横濱怪獣哀歌




アマゾニアン時代



「俺は怪獣の声が聞こえるんです」

 深呼吸した後、狭間は言い切った。狂人扱いされるから、一生、自分の内にだけ留めておくつもりだったのだが。 愛歌はなんだか納得したような顔になったが、態度を崩しはしなかった。羽生はかなり訝しげだったが、狭間の次の 言葉を待っていたので、狭間は続けた。

「物心付いた頃から、いや、その前からかもしれません。俺は怪獣が喋っている言葉、というか、怪獣の意識が直接 頭の中に入ってくるんです」

「それじゃ、今も聞こえているの? あの車からも?」

 通りすがりの車の気配を聞きつけ、愛歌は狭間を問い質す。

「あー、はい。右前のタイヤがパンクしそうなのに運転手が気付いていないから、この野郎もっと俺を大事にしねぇと 事故るぞ、と……」

 狭間が車の走行音を辿ると、十数秒後、金属とガラスの砕ける音が響き渡った。電柱に激突したらしい。

「ブレーキパッドもいかれてやがった、車オンチめ。車検代をケチるな。今日は俺の機嫌が良かったから、電柱に 突っ込む時にちょっと軸をずらしてやれたが、次はそうもいかないからな。次は電柱の変圧器怪獣です。今の振動 で電線が千切れそうになったけど停電は免れた、だけど、分岐点にある電柱の変圧器怪獣に繋いである電線が古くて 緩みかけている、あ、もう外れそう、外れちゃう、外れた!」

 狭間が怪獣の言葉をなぞっていくと、突如、暗闇に包まれた。愛歌はすかさず懐中電灯を取り出し、狭間を照らして くれた。白い明かりの輪の中で、狭間は苦笑する。

「まあ、その、いつもこんな感じです」

「予知能力ではなくて?」

 いやに真面目な顔をした羽生に近寄られ、狭間は身を引く。

「違いますよ、そんなんじゃないですよ。聞こえてくるだけで、それ以外のことはなんにも」

「で、この停電はいつ直るの?」

 愛歌にも詰め寄られ、狭間は再度説明する。

「だから、変圧器怪獣に繋いである電線が外れちゃったんで、電力会社の作業員が来るまでは直りません。変圧器 怪獣に四肢はありますけど寸詰まりなんで、そういう細かい作業は出来ないんですよ」

「声が聞こえるなら、怪獣に直してくれと命令すればいいじゃないか」

 役立たずだなぁ、と付け加えた羽生に、狭間は首を横に振る。

「しても無駄です。出来ません。怪獣が俺の言うことを聞いてくれるのであれば、俺は今頃、名うての怪獣使いと して国の生殺与奪を握ってますよ。意思の疎通が出来ないわけじゃないですけど、それだけです。話が通じるからと いって命令を聞いてくれるわけじゃない、ってのは人間も同じじゃないですか」

「それはまあ、そうではあるけど。この僕も五ヶ国語を操れるけど、意見がすんなりと通った試しはないね」

 羽生は理解しきったわけではないようだったが、狭間の言い分だけは納得してくれた。

「じゃあ、ツブラちゃんの声は? 私の耳には、マー、とか、ア、って聞こえるんだけど」

 愛歌がツブラを指すと、ツブラは暗闇の中でも視力が衰えないらしく、事もなげに動き回っていた。

「マー! オナカ、スイタ!」

「もうちょっと待ってくれよ、俺はまだ何も喰ってないんだから。まあ、ツブラに関して言えば、愛歌さんと同じですよ。 音でしか聞こえないんです。地球生まれの怪獣とは言葉が違うみたいなんですけど、言っていることは子供のそれと 変わらないんで意味が通じているんです。俺が言うことも理解しているみたいだし」

 大人しくしておけ、と狭間はツブラを膝の上に収めるが、ツブラはじたばたする。

「ヤーン」

「ちょっと待てよ狭間君、その言い方からすると怪獣言語があるのかい!?」

 急に身を乗り出してきた羽生に、狭間はぎょっとする。

「えっあっ、それっぽいものがあるような、ないような」

「だからなんだよ、その曖昧で半端で優柔不断な物言いは! あるならある、ないならないときっぱりと言え!」

「えーと……」

 怪獣言語とは、なんだ。狭間は思い返してみたが、怪獣の言葉がどういうものなのか、意識したことがなかった。 怪獣達が狭間の意識に語り掛けてくる際、怪獣達は独特の音階と思念を用いているが、それがどういったパターンを 持つ言語なのかは解らない。というか、考えたことがない。それ以前に、あれは言葉なのだろうか。

「なんていうか……あれはなんて言えばいいのかなぁ……」

 ツブラの頭上で腕を組み、狭間は真っ暗な天井を仰ぎ見た。

「自転車に乗れるようになると、どうやって乗るのかを意識しないじゃないですか。体の軸を据えて両足でペダルを 踏んでバランスを取って、ってことを。体で覚えちゃうと、それからは何年ブランクがあっても自転車に跨ったらすぐ に乗りこなせるし、跨ってすぐは思い出せなくても、しばらく乗っていれば思い出せるじゃないですか。その、なんて いうか、俺は最初から自転車の乗り方を知っている、みたいなもんで。えーと、どう言えばいいんだよこれ。そうだ、 うん、怪獣言語はあるはずなんですけど、俺は怪獣言語として聞いていないんです。怪獣の言っていることが頭の中 に入ると自動的に日本語に変換されちゃうんで、だから」

「なるほどねぇ。つまり、怪獣の言葉は狭間君の主観でしか捉えることが出来ず、怪獣言語は音ではなく思念として 狭間君の頭に入ってくるものであると」

「解ってくれましたか、羽生さん」

「理解したくもないよ、こんな陳腐な妄想は。ああ勿体ない、この僕の貴重で希少な時間と脳細胞を大いに無駄に してしまったよ。そんな妄言は、オカルト趣味に懸想している御仲間にでも語るといいよ」

 心底うんざりした様子で、羽生は顔を背けた。その反応は予想通りだったので、狭間は一大決心が無駄になったと 落胆する一方で安堵もしていた。信じられないのであれば、信じてくれなくてもいい。

「と、言うのだろうね。知性と品性に欠ける常人であれば」

 だが、すぐに狭間に向き直り、羽生は真顔になる。

「この僕達は、その思念の恩恵を受けた文明社会の住人なのだ。世界各地に存在している怪獣使い達の能力は、 言わずもがな、怪獣に意識を憑依させて遠隔操作することだ。だが、それは特殊な遺伝子と脳の構造を持つ家系 に生まれた特異体質の人間にしか許されていないことだと、誰もが先入観を抱いている。それはなぜか、怪獣使い の一族と各国政府の意向だからだ。一族とは無関係の血筋から思念使いが現れれば、怪獣使いの専売特許が奪われる 可能性がある。もしもそうなれば、怪獣使いが築き上げた地位も財産も歴史も台無しになってしまうからね。 この僕達が与り知らぬところで、狭間君のような人間が現れていたのかもしれないが、怪獣使いとその取り巻き によって闇に葬られていたかもしれない。まあ、どちらも仮定に過ぎないのだけれど」

「じゃ、羽生さんは俺の話を信じてくれたんですか?」

 訳もなく嬉しくなった狭間が身を乗り出すと、羽生はそれを制してきた。

「鵜呑みにしたわけじゃないけど、無下にするには惜しいと思っただけさ」

 腕時計を見た羽生は、おやもうこんな時間だ、と革製のカバンとハットを手にして立ち上がった。

「話の途中ですまないが、失礼させて頂くよ。帰りがあまり遅くなると、細君がうるさいんでね」

「御結婚されているんですか」

 狭間が意外に思うと、羽生はハットを被り、鍔を下げて目元を隠す。

「悪いか、悪くないだろうが。この僕は結婚するつもりなんてなかったし、あんな金気臭い町工場と縁を持つ予定 もなかったし、他人の人生に影響を与える気なんて更々なかったんだが、仕方なくだよ、仕方なく! 怪獣と機械 の接続用部品を造る町工場の親父がこの僕の恩師と付き合いがあったせいで、その娘がこの僕と引き合わされて、 一度ならず二度三度と会わせられて、食事だの映画鑑賞だの観劇だの怪獣プロレスだのカーレースだのなんだのと 付き合わされ、引き摺りまわされた結果がこれだ! そりゃまあ、満月みつきは凡庸な顔付きの割に趣味が男臭くて、 二十歳になって間もないのに暇さえあれば機械いじりに明け暮れているような娘だから、嫁の貰い手なんて二度と 現れないと判断したが故の行動であって……」

 羽生は聞かれてもいないことをべらべらと喋っていたが、我に返る。

「ぇあっ、まあ、とにかくなんだ! この僕は国家存亡に関わる研究に忙しい身の上だから、狭間君の能力の研究は プライベートだ。趣味だ。利益も出なければ研究費用も出ない。だが、この優れすぎて神から疎まれた僕が究める には打って付けだ。だから、君の能力の件はこの僕の記憶にだけ留めておくよ。では、またいずれ会おう、狭間君。 その日が遠くなければいいのだが」

 そう言って、羽生は古びたアパートを後にした。鉄階段を下りていく足音が遠ざかっていくと、言葉の嵐の余波も 過ぎ去り、狭間は弛緩した。国立怪獣生態研究所の研究員であるとはいえ、初対面の羽生に怪獣の声が聞こえること を明かしたのは迂闊だった、と後にして思うが、後悔してもどうにもならない。それに、いずれは明かさなければ ならないことだったのだ。特に、最も身近な存在である愛歌には。
 暗がりの中で湯を沸かし、緑茶を淹れ直し、羽生の手土産である折詰を食べた。中身は助六寿司だったが、それ だけでは腹が満たされなかったので、狭間は残った湯でチキンラーメンを作った。卵を入れようか否かを悩んだが、 ここで卵を使うと明日の朝食が寂しくなるので入れないことにした。

「ちょっと分けてちょうだいよ」

 塩辛い味付けのラーメンを半分ほど食べたところで愛歌にねだられたので、狭間は渋々丼を譲る。

「やっぱり足りなかったんですか」

「あの人、話が長いんだもの。帰り道で買い食いしたコロッケパンなんて、とっくの昔に消化されちゃったわ」

「ますますヘビっぽいですね」

「狭間君もそう思う? でっしょー? 私もね、羽生さんのこと、最初に見た時からヘビだって思っていたの! でも、 本人にそれを言うのは失礼だし、他の人の意見を聞くのももっと失礼だから、言うに言えなくて」

「マー」

 ツブラがもぞもぞと這い寄ってきたので、狭間はその触手がうねる頭を押さえる。

「もうちょっと待て。もうちょっとだけ」

「この分だと、銭湯も停電しちゃってるでしょうねぇ」

「ですね」

「まあいいわ、明日の朝一でお風呂に入りに行けばいいんだし。狭間君はそうもいかないでしょうけど」

「明日も朝六時には店に入らないとですからね」

「忙しいのは何よりよ。仕事がないよりも、余程いいわ」

 スープまで飲み干してから、愛歌は丼を置いた。

「で、もう一人の私については、狭間君は本当に本当に本当に何も解らないのね?」

「はい、全く。怪獣だったら怪獣言語で話しかけてきたでしょうし。愛歌さんの兄妹って筋は」

「ないわよ、全く」

 いつになく強く言い切った愛歌は、懐中電灯と丼を持って台所に行き、手早く丼を洗い流した。これは問い詰めては いけないのだな、と察した狭間は緑茶を呷り、湯呑みの底に沈殿していた茶殻まで飲んでむせた。ツブラは狭間の許し を得るまで待ちきれないのか、しきりに赤い触手を波打たせている。
 それから三十分後、飢えたツブラによっていつになく荒々しく触手を喉にねじ込まれた。これ以上体力を奪われると 明日の仕事に響く、という段階の一歩手前でツブラを引き剥がしてから、狭間は寝る支度を整えた。ふすま一枚隔てた 先では愛歌も布団を敷き終えていて、懐中電灯の光の筋が二つの部屋を繋いでいた。

「狭間君。まだ起きている?」

「まあ、一応」

 布団に潜り込んできたツブラにしがみつかれながら、狭間が生返事をすると、愛歌は不安げに呟いた。

「これから、どうなるのかしらね」

「なんですか、急に」

「これまで、怪獣達は物言わぬ道具だったのよ。人間に従属してくれる、便利なもの。怪獣使いもそうでない人々 も、皆がそう思っている。けれど、そうじゃなかったのよね。彼らは私達人間のことをどう思っているの?」

「俺もそれをちょっと聞いてみたんですけど、抽象的な答えしか返ってきませんでした」

「言いたくない、ってことかしらね」

「有り得ますね。どいつもこいつも肝心なことは言いませんし。俺が聞かないからでもありますけど」

「そう」

「もう眠いんで寝ていいですか」

「アマゾニアン時代が始まらなきゃいいんだけど」

 寝入り端に聞こえた愛歌の言葉がいやに耳にこびりついたが、その言葉の意味を問い質せる余力はなかった。 明日もまた一日中立ち仕事なのだから、今のうちに休んでおかなければ身が持たない。ツブラの体の冷たさと全身 に巻き付けられる触手を煩わしく思いながらも、振り払えないまま、狭間は寝入った。
 いつも通り、寝心地は悪かった。





 


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