横濱怪獣哀歌




地球ノ緑ノ丘



 照和五十七年、十二月。
 浮遊怪獣アマノウキフネを改修した宇宙怪獣戦艦アマノウキフネの微調整を行うために宇宙に上がってくれ、と 真琴は帝国陸軍から命じられた。例によってグルムを怪獣と人間の通訳にするための命令ではあるが、今までと は少し心構えが変わっていた。それもこれも、枢との関係が変わったからだ。怪獣とその上に暮らす人間を背負う 肩はあまりにも細く、背骨も頼りなく、二次性徴の兆しが表れつつある体は肉付きが薄いを通り越して平べったく、 真琴の膝の上にすっぽり収まってしまう。だから、皆、枢を支えずにはいられない。
 大学が冬休みに入ると同時に怪獣列車に乗せられて周回軌道まで運ばれ、自力で宇宙まで発進して宇宙衛星基地と 化した楼閣怪獣シスイに向かい、地球の周回軌道を巡り続けているアマノウキフネがシスイとランデブーし、 ドッキングしたらアマノウキフネの居住臓器と連結する、という手筈になっている。
 予定通りであれば、大陸怪獣アトランティスは照和五十八年二月に到着する。衛星怪獣が発射した電波の反射で アトランティスの位置と距離は割り出せているし、航行速度も安定している。問題があるとすれば、アトランティス とアマノウキフネの相性だ。どちらも旧い怪獣で自我も強いので、諍いを起こしたら大事だ。なので、どちらの不満 も要求もグルムに聞き出してもらい、真日奔の帝国軍と政府で対処するというわけである。アマノウキフネもシスイも 真日奔の領海内に出現した怪獣なので、真日奔の管理下にあるからだ。
 よって、真琴はグルムを連れて東京駅の月面行怪獣列車に軍人達と共に乗り込んだ。東京湾に浮いている線路 怪獣キジョウに乗って海上に出た怪獣列車ブリュヘルは、自身の重力操作能力によって浮き上がっていき、地球を 一周しながら高度を上げ、大気圏から脱する。急に高度を上げると大気との激しい摩擦が生じるため、ブリュヘル は無事でも客車が無事では済まないからだ。なので、短時間で地球を一回り出来るばかりか朝も夜も体感出来るので、 富裕層には評判がいい。一等車の客席から、真琴は地球の全景を見下ろしていた。

「そういえば、真琴君はブリガドーンからも地球を見下ろしたことがあったな」

 向かい側に座るのは、玉璽近衛隊特務小隊所属の赤木進太郎曹長だった。昨年、昇進したのだ。

「ええ、まあ」

 青い海と緑の大地を貫く光が現れないことに、真琴は安堵した。あの時は、光の巨人とその眷属によって世界中 の都市や怪獣が蹂躙されていく様を目の当たりにしてしまい、景色を楽しむどころではなかった。今も、事の重大さ に気後れしているので、晴れやかな気持ちで見下ろせているわけではないが。

「もう少ししたら、南極が見えてくるぞ」

 ほら、と赤木が手袋を填めた手で示したので、真琴は窓に顔を寄せて覗き込んだ。ゴンドワナ大陸、サフル大陸、 と見えてくると、サフル大陸の下方に白い大地が現れた。衛星写真や航空写真で見慣れている南極大陸は、大陸の形 こそ変わっていなかったが、超大型の怪獣達が暴れ回っていた。跡形もなく破壊されたエレバス山の周辺で、巨体 と巨体をぶつからせては雄叫びを上げている。長きに渡ってエレバス山を占領していた怪獣聖母ティアマトが 死してマントルに溶けていったので、南極に集まった怪獣達はエレバス山の次なる支配者の座を巡って争っている のだ。落盤に土砂崩れに噴火に地割れにとエレバス山は見るも無残な有様で、ティアマトのものと思しき怪獣の 肉片も散らばっていた。人間の争いも大概だが、怪獣の争いはスケールが違う。

「あの調子じゃ、観測隊も引き上げざるを得ませんね」

 真琴が苦笑すると、赤木の隣で巨体を縮めている藪木丈治軍曹は冷凍ミカンを丸ごと頬張り、咀嚼する。

「そうなんすよねー。南極はどこの国の領土でもないっすから、変なことにはならないとは思うっすけど」

「お、ブリガドーンだ」

 赤木が身を乗り出して指すと、ゴンドワナ大陸の端に空中庭園怪獣が浮いていたが、一瞬で過ぎ去ってしまった。 ブリガドーンの飛行速度よりも、怪獣列車の速度が遥かに速いからだ。

「ブリガドーンは不可侵領域になったんですよね」

 だから、未だにブリガドーンの上には氷川丸が転がっている。真琴が言うと、赤木が説明した。

「希少な怪獣であるという以前に、遺跡としての価値がべらぼうに高いからな。氷川丸を解体して撤去しようという 話は真日奔以外の国からも出てきたが、ブリガドーンの高度が高すぎて普通の航空機では近付けないし、作業用の機材 や怪獣を運び入れたらブリガドーンの遺跡が台無しになっちまう。それもこれも、ブリガドーンに残る遺跡が世界各地 の遺跡に通じるものだったからだ。そうでなかったら、今頃は適当に空爆されて爆発四散しているさ」

「乱暴極まりないですね」

 真琴が渋い顔をすると、もそもそと駅弁を食べていた氏家武大尉が箸を置いた。

「戦争が長かったからね。まだまだ兵器が有り余っているから、ダメになる前に使ってしまいたくなる気持ちはまあ 解らないでもないけど」

「お、さすがに差し歯は入れたんすか」

 藪木が氏家を覗き込んだので、氏家は口元を拭う。その前歯は綺麗に揃っていた。

「綾繁家の当主様から見苦しいと言われたら、そりゃ歯医者に行かざるを得ないよ。心底嫌だったけど」

「宮様に次いでお偉い御方からの御命令とあれば、公僕は逆らえんからなぁ」

 赤木はけらけらと笑っていたが、ふと真面目な顔になる。

「それで、そのお偉い御方に手を出したまこちゃんはこれからどうするんだ」

「いきなり話を変えないで下さい」

 真琴は気まずさを誤魔化すために窓に向くが、藪木が身を乗り出してくる。

「無罪放免ってわけにはいかないっすよねー? ふへへへへへへへ」

「枢様は、ああ見えて強かな御方だよ。ソロモン王の弟たるまこちゃんを外国のスパイや反怪獣使い勢力から守る ためには、綾繁家の護衛を回すのが一番だけど、まこちゃんは公務員でも軍人でもなんでもない大学生でしかない から護衛を付ける理由がない。かといって、放っておくと良からぬ人間が擦り寄ってくるかもしれないし、ともすれば まこちゃんを通じて綾繁家に付け込もうとする奴もいるだろう。……いや、既にいたか。もう潰したけど」

 最近休学した友達がいるだろう、それだよ、と矮躯の軍人はしれっと言ってのけた。

「というわけだから、枢様はまこちゃんに手を出してもらうように仕向けたわけ。無論、私情もたっぷり含まれている だろうけど、こちらとしてはやりやすくなってありがたいよ。それまでは、海老塚さんを監視する名目でまこちゃん の身辺警護もしていたわけだけど、それだと書類がややこしくてねぇ」

「いくら美人でも、十二歳に欲情するのは難しくないか?」

 赤木がいやに深刻な顔をすると、藪木が力強く抗議する。

「んなことないっすよ! 惚れた相手が小さかったってだけでしかないんすから、何の問題もないっすよ!」

「その調子でよくもまあ生き延びてこられたもんだね、藪木君は。田室中佐が愛して止まない秋奈上等兵に敢えて 手を出すんだから、怖いもの知らずなんてもんじゃないよ」

 氏家が呆れると、藪木は怪獣の肉体を繋ぎ合わせて作られた肉体に刻まれた生傷を指す。

「いやあ、そうでもないっすよ。ここの切り傷とここの貫通痕とここの骨折は、中佐が訓練にかこつけて全力で襲って きたから出来た傷なんすよ。辰沼先生に呆れられる前に笑われたっすね、えへへへへへへ」

「そこで照れる意味が解らん……」

 赤木が頭を抱えたので、真琴も同じ心境だった。

「田室中佐の気持ちも解らないでもありません」

「それで、当の辰沼先生は怪生研と帝国陸軍を行ったり来たりしているから、ここ最近は顔を合わせていないな。 怪獣と人間を繋ぎ合わせても拒絶反応がほとんどなくなったから、手術の依頼が多くてこなしきれていない、との 愚痴を聞かされたのは覚えている。それ自体は結構なんだが、怪獣と人間の隔たりがどんどん薄くなるな。バベルの塔の 破片の力で全ての怪獣と人間の意識が並列化された影響ではあるが、諸手を上げて喜べることでは ないだろう。今は良くても、そのうちおかしなことになる。絶対にだ」

 赤木の懸念に、藪木はごきごきと太い腕を回す。

「そうかもしれないっすけど、まあその時はその時っすよ」

「その辰沼先生もアマノウキフネに呼び出して、怪獣と人間の検疫所を作ってもらわないとならないのにな。あと、 検閲も設けないといけない。アトランティスに住んでいた人達がどんな環境で生活していたのか解ったものじゃない し、ゴリラ風邪やゾンビ風邪のような感染力の強い火星由来の病原菌が入ってきたりしたら、目も当てられないこと になる。下手を打てば、真日奔政府への評価もガタ落ちだ。いざという時に迅速に対処するためには、事前の準備が 欠かせないんだから」

 氏家は駅弁を食べ終えると、ポリ容器の茶瓶から生温い茶を飲んだ。蛆虫の方がおいしいな、とぼやく。

「宮様はああ仰っているけど、マスターの扱いが今のままでいいはずがないだろうに。だけど、僕は進言出来る立場 でもなんでもないわけで……」

「詰まるところ、マスターが処罰されない理由ってなんなんですか」 

 真琴がかねてからの疑問をぶつけると、氏家は緑茶を飲み干してから答える。

「怪獣中毒の中和剤の調合方法を知っているからだよ」

「それってそんなに難しいことなんですか?」

「難しいというか、作業工程が緻密なんだよ。怪獣中毒も一括りには出来ないし、汚染濃度によって中和剤の調合 を変える必要があるし、継続して飲ませなければ効果が出ないんだ」

「確かにマスターは魔法使いでしたけど、それも魔法なんですか?」

「僕達からすれば魔法としか言いようがないよ。要するに技術と医学と科学の集大成なんだけど、結果が出るまで には相当な時間が掛かるし、何より費用が馬鹿にならない。それと、実験台の数もね。百や二百で足りるものじゃ ない。数千人の怪獣中毒患者にそれぞれの症例に合わせた中和剤を調合し、継続して飲ませ、経過を観察していたんだから、魔法使いの 執念たるや凄まじいよ。何度か飲ませてもらったけど、病みつきになる味だったよ。海老塚さんのコーヒーは」

「……へ」

 となれば、古代喫茶・ヲルドビスとは。真琴が面食らうと、赤木は窓の外を見やる。大西洋が広がっている。

「桜木町界隈の治安がどれほど悪くなろうと客足が途絶えない理由や、九頭竜会も渾沌も懇意にする理由はそこに あったんだよ。九頭竜総司郎は九頭竜麻里子が怪獣中毒に陥らないかを案じるが故、娘を連れていってマスター の淹れたコーヒーを飲ませていたんだ。ジンフーは怪獣の肉を調理して振舞う店を経営していたから、当然ながら 自分も怪獣の肉や体液を口にしていた。悲様もそうだったんだろうが、あの人は怪獣中毒を通り越していたから、 打つ手なしだった。マスターの罪状は山ほどあるから、今すぐにでも逮捕して処罰して投獄するのは簡単だ。だが、 怪獣と人間の隔たりが薄くなったせいで怪獣人間が格段に増え、その過程で怪獣中毒に陥る人間が山ほど出てくる となれば、効果抜群の中和剤を作れる男を牢獄に閉じ込めておくわけにはいかない。こうなることを解った上で、 マスターは行動していたというわけだ。狭間君に負けるのは想定外だったようだけどね」

「あの人が底知れないのは今に始まったことじゃないですけど、何手先まで読んでいるんですかね……?」

 唖然とした真琴に、氏家は言う。

「少なくとも、真日奔が詰むところまでは見えているだろう。かといって教えを乞うべきじゃないし、そんなこと をすればまた丸め込まれていいように利用されるだけだから、一定の距離感は保っておくけどね。枢様も随分と 成長なされた、玉璽近衛隊も一枚岩とは言えないが不穏分子は排除した、綾繁家に世継ぎを授ける男も現れた。 我らが出来ることは、それを守り続けることだ」

「え、あ、いや、その」

 しれっととんでもないことを言われてしまった。真琴が尻込みすると、赤木が目を据わらせる。

「枢様をその気にさせたんだ、責任は取らなきゃなあ?」

「いやあれは枢さんが俺に言い寄ってきたのであって」

「どっちが先にせよ、手を出したからにはすることしないとダメっすよーマジでマジで」

「いやですけど俺はまだそこまでは」

 藪木にも迫られ、真琴は座席の隅に追い詰められる。

「枢様が十六歳になられたら、さっさと祝言を上げてしまうといいよ。なあに、結婚資金はあっちが用意してくれる だろうし、なんだったら新居もぽんと買ってくれるだろう。いいことじゃないか」

 氏家もにたつき、真琴を窺う。

「……う」

 十六歳の枢。花嫁姿の枢。新妻の枢。それを考えたが最後、その気にならないわけがない。惚れた弱みとはこのことか、 と真琴はどうしようもないことを実感しつつ、軍人達に曖昧な笑みを返した。それを肯定だと受け取ったのか、 彼らは身を引いてくれた。真琴は嘆息してから、空っぽの座席の間を通って客車の後方に設置されて いるトイレに向かった。用を足してから、その手前にある公衆電話怪獣に十円玉を喰わせ、ダイヤルを回した。

「もしもし、枢さん?」

 受話器が上がると同時に名を呼ぶと、弾みすぎて上擦った声が返ってくる。

『はい、枢です! 真琴さん、今はどこにいらっしゃるんです? そろそろシスイと合流するのですか?』

「あー……その」

『はい、なんでしょう』

「少し、いいかな。話しておきたいことがあるんで」

『先日のお出掛けで、私に至らぬところでもありましたか? 遊園地の乗り物に浮かれ過ぎて吐き戻してしまった のは、申し訳ないどころか居たたまれなくなって今でも思い出しては涙が出そうになりますが……』

「いえ、いや、そんなことは別に気にしてないから! あれはいつものことだから!」

『でしたら、なんですか? 真琴さんの御都合も弁えず、真琴さんの御部屋にお伺いしたばかりか、一晩過ごして しまったことですか? あの後、秋奈さんだけでなくヒツギにもしこたま叱られてしまいましたが……』 

「いや、あれはもう過ぎたことだし、今後は事前連絡さえあればどうにかするって秋奈さんも言っていたから!」

『となれば、私が生まれて初めて作った御菓子の味のことですか? 海老塚さんに教えて頂きながら作ったのですが、 その、何度思い出しても恥ずかしくなるほど不出来で……』

「いや、あれはあれでいいから! 形は二の次! クッキーの味は良かったから!」

『だとすると、何の御用でしょうか? 真琴さんから私に御電話を掛けてくる時は、決まって大事なお話がある時 ですから。裏を返せば、それだけ私が下らないことで真琴さんに御電話をしているということですが……』

「ええと、その」

 ありったけの十円玉を飲み込ませていくが、通話終了を知らせるブザーが鳴った。真琴は財布を開き、虎の子 の一万円札を電話怪獣に飲み込ませてやると、満足げに赤い瞳が瞬いた。襟元からスカーフの端を出したグルムが 目を剥き、驚いていたが、この際仕方ない。来月の生活費が怪しくなったが、そんなものはどうにでもなる。

「特務小隊の人達にせっつかれたもんだから、きちんと話をしておくべきだと思って」

『あ……』

「外堀から内堀まで埋められて城壁も崩されたもんだから、本丸に火を放たれちまったんだよ」

『はい。そう、です。皆さんにも、出来ればそうして下さるようにお願いしておりましたから……』

「そんなことだろうと思ったよ」

『すみません。強引すぎましたよね。ですけれど、そうでもしなければ不安でたまらなかったのです。だって、だって、 真琴さんはもう大人なのです。けれど、私は子供なのです。そればかりは、いかなる力を以てしても埋めることの 出来ない溝なのです。だから、だから……お願いいたします、どうか私が大人になるまで、私のことを好いて下さい ませんでしょうか。少し時間は掛かりますが、すぐに追いついてみせます。ですから』

 きっと、受話器を握り締めている手は震えている。すぐ傍にいれば、その手を握ってやったものを。

「焦らなくてもいい」

『ですが』

 枢の声色が詰まり、上擦る。真琴は努めて冷静さを保っていたが、心臓は早鐘を打っている。

「俺は逃げないから」

『では、お待ち下さるのですか?』

「大の男がそれぐらいの辛抱が出来なくてどうするんだよ。だから、あの日の夜の続きは、枢さんが大人になってから でいい。そうじゃないとダメだ。俺も枢さんもダメになっちまう」

『……はい。真琴さんがそう仰るのなら、私も待ちます。全部、真琴さんのものになりたいですから』

「電話越しで良かった」

『はい?』

「いや、こっちの話。さっきのことだけど、枢さんの立場が立場だから無理からぬことではある。だから、まあ、特に 何も言わないでおくよ。それに、俺がその気になっちまったから、二度とやる必要もないだろうし」

 一度深呼吸してから、真琴は言い切った。

「結婚、するんだよな? 俺達は」

『えっ。あっ、はい、はい! そうお思いなのでしたら、是非!』

「思っているから、こうして話しているんじゃないか。それで、詰まるところ、枢さんは俺が婿入りしてもいいって ことか? 綾繁家の当主様を嫁に取れるわけがないんだし」

『ですが、私はお嫁さんになりたいですっ。形の上では入り婿かもしれませんが、私の心は嫁入りなのですっ!』

「そこまで力説しなくても」

『あっ、あぅ……すみません……』

「いや、謝られることでもないけど」

『真琴さん。本当に、本当によろしいのですか? とても嬉しい申し出ですし、そうなったらいいなぁ、そう思っていて 下さったらいいなぁ、と願っていたことではあります。けれど、真琴さんには真琴さんの人生がおありですから』

「俺の人生設計なんて、とっくの昔に滅茶苦茶だよ」

 だから、今、地球を見下ろしている。ドアに寄り掛かり、真琴は彼女のいる日本列島を望む。

「枢さん。十六歳になったら、俺の嫁になって下さい」

『…………して下さいまし』

 若干の間の後、枢の弱り切った声が返ってきた。今頃は、卒倒しそうなほど赤面しているんだろう。

「帰ったら、直接話す。だから、また今度」

『はい。でしたら、今のうちから白無垢を仕立てないといけませんね。真琴さんの紋付き袴もです。御実家の家紋、 調べておきますね。お帰りをお待ちしております、だっ、だんなさま』

 失礼いたしますぅっ、と枢は言うや否や受話器を下ろした。真琴は頭に血が上り、メガネを外して顔を覆った。どう してくれよう、この荒ぶる感情を。とりあえずその場に座り込んでから、ひとしきり悶絶した。ちくしょう、なんで あんなに可愛いんだ、今でも充分可愛い枢が十六歳になったらどれだけ凄いことになるんだ、あれが俺の嫁か、四年も 待っていられるか、いや待つしかない、それが男ってもんだろ、と気合を入れ直した。
 車窓の先には、宇宙怪獣戦艦アマノウキフネが浮かんでいた。




 照和五十八年、二月。
 狭間真人が火星から古代喫茶・ヲルドビスに電話を掛けてきた日から三年一ヶ月が過ぎた。三ヶ月間の準備期間 を経て二年八ヶ月の旅路を辿る、と言っていたからだ。その頃になると、世間は一層騒がしくなっていた。光の巨人 を通じて火星に飛ばされたであろう人々の名簿が世界各国で公表されていて、その親族が帰りを待ち侘びていた。 船島集落の住民達の名が載った名簿も作られ、その中には兄の名も記されていたが、田室に手を回してもらって 消してもらった。シスイの中に検疫所と検閲も設けられ、主任となった辰沼京滋技術少尉は地上に降りてくる暇が なくなってしまった。真琴とグルムが愚痴を散々聞いたおかげでアマノウキフネの機嫌は良くなり、長い年月を経て 地球に戻ってくる大陸怪獣アトランティスを歓迎してやろう、と言ったのをグルムが通訳してくれた。
 二月に入って間もない頃、大陸怪獣アトランティスの姿が地球からでも観測出来るようになった。一旦月の裏側に 停泊してから、再度離陸して地球の周回軌道に入るべく接近してきた。歓迎する者、そうでない者、神話怪獣よりも 旧い怪獣の出現に動揺する怪獣、帰還を祝う怪獣、祝砲を撃つかの如く光線を放つ怪獣、などなど、皆、それぞれの 反応を示していた。印部島はアマノウキフネが離着水するために大幅に改造されて宇宙港となり、その過程で伊四〇八 型潜水艦は改修されて海に戻された。呂三九型潜水艦、波七型潜水艦と共に宇宙港の周辺海域を警備してもらうため である。若竹型駆逐艦・芙蓉とその艦上機である電影も同様に任務を命じられ、海を巡っている。
 その日、地球の上空に巨大な影が現れた。超大陸から剥がれた一部であるそれは、菱形に似た形状だったが、角 の部分は生物的な丸みを帯びていて、真ん中は分厚いが端に行くほど薄くなっていた。言うならば、海洋生物の エイのようだ。だが、スケールが違い過ぎる。先端から末端までの全長は一〇〇キロ近くあり、それに応じて質量 も恐ろしく膨大だ。しかし、それでもほんの一部に過ぎないのだろう。何せ、大陸怪獣なのだから。
 アマノウキフネとアトランティスがドッキングする日、桜木町で神楽が行われることとなった。バベルの塔の 破片が存在していたこともあり、一連の出来事の中心であると認知されているからである。枢が祝詞をあげるので あれば例によって桜木町一帯は封鎖されるのだろう、と真琴は考えていたが、そうではなかった。交通規制も何も されず、人も車も怪獣も普段通りに行き交っていた。
 造船所跡地に神楽殿が組まれ、注連縄が張られ、紅白の布が掛けられ、神事に不可欠な供物が祭壇にずらりと 並べられていた。事前に告知されていたため、観衆が続々と集まってきていた。放送するための設備と機材 も運び込まれ、神楽殿の周囲には人間と怪獣が増えていく。その中には玉璽近衛隊の面々も含まれていて、怪獣 行列を成す怪獣達も次々に降りてきた。最後に現れたのはヒツギで、もう一体の怪獣と輿を担いでいた。
 煌びやかな金と朱で彩られた輿が開き、白衣と緋袴を身に付け、薄く透けた千早を纏い、真っ直ぐな長い黒髪を 一括りに結って丈長と水引を付け、桜のかんざしを挿し、神楽鈴を付けている。足袋と草履を履いた足が神楽殿の 床を踏み締めると、ころりと鈴が鳴る。手にした扇を開き、潮風を受ける。
 綾繁枢だった。白い肌をおしろいで更に白くさせ、緋袴よりも鮮やかな紅で唇を彩り、背筋を正して人々と怪獣を 真っ直ぐに見下ろしてきた。あれは誰だ、と皆がざわつく。もしかして怪獣使いなのか、だけど子供だ、怪獣使いは 姿を現さないんじゃなかったのか、だったらこれはなんなんだ、この神楽殿は何のために造られたんだ、と。真琴は 離れた位置から神楽殿を見ていたが、唖然としていた。枢は何をするつもりなのか。

「お集まりの皆様」

 枢が一言発すると、水を打ったように静まった。長い睫毛に縁取られた目が動き、人々を見回す。

「お初にお目に掛かります。私の名は、綾繁枢と申します」

 再度、人々はざわめいた。綾繁だと、綾繁家の娘なのか、怪獣使い、怪獣使いだ、本物なのか。

「綾繁家一三〇代目当主にして、宮様と政府に公認された正真正銘の怪獣使いにございます」

 ざわつきが高まる。枢はそれが収まるのを待ってから、涼やかに言葉を連ねる。

「真日奔の長き歴史の中、綾繁家の名は知られていようとも、姿は隠し通しておりました。それはなぜか。怪獣と人を 連ねる力は希少であり、特異であり、血筋であり、それ故に守られればならないと信じられていたからです。です が、今は亡きバベルの塔の破片――――神話怪獣エ・テメン・アン・キにより、ほんの一時ではありますが、全ての 怪獣と人間は意識を繋げることが出来ました。あの日の出来事は、皆様の記憶にも新しいことでしょう」

 人々は口を閉ざし、少女を注視する。

「それにより、私はある事実を知り得ました。怪獣と人間は相容れないものではなく、同じ星の土と水から生まれた 子であり、皆、生まれながらにして通じ合えるように出来ているのだと。それ故、怪獣使いの力は決して特異な才能 などではなく、普遍的なものだったのです。言うならば、私達が言葉を発し、音を聞き、光を目にし、空気を吸い、 水と作物を口にするように、平凡なことだったのです。ですが、神話怪獣と近代の怪獣の間に起きていた諍いにより、 人々は長らくその事実を忘れていたのです。そして、私達と怪獣が通じ合う術は誰もが知っていたのですが、皆、 光の巨人に怯えるがあまりに見失っていました。ですが、今となっては私達と怪獣を阻むものはありません」

 枢は群衆の中から真琴を見つけると、そっと微笑んだ。

「皆様は地球の緑の丘という歌を御存知でしょう。神話時代よりも遥か昔、黄金時代に作られた、地球への望郷の念 が惜しみなく込められた歌です。この歌はいかなる祝詞よりも力強く、私達と怪獣を連ねてくれます。長き時を経て 地球へと帰り付いたアトランティスを、彼と共に長らえていた人々を、そしてこの星と共に在る私達を誇るために、 今、歌おうではありませんか。地球の緑の丘を!」

 枢が両腕を広げて声を張ると、ヒツギを始めとした怪獣達が吼える。誰も彼も知っている、懐かしくも切ない音色 を奏で始める。人々は顔を見合わせ、逡巡していたが、枢が最初の言葉を口にしたので真琴は歌声を重ねた。枢に 比べれば雲泥の差だが、歌わずにはいられなかった。真琴の声に促され、人々も歌い始める。不揃いの音と声が幾重 にも連なり、高まり、広がっていく。
 望郷の想い、虚空を越え、深く切なく我が胸に迫りきぬ。見渡す宇宙の遥か彼方、地球の岸辺は緑に溢れて。見よ、 わだつみは紺青に照り映える。真琴は枢と目を合わせると、枢は頬を染めて目を細め、伸びやかに歌う。
 情け知らずの流浪の歳月、未知の異郷に捨て去りし夢と希望。かくて失われし価値を数え、暗黒の岸辺に瞳巡ら せば、地球の緑の丘は潤みて麗し。枢の歌、真琴の歌、人々の歌、怪獣達の歌が幾重にも重なり合って広がって いく。その歌は公共の電波と怪獣電波に乗り、更に広がっていく。空へ、大地へ、海へ、そして宇宙へと。
 空の上で、アトランティスが震えた。





 


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