悪いのよ? 私も悲も死んだんだもの、変わる必要なんてない!」

「そうね、本当に死んだのであれば変わりようがないわね。だけど、ねえさまは自分の意思で動いているばかりか、 クル・ヌ・ギアの力を得て自在に操っている。ねえ、それって死んでいるって言える?」

 悲はぬるりと哀に近付き、その髪を触手で断ち切ってツブラを解放してから、姉の目を覗き込む。死者の目では ない、生者の目だ。朽ち果てた肉体から精神を解放したが、まだ活力を失ってはいない。つまり。

「ねえさまはまだ生き返る気でいる」

 姉の顔を掴み、悲は目を寄せる。底知れぬ死者の目で、活きた魂を覗く。

「何を言い出すの?」

 哀はにたにたとした笑みを浮かべ、困っていますとでも言いたげな顔をするが、内心は違う。

「枢を器にする気? それとも狭間君? ……違うね、怪獣聖母が目当てだね?」

 哀の髪がざわついて悲を絡め取ろうとするが、悲の触手はそれを全て叩き落とした。

「だけど、ねえさまにはそんなことが出来るはずがないじゃない」

 悲は哀の目に己の目を近付け、僅かに隙が出来た姉の魂に侵入する。クル・ヌ・ギアで過ごしている時間は、 こちらの方が遥かに上だ。生前であれば不可能だったが、闇を媒介にすればどうにでもなる。哀はもがいたが、 決して手は離さない。目も離さない。それから、触手を通じて悲の感情を注ぎ込んでやる。

「ねえさまは怪獣使いなんかじゃない」

「そうよ、綾繁家の当主様だもの」

「ねえさまは怪獣と通じ合えたことなんて、一度もない」

「そうよ、だって私は人間だもの」

「ねえさまは私を羨んでいた」

「そんなわけないじゃない、それは悲の方よ」

「ねえさまはまこちゃんが好き」

「それは言いがかりよ。私は俗な男の人になんて、なんにも」

 そうは言いつつも、哀の視線は震えている。悲は哀の頬に添えた指に力を込め、づぶりと肌に埋める。どちらも 闇で出来ている者同士なので、血も出なければ肉も裂けない。ただ、闇と闇が混じっただけだった。その闇を少し ずつ姉に馴染ませ、混ぜ、絡め、通じ合わせていくと、悲の中に哀が入り込んでくる。哀の中にもまた悲が入り込み、 双子の意識は一つとなった。記憶も意識も知識も感覚も何もかもを共有する。
 姉は、綾繁哀は名前通りの哀れな女だ。だが、自分が悲惨な人生を送っているのだと理解したくないがために、 自意識をひたすら高め続けた。その甲斐あって哀は己を守り通すことは出来たが、自意識が高まり過ぎた弊害で 承認欲求もまた強くなったが、政府の人間や怪獣達では哀を満たしてはくれなかった。夫となる男を迎え入れる つもりではいたが、自尊心が高すぎたせいでどんな男も突っぱねてしまったため、とうとう一人も婿に来てくれる ことはなかった。そのため、哀は不満と苛立ちを持て余し、挙げ句の果てには悲のシビックの動力怪獣に意識を 宿して外の世界を覗き見するようになった。そこで出会ったのが、悲に焦がれる少年だった。
 どうしてカナちゃんばっかりなんで私じゃないのカナちゃんは私なんだから私はカナちゃんなんだからあの子は 私のものになるはずならないわけがないないないないないないないないないないないないないないないない。

「まこちゃんは――――真琴君は、誰のものにもならないわ」

 姉の意識の中核に滑り込み、トライポッドの中で真琴と過ごした時の記憶を掴む。

「あの子はね、私が惚れていい子じゃないの。そりゃ、ちょっと生意気で頭でっかちで融通が利かないところも あるけど、あの子は生きている。若い骨に柔軟な肉を纏い、暖かな血を全身に巡らせ、神経には新鮮な電流を走らせ、 その内に宿る魂を日々成長させている。だけど、私もねえさまもそれを捨ててしまった。あの子とまぐわったところ で、私達が産み出せるものなんてないわ。綾繁家において、世継ぎを産めない女に意味はないってことを一番理解 しているのは、ねえさまじゃなくて?」

 悲は姉を戒め、闇の内に引き摺り込む。哀は抗おうとするが、既に悲の闇に侵食されていたために髪を操る力 もなくなっていた。妙齢の女性の姿に整えられていた体がどろりと崩れ、滴り落ちては失せていく。

「悲……」

「そうそう、ねえさまには大事な仕事を任せてあげるわ。今し方、火星に置かれていたミンガ遺跡を持ってきた んだけど、これを金星まで運ぶのはさすがに大変なのよね。今の私はエレシュキガルの肉体を間借りしているんだ けど、だからといってエレシュキガルの力を使いこなせるわけでもないし、ミンガ遺跡から生まれる光の巨人を制御 出来るわけじゃない。だけど、ねえさまはそれが出来るでしょ? だって、ねえさまは」

 悲はぎゅばりと闇を広げて姉を捕食すると、ぐねりと胎内で手を加えてから、改めて姉を外に出した。

「怪獣なんだから」

 赤い触手、赤い瞳、褐色の肌。哀の顔が貼り付けられた、エレシュキガルがそこにいた。

「……え、これ、なんで」

 哀は戸惑うが、肉体を明け渡したことでただの闇の固まりと悲はにたつく。

「金星でも、どうかお元気で」

 少しもらうわね、と悲はツブラの触手の先端を千切ると、それをエレシュキガルとなった哀の胎内へ捻じ込んだ。 ミンガ遺跡がそれを受け取ったのだろう、エレシュキガルの内側から見慣れ過ぎた光が迸る。クル・ヌ・ギアには 不釣り合いな閃光が、全てを消し去る輝きが切り裂いていく。ミンガ遺跡の気配を、クル・ヌ・ギアそのものである タンムズも感じ取ったのか、クル・ヌ・ギアが脈打ち始める。ざあざあと闇が荒れ狂い、シビックが揺れる。

「や、わたし、まだ、なんにも」

 できなかった、と叫んでエレシュキガルは手を伸ばすが、悲はそれに応じなかった。狭間とツブラでさえも。闇を 焼いた光は集い、束ねられ、光の巨人と眷属と化してエレシュキガルとその中のミンガ遺跡に群がっていく。哀の手は 消し去られ、エレシュキガルの触手も千切られていく。だが、その出口となるミンガ遺跡は胎内にあるため、どこへも 行くことは出来ない。メビウスの輪の如く、途切れない輪廻に封じ込められたのだ。そして、クル・ヌ・ギアもまた 収束し始めている。重く熱い星が最期を迎えた後、光をも飲み込む石炭袋と化していくかのように。

「というわけだから、私は火星には行けそうにないわー」

 闇を作り変えて人間に近い姿に変化した悲は、彼と最初に出会った時と似たような格好になる。怪獣Gメンとして 普通の人間のように働いていた頃の、スーツにハイヒール姿だった。狭間は目を見張るが、タンムズが発する 怪獣電波を感じ取って事の次第を察した。ツブラもまた同様だった。

「別れの挨拶とか言葉とか手紙とか、ちゃんとしたものを考えておくべきだったわ。そうすれば、少しは格好が 付けられたのにね。でも、きちんと出来ないのなら、それはそれで私らしいかな」

「カナさん……いえ、愛歌さん」

 狭間が絞り出すようにかつての名を呼ぶと、悲は――光永愛歌としての笑みを浮かべる。

「また会うことがあったら、ヲルドビスでコーヒーとナポリタンでも奢ってちょうだい。それで充分」

「今まで、ありがとうございました。どうか、悔いのないように」

 狭間はツブラを抱き締め、声を震わせながらも笑顔を返そうとしてくれる。つくづく、良い青年だ。

「ありがとう、狭間君、ツブラちゃん。私の友達になってくれて。とっても楽しかったわ!」

 シビックに二人を詰め込み、闇の出口をこじ開ける。ツブラは手を伸ばすも、フロントガラスに阻まれた。その手に 手を振り返してやってから、愛歌は深く息を吸い込んだ。さあ、歌おう。怪獣でも人間でもある今の自分であれば、存分 に怪獣使いの祝詞を操れるはずだ。神話怪獣をも魅了する、極上の歌を紡げるだろう。
 思い出深いシビックと二人の友人が無事に外へ出られたことを確かめてから、愛歌は清々しい気持ちで祝詞を口に した。姉とその道連れにした神話怪獣にほんの少しだけ心を寄せ、火星への旅を続ける狭間とツブラの無事を 祈りながら、クル・ヌ・ギアにさざ波を立てる。その波の奥に、金色の雨が降る星が垣間見えた。
 光を飲み込んだ闇が更なる闇に没し、一つの神話が終わった。





 


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