横濱怪獣哀歌




埠頭トイウ名ノ荒野



 実家から電話があった。
 部屋に備え付けられている黒電話を胡坐を掻いた膝の間に置いて、狭間は父親の方言混じりの言葉を聞いた。 なんでも、狭間のバイクが盗まれてしまったのだそうだ。あの日、愛歌によく似た外見の謎の女性が狭間のバイクを 引き受けてくれたのだが、その後はきちんと家に戻されていたのだそうだが、弟はまだ運転免許を持っていないし、 両親もバイクに乗る趣味はないので手付かずになっていた。それが、いつのまにか姿を消していた。
 誰かにバイクを貸す約束をしていないか、または盗まれるような心当たりはないだろうか、と問われたが、どちらも なかったのでそう伝えた。父親は狭間の身を案じつつも、愛歌との都会生活に浮かれすぎないようにと釘を差し、 バイクが見つかったらまた連絡すると言って電話を切った。

「狭間君、バイク乗るんだ」

 自室でドレッサーと向き合っている愛歌は、ヘアピンやヘアゴムを使い、ピンク色の長い髪をアップにしていた。 二つの六畳間を隔てるふすまは開け放してある。

「先輩からの御下がりですよ」

 黒電話の受話器を戻して電話台に置いてから、狭間はまとわりついてきたツブラを構った。

「ちなみにどんなバイクよ」

「ホンダのドリームですよ。ナナハンの」

「ナナハンねぇ。結構ごついのに乗っていたのね。で、色はどういう感じの?」

「怪獣タンクは銀色でフレームが赤で、タンクにルート66とドクターペッパーのステッカーが」

「随分派手なのね」

「先輩から売られた時のまんまですよ。俺、バイクに乗るのは好きですけど、いじるのはそうでもないんで」

「そのバイクとも話せたの?」

 愛歌は化粧水を顔に叩き込んでから、乳液を丹念に塗り広げた。

「そりゃあ、まあ。あいつはかなり強引な性格で、俺の意思とは無関係に発進したりブレーキを掛けたりする んで、扱いづらい奴でした。馬力があるんで、峠道は楽に越えられましたけどね」

「見つかるといいわね、そのバイク」

 化粧をすっかり落とした愛歌は、食卓に出揃っている夕食を眺めた。

「あら、今日はあの焼き飯じゃないのね」

「カレールーを使えば安牌かと思いまして」

「そりゃ言えてるわ。麻雀なんかやるの?」

「付き合いでちょっとだけ。弱すぎて話にならなかったので、すぐにやめましたけど」

 狭間は赤い触手をうねらせているツブラを食卓の脇に座らせ、二人分のカレーライスとキャベツサラダと味噌汁 が並ぶテーブルに向き直った。サラダの作り方は、古代喫茶・ヲルドビスの仕事の最中に店主である海老塚甲治 から教えてもらったものだ。ヲルドビスのものはドレッシングも自家製なのだが、生憎、狭間にそこまで出来る技術も センスもないので、マヨネーズを無造作に掛けただけだ。

「あら、おいしい」

「そりゃよかった」 

 市販品なのだから、余程のことをしなければ味は崩れない。狭間は少々ジャガイモが煮崩れているカレーライス を食べつつ、バイクの行く末を思った。盗まれていたとしたら、その犯人に同情を禁じ得ない。あのバイクを狭間に 売りつけた先輩は、乗り手の言うことを聞いてくれないバイクに辟易した末に押し付けてきたのだ。きっちり代金は 取られたが。丁度その頃、定職に就いていないので暇を持て余していた間はバイクの免許を限定解除し、大型免許を 取っていたので、これ幸いとホンダのDREAM・CB750FOUR・K2を譲り受けたのだ。だが、その燃料タンク に収まっている怪獣は言葉が通じる狭間に対しても態度は変わらず、常に暴走族じみた衝動に駆られていた。
 どこかで暴走してなきゃいいけどなぁ、と考えながらカレーとサラダを平らげ、余ったジャガイモを入れた味噌汁 を啜った。水を飲もうとすると、ツブラの触手がコップの中に突っ込まれていた。

「おい、何すんだよ」

 狭間がコップの中から触手を抜こうとつまむと、赤い糸状の触手が脈打ち、水位が下がっていった。本獣を窺うと、 ツブラは満足げに目を細めている。愛歌も足元に落ちていた触手を自分のコップに入れてみたが、その水位も みるみるうちに下がっていき、触手の先端がコップの底に吸い付いた。

「ツブラちゃん、水はそうやって飲んでいたのねぇ」

 愛歌は空になった二つのコップを手にして台所に向かい、軽く洗ってから二杯目の水を汲んできた。 

「俺が口だと思っている部分って、本当は口じゃないってことなんでしょうか?」

 水を吸い終えた触手が戻っていく様を横目に、狭間はツブラの小さな口に指を入れて横に広げてみた。

「ムゥ」

「排泄孔と生殖器は人間みたいに下半身に付いていない、ってのはこの前調べた時に解っていたけど」

「それらしい穴が開いていないのは、愛歌さんが確かめてくれましたしね」

「シャンブロウの触手は捕食器官であると共に消化器官であると仮定すると、触手を通るうちに消化されて体内に 至り、エネルギーに変換されているのかもしれないわね。でも、いかなるものであろうと、摂取するからには排泄物 が出てくるはずなのよね。問題は、それがどの部分から出てくるかなんだけど……。狭間君、ツブラちゃんにお便所に 行きたいってせがまれたことある?」

「カレーを喰った後にするような話ですか、これ」

「最中じゃないからいいじゃないの」

 けらけらと笑う愛歌に、狭間は辟易しつつも答えた。

「ないですよ。出会ってから一度も」

「生身の生き物なんだから、出すものは出るはずなんだけどねー。地球怪獣だって、何も出さないわけじゃないわ。 彼らは輝水鉛鉱と水を捕食して熱を生成するけど、排気ガスと煤を排泄するもの」

「だからといって、丸一日観察しているわけもいきませんしね」

「そうなのよねぇ」

 などと狭間と愛歌が言い合っていると、ツブラの触手の数本が壁伝いに床を這っていき、水洗トイレのドアの隙間 に滑り込んだ。程なくして水音が聞こえてきて、それに混じって硬いものが便器に当たる音が響いた。さながら小石 をぶつけたかのような。狭間がツブラをそっと見やると、少女怪獣は唇を浅く噛み締めて小さな拳を固めていたが、 水音が止まると弛緩した。ということは、つまり。

「なるほどなぁ。そりゃ便利だ。おかげで、知りたいことが解ったよ」

 狭間がトイレを指すと、ツブラは触手で小さな体を覆い尽くし、繭と化した。

「ヤーン」

「デリカシーがないわね、狭間君ってば」

 愛歌に咎められながらも、狭間はトイレから戻ってきた数本の触手を掴まえた。

「俺にとっては大問題なんですよ。愛歌さんはツブラにまとわりつかれないから気にしないんでしょうけど、どこから ナニを出すのか把握しておかないと、不衛生じゃないですか。肉体的にも精神的にも」

「ヤーン!」

 赤い繭に閉じこもったツブラを引き摺って水洗トイレに入り、狭間は手洗い場でトイレに入っていた触手の先端 を洗い流してからトイレットペーパーで拭き、水洗ペダルを押そうとしたが、和式の便器の中に赤黒い小石が入って いることに気付いた。これがツブラの排泄物らしいが、見た目だけならメノウの一種のようだ。だが、その正体は 狭間の肉体から搾り取られた血液やら体液やら何やらの成れの果てなのだ。そう思った途端に嫌になってしまい、水洗 ペダルを押して無色透明の尿と結晶のような排泄物を下水道に流した。
 これからは、ツブラに用を足した後の作法を教えなくては。




 お化けバイクって知ってますか、と客が言った。
 古代喫茶・ヲルドビスでのアルバイトの最中、そんな言葉が耳に飛び込んできた。客の出入りが最も激しい昼過ぎ を乗り越え、食器を下げてテーブルを整えている際に、奥のボックス席から聞こえてきた言葉だった。狭間はその 内容が気になりつつも、仕事を終えないと次の仕事が詰まってしまうので、洗い場で皿洗いに勤しんだ。
 皿洗いを一通り終えてから店内に戻ると、例のボックス席に座っている客が手を上げたので、狭間は伝票を携えて 足早に近づいた。そこに座っていたのは、例のオジョウサマであるマリコと、スキンヘッドにサングラスを掛けて いるスーツ姿の大柄な男だった。一見して堅気ではないと解る。狭間は一瞬臆したが、注文を取った。

「御注文がお決まりでしたら、御伺いいたします」

「チョコレートパフェ!」

「ダージリンとケーゼクーヘンをお願いいたします」

 先に男が注文し、続いてマリコが注文した。狭間は伝票に書き込んでから、一礼する。

「承知いたしました。しばらくお待ち」

 下さい、と言いかけたところで、男の手が伸びて狭間の襟首を掴んだ。そのまま力任せに引き寄せられ、男との 距離がほとんどなくなった。サングラスの下から垣間見える目元は獲物を見つけた獣の如くぎらついていたが、少年 じみた無邪気さも感じられるという奇妙な表情だった。

「お前だな? すーちゃんのイロにちょっかい出したっつう若造は」

「は、あ、あの」

「次からは気を付けやがれ。今日の俺は機嫌がいいから、お前のことも放っておいてやるし、お前に手ぇ出すなと 若い連中にも言っておいてやる。でねぇと、どうなるか解るな?」

「承知しております。申し訳ありませんでした」

 それは、倉庫街での一件で身に染みている。狭間が平謝りすると、男は狭間を開放し、満足げに頷く。

「それでいい。御嬢様もそれでよろしいんですね?」

「ええ。堅気の方に、みだりに手を出すべきではありませんもの」

 マリコも同意したので、狭間は心底安堵した。が、表情には出さずに厨房に戻り、海老塚に注文を伝えた。その ついでにバックヤードを覗くと、黒髪にサングラス姿のツブラは大人しくしていてくれた。かぐや姫の絵本は余程 気に入ったらしく、今日もまたかぐや姫を読んでいた。海老塚が貸してくれた絵本や狭間がツブラに買い与えた絵本 もあるのだが、それらは一度読んだきりで山積みになっていた。狭間も、気に入った漫画を何度となく読み返した 経験があるので、ツブラの好きにさせておいた。
 ダージリンの紅茶がたっぷり入ったティーポットとあっさりとした後味のチーズが練り込まれたケーゼクーヘンに、 ココア味のスポンジケーキにチョコレート味のアイスクリームと滑らかな生クリームを盛り付けてチョコレートソースを 格子状に掛けたチョコレートパフェを盆に載せ、テーブルへと運んだ。

「先程のお話の続きですが、テラサキさん」

 ダージリンの紅茶を味わってから、マリコはスキンヘッドの男を上目に見上げる。

「誰も乗っていないバイクが、夜な夜な横浜市内を走り回っているというのは本当なのですか?」

「御嬢様に嘘は吐けませんって。俺がこの目で見たんですから、埠頭で若いのと車を転がしている時に」

「またですか。あなたは舎弟頭なのですから、もう少し落ち着きを持って頂かないと若衆に示しが付きませんよ?  車がお好きなのは解りますが……」

「練習みたいなもんですってば。いずれ、中華街に巣くっている連中とやり合うかもしれないんですから、尚更 ですよ。俺の運転技術を錆び付かせちまうのは勿体ないと、組長も仰ってましたしさぁ」

「一理あるようでありません」

「またまた手厳しいことを」

「暴走族を手下にするのはあまりお勧めしない、と父も申しておりましたので、御留意を」

「それは俺が一番よく解っていますって。だから、あいつらとはちょっとじゃれ合うだけですよ」

「その言葉、信じさせて下さいね」

 マリコの声色は穏やかではあったが、圧力を含んでいた。テラサキは軽薄な笑みを収める。

「あなた方を裏切ることはしませんよ、俺はね。んで、話を戻しますけど、若衆連中に聞いてみたところ、例のお化け バイクが横浜に現れたのは三日前からで、夜中にちんたら道を走っていると後ろにびったり貼り付いてエンジンを ぼんぼん蒸かして煽ってくるんだそうで。んで、その無礼なバイクに乗ってんのはどこの野郎だとバックミラーを見て みると、だぁれも乗っちゃいねえ。ホラー映画みたいですがね、そのバイクと会った連中が口を揃えてそう言うんだ からまず間違いねぇでしょうね。んで、速度上げてそのバイクを振り払おうとしても離れねぇし、幅寄せしても幅寄せ し返してきやがるし、腹立たしいが背に腹は代えられねぇと追い抜かせようとしても追い抜こうとしないで、ガッツン ガツンとおかまを掘ってくる。そのせいで、もう何人も電柱に突っ込んだり、側溝に落ちたり、塀に突き刺さったり、 海にドボンしちまったりとかで」

「それが私達にどんな関わりがあるのですか? ただの超常現象なのではありませんか?」

「肝心なのはこれからですよ、御嬢様」

 テラサキは意味ありげに声を潜め、口角を上げる。

「そのバイクはホンダのドリームで、銀のタンクと赤のフレームなんですよ」

「先日、足抜けしようとした若衆のものと同じですね」

「大陸から来やがった連中の中には、怪獣使いに似た力を持つ奴がいるとかいないとか。んで、そいつの足取りは寿町で 途絶えているんですよ。んで、どうなさいます、御嬢様?」

「まずはその若衆を捕らえましょう。出来れば、そのバイクの方も」

「さっすが御嬢様、話がお解りになる!」

「ですが、お化けバイクとそうでないバイクを見分けるための特徴が少なすぎますね。銀のタンクと赤のフレームという 情報だけでは、間違って普通のバイクを襲ってしまいかねませんから」

「そりゃもう、抜かりありません。事故った車に乗っていた奴が、こんなことも言っていましたよ。タンクにステッカーが 二枚貼ってあったそうで、そのステッカーには66って数字と赤と黒のロゴが――――」

 それはまさか。いや、そんなはずは。だがしかし。心臓が縮み上がった狭間は危うく転びそうになったが、咄嗟に カウンターを掴んだおかげで皿を一枚も割らずに済んだ。確証はない。しかし、それと全く同じ外見である上に暴走 しそうなバイクといったら、心当たりは一つしかない。青ざめた顔で厨房に入ったからか、海老塚から心配された。狭間は 大丈夫だと返してから、ふとある疑問に駆られた。

「あの、マスター」

「なんですか、狭間君」

「こんなことを言うのもなんですけど、女学生のお客さんとそのお連れさんって……堅気じゃないですよね?」

「ええ、その通りです。あまりよろしくないことを生業としている方々です」

「この店は普通の喫茶店ですよね?」

「古代のロマンとコーヒーの香りに満たされた、純喫茶ですとも」

「なのに、あのお客さん達って当たり前のように危ない話題をしているんですけど、その」

「承知しておりますとも。あれは威嚇であり、牽制なのです」

「俺とマスターに、ってわけじゃないんですよね?」

「御明察です。マリコさんは学業の傍ら、御父上に代わって御仕事を引き受けていらっしゃるのですが、だからと いって堅牢な御屋敷で守り通されているだけでは事は収まらないと覚悟を据えまして、敢えて前にお出になって いるのです。王将を剥き出しにしても傷一つ付けられないほどの戦力と忠誠心がある部下を従えている、という アピールなのですよ。マリコさんとその御父上の組織がどんな組織と敵対しているのかは明言出来ませんが」

「俺はその話を聞かなかったことにすればいいんですね?」

「その通りですとも。それが私達の最大の仕事なのです」

 海老塚はいつも通りの柔らかな笑みを浮かべてから、良く使い込んだフライパンに油を塗り込んだ。マリコという 名の女学生がいかなる事情を抱えているのかは見当も付かないが、深入りすれば五体満足で戻ってこられるとは 思えないのは確かである。裏社会への入り口はすぐ傍に空いている。それを痛感した狭間は怖気立ったが、次の 客が入店してきたので出迎えた。こうなったら、例のお化けバイクは徹底的に無視するしかない。迂闊に関わりを 持ってしまえば、芋蔓式にマリコとその部下達とも関わりを持つ羽目になるからだ。
 自分の命とバイク一台を天秤に掛ければ、命が重たいに決まっている。





 


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