横濱怪獣哀歌




火星ノ赤キ丘



 大陸怪獣アトランティスの元に辿り着くまで、火星時間で三日以上掛かった。
 それもこれも、カナシビックがただのシビックに戻ってしまったからである。その上、ボンネットは空っぽになって いると来ている。動力源となる怪獣を見つけ出して詰め込もうかとも思ったが、ツブラが他の怪獣を引き入れることを 嫌がったので、ツブラの発する熱量を利用してシビックを走らせていった。大陸怪獣アトランティスの気配はとてつも なく大きかったので、探すまでもなく感じ取れていたし、アトランティスも狭間とツブラの無事を知ってからは自分の 位置を示すためにずっと怪獣電波を発し続けていた。なので、道に迷うことはなかったのだが、いかんせん火星の 地表が広すぎた。光の巨人が現れなくなったマリネリス大峡谷に至っても、大峡谷を渡るための手段はなく、 火星怪獣達の助力を受けてどうにかこうにか向こう岸に渡った。そして、やっとのことで大地に埋もれている大陸怪獣 に行き着き、居住臓器に入らせてもらった。
 それから、ツブラの触手でシビックを引き摺っていき、ツブラが世話になった人間の住まう家に向かったことまでは よかったが、そこで力尽きてしまった。気絶するように寝入り、我に返ると布団に寝かされていた。汚れ切った服も 脱がされ、体も拭われたのか小奇麗になっていた。但し、無精ヒゲはそのままである。狭間が呆気に取られていると、 ツブラが布団の傍で眠りこけていた。これまでと変わらぬ、赤い触手の繭と化していた。

「おお、やっと起きたか!」

 雷鳴の如く力強い声が降りかかり、狭間はぎくりとした。

「ここに来てからというもの、地球時間で三日は寝込んでいたぞ! 余程疲れていたらしいな!」

 この、忘れがたい声と口調は。狭間が振り返ると、素顔の鳳凰仮面――――野々村不二三がいた。

「……あ」

 喋ろうとしたが、ろくに言葉が出てこない。狭間がひどく咳き込むと、野々村は白湯を寄越してくれたので、狭間 は喉を鳴らして一気に飲み干した。胃袋どころか全身に水が染み渡り、隅々まで潤っていった。いきなり飲みすぎると 胃が拒絶するからな、と野々村は言い聞かせてから、もう一杯渡してくれた。なので、二杯目はゆっくり飲むことに した。茶碗を持つ指は乾き切っていて、爪と肉の間はひび割れていて血も滲んでいた。それだけ、南極の寒さと火星の 大気が過酷だったという証拠だ。

「落ち着いたか?」

 野々村に問われ、狭間は頷いた。

「はい、なんとか」

 今度はまともに声が出た。野々村は狭間とツブラを見比べていたが、目頭を押さえる。

「そうか、会えたんだなぁ。よかったなぁ。本当によかったなぁ……」

「俺とツブラを助けてくれて、ありがとうございます」

 狭間がツブラの触手にも水を与えてやりつつ礼を述べると、野々村は首を横に振る。

「礼を言うべきなのは俺だ。いや、全ての人間と怪獣だ。オシタカ――佐々本モータースの社長なんだが、そいつ から知らせを受けてな。忍孝はマリネリス大峡谷に行っては廃品漁りをしているんだが、そこで忍孝は光の巨人を 産み出す遺跡がなくなっていることに気付いたんだそうだ。証拠の写真もあるし、その後に忍孝に連れられて何人 もの人間が見に行って確かめたから間違いない。そんなことが出来るのは、この世にはただ一人しかいない。それは 君だ、狭間君。そうなんだろう?」

「俺じゃありません。カナさん……愛歌さんですよ」

 狭間は空っぽになった茶碗を下ろし、少し笑う。今頃、出口の閉じたクル・ヌ・ギアの中にいるのだろう。

「詳しいことは話しようがないんですけど、カナさんはやっと死ねたんです。今度こそ、本当に」

「そうか……」 

 野々村は複雑そうに呟いたが、背後のドアが開いて作業着姿の中年の男が顔を出した。その胸元には、佐々本 モータースの名が刺繍されていた。つまり、彼が佐々本忍孝か。つぐみの父親で小次郎の上司だ。狭間が忍孝を 注視していると、忍孝は少し訝しんだ。顔形はそうでもないが、表情の作り方はつぐみによく似ている。

「佐々本さんですね?」

 狭間は腰を浮かせたが、足腰に力が入らずにすぐにへたり込んだ。無理もない、今し方まで飲まず食わずだった のだから。佐々本はドアを閉めてから、狭間の元にやってきた。

「君のことは、野々村から話を聞いている。怪獣の声が聞こえるんだそうだが」

「ええ、まあ。奥さんと娘さんから、もしも会えたらよろしくお願いします、と……」

 狭間が言うや否や、佐々本は狭間の腕を掴んできた。その手は力強く、整備工らしい硬さがあった。

「うららとつぐみと小次郎は無事なのか!?」

「御元気です、工場も無事です」

 狭間が佐々本の手を掴み返すと、ぐぅ、と喉の奥で声を詰まらせて佐々本は崩れ落ちた。すまん、と言い残して、 彼は退席した。それから、薄い壁越しに嗚咽が聞こえてきたので、妻子と息子同然の弟子の安否が知れた喜びに 浸っているのだろう。上腕に残る痛みは、佐々本が長らく溜め込んできた激情の一端だ。その悔しさとやるせなさ と、彼が家族と再会出来る日を思い描くと、こちらまで感極まりそうになる。実際、野々村は感極まっていたようで、 変な声を漏らしながら涙を堪えていた。良くも悪くも感情の振り幅が大きい男だ。

「野々村さんに渡すものがあるんです」

 狭間は気合を入れて立ち上がると、裏口から外へ出て埃まみれのシビックに向かい、トランクを開けた。その中に 積み込まれた木箱を開け、百貨店の紙袋を手にした。それを、追いかけてきた野々村に渡す。 

「鳳凰仮面の続き、書いて下さいよ。俺も知りたいんです、あなたの正義がどんな結末を迎えるのかを」

「そうか、美羽子が狭間君に……」

 野々村は神妙な顔をして紙芝居を読んでいたが、狭間を見据える。

「だが、その前に狭間君の話を聞かせてもらえないだろうか。無論、話せる範囲だけでいい。俺が理解出来ないで あろう部分は端折ってくれてもいい。鳳凰仮面は、箱根で狭間君とツブラを助けた時に本物の正義の味方になること が出来た。それ以外は、暴力を独善で正当化しているだけの単なる通り魔に過ぎなかった。そんなことだから、 美羽子にも鷹男にも無下にされてしまうのだ。そのことに気付くまで、随分と時間が掛かってしまった。だが、狭間 君はそうではない。俺などでは辿り付けなかった正義に至っている」

「そんな、御大層なもんじゃないですよ」

 あまりにべた褒めに辟易し、狭間は頬を引きつらせる。

「では、どうして火星に来ようと思ったんだ? なぜエレシュキガルを恐れなかった? 理由を教えてくれ」

 真剣に問うてきた野々村に、狭間は綻び始めた赤い繭を見やった。

「惚れた女の尻を追いかけていたら、火星に来ちまったんです。だから、俺の正義の根っこは、言ってしまえば 性欲ってことですよ。我ながらどうしようもないですが」

 狭間の視線を辿ると、野々村は少し間を置いた後に大笑いした。ああそうだな、そうだろうな、俺だって美羽子 にいいところを見せたくて鍛えたようなもんだな、と言った。笑い飛ばされて悔しいやら恥ずかしいやら情けないやら、 だが少しほっとしたような、なんともいえない気分になった。それからしばらくして、ツブラが目を覚ました。
 照れ臭いのか、なかなか目を合わせてくれなかった。




 大陸怪獣の内部では、水は極めて貴重だ。
 だから、風呂を沸かすのは滅多にないことであり、住民達は共同浴場の蒸し風呂で汗を流したり、水で濡らした 布で体を拭いて身を清めている。手に職がある佐々本はともかく、アトランティスでは新参者の野々村は水を多く もらえる権利はなく、マリネリス大峡谷で拾ってきた物資と物々交換して手に入れたり、農地の仕事を手伝って賃金 代わりに手に入れるだけで精一杯だった。だから、風呂は贅沢の中の贅沢なのだが、今日に限って水が至るところで 噴出していた。悲鳴とも歓声ともつかない声が街中で上がり、豪快な水柱が飛沫を撒き散らしていた。
 市街地を遠巻きに眺めていた狭間は、おのずと理由を察した。アトランティスの地下深くでは、水を供給するために 水脈怪獣ムラクモが水脈を掘り起こしている。と、他の怪獣達から教えてもらったのだが、そのムラクモが異様に活発 に動き回って手当たり次第に水脈を見つけてはアトランティスに繋げてくる。その結果がこれである。

「風呂に入り放題だ」

 狭間が半笑いになると、ツブラが触手をざわめかせる。

「オ風呂!」

「その風呂が沸いたぞ! さあさあ、冷めないうちに早く!」

 嬉々としてやってきた野々村は、狭間とツブラを家の裏手へと追いやった。家の目の前では、間欠泉の如く水が 噴出している。受け止めるための容器が辺り一面に置かれていたが、どの器からも溢れていて、家の前には細い 川さえ出来上がっていた。その水を大いに被ったおかげで、シビックも埃が洗い流されてすっかり綺麗になって いたほどである。後日、佐々本が整備すると約束してくれた。
 風呂場といっても、いわゆるドラム缶風呂である。使い込まれたドラム缶には並々と湯が満たされ、暖かな湯気 が昇っている。水面にはドラム缶の直径に合わせた大きさのスノコが浮いていて、それを踏んで入らないと足の裏が 焦げてしまいかねない。風情も何もないが、火星にまで来て熱い風呂に入れるのだから充分贅沢だ。
 狭間は服を脱いでから髪も解き、湯に身を沈めた。つま先の血流が良くなり、痒みすら感じる。頭まで沈んで 髪を乱し、砂や埃を洗い流してから顔を出し、髪を掻き上げた。生きた心地などという言葉で収まるものでは なかった。体の芯から解れていく感覚に、思わず声が漏れてしまう。極楽とは正にこのことだ。この快感を独り占め するのは、あまりにも罪深い。だから。

「来いよ」

 狭間がツブラに手を差し伸べると、ツブラは少し目を彷徨わせたが、触手を使って体を浮かせてドラム缶風呂に やってきた。縁につま先を乗せて差し込んでから、少しずつ身を沈める。それから触手も湯の中に入れたが、途端に ツブラは弛緩して触手も脱力した。狭間はツブラの触手を指で梳いてやり、汚れを落としてやる。

「……ン」

 くすぐったいのか、ツブラは小さな肩を竦める。

「マヒト、オ腹、コレ」

 湯の中で漂っていた触手が狭間の下腹部をくすぐり、傷口の縫い目を見つけた。

「ああ、これか。麻里子さんの結婚式の時、ツブラを火星に飛ばすために光の巨人を呼び出す必要があったんで、 カーレンの棘でぶち抜いてもらったんだ。おかげで腸がちょっと短くなっちまったけど、大したことねぇよ」

 狭間が触手の上から傷口を押さえると、ツブラは泣きそうになる。

「ドウシテ?」

「あの時はそうするしかなかった、というか、それしか思いつかなかったんだよ。今にして思えば、無茶を通り越して デタラメだよな。カーレンの狙いが外れて背骨か骨盤が折られていたら、と思うと寒気がする」

「……ウゥ」

「泣くなよ」

 狭間が苦笑しつつツブラを撫でてやると、ツブラは狭間の胸に額を押し当てた。湯と汗とは違うものが滴り、肌を 伝って水面に吸い込まれていく。縫合も抜糸も済んでから久しい下腹部の傷の前後を、触手が慈しんでくる。その 優しい感触に、狭間はツブラを抱き締める。

「ツブラが受けてきた仕打ちに比べりゃ、どうってこたぁねぇよ。今まで何本の触手を切られた? どれだけの量の 体液を流した? よく見ると腕の太さが左右で違うから、一度千切られでもしたんだな。痛かったよな、痛くないわけ がないよな。それなのに、俺はなんにもしてやれなかった。だから、これでやっとおあいこだ」

「ソンナノ、イラナイ。マヒト、痛イコト、シナクテ、イイ」

 ふるふると首を横に振ったツブラに、狭間は頬を寄せる。

「いいんだ」

「デモ」

「だから、泣くなって」

 狭間はツブラを抱き寄せ、幼い唇を塞いでやる。すぐに喉の奥へと触手が滑り込んでくる、かと思いきや、ツブラ は狭間の腕の中で硬直していた。赤い目を見開いて、小刻みに震えてすらいる。なんだこの初々しい反応は。

「あのさ、ツブラ」

 狭間が身を引くと、ツブラはどぼんと湯の中に没してしまった。が、すぐに上がってきて顔を覆う。

「マヒト……元気……」

「そりゃまあ、男だからよ」

 愛して止まない娘と風呂に入れば、当然ながら下半身は反応する。狭間が赤面すると、ツブラも照れる。

「ヤット会エテ、一緒ニイラレテ、嬉シイ。ダケド、ナンダカ、苦シクテ」

「うん。解る」

「アンナコト、サレテ、モット、嬉シクテ、デモ、恥ズカシクテ」

「あれは悪かった。俺もどうかしちまってた」

 シビックの中での愚行を思い起こし、狭間は更に赤面する。ツブラは指と触手の間から、そっと目を上げる。

「ダケド、マタ、シテクレル?」

「いつになるかは解らないけど、必ず。だって、俺とツブラは夫婦になるんだろ?」

「ウン。ダケド、ツブラ、怪獣ダカラ、子供ハ産メナイ。タダ、気持チイイダケ」

「それでいいんだよ。俺はツブラと一緒に生きられるだけでいい。たったそれだけのことなのに、それを伝えたかった だけなのに、こうなっちまうんだもんなぁ。世の中ってのはままならねぇや」

 狭間はツブラを抱き寄せて膝の上に載せると、柔らかな触手に頬を寄せる。ぬめぬめとした感触が心地良く、腰から 下におずおずと絡み付いてくる触手がいじらしい。抱き締め返してしまいたいのに、意識しすぎて戸惑っている のだ。子供から少女へと変貌を遂げつつあるツブラがあまりに愛おしく、尚更劣情が高ぶってきたが、意地と気合で 我慢しておいた。そんなものは、後で自力で処理してしまえばいいのだから。

「まだ、ちゃんと言ってなかったよな」

 ツブラの尖った耳を抓み、薄い皮膚をなぞってやると、ツブラがぶるりと身震いした。口の端から甘ったるい声が 零れかけたが、ツブラは懸命に堪えている。彼女もまた、劣情と戦っているらしい。

「俺と結婚して下さい」

 短い言葉に、万感の思いを込める。

「ツブラが好きだ」

 月並みな文句しか出てこないが、それが自分なのだと開き直る。

「愛してる」

「好キ。マヒト、大好キ」

 ツブラはとろりと目を細め、頬を緩める。

「オ嫁サンニ、シテクレル?」

「当たり前だ」

 ツブラの手を取り、握り合わせる。頼りない弾力の短い指が狭間の指の間に滑り込み、きゅっと掴んでくる。触手に 比べれば遥かに弱々しいが、それ故に伝わってくるものがあった。空いている方の手でツブラの頬を包み、顎を軽く 持ち上げてやってから、二度目の口付けを交わす。だが、それも束の間で、ツブラは体を捻って身を乗り出してきた。 ツブラが口の中から触手を繰り出してくる前に狭間が舌を入れてやると、ツブラはまたも硬直してしまったので、 狭間はここぞとばかりに責めて責めて責め抜いた。
 長風呂になったのは言うまでもない。





 


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