横濱怪獣哀歌




神話ノ中ノ神話



 息を吸い、吐く。
 乾き切った空気が粘膜を擦り、苦くて痛い砂の味がする。盛大に咳き込んでから、狭間は身を起こした。髪と服に 付いた砂が零れ落ち、眼球を潤すために瞬きする。それから、再度息を吸い込んで肺を膨らませるが、思うように酸素 が頭に回ってこないのか意識が冴えない。まるで、標高が高い山にいるかのようだ。酸素が薄いせいだ。
 もう、闇は見えない。ふらつきながら立ち上がると、手足に掛かる重みの感覚が異なった。重力が違うのだろう。 見渡す限りの地平線の上には、淡い色合いの青い空が横たわり、遥か彼方には巨大な山がそびえている。だが、 周囲にはそれと比較するための建造物がないため、山の巨大さが今一つ実感しきれなかった。赤茶けた地面には 古びた筋が刻まれていて、遠い昔にはこの星にも豊かな水があったことを示している。

〈人の子!〉

 狭間の存在を感じ取り、火星怪獣達が語り掛けてくる。

〈人の子だ! 天の子が人の子を連れてきた!〉

〈エレシュキガルがいなくなった! 金星の遺跡もだ!〉

〈人の子が我らを解放してくれた!〉

〈これで火星の神話時代も終わるんだ! やっと終わるんだ! ひゃっほおおおおお!〉

〈光の巨人もいなくなった!〉

〈人の子!〉

〈我らが人の子!〉

〈どうか、我らの言葉を地球怪獣へと届けてくれ!〉

〈そして、我らを再び空へと導いてくれ!〉

〈人の子と人間達がトライポッドと呼ぶ宇宙怪獣戦艦とその眷属達が火星から飛び立てなくなったのは、怪獣聖母 ティアマトが地球の磁場を狂わせていたからだ。そのため、我らは正確な座標を見定められなくなり、それ故に星と 星の間に横たわる空間を飛び越えることが出来なくなり、金星や他の星々の怪獣達とも交信が出来なくなっていたのだ。 それぞれの星に住まうエ・テメン・アン・キは、地球のエ・テメン・アン・キと同期していたが故であり、空間を超える 力である光の扉を統べるミンガ遺跡がエレシュキガルに掌握されていたが故でもあった。だが、これからは〉

〈我らは自由だ!〉

〈我らの時代が始まった!〉

〈危険を顧みずに地球へ旅立ったトライポッド達の犠牲は無駄ではなかった! 彼らと共に火星を脱した火星人類 達もだ! 長き時を経て、彼らは人の子を導いてくれたのだから!〉

 人の子、人の子、人の子、とどの怪獣もやかましい。

「……あー、お前ら?」

 げほ、と再度咳き込んでから、狭間はシャツの襟元を引っ張り上げて鼻と口を塞いだ。

〈人の子の言葉だ!〉

〈人の子の声だ!〉

〈人の子が我らを感じ取ってくれている!〉

「うーるっせぇ。ちったぁ黙ってろ。俺は疲れてんだよ、南極を雪中行軍してきたんだからよ」

 狭間が苛立ちを含めた怪獣電波を放つと、火星怪獣達は水を打ったように静まり返った。今さっき、クル・ヌ・ギア から出てきたばかりなのだから、少しは心身を休ませてほしい。どこにいようと俺の扱いは変わねぇのか、と内心で ぼやきながら、狭間は主を失ったシビックを見やった。ダッシュボードに、彼女が好んで吸っていたタバコ、アメリカン スピリッツとマッチがあった。先程まではそんなものは見当たらなかったので、悲なりの餞別なのだろう。

「タバコはやめようと思っていたんだがなぁ」

 餞別とあれば、受け取らないわけにもいくまい。狭間は運転席に乗り込んで窓を閉め、ダッシュボードからタバコ とマッチを取った。それから、後部座席を窺うと、赤い触手の固まりが丸まっていた。バックミラー越しに彼女の様子 を確かめると、触手の間から赤い目がちらりと覗いたがすぐに隠れてしまった。あんなに会いたかったのに、いざ会う とやたらめったら意識してしまう。狭間は乱れ放題の髪を撫で付け、南極での日々では剃るに剃れなかったので伸びて しまった無精ヒゲが気になったが、手元にあるのは刃のないナイフ、メーだけだった。せめてライキリがいれば、 だけどあいつに任せると首まですっぱりやられちまう、せめて下着だけでも着替えたい、横浜を出発してからは 一週間近く経つのに一度も着替えてねぇ、ああどうしようどうしようどうしよう。狭間はハンドルに突っ伏した。

「マ」

 ざわりと触手が分かれ、舌足らずな声が聞こえてきた。

「――――っう」

 それだけで感極まり、狭間は悶絶する。どきどきするなんてものではない、目の奥が痛い、喉が詰まる、息が 出来なくなる。さっき再会したじゃないか、だけどあれはカナさんの体を間借りしていた彼女であって実物ではない んだ、だからこれが本当の再会なんだ、だから。狭間は彼女の名を呼ぼうとしたが、目尻がひどく熱くなり、じわり と涙が滲み出てきた。喉の奥の異物感が迫り上がってきて、鼻がぐずぐずする。舌が上手く動かず、口が曲がり、手が 震えてくる。ハンドルを握り締めるが、指に力が入らない。クラクションに水滴が落ち、膝を濡らす。

「……ぁ、おぅ」

 どうか俺を許してくれ。お前に会いたいがために、馬鹿なことを次から次へとやらかしてきた俺を嫌いにならないで くれないか。世界と自分を天秤に掛けられるだなんて、重たいなんてものではないだろう。故郷どころか地球を捨てて までも追いかけてきた男は、馬鹿としか言いようがない。真っ当な人間としての生活に背を向けて、怪獣の世界 に耽溺して、怪獣と共に生きるための道を切り開くべく力任せに突き進んでしまった。怪獣聖母ティアマトにケンカ を売りたいがためにエ・テメン・アン・キを目覚めさせたせいで、つまりは俺のせいで地球は滅茶苦茶だ。ティアマトに 怪獣達をけしかけてしまったから、今頃南極は地獄絵図だろう。怪獣達の勢力図も塗り替えてしまった。長らく栄華 を誇っていた穏健派は神話時代の本当の終焉と共に追いやられ、強硬派が大手を振るっている。怪獣は死ぬよう になり、人間が死後に向かうべき世界はなくなり、新たな理がこの世に構築されつつある。時間が経てば、あらゆる ところで様々な問題が噴出してくるだろう。確実に世界は狂っていく。だが、それもこれも狭間がツブラを求めて しまったからだ。お前は、そんな俺を求めてくれるか。

「マヒト」

 しゅるりと触手が伸びてきて、狭間の背を優しく支えてきた。

「俺は」

 何を言っても、言い訳にしかならない。狭間は触手に抱き締められながら、嗚咽する。

「どうしようもねぇほど好きなんだ、それだけなんだ……!」

 どんな時でさえも、狭間を突き動かしていたのはその思いだけだった。恋は盲目とはよく言ったものだが、狭間の 場合はそんなものでは済まされない。今、ここでツブラに拒絶されたとしたら、自分は一体どうなってしまうのか。 考えることすら恐ろしくて、ツブラに限ってそんなことはないのだと信じ切れない自分が浅ましくて、狭間は枯れた 喉が割けんばかりの咆哮を上げた。狭い車体のガラスがびりびりと震え、サスペンションが軽く軋む。

「マヒト」

 一本の触手が狭間の乾涸びた唇をなぞり、それから口内に滑り込んできた。粘膜と触手が接する感覚の甘さは、 一瞬で情欲を奮い立ててしまうほど官能的だった。だが、それでも振り返る勇気が湧かない。

「会イタカッタ」

 触手を通じて、膨大な記憶と感情が流れ込んでくる。だが、彼女が発した言葉はそんなものよりも遥かに痛烈 だった。上擦り気味の言葉尻には歓喜や悲哀や罪悪感が入り混じり、短い一言だからこそ、厚みのある感情が 満ち満ちていた。口から滑り出ていった触手を拭ってやってから、狭間は頷く。何度も何度も何度も。

「っう、ぁ、俺も」

 だから、火星まで追いかけてきた。

「ダケド、マヒト、オヨメサン、シテクレナイ」

「馬鹿言え。俺が婿に入るって言っただろうが。ヒエロス・ガモスだ」

「ダケド」

「地球には帰れない。だけど、火星にもいられない。そうだろ?」

「……ウン。エレシュキガル、色ンナコト、シテイッタカラ」

「だから、俺とお前だけで住める場所を探そう。そうだな、月はどうだ?」

「月?」

「地球の月だ。火星の衛星じゃない、地球の衛星だ」

「ドウシテ?」

「どうしてってそりゃ、かぐや姫は月に還るもんだろ?」

 狭間はスカジャンの背中に描かれた刺繍を指し示し、少しだけ頬を綻ばせた。

「俺は帝じゃないから、富士山の上で不老不死の秘薬を燃やしたりはしねぇ。お前と一緒に月に行く」

 狭間は少しだけ気分が落ち着いてきたので、新品のアメリカンスピリッツの封を切り、一本銜えた。

「そして、お前よりも少し先に死ぬだろう。そうなったら、俺の骨は全部食ってくれていい。そうすれば、俺は死んだ後 もお前と一緒にいられるからな。ブリガドーンにはノースウェスト・スミスの墓があったが、俺はそんなことはしねぇ。 下手にそんなものを残すと、また怪獣共が一悶着起こしそうだからな。だから、ツブラ」

 渋い煙を吐き出して車中に漂わせてから、狭間は言い切った。

「俺の命、お前に一滴残らず喰わせてやる」

 雑味の多いゴールデンバットよりもさっぱりとした澄んだ味と、久し振りのニコチンが軽い酩酊を招いた。半分ほど 吸ったタバコを灰皿に押し付けて火を消すと、ざわりと触手が割れた。

「ウン。全部、食ベル」

 イナンナでもエレシュキガルでも神話怪獣でもなく、ツブラが言った。最大級の好意の肯定であり、愛情表現だ。 狭間は運転席の背もたれを倒して遮蔽物を取り払った。ツブラは触手だけでなく短い腕を伸ばして愛する男を抱き、 白目のない赤い瞳からぼろぼろと涙を落としながら頬を摺り寄せてきた。その肌の冷たさだけで背筋が逆立ち、 考えるまでもなく小さな唇を塞いでいた。思い返してみれば、あの日、別れて以来のキスだ。

「どっちから喰う?」

 上か、下か、それとも。狭間が小声で呟くと、ツブラは潤んだ目で見つめてくる。

「全部」

 結婚するまでは待てそうになかった。シビックの最初の使い道がこれかよ、ああ俺ってやつはどうしてこう、との 自己嫌悪が渦巻くが、愛して止まない怪獣に乞われた嬉しさには勝てなかった。怪獣電波ではなく即物的なもので ツブラと繋がり合いながら、狭間はメーを用いて必死に怪獣電波の拡散を防いだ。今、この時だけは、ツブラ以外 の怪獣とは一瞬たりとて通じ合いたくなかったからだ。気付けば、火星の空が暮れて夜が訪れていた。
 貪り、貪られ、そして満たし切った。




 雲が割れ、光が差し込んでいた。
 それは無条件に暖かく、万物を明るく照らし出し、降り積もった雪を煌めかせてくれた。その光に怯えなくとも いいのだと気付いたのは、今し方だった。そしてまた、脳内に突き刺さっていた無数の意識と思考と感情が消えて いて、精神が凪いでいた。自分の内側を誰にも浸食されないのは、実に心地いいものだ。
 狭間真琴はテーブルから顔を上げ、変な姿勢で眠ったせいで痛む首筋を気にしつつ起き上がると、背骨がばきり と鳴った。古代喫茶・ヲルドビスの店内に溜まっていた人々もいつのまにか寝入っていたため、空気が生温かった。 他の面々は雑魚寝だが、枢は海老塚がボックス席のソファーに寝かせてくれたばかりか毛布も掛けてやっていた。 階段から足音が聞こえてきたのでそちらを見やると、麻里子がふらつきながら降りてきた。それから、眠たげな顔を したジンフーもやってきた。麻里子は長く伸ばした黒髪を首の繋ぎ目に巻き付けていたが、隙間から覗いた肌には 赤い痕がくっきりと付いていた。それを目にした途端に真琴はぎょっとしたが、二人は夫婦だもんな、と思い直して 動揺を誤魔化した。刺激が強すぎるのは否めないが。

「……えぇとね」

 ノートに突っ伏して寝入っていた羽生鏡護は目を開き、髪を掻き乱しながら身を起こした。

「大体の理論は完成したけど、細かい理詰めはこれからだ。ああ、忙しくなるねぇ」

「バベルの塔が落ち着いた理由はなんだと思います?」

 真琴が問い掛けると、羽生は欠伸を噛み殺しながらも答えてくれた。

「ああ、それは至って簡単だよ。僕らとの接続が切れる前に、バベルの塔自身が教えてくれたからね。神話時代は 取り戻せなかった、今度こそ終わってしまう、エレシュキガルが滅んでしまう、クル・ヌ・ギアから離れてしまう、って ぎゃんぎゃん騒いでいた。それと、怪獣聖母ティアマトも騒いでいたね。私は母ではなかった、では私は一体何者で あるべきなのか、ってね。怪獣の哲学が垣間見られたのも実に興味深くて、頭を休めている暇がないよ。あー、でも、 さすがのこの僕もちょっと吐きそう。考え過ぎて頭が痛い。頭痛がひどいと胃腸に来るね」

「そんなものは解り切っているではありませんか。女になりきれなかったから、子を産みもしないのに母を名乗って いただけなのです。……あの腐れ怪獣との接続が切れたのは何よりですが、狭間さんの仕業ですね。意趣返しのつもり なのでしょうが、そのせいで随分と疲れてしまいました。もっとも、過剰な感覚と感情を逃がす場所を作ってくれたこと には感謝すべきですけどね。この男はしつこいのです」

 厨房で水を飲みながら、麻里子は夫を一瞥した。

「なんぞ、可愛げがないのう。喜んでおったくせに」

 だがそれも良し、とジンフーはにたついた。どこまでも貪欲な男である。

「あ、えと、その、なんていうか……」

 突っ伏していたテーブルからのっそりと起き上がった鮫淵は、メガネを掛け直し、雪が止んだ空を仰いだ。

「こんなに気持ちよく晴れたのは、久し振りというか。空の青さが目に染みます」

「ええ、そうですね。素晴らしい朝です」 

 寝起きであるにも関わらず佇まいを整えている海老塚が窓を開け放つと、きりっと冷えた空気が滑り込んできて、 淀んでいたものを拭い去っていった。うっわさむぅ、と床に転がっていた寺崎が跳ね起き、枢は二度寝をするつもり なのか毛布を抱えて身を丸めた。朝食でも見繕いますね、と海老塚が厨房に向かったので、真琴もアルバイトの 領分を果たすべく厨房に入った。エプロンを付けて袖を捲り、海老塚に言われるがままに働いた。焼き立てのパン ケーキを皿に載せて運んでいたが、忙しさが落ち着くと、兄とその伴侶となる怪獣と火星へと思いを馳せた。
 せめて、御祝儀でも渡しておくべきだった。





 


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